7 最下層へ
「あ……あ……」
目の前で、人々が蹂躙されていく。たった一匹の異獣におびえて、互いが互いを突き飛ばし、踏みつけ、押し潰していく。
「立ちなさい!」
呆然と眺めていたアキラを母が一喝し、乱暴に腕を引く。
「こっちだ!」
息子を連れたヨウジが呼びかけ、母はジローを抱えながら、アキラを立たせて後を追った。
一行は避難所を離れ、住宅街から街の端へ向かう。途中、殺された警備隊員の遺体が転がっていた。
「……別の避難所まで行くのは無理だな」
ヨウジは遺体が駆除部隊の者たちだと確認し、静かに告げた。
「もはや第一層、二層は奴らに占拠される。最下層に逃げるしかない」
「でも……あそこはただの保管庫ですよ」
「予備の避難先としても想定されています。頑丈な隔壁、物資も潤沢にある。他に道は無いでしょう」
建物の影から出る直前、ヨウジが「止まって」と制する。街中には獲物を求める異獣がそこかしこで徘徊していた。
「ここからは慎重に進みます。子どもたちの手を離さないで」
アキラは母に手を引かれながら呆然としていた。
サクラとユミが、死んだ。
これから先も、大人になっても、ずっと一緒にいられると思っていた友達が。
「アキラ……」
ユウトが心配そうに声をかけてくる。
「大丈……」
「大丈夫なわけないでしょ」
アキラはうつむいたまま、彼を突き放した。
「あんたに呼ばれなかったら……私は……今日もサクラとユミと一緒に帰れたのに…………あんたが呼んだから……っ」
無茶な言い分だとはわかっている。それでも誰かにこの理不尽な怒りをぶつけずにはいられなかった。
「…………ごめん……」
ユウトは静かに謝るだけだった。その態度に追い討ちのような自己嫌悪を覚えた。
ごめんなさい。あなたのせいじゃない。
そう素直に言えたらどれだけ良かったか。
でもアキラはこんな時、しょうもない意地を張ってしまう。素直になれない側の人間なのだった。
一行は最下層への通路入口にたどり着く。そこには既に先客がいた。
若い男が一人と、老夫婦。
男は近づいてくるアキラたちに気づくと注意深く睨みつけた。
「あんたらは……」
「避難所が襲われて逃げてきたんだ。あなたたちも?」
「俺はそうだ」
「私たちは……足が悪いので、避難所まで行けなかったんです」
老婦人が答え、夫もうなずく。
「でもよかった。まだ無事な子どもたちがいて」うつむくアキラたちの方を見て優しく笑いかけた。
「あんたら、防護服に傷はねぇだろうな」
若い男は険のある口調で聞いてくる。
「無いよ」ヨウジが毅然と答えた。
「全員、奴らと直接接触はしていない。早く中に入ろう」
「ちょっと待て。確認させろ」
通路に入ろうとするヨウジを男は止めた。
「そんな事してる場合はないと思うが」
「場合なんだよ。俺のいた避難所じゃ傷を隠してた奴がいたせいで、大惨事になったもんでね」
「だがチンタラしてる間に奴らが来たらどうする」
「いいですよ。確認してもらいましょう」
母が割って入り、二人の間を取り持った。
ヨウジは不満げに鼻を鳴らして、「ほらよ」と両手を開げた。
「フン」
若者は全員の防護服を注意深く点検した
「……よし」
「気は済んだか?」
ヨウジが少し嫌味っぽく言う。
「……ああ。入れよ」若者はぶっきらぼうにうなずいて、皆を中に入れた。
全員が入ったのを確認すると、彼は入口の隔壁についたコントロールパネルに近づく。
「おい、何してるんだ」
「閉鎖する」
肩を掴もうとするヨウジの手をはねのけ、パネルを操作しながら答える。
「まだ誰か来るかもしれないよ」とジローも口を挟む。
「そうかもな。けど、こうしないと奴らも入ってきちまうだろ」
「……」
若者はあくまで理性的に返答をした。ヨウジは無言で表情を固めるが、「でも……」ジローはまだ引き下がる。
「ねえ、残ってる人たちはどうなるの?」
「ジロー」
「うるせえなッ……んな事行ってる間に……ほら来たぞオイ!!」
不安げに尋ねてくる息子を母は無言で抱き抑えた。
その時、隔壁の向こう、少し離れた建物の影から、一匹の獣が姿を現した。
「あれは……」
「クソッ!!」
その獰猛な赤い目をこちらに向けるなり、走り始める。
「閉めろ!! 早く!!」
「わかってる!!」
ヨウジに急かされ若者は必死にパネルを操作する。だが、異獣の足の方が速い。
「……逃げるぞ!」
ヨウジは即断し、若者をパネルから引き剥がした。「行け行け!」その場にいた全員が、彼の怒声に背中を押され、通路の奥へと走り出す。
「なにすんだよ!」
「ここはもう間に合わん、次の隔壁まで下がる! そこを閉鎖するんだ!!」
パニックになりかけた若者がハッとなる。ヨウジはうなずき返すと、
「おばあさんを背負え!」
と命令しながら、自分は老夫に駆け寄った。
「なんっ、ああ……クソ!!」
若者も老婦人を背負って走り出す。
「お若い方、ごめんなさいね……」
「うるせえじっとしてろ!」
全員が通路を必死に走る。
「ォアアアアッ!!」
異獣は案の定、隔壁が閉まり切る前に突き破って、通路に侵入してきた。
狭い壁や天井に巨体を擦りつけながら追いかけてくる。
「ううっ……!!」
アキラは脇腹がつりそうになってきた。母はジローを背負って前を走っている。位置的には、アキラが全員の中で最後尾にいた。
「はぁっ……はぁっ……!!」
異獣の足音、息づかいが、後ろからどんどんと近づいてくる。
追いつかれたら……
追いつかれたら、食われる。
生暖かい死の気配を感じて、彼女の脳裏に、奴らに襲われた無数の亡骸がフラッシュバックした。
「ううっ……」
背筋に冷たい汗が流れる。考えるほど足が余計にもつれそうになる。
いつもなら楽勝で走り抜けられる距離が、いまは途方もなく長く感じる。
「――大丈夫だ!!」
そんなアキラの背中に、いつの間にか隣にいたユウトの手が触れた。
「前だけ向け! いいから走れ!!」
彼はアキラの背中を思い切り押す。その勢いで、彼女は加速した。
「ふっ、んんっ……!!」
涙ぐみながら必死に走る。「そうだ!!」すぐ隣でユウトが並走する。
彼はずっとアキラを鼓舞し続けてくれた。
「その調子……あと少し!!」
隔壁まで数メートル。
アキラは目を瞑り、両足に全身全霊の力を込めた。
その瞬間、彼女はさらに加速し、自分でも驚くほどの速さであっという間に隔壁をくぐり抜けた。
「はぁっ……!!」
息を切らしながら振り向く。
ユウトが走ってきている。そのすぐ後ろに異獣が迫る。
「ユウト!!」
お爺さんを下ろしたヨウジが慌てて振り向く。
異獣がユウトの背中に大きな手を伸ばす。
ユウトは、汗ばんだ顔を歪めながらも、なんとかギリギリで閉まりかけの隔壁をくぐり抜けた。
「はぁっ……はっ……な……っ、大丈夫だったろ……?」
その場で膝をつきながら皆に笑顔を見せる。
だがアキラや父親たちはまだ必死に、こちらに駆け寄ろうとしていた。
「ァアアアアアア!!!」
閉じきる寸前の隔壁に、異獣の手が挟まっていた。
両手を隙間にねじ込み、無理やりこじ開けるようにして体を入れてくる。
「あ――――」
巨大な手がユウトを捕まえた。「うっああ!?」小さな体が隔壁に引きずり戻されていく。
「ダメっ――!!」
一番近くにいたアキラがとっさに彼の腕を掴んだ。
しかし力でかなうはずもなく、そのまま異獣はユウトを隔壁の隙間から引きずり込み、アキラをも引き込もうとする。
その瞬間、つっかえていた異獣の体が外れたことで再度隔壁が閉まり、ユウトの右腕を両側から挟み潰した。
「あ――あああああああッ!!」
閉じた壁の向こうから、悲鳴が響き渡る。
「あ……」アキラは切断された手首を持って尻もちを着いた。
「うそ、そんな……」
「ユウト!! クソッ!!!」
すぐさまヨウジが駆けつけてくる。パネルの前に立つ若者に突進するような勢いで「開けろ!!」と命令した。
「もっ……もう手遅れだ! いまさら開けても――」
「いいから開けろ。殺すぞ」
凄まじい形相で睨みつけられ、「ひっ」と若者は小さな悲鳴を漏らして退く。
「いま助けてやるからな!!」
ヨウジは銃を手に、パネルを操作しようとする。
その手を「待って!」と怒声が止めた。
「お願い…………やめてヨウジさん」
母だった。腕にジローを抱え、必死な形相をしていた。
「…………ッ……」
いまここで隔壁を開ければ彼女らがどうなるか。ヨウジは血走った目で隔壁と皆を見比べる。
「…………すみません。伊高さん」
「待っ――」
再度、コントロールパネルを操作し、隔壁を開こうとした。
「――ダメだ――――――父さんッ!!!」
その時壁の向こうから声が響いた。
「ゆっ、ユウト――」
「ぁあ開けるなぁあああああ!!!!」
12歳の少年が出したとは思えない、凄まじい絶叫だった。
「絶対にぃいッ――ぜったいに開けるなぁあああああああああああああ!!!!」
「あ…………ぁあぐ……」ヨウジは膝を震わせて崩れ落ちた。
「あぁ…………父さん、ここにいるぞ…………! ずっとついてるからな……!!!」
隔壁にすがり付く。涙と鼻水にまみれた顔で、そう呼びかけること以外に、もはやできることはなかった。
「……う…………ん………………」
「ユウト……!!」
「………………………………」
何度も、何度も、返事が聞こえなくなっても、息子の名前を呼び続けた。
その呼び声も途絶えたころ、重い沈黙が落ちていた。
誰一人、口を開く者はいなかった。
「…………」
アキラは呆然とその場にへたりこんでいた。
「…………伊高さん」
不意にヨウジが立ち上がる。母がびくりと肩を震わせた。
「吉田さん……あの……なんと言えばいいのか……」
「気にしないでください」
魂の抜けたような声音だった。
「行きましょう。皆さん」そう言って、皆の視線を受けながら通路の奥へと歩み始める。
若者は気まずそうに顔を背ける。老夫婦は目に涙をためていた。
ジローは母にしがみつき、母は、ヨウジの背中に伸ばしかけた手を途中で止めた。
アキラは、ユウトの腕とナイフを抱えて、母のすぐ後ろを重い足取りで追った。
もう何の言葉を発する気力も起きなかった。
すべてがどうでもよくなっていた。
「……次の角を曲がった奥に……最下層に繋がるエレベーターがある。電力は生きてるから、まだ動いてるはず……」
念仏のようにつぶやくヨウジ。先頭を歩く彼の表情は誰も見れなかった。
だが曲がり角にたどり着いたとき、彼は立ち止まる。
「……どうしたんだよ」
若者が声を上げると、ヨウジは深いため息をついて、
「みんな……自分の目で見てくれ」
角の向こう――薄暗い通路の奥には、二つの巨影があった。
異獣だ。
どうやってここまで入ってきたのか、という疑問はすぐに消え去った。
その巨体には、所々に防護服の破片がへばり付いており、首元には防護マスクがぶら下がっていた。
そして、足元には数人の遺体がある。おそらく一行よりも先に、最下層に逃げようとした人々……。
つまり、あの異獣も――――。
「…………」
一同は立ち尽くす。
「一体ならまだしも……二体となると、俺も足止めできない可能性が高い」
ヨウジは猟銃に弾をこめなおしながら言う。正直、いまの彼の状態では一体の相手すら難しそうだった。
「クソッ……」
若者が壁を殴りつける。「ああッ……終わりだ、なんでこんなことに…………」
老夫婦は何やら小声で会話してる。
母は二人の子どもを抱き寄せた。
「もう掛けるしかない。全員で奴らに突撃し、一人でも多く突破する」
ヨウジは銃のフォアエンドを操作し、薬室に弾を装填しながら言った。
彼が全員に向き直った所で、「いいかな」と老夫が手を挙げた。
「……どうしました?」
「妻といま話して決めました。みなさんにも提案があります」
「……?」
老いた男はそう前置きしてから、ヨウジ、若者、自分の妻の顔を一度ずつ見て、
それからアキラとジローに目を向けた。
「……我々大人四人で敵をひきつけ……子どもたちとお母さんを送り届ける。というのはどうでしょうか」
静かに、力のこもった声音で言う。
「…………」
「は……は? なんだよそれ」
沈黙するヨウジ。対して若者はすぐに反発した。
「何言ってんだよ、ジジイ、それって……」
「子どもは最後の希望です。なんとしても守らなければ」
「ふ……ざけんなっ! そのために俺たちは犠牲になれってのかよ」
彼は角の向こうの奴らに聞こえない範囲の、最大限の大声で言う。
「勝手なこと言うんじゃねえっ。俺だってまだ死にたくねえんだよ、ガキだけ特別扱いなんざ……っ」
「わかった。ならこうしよう」
そこにヨウジが割って入る。
「君と、伊高さん一家を送り届ける。俺とご夫婦が囮だ。それならどうだ?」
「そりゃ……」若者は口ごもる。
「そ……それなら……いやっ、それならっていうか」
「よし」
ヨウジは間髪入れず彼に近寄ると、「ナイフは持ってるか?」と尋ねた。
「いや……」
「じゃあ俺のを渡しとく。いいか」
若者に自分のナイフを握らせると、その手を上から強く握り締めたまま、
「子どもと母親を、あんたが守るんだ。頼んだぞ」
顔を近づけて念を押しした。若者は脅されたようにコクコクと頷いた。
「皆さん……そんな……」
蚊帳の外に置かれていた母は遠慮がちに声をかける。
「いいんですよ。どのみち、老い先短い命ですから」
老夫は優しく笑いかけた。
「むしろ未来を繋げるために使えるなんて光栄だ。あなたはどうか、お子さんたちと一緒にいてあげてください」
「……っ……本当に…………」
母はもはや言葉も出ず、深々と頭を下げた。
「じゃあ……まず俺が突っ込んで、一体目を押さえる」
角の前に立ったヨウジが言う。
「二体目は、ご夫婦に頼みます。その……」
その先の言葉を倫理観が詰まらせる。
汲み取った夫婦が「わかりました」とうなずいた。
「……では。その後は伊高さんたちが行ってください。
我々に何があっても、立ち止まらないで」
「はい」「おう」母と若者が返事する。
「よし。じゃあ…………行くぞ」
ヨウジの合図と同時に、
全員が角から飛び出した。
「うぉおおおッ!!」
まずヨウジが大声を出して注意を引く。二体の異獣が振り向いた。
「いまだ!」
次いで、他の者たちが走り出す。
ヨウジは背後をちらりと確認した後、手前の一匹目に銃の照準を定め、撃った。
「ギィアアッ!!」
血しぶきが上がり、異獣が怒り狂って彼に突進する。
「ぐッ!」ヨウジの大柄な体をいとも簡単に弾き飛ばし、壁に叩きつけた。
「ォアアアアッ!!」
一方、二体目はアキラたちの方に迫ってくる。
老夫婦が前に出た。
彼らは、異獣の手に捕まり、一瞬で地面に叩きつけられた。
「くっ――――」
鮮血が舞う中、母は目を瞑って、ジローを抱え、アキラの手を引きながら、二人の亡骸を食らう異獣の横を通り抜けた。
「ううっ……」
次いで、その後ろを若者も通り抜ける。
「ォオオ……」
瞬間、異獣が彼らの方を見た。
「なっ、んでだよ……!」気が変わったのか、叩き伏せた老夫婦を置いて、逃げた若者たちの方を追いかけてくる。
「ォアアアアッ!!」
凄まじい速度。一瞬で距離を詰められる。
「ッ――――」
捕まる――。
瞬間、若者は前を走る子どもと母親の背中を見ながら思考した。
彼女を追い抜けば、まだ自分は助かる。
彼は限界まで走力を上げた。
母親を追い抜き、通路の奥に見えるエレベーターに向かって、一目散に走る。
「あっ――」
そのとき小さな悲鳴がして、つい振り向いてしまった。
母親のすぐ背後に異獣が迫っていた。
必死に逃げる彼女の背中に、巨腕の鋭利な爪が振り下ろされる――
「――クソ」
若者は苦悶に表情をゆがめ、ヨウジから託されたナイフを握りしめた。
足を止め、引き返す。母親に覆いかぶさろうとする異獣に突進する。
「えっ――??」
「行けよ!!」
彼女にそう叫び、自分は体当たりで異獣を押し戻した。
異獣はうっとうしげに彼を弾き飛ばすと、仰向けになったその胴体を思い切り踏み潰す。
「ご――はっ――!!」
若者の口から尋常ならざる量の血が溢れた。
「あっ……ぐ……」朦朧とする意識の中、最後の力をふりしぼり、獣の足にナイフを突き立てる。
「死ね……クソ……野郎……」
ほどなく、彼の目から光が消えた。
「ァァ――」
異獣がその頭に牙を立てようとした瞬間、銃声が轟き、顔面が吹き飛んだ。
「はぁっ……はっ……」
血煙の中に立つヨウジは、半身を血で染めながらもまだ銃を構えていた。
「…………ははっ……ったく……」
乾いた笑いを上げながら、巨体を蹴り退かし、その下敷きになっていた若者の亡骸に近づく。
「…………根性見せやがって」
血まみれの手を伸ばし、半開きになっていた彼の瞳を閉じさせた。
「…………はぁ…………はぁ………………ふぅ……」
それから、その場で膝を着いた。
二体の異獣を倒した代償。彼の半身は既に腕がちぎれ、引き裂かれた腹から臓腑が垂れていた。
「…………ふ……」
ほどなく完全に脱力し、地に伏せる。
「……ユウト…………」
血溜まりを見つめながら朦朧とつぶやく。
「父さん…………が……」
最期の表情は、苦痛と共にどこか満足を宿していた。
「はぁっ――はぁっ――!!」
一方、母はアキラとジローを連れ、なんとかエレベーターにたどり着いた。
「ふぅっ……うぅ……」後ろで起きたことを見る勇気はなかった。彼女はすぐさまエレベーターのボタンを押し、扉を開けると中に二人を押し込む。
「お母さん…………」
ジローは不安げに母の手を握っていた。対して、アキラは呆けたような無表情だった。
「二人とも……よく聞いて。いい?
下に降りたら、このドアが閉まらないように何かで止めて。通路に出たらすぐに隔壁を閉じて。除染室の使い方は、学校で習ったからわかるよね」
母は苦しそうな表情で説明する。その様子の違和感に、次第にアキラの目に生気が戻り、見開かれていった。
「なんでそんなこと言うの?」
彼女は母に尋ねる。
「なんで、お母さんも一緒に来るのに、そんな説明するの?」
「…………」
母の顔は、いつの間にか青白くなり、額にはびっしりと汗が滲んでいた。
彼女は小さく息を吐いて、
「私は行けない」
肩を動かし、自分の背中をちらりと見せた。
そこには大きな裂傷があった。
彼女は、先ほど異獣に捕まりかけ、間一髪で若者に助けられたが、
その際、異獣の爪の先端によってわずかに背中を切り裂かれていた。
いまその傷からは、どす黒い血が滲み出て、周辺の肌が変色し始めている。
「…………うそ」
アキラのうめきに、「え……?」ジローはまだ事態が飲み込めず、二人の顔を見比べている。
「行けないの……」
母は汗ばんだ顔で言い聞かせた。
アキラは学校での授業を思い出していた。生物科の田島先生が言っていた。
『放射線がなぜ我々にとって有害なのか。それは生物の体を通過するとき、その遺伝子を破壊してしまうからとされている。
ただし、これは通常の放射線の話だ。いま地上を包んでいる新種の放射線……《M線》は、生物の遺伝子を破壊ではなく“変異”させる。
どんな生物でも、例外なく、“別の何か”に変わってしまう』
思い出すごとに、彼女の動機は激しくなってきた。
「待ってよ……うそ……うそだよね」
「アキちゃん…………」
「うそっ!! 無理っっ、ぜったいムリ!!」
震えが止まらず、涙が溢れてくる。なんとか母の腕にしがみつく。
「ぜったい無理っ……母さん、お願い、うそって言ってっ!!」
「ごめん……」
「だってっ、そんなの、お母さんまでいなくなったら、私たちだけで、どうやって生きてけばいいの!!」
「……ごめんね…………」
母はそれ以上何も言えずに、ただ二人の子どもを抱きしめた。
「……いや……だ……」
「お母さん……? なんで……まだ大丈夫でしょ??」
泣き崩れるアキラ。ジローは困惑しながら訴える。
「浅い傷なら、ちゃんと手当すれば助かるって……学校で習ったよ。
大丈夫だよ、まだ、助かるよ、僕がやるからっ」
「…………」
「治せるよ。僕が、お医者さんになるから。それで、お母さんのことぜったい助けるからさあっ!」
明るく元気づけながら母の背中を見ると、
すでに傷を中心に、全体が毒々しい赤紫色に染まりつつあった。
「ッ……」
「……お願いがあるの」
母はふたりの抱擁を解く。 胸に回していたリュックサックを開けて、一本の杖を取り出す。
「これ……持って行って」
呆然とするジローに握らせた。
「お父さんの物だよ。いつか役に立つ」
それからふたりの手を振りほどき、素早くエレベーターから出ていった。
「まっ、まってよ!!」
ボタンを押す。ブザーが鳴り、扉が閉まり出す。
ジローが飛び出そうとするのを、アキラはとっさに手で制した。
「姉ちゃん?? なんで??」
なぜ止めたのか、自分でもわからなかった。
ただ、そうしなければならない未知の使命感が、そのとき彼女の胸には芽生えていた。
アキラは精一杯の気丈な顔で母を見つめた。
母もアキラを見つめ返してうなずき、
「ふたりとも、お願いだから約束して」
閉まりゆく扉の隙間から、子どもたちに向かって語りかけた。
「……これから先……どんなことがあっても…………生きることだけは諦めないで」
その両の瞳から、堪えきれない滴がこぼれる瞬間、
扉が閉鎖され、エレベーターは下降を始めた。
「お母さん――お母さん――!!!」
必死に叫ぶ弟の声は、激しい滑車の駆動音にかき消されてしまった。
もう誰もその声には応えてはくれない。聞いてくれる者すら、いない。
姉弟はこうして地の底に堕ちた。
そして、6年の月日が流れた。
――――姉弟は地上にいた。
山林の奥に紛れたシェルターの出口は、ちっぽけでとても目立たなかった。
遠目からでは景色と同化してほぼ見つけられない。
アキラたちは、近くの小川から見つけてきた目立つ形の石を扉の前に置いた。
「いこう」
少し見つめた後、ジローは石から離れた。
「うん」
アキラもうなずく。
これから長い旅が始まる。でも、故郷を捨てるわけじゃない。
いつか戻ってくる。どれだけ時間がかかっても――必ず。
アキラは目印の石にぺたりと手を触れる。
「いってきます」
そう言って、手を離し、弟とともに歩き始めた。
『いってらっしゃい』
|《第一.五章 終わり》
過去編はここまでです。次話からは姉弟が地上を冒険する二章です!




