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アンダー・アース 終末姉弟生存記  作者: 遁遁拍子
第1.5章 姉弟幼少編
17/25

7 最下層へ

 

「あ……あ……」


 目の前で、人々が蹂躙されていく。たった一匹の異獣におびえて、互いが互いを突き飛ばし、踏みつけ、押し潰していく。


「立ちなさい!」


 呆然と眺めていたアキラを母が一喝し、乱暴に腕を引く。


「こっちだ!」


 息子を連れたヨウジが呼びかけ、母はジローを抱えながら、アキラを立たせて後を追った。


 一行は避難所を離れ、住宅街から街の端へ向かう。途中、殺された警備隊員の遺体が転がっていた。


「……別の避難所まで行くのは無理だな」


 ヨウジは遺体が駆除部隊の者たちだと確認し、静かに告げた。


「もはや第一層、二層は奴らに占拠される。最下層に逃げるしかない」

「でも……あそこはただの保管庫ですよ」

「予備の避難先としても想定されています。頑丈な隔壁、物資も潤沢にある。他に道は無いでしょう」


 建物の影から出る直前、ヨウジが「止まって」と制する。街中には獲物を求める異獣がそこかしこで徘徊していた。


「ここからは慎重に進みます。子どもたちの手を離さないで」


 アキラは母に手を引かれながら呆然としていた。

 サクラとユミが、死んだ。

 これから先も、大人になっても、ずっと一緒にいられると思っていた友達が。


「アキラ……」


 ユウトが心配そうに声をかけてくる。


「大丈……」

「大丈夫なわけないでしょ」


 アキラはうつむいたまま、彼を突き放した。


「あんたに呼ばれなかったら……私は……今日もサクラとユミと一緒に帰れたのに…………あんたが呼んだから……っ」


 無茶な言い分だとはわかっている。それでも誰かにこの理不尽な怒りをぶつけずにはいられなかった。


「…………ごめん……」


 ユウトは静かに謝るだけだった。その態度に追い討ちのような自己嫌悪を覚えた。

 ごめんなさい。あなたのせいじゃない。

 そう素直に言えたらどれだけ良かったか。

 でもアキラはこんな時、しょうもない意地を張ってしまう。素直になれない側の人間なのだった。


 一行は最下層への通路入口にたどり着く。そこには既に先客がいた。

 若い男が一人と、老夫婦。

 男は近づいてくるアキラたちに気づくと注意深く睨みつけた。


「あんたらは……」

「避難所が襲われて逃げてきたんだ。あなたたちも?」

「俺はそうだ」

「私たちは……足が悪いので、避難所まで行けなかったんです」


 老婦人が答え、夫もうなずく。

「でもよかった。まだ無事な子どもたちがいて」うつむくアキラたちの方を見て優しく笑いかけた。


「あんたら、防護服に傷はねぇだろうな」


 若い男は険のある口調で聞いてくる。

「無いよ」ヨウジが毅然と答えた。


「全員、奴らと直接接触はしていない。早く中に入ろう」

「ちょっと待て。確認させろ」


 通路に入ろうとするヨウジを男は止めた。


「そんな事してる場合はないと思うが」

「場合なんだよ。俺のいた避難所じゃ傷を隠してた奴がいたせいで、大惨事になったもんでね」

「だがチンタラしてる間に奴らが来たらどうする」

「いいですよ。確認してもらいましょう」


 母が割って入り、二人の間を取り持った。

 ヨウジは不満げに鼻を鳴らして、「ほらよ」と両手を開げた。


「フン」


 若者は全員の防護服を注意深く点検した


「……よし」

「気は済んだか?」


 ヨウジが少し嫌味っぽく言う。

「……ああ。入れよ」若者はぶっきらぼうにうなずいて、皆を中に入れた。

 全員が入ったのを確認すると、彼は入口の隔壁についたコントロールパネルに近づく。


「おい、何してるんだ」

「閉鎖する」


 肩を掴もうとするヨウジの手をはねのけ、パネルを操作しながら答える。

「まだ誰か来るかもしれないよ」とジローも口を挟む。


「そうかもな。けど、こうしないと奴らも入ってきちまうだろ」

「……」


 若者はあくまで理性的に返答をした。ヨウジは無言で表情を固めるが、「でも……」ジローはまだ引き下がる。


「ねえ、残ってる人たちはどうなるの?」

「ジロー」

「うるせえなッ……んな事行ってる間に……ほら来たぞオイ!!」


 不安げに尋ねてくる息子を母は無言で抱き抑えた。

 その時、隔壁の向こう、少し離れた建物の影から、一匹の獣が姿を現した。


「あれは……」

「クソッ!!」


 その獰猛な赤い目をこちらに向けるなり、走り始める。


「閉めろ!! 早く!!」

「わかってる!!」


 ヨウジに急かされ若者は必死にパネルを操作する。だが、異獣の足の方が速い。


「……逃げるぞ!」


 ヨウジは即断し、若者をパネルから引き剥がした。「行け行け!」その場にいた全員が、彼の怒声に背中を押され、通路の奥へと走り出す。


「なにすんだよ!」

「ここはもう間に合わん、次の隔壁まで下がる! そこを閉鎖するんだ!!」


 パニックになりかけた若者がハッとなる。ヨウジはうなずき返すと、


「おばあさんを背負え!」


 と命令しながら、自分は老夫に駆け寄った。


「なんっ、ああ……クソ!!」


 若者も老婦人を背負って走り出す。


「お若い方、ごめんなさいね……」

「うるせえじっとしてろ!」


 全員が通路を必死に走る。


「ォアアアアッ!!」


 異獣は案の定、隔壁が閉まり切る前に突き破って、通路に侵入してきた。

 狭い壁や天井に巨体を擦りつけながら追いかけてくる。


「ううっ……!!」


 アキラは脇腹がつりそうになってきた。母はジローを背負って前を走っている。位置的には、アキラが全員の中で最後尾にいた。


「はぁっ……はぁっ……!!」


 異獣の足音、息づかいが、後ろからどんどんと近づいてくる。

 追いつかれたら……

 追いつかれたら、食われる。


 生暖かい死の気配を感じて、彼女の脳裏に、奴らに襲われた無数の亡骸がフラッシュバックした。


「ううっ……」


 背筋に冷たい汗が流れる。考えるほど足が余計にもつれそうになる。

 いつもなら楽勝で走り抜けられる距離が、いまは途方もなく長く感じる。


「――大丈夫だ!!」


 そんなアキラの背中に、いつの間にか隣にいたユウトの手が触れた。


「前だけ向け! いいから走れ!!」


 彼はアキラの背中を思い切り押す。その勢いで、彼女は加速した。


「ふっ、んんっ……!!」


 涙ぐみながら必死に走る。「そうだ!!」すぐ隣でユウトが並走する。

 彼はずっとアキラを鼓舞し続けてくれた。


「その調子……あと少し!!」


 隔壁まで数メートル。

 アキラは目を瞑り、両足に全身全霊の力を込めた。


 その瞬間、彼女はさらに加速し、自分でも驚くほどの速さであっという間に隔壁をくぐり抜けた。


「はぁっ……!!」


 息を切らしながら振り向く。

 ユウトが走ってきている。そのすぐ後ろに異獣が迫る。


「ユウト!!」


 お爺さんを下ろしたヨウジが慌てて振り向く。

 異獣がユウトの背中に大きな手を伸ばす。


 ユウトは、汗ばんだ顔を歪めながらも、なんとかギリギリで閉まりかけの隔壁をくぐり抜けた。


「はぁっ……はっ……な……っ、大丈夫だったろ……?」


 その場で膝をつきながら皆に笑顔を見せる。

 だがアキラや父親たちはまだ必死に、こちらに駆け寄ろうとしていた。


「ァアアアアアア!!!」


 閉じきる寸前の隔壁に、異獣の手が挟まっていた。

 両手を隙間にねじ込み、無理やりこじ開けるようにして体を入れてくる。


「あ――――」


 巨大な手がユウトを捕まえた。「うっああ!?」小さな体が隔壁に引きずり戻されていく。


「ダメっ――!!」


 一番近くにいたアキラがとっさに彼の腕を掴んだ。

 しかし力でかなうはずもなく、そのまま異獣はユウトを隔壁の隙間から引きずり込み、アキラをも引き込もうとする。

 その瞬間、つっかえていた異獣の体が外れたことで再度隔壁が閉まり、ユウトの右腕を両側から挟み潰した。


「あ――あああああああッ!!」


 閉じた壁の向こうから、悲鳴が響き渡る。

「あ……」アキラは切断された手首を持って尻もちを着いた。


「うそ、そんな……」

「ユウト!! クソッ!!!」


 すぐさまヨウジが駆けつけてくる。パネルの前に立つ若者に突進するような勢いで「開けろ!!」と命令した。


「もっ……もう手遅れだ! いまさら開けても――」

「いいから開けろ。殺すぞ」


 凄まじい形相で睨みつけられ、「ひっ」と若者は小さな悲鳴を漏らして退く。


「いま助けてやるからな!!」


 ヨウジは銃を手に、パネルを操作しようとする。

 その手を「待って!」と怒声が止めた。


「お願い…………やめてヨウジさん」


 母だった。腕にジローを抱え、必死な形相をしていた。


「…………ッ……」


 いまここで隔壁を開ければ彼女らがどうなるか。ヨウジは血走った目で隔壁と皆を見比べる。


「…………すみません。伊高さん」

「待っ――」


 再度、コントロールパネルを操作し、隔壁を開こうとした。


「――ダメだ――――――父さんッ!!!」


 その時壁の向こうから声が響いた。


「ゆっ、ユウト――」

「ぁあ開けるなぁあああああ!!!!」


 12歳の少年が出したとは思えない、凄まじい絶叫だった。


「絶対にぃいッ――ぜったいに開けるなぁあああああああああああああ!!!!」


「あ…………ぁあぐ……」ヨウジは膝を震わせて崩れ落ちた。


「あぁ…………父さん、ここにいるぞ…………! ずっとついてるからな……!!!」


 隔壁にすがり付く。涙と鼻水にまみれた顔で、そう呼びかけること以外に、もはやできることはなかった。


「……う…………ん………………」

「ユウト……!!」

「………………………………」


 何度も、何度も、返事が聞こえなくなっても、息子の名前を呼び続けた。


 その呼び声も途絶えたころ、重い沈黙が落ちていた。

 誰一人、口を開く者はいなかった。

 

「…………」


 アキラは呆然とその場にへたりこんでいた。


「…………伊高さん」


 不意にヨウジが立ち上がる。母がびくりと肩を震わせた。


「吉田さん……あの……なんと言えばいいのか……」

「気にしないでください」


 魂の抜けたような声音だった。

「行きましょう。皆さん」そう言って、皆の視線を受けながら通路の奥へと歩み始める。

 若者は気まずそうに顔を背ける。老夫婦は目に涙をためていた。

 ジローは母にしがみつき、母は、ヨウジの背中に伸ばしかけた手を途中で止めた。


 アキラは、ユウトの腕とナイフを抱えて、母のすぐ後ろを重い足取りで追った。

 もう何の言葉を発する気力も起きなかった。

 すべてがどうでもよくなっていた。


「……次の角を曲がった奥に……最下層に繋がるエレベーターがある。電力は生きてるから、まだ動いてるはず……」


 念仏のようにつぶやくヨウジ。先頭を歩く彼の表情は誰も見れなかった。

 だが曲がり角にたどり着いたとき、彼は立ち止まる。


「……どうしたんだよ」


 若者が声を上げると、ヨウジは深いため息をついて、


「みんな……自分の目で見てくれ」


 角の向こう――薄暗い通路の奥には、二つの巨影があった。

 異獣だ。

 どうやってここまで入ってきたのか、という疑問はすぐに消え去った。


 その巨体には、所々に防護服の破片がへばり付いており、首元には防護マスクがぶら下がっていた。

 そして、足元には数人の遺体がある。おそらく一行よりも先に、最下層に逃げようとした人々……。


 つまり、あの異獣も――――。


「…………」


 一同は立ち尽くす。


「一体ならまだしも……二体となると、俺も足止めできない可能性が高い」


 ヨウジは猟銃に弾をこめなおしながら言う。正直、いまの彼の状態では一体の相手すら難しそうだった。


「クソッ……」


 若者が壁を殴りつける。「ああッ……終わりだ、なんでこんなことに…………」

 老夫婦は何やら小声で会話してる。

 母は二人の子どもを抱き寄せた。


「もう掛けるしかない。全員で奴らに突撃し、一人でも多く突破する」


 ヨウジは銃のフォアエンドを操作し、薬室に弾を装填しながら言った。

 彼が全員に向き直った所で、「いいかな」と老夫が手を挙げた。


「……どうしました?」

「妻といま話して決めました。みなさんにも提案があります」

「……?」


 老いた男はそう前置きしてから、ヨウジ、若者、自分の妻の顔を一度ずつ見て、

 それからアキラとジローに目を向けた。


「……我々大人四人で敵をひきつけ……子どもたちとお母さんを送り届ける。というのはどうでしょうか」


 静かに、力のこもった声音で言う。


「…………」

「は……は? なんだよそれ」


 沈黙するヨウジ。対して若者はすぐに反発した。


「何言ってんだよ、ジジイ、それって……」

「子どもは最後の希望です。なんとしても守らなければ」

「ふ……ざけんなっ! そのために俺たちは犠牲になれってのかよ」


 彼は角の向こうの奴らに聞こえない範囲の、最大限の大声で言う。


「勝手なこと言うんじゃねえっ。俺だってまだ死にたくねえんだよ、ガキだけ特別扱いなんざ……っ」

「わかった。ならこうしよう」


 そこにヨウジが割って入る。


「君と、伊高さん一家を送り届ける。俺とご夫婦が囮だ。それならどうだ?」


「そりゃ……」若者は口ごもる。


「そ……それなら……いやっ、それならっていうか」

「よし」

 

 ヨウジは間髪入れず彼に近寄ると、「ナイフは持ってるか?」と尋ねた。


「いや……」

「じゃあ俺のを渡しとく。いいか」


 若者に自分のナイフを握らせると、その手を上から強く握り締めたまま、


「子どもと母親を、あんたが守るんだ。頼んだぞ」

 

 顔を近づけて念を押しした。若者は脅されたようにコクコクと頷いた。


「皆さん……そんな……」


 蚊帳の外に置かれていた母は遠慮がちに声をかける。


「いいんですよ。どのみち、老い先短い命ですから」


 老夫は優しく笑いかけた。


「むしろ未来を繋げるために使えるなんて光栄だ。あなたはどうか、お子さんたちと一緒にいてあげてください」

「……っ……本当に…………」

 

 母はもはや言葉も出ず、深々と頭を下げた。


「じゃあ……まず俺が突っ込んで、一体目を押さえる」


 角の前に立ったヨウジが言う。


「二体目は、ご夫婦に頼みます。その……」


 その先の言葉を倫理観が詰まらせる。

 汲み取った夫婦が「わかりました」とうなずいた。


「……では。その後は伊高さんたちが行ってください。

 我々に何があっても、立ち止まらないで」


「はい」「おう」母と若者が返事する。


「よし。じゃあ…………行くぞ」


 ヨウジの合図と同時に、

 全員が角から飛び出した。


「うぉおおおッ!!」


 まずヨウジが大声を出して注意を引く。二体の異獣が振り向いた。


「いまだ!」


 次いで、他の者たちが走り出す。

 ヨウジは背後をちらりと確認した後、手前の一匹目に銃の照準を定め、撃った。


「ギィアアッ!!」


 血しぶきが上がり、異獣が怒り狂って彼に突進する。

「ぐッ!」ヨウジの大柄な体をいとも簡単に弾き飛ばし、壁に叩きつけた。


「ォアアアアッ!!」


 一方、二体目はアキラたちの方に迫ってくる。

 老夫婦が前に出た。

 彼らは、異獣の手に捕まり、一瞬で地面に叩きつけられた。


「くっ――――」


 鮮血が舞う中、母は目を瞑って、ジローを抱え、アキラの手を引きながら、二人の亡骸を食らう異獣の横を通り抜けた。


「ううっ……」


 次いで、その後ろを若者も通り抜ける。


「ォオオ……」


 瞬間、異獣が彼らの方を見た。


「なっ、んでだよ……!」気が変わったのか、叩き伏せた老夫婦を置いて、逃げた若者たちの方を追いかけてくる。


「ォアアアアッ!!」


 凄まじい速度。一瞬で距離を詰められる。


「ッ――――」


 捕まる――。

 瞬間、若者は前を走る子どもと母親の背中を見ながら思考した。

 彼女を追い抜けば、まだ自分は助かる。


 彼は限界まで走力を上げた。


 母親を追い抜き、通路の奥に見えるエレベーターに向かって、一目散に走る。


「あっ――」


 そのとき小さな悲鳴がして、つい振り向いてしまった。

 母親のすぐ背後に異獣が迫っていた。

 必死に逃げる彼女の背中に、巨腕の鋭利な爪が振り下ろされる――


「――クソ」


 若者は苦悶に表情をゆがめ、ヨウジから託されたナイフを握りしめた。

 足を止め、引き返す。母親に覆いかぶさろうとする異獣に突進する。


「えっ――??」

「行けよ!!」


 彼女にそう叫び、自分は体当たりで異獣を押し戻した。

 異獣はうっとうしげに彼を弾き飛ばすと、仰向けになったその胴体を思い切り踏み潰す。


「ご――はっ――!!」


 若者の口から尋常ならざる量の血が溢れた。

「あっ……ぐ……」朦朧とする意識の中、最後の力をふりしぼり、獣の足にナイフを突き立てる。


「死ね……クソ……野郎……」


 ほどなく、彼の目から光が消えた。


「ァァ――」


 異獣がその頭に牙を立てようとした瞬間、銃声が轟き、顔面が吹き飛んだ。


「はぁっ……はっ……」


 血煙の中に立つヨウジは、半身を血で染めながらもまだ銃を構えていた。


「…………ははっ……ったく……」


 乾いた笑いを上げながら、巨体を蹴り退かし、その下敷きになっていた若者の亡骸に近づく。


「…………根性見せやがって」


 血まみれの手を伸ばし、半開きになっていた彼の瞳を閉じさせた。


「…………はぁ…………はぁ………………ふぅ……」


 それから、その場で膝を着いた。

 二体の異獣を倒した代償。彼の半身は既に腕がちぎれ、引き裂かれた腹から臓腑(ぞうふ)が垂れていた。

 

「…………ふ……」


 ほどなく完全に脱力し、地に伏せる。


「……ユウト…………」


 血溜まりを見つめながら朦朧(もうろう)とつぶやく。


「父さん…………が……」


 最期の表情は、苦痛と共にどこか満足を宿していた。



「はぁっ――はぁっ――!!」


 一方、母はアキラとジローを連れ、なんとかエレベーターにたどり着いた。

「ふぅっ……うぅ……」後ろで起きたことを見る勇気はなかった。彼女はすぐさまエレベーターのボタンを押し、扉を開けると中に二人を押し込む。


「お母さん…………」


 ジローは不安げに母の手を握っていた。対して、アキラは呆けたような無表情だった。


「二人とも……よく聞いて。いい?

 下に降りたら、このドアが閉まらないように何かで止めて。通路に出たらすぐに隔壁を閉じて。除染室の使い方は、学校で習ったからわかるよね」


 母は苦しそうな表情で説明する。その様子の違和感に、次第にアキラの目に生気が戻り、見開かれていった。


「なんでそんなこと言うの?」


 彼女は母に尋ねる。


「なんで、お母さんも一緒に来るのに、そんな説明するの?」

「…………」


 母の顔は、いつの間にか青白くなり、額にはびっしりと汗が滲んでいた。

 彼女は小さく息を吐いて、


「私は行けない」

 

 肩を動かし、自分の背中をちらりと見せた。

 そこには大きな裂傷があった。


 彼女は、先ほど異獣に捕まりかけ、間一髪で若者に助けられたが、

 その際、異獣の爪の先端によってわずかに背中を切り裂かれていた。


 いまその傷からは、どす黒い血が滲み出て、周辺の肌が変色し始めている。


「…………うそ」


 アキラのうめきに、「え……?」ジローはまだ事態が飲み込めず、二人の顔を見比べている。


「行けないの……」


 母は汗ばんだ顔で言い聞かせた。

 アキラは学校での授業を思い出していた。生物科の田島先生が言っていた。


『放射線がなぜ我々にとって有害なのか。それは生物の体を通過するとき、その遺伝子を破壊してしまうからとされている。

 ただし、これは通常の放射線の話だ。いま地上を包んでいる新種の放射線……《M線》は、生物の遺伝子を破壊ではなく“変異”させる。

 どんな生物でも、例外なく、“別の何か”に変わってしまう』


 思い出すごとに、彼女の動機は激しくなってきた。


「待ってよ……うそ……うそだよね」

「アキちゃん…………」

「うそっ!! 無理っっ、ぜったいムリ!!」


 震えが止まらず、涙が溢れてくる。なんとか母の腕にしがみつく。


「ぜったい無理っ……母さん、お願い、うそって言ってっ!!」

「ごめん……」

「だってっ、そんなの、お母さんまでいなくなったら、私たちだけで、どうやって生きてけばいいの!!」

「……ごめんね…………」


 母はそれ以上何も言えずに、ただ二人の子どもを抱きしめた。


「……いや……だ……」

「お母さん……? なんで……まだ大丈夫でしょ??」


 泣き崩れるアキラ。ジローは困惑しながら訴える。


「浅い傷なら、ちゃんと手当すれば助かるって……学校で習ったよ。

 大丈夫だよ、まだ、助かるよ、僕がやるからっ」

「…………」

「治せるよ。僕が、お医者さんになるから。それで、お母さんのことぜったい助けるからさあっ!」


 明るく元気づけながら母の背中を見ると、

 すでに傷を中心に、全体が毒々しい赤紫色に染まりつつあった。


「ッ……」


「……お願いがあるの」


 母はふたりの抱擁を解く。 胸に回していたリュックサックを開けて、一本の杖を取り出す。


「これ……持って行って」


 呆然とするジローに握らせた。


「お父さんの物だよ。いつか役に立つ」


 それからふたりの手を振りほどき、素早くエレベーターから出ていった。


「まっ、まってよ!!」


 ボタンを押す。ブザーが鳴り、扉が閉まり出す。

 ジローが飛び出そうとするのを、アキラはとっさに手で制した。


「姉ちゃん?? なんで??」


 なぜ止めたのか、自分でもわからなかった。

 ただ、そうしなければならない未知の使命感が、そのとき彼女の胸には芽生えていた。


 アキラは精一杯の気丈な顔で母を見つめた。

 母もアキラを見つめ返してうなずき、


「ふたりとも、お願いだから約束して」


 閉まりゆく扉の隙間から、子どもたちに向かって語りかけた。


「……これから先……どんなことがあっても…………生きることだけは諦めないで」


 その両の瞳から、堪えきれない滴がこぼれる瞬間、

 扉が閉鎖され、エレベーターは下降を始めた。


「お母さん――お母さん――!!!」


 必死に叫ぶ弟の声は、激しい滑車の駆動音にかき消されてしまった。

 もう誰もその声には応えてはくれない。聞いてくれる者すら、いない。


 姉弟はこうして地の底に堕ちた。

 そして、6年の月日が流れた。






 ――――姉弟は地上にいた。


 山林の奥に紛れたシェルターの出口は、ちっぽけでとても目立たなかった。

 遠目からでは景色と同化してほぼ見つけられない。

 アキラたちは、近くの小川から見つけてきた目立つ形の石を扉の前に置いた。


「いこう」


 少し見つめた後、ジローは石から離れた。


「うん」


 アキラもうなずく。

 これから長い旅が始まる。でも、故郷(ここ)を捨てるわけじゃない。

 いつか戻ってくる。どれだけ時間がかかっても――必ず。


 アキラは目印の石にぺたりと手を触れる。


「いってきます」


 そう言って、手を離し、弟とともに歩き始めた。








『いってらっしゃい』


 |《第一.五章 終わり》

過去編はここまでです。次話からは姉弟が地上を冒険する二章です!

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