第七話 詠唱、静寂に燃ゆ
十三位は、胸の奥で荒い息を整え、静かに青い瞳を細めた。
その瞳の奥に宿るのは、決して揺らがぬ光。
(魔力では勝てない……なら、僕が使うべき手は……)
一歩、また一歩。
彼は数歩後退し、やがて壁際へとたどり着いた。
まるで逃げるようにも見える動き──
だが、そこには明確な“意図”があった。
十三位は静かに目を閉じる。
セカンドはその姿を見て、口元をわずかに緩めた。
「詠唱か……」
それはかつて、師である彼女自身が禁じた力。
それを使おうとしている。
「面白い。……待ってやろう」
セカンドもまた、ゆっくりと聖杖を胸元に構え、目を閉じた。
紅の魔力が静かに、しかし確かに、彼女の周囲に波紋のように広がりはじめる。
二人の間に、張り詰めた沈黙が流れる。
そして、誰よりもその沈黙に息を呑んだのは、玉座の隅に座っていた男──ファウストだった。
椅子からゆっくりと立ち上がる彼の目には、光が宿っていた。
その胸が高鳴る。
呼吸が速まる。
魂が震える。
「……まさか……」
十三位の口が静かに開かれる。
その声は低く、重く、そして確かに力強かった。
「……水よ、流れを断ち切り、すべてを切り裂け……」
ファウストの瞳が、喜悦の色に染まる。
(……特殊能力……まさか、あれを使う気か……!)
十三位の詠唱は、他の魔法とはまったく違う旋律を持っていた。
静かに、荘厳に、体内のすべてを震わせながら響く。
その詠唱は、特務で序列十三位の称号を得るに至った彼だけが持つ──
特異な力の宣誓。
「風よ、足に宿りて、影すらも置き去りに……」
世界の常識では、ひとりの魔術師が使える属性はふたつまで。
だが──十三位は違った。
五属性すべてを扱う、異端。
その魔力はどれも平凡で、単体では強力とはいえない。
しかし、それを身体に取り込み、融合させることで、彼は異常なほどの強化を実現する。
「土よ、我が盾となり、岩の如く我を守れ……」
水が切断の刃となり、風が脚力と感知を与える。
土は肉体を強化し膂力を、火は攻撃力を増し、
雷は一瞬の閃光のような瞬発力を授ける。
魔力が、彼の体内を螺旋のように巡る。
まるで伝説の戦士が目覚めるように──
「火よ、炎となり、攻撃の礎となれ……
雷よ、瞬間の光となり、敵を貫け……!」
「……ああ……なんて、素晴らしい……!」
ファウストは胸に手を当てた。
目の前で繰り広げられる光景に、もはや歓喜すら覚えていた。
その力は、ただ強いだけではない。
命を削るほどの負荷と引き換えに得られる“刹那の極致”。
だからこそ、十三位がこの能力を使う姿を見る機会は稀だった。
(これだけでも……この戦いを見る価値がある……!)
だが──その次の瞬間。
ファウストはさらに目を見開いた。
セカンドが、静かに口を開いたのだ。
「時空よ、我に力を与えんと……」
その瞬間、空気が震えた。
まるで、空間そのものが彼女の詠唱を“畏れている”かのように。
紅の魔力が、爆ぜるように空気を揺らす。
彼女の聖杖を中心に、赤い渦が激しく渦巻き始める。
「……セカンドも……詠唱を……?」
ファウストの興奮は、もはや理性を超えようとしていた。
戦闘において、セカンドが詠唱する必要などない。
無詠唱で十分すぎる力を発揮できる彼女が──今、詠唱をしている。
つまり、それは彼女自身の──
**“本気”**だ。
(何を……見せてくれる……?)
彼の息遣いが荒くなる。
その手は震え、胸が痛いほどに脈打っていた。
「……ああ……なんてことだ……」
彼は呟き、震える指先で自らの胸を押さえた。
──これは、戦いではない。
魂と魂が呼応する、神の舞踏だ。
ああ、こんな瞬間に立ち会えるとは──。
「ここまで激しく、素晴らしい戦いになるとは……予想もしてなかったよ……」
蒼と紅。
相反する光が、いまこの皇帝の間でぶつかり合おうとしている。
どちらが勝つのかではない。
どんな“物語”が生まれるのか──それが見たい。
(教えてくれ、セカンド……十三位……)
(この先に、どんな未来が待っている?)
ファウストの心は、いまや戦場の中心にあった。
その熱量は、魔力の嵐にすら引けを取らぬほどに、静かに燃えていた。
皇帝の間には、神聖ともいえる沈黙が支配していた。
玉座に座る皇女イレーネの指先が、微かに震える。
その瞳は、瞬きすら忘れたように、ただ一心に戦場を見つめていた。
執務官たちも、近衛兵たちも、皆が石像のように動けない。
息を止め、ただ見守っていた。
この場で起きていることが、もはや「戦い」ではなく──
なにか異なる次元の儀式であるかのように。
響いていたのは、ふたりの詠唱だけ。
十三位の低く、深みのある声が、五属性の力を次々と呼び出す。
蒼い魔力が波のように空気を満たし、空間そのものを冷たく引き締めていた。
水流剣に宿っていた魔力が、生き物のように体内へ還る。
(あと少し……あと少しで……!)
十三位の瞳には、確かに光が宿っていた。
それは、初めて芽生えた“守るという意思”の炎だった。
だが──
「……遅い」
その声が空気を裂いた瞬間、すべてが反転した。
「っ……!」
一瞬で景色が歪み、次に気づいた時には、冷たい手が彼の首を締めていた。
セカンドの顔が、すぐ目の前にある。
紅い瞳が、無感情に見下ろしていた。
左手が、十三位の首をがっちりと掴んでいる。
足が床から離れ、吊られるように宙を舞う。
彼女の転移魔法によって、十三位はセカンドの真正面に転移させられたのだ。
その細い腕一本だけで、彼を支えていた。
だが、それは決して非現実的なことではなかった。
セカンドの絶大な魔力が、それを可能にしていた。
「……が、は……」
掠れた声が、十三位の口から漏れる。
詠唱は──もう、続けられない。
その瞬間、セカンドのまなざしが、わずかに揺れた。
そして、ほとんど囁きのような声で、ひとこと。
「……許せ」
それは、命を奪う者の冷酷さではなかった。
戦いの中で交わされる、たった一度きりの本音。
その目は、ほんの少しだけ、哀しみを湛えていた。
次の瞬間、彼女の左腕に紅い魔力がまとわりついた。
腕に刻まれた呪文のような刺青が、蛇のように動き出し、妖しく紅く輝き始める。
ズル……ズルルル……ッ
蛇のようにうねる魔力が、十三位の首元から身体全体へと這いまわっていく。
その跡に刻まれていくのは、漆黒の文様──
「……な、ん……だ……っ」
脳内に警鐘が鳴り響く。
危機の感覚が、全身を駆け巡る。
詠唱によって呼び覚まされた魔力が、今まさに解き放たれようとしていた。
だが、それを断ち切ったのは、セカンドの“禁呪”。
強制的に魔力の流れを封じ、断絶し、暴発させる。
「っ……!!」
十三位の身体が、ビクリと痙攣した。
詠唱の中断──その代償はあまりに大きかった。
蓄積された五属性の魔力が、逃げ場を失い、逆流する。
肉体が、精神が、内側から崩れていく。
血が、神経が、魔力の道が軋むように悲鳴を上げる。
「が……あ……ぁ……!」
喉を焼かれるような痛み。
視界が、真っ白に染まり、音が消え、感覚が遠のく。
その目から光が失われていく。
力が抜けた身体が、完全にセカンドの手に預けられた。
「……終わりだ」
彼女は静かに言った。
そして──その手を、離した。
ドサリ──
鈍い音を立てて、十三位の身体が床に崩れ落ちる。
力の抜けた四肢、無防備に晒された背。
全身に浮かび上がった文様は、紅の輝きを失い、
ただ黒い“痕”として肌に刻まれていた。
勝負は、決した。
再び、皇帝の間には、完璧な静寂が戻る。
何も言えず、誰も動けず。
ただその場に立ち尽くす者たちの目に映っているのは──
魔力の海に沈んだ、ひとつの命の静かな終焉だった。
だがその場にいた誰も、
彼が本当に“終わった”のかどうか──確信はできなかった。