第六話 凍てつく呼吸、命の縁
「……っは、はっ……!」
十三位の呼吸が乱れていた。
肺が熱を帯び、肩が上下し、鼓動が耳の奥で大きく響く。
視界の端、あらゆる角度から現れる紅の裂け目──
そこから放たれる鋭利なナイフは、もう数を数える意味すらない。
獲物を嬲る獣の牙のように、無慈悲に、休む間もなく迫ってくる。
(……このままじゃ、防げない)
冷静さを装いながらも、内心では確実に限界が近づいていた。
だが、崩れない。
十三位は、己に言い聞かせるように、心の中で叫ぶ。
(──集中しろ)
水流剣を握る手に、再び蒼の魔力が流れ込む。
剣が震え、光が強くなる──だが。
(……いや、今は、それじゃない)
十三位は一瞬、剣に注いでいた魔力を引いた。
蒼く輝いていた刃の光がふっと弱まり、刀身の輪郭が淡く滲む。
その瞬間、彼の周囲に風が生まれた。
水の冷たさが、風の鋭さと交わる。
空気が歪み、霧のような結晶が舞い上がる。
足元から這い出した霜が、まるで生き物のように地を走る。
音もなく、しかし確かに地を這い、瞬く間に氷が形成されていく。
蒼白く、凍てつく壁。
風が水を凍らせ、半球状の氷の防壁を作り出す。
──そして、静寂が訪れた。
蒼白く輝く氷が、音もなく半球を描く。
その内側に、十三位の呼吸だけがこだまする。
氷結魔法──氷壁。
それは水魔法と風魔法を緻密に制御しなければ発動できない、複合術式。
一瞬の判断、一瞬の練魔、そして一瞬の発動。
氷壁が完成したその瞬間──
無数のナイフが、空間の裂け目から一斉に射出された。
「──ッ!」
鋼の雨が、氷の壁にぶつかる。
刃が突き刺さり、砕け、弾け、裂け、跳ね返る。
金属音が怒涛のように響き渡り、氷壁の表面が無数の傷で覆われる。
十三位の中で、かすかに安堵の息が漏れる。
(……防いだ)
だが、それは刹那の安息だった。
氷の壁にはすでに、無数のヒビが走っている。
空間の裂け目はなおも開き続け、次の刃が準備されている。
十三位は理解していた。
これは──一瞬の防御に過ぎない。
次の瞬間には、この氷壁は粉々に砕け、再び紅の嵐が襲ってくる。
それでも、彼は目を閉じず、剣を手放さず、踏みとどまっていた。
豪奢な装飾が施された椅子に、ファウストは悠然と腰を下ろしていた。
まるでこの混乱の只中にいながら、そこだけが別の時空に属しているかのように。
皇帝の間に張り詰めた空気──戦場と化した空間とは異質の“静”が、彼の周囲を支配していた。
皇女イレーネは近衛兵に守られ、息を潜めるようにして戦いを見守っていた。
その背後に控える執務官たちも、恐怖と緊張に押し黙っている。
だが、その中にあって──ファウストだけは、場違いなほど落ち着いていた。
彼の右手が、肘掛けを軽く叩く。
コツ、コツ、コツ──
まるで、舞台の演技に拍手を送る代わりのように。
だがそれは、戦場の緊張とは裏腹に、彼の胸中に広がる“愉悦”を象徴していた。
彼の視線は、決して逸らさない。
セカンドの動き。十三位の反応。魔力の揺れ、空間の裂け目。
すべてを、逃さず、記憶し、愉しんでいた。
(いいね……実に、いい)
紅蓮の魔力をまとい空間を切り裂くセカンドの聖杖。
蒼い渦を巻きながら応戦する十三位の水流剣。
火と水、紅と蒼。
その二つが交錯し、煌めきと刃音をともなって舞い踊る。
それはもはや戦闘ではなかった。
ファウストの目には、それは芸術だった。
「……美しいな」
知らず、言葉が漏れた。
そして次の瞬間、十三位が放った氷結魔法──
氷壁が紅の刃を受け止め、砕ける。
一瞬とはいえ、セカンドの連撃を凌いだその光景に、ファウストの瞳が強く輝いた。
あの男が、自らの意思で、感情で、戦っている。
無表情に命令をこなすだけの存在だったはずの彼が、今──
誰かを“守る”ために、剣を振るっている。
その姿に、ファウストの胸はわずかに震えた。
「……面白い。実に、面白い」
口元に静かな笑みが浮かぶ。
それは嘲笑でも侮蔑でもない。
狂気ですらない。
純粋な好奇心と、戦いそのものを味わう歓び。
それはまるで、子どもが未知の書をめくるときのような、
純粋で、残酷な好奇心だった。
だが、彼には分かっていた。
最終的な勝者が誰であるかは、すでに決まっている。
セカンド──あの紅の魔力を操る者に、勝る者はいない。
ファウスト自身がそれを認めていた。
だが、それでも──
その“過程”を、見たい。
どれほどの感情が、決意が、十三位という存在に宿るのか。
それは、彼にとって未知の領域だった。
読めない感情、計算できない変化。
だからこそ──興味が尽きなかった。
「もっと……見せてくれ」
椅子に深く身を沈めながら、腕を組む。
だがその指先は、わずかに震えていた。
興奮。期待。そして、微かな不安。
この物語の結末が、もしかしたら予想外の方向へ転がるかもしれないという直感。
ファウストの瞳に、もはや勝敗は映っていなかった。
そこにあるのはただ──
この結末が、自分さえも裏切ってくれることを期待する、
微笑む“観客”の狂おしい願いだった。
ナイフの嵐を凌ぎきったその直後──
十三位は、荒くなる呼吸を抑えながら、足元に散らばる氷の破片を見下ろしていた。
冷気が肌を刺す。
皮膚ではなく、心を凍らせるような、絶望に近い感覚だった。
(……このままじゃ、負ける)
戦いの中で磨かれてきた本能が、静かに警鐘を鳴らしていた。
十三位の視線が、まっすぐにセカンドへと向かう。
彼女の手に握られた紅い聖杖が、不気味に脈動していた。
それは熱を帯びていた。
見ているだけで肌が焼けるような圧迫感。
(空間を裂く転移魔法は、距離を取られるほど不利……なら、接近戦に持ち込む!)
剣を握る手に、再び蒼の魔力が流れ込む。
水流剣が螺旋のように渦巻き、刃先がしなやかに伸びる。
(距離さえ詰めれば……あの聖杖を振る余裕を与えない!)
次の瞬間、十三位の足元が爆ぜた。
氷の破片が宙を舞い、彼の身体が一直線に宙を切る。
一直線に、セカンドへと。
「……ほう」
セカンドの瞳が、細められる。
彼女はその場から微動だにせず、まっすぐに十三位の突進を見据えていた。
蒼の剣が煌めく。
魔力を一点に集中させた鋭い一閃。
狙うはただ一つ──聖杖の破壊。
蒼い閃光が紅い聖杖へと叩きつけられた、瞬間。
──キィン!
激しい金属音が鳴り響いた。
弾かれたのは──十三位の方だった。
剣を握ったままの彼の身体が宙を舞い、数メートルも後方へ吹き飛ばされ、床を転がった。
蒼い水流剣の魔力が、薄れていく。
一方で──
セカンドの聖杖には、かすり傷ひとつ付いていなかった。
むしろ紅い魔力は、さらに強く、濃く、燃え盛るかのように輝いていた。
「……そんな、あり得ない……」
十三位は膝をついたまま、呆然と口にした。
剣が……通らない?
逆に、弾かれた……?
剣が震えている。
違う──震えているのは、自分だ。
これまで何度も命を守ってきた“この刃”が、初めて何も斬れなかった。
セカンドは冷ややかに彼を見下ろす。
その瞳に、憐れみも、怒りも、喜びもない。
そこにあるのはただ──“圧倒的な力を持つ者”の静けさだった。
「お前の水流剣……確かに、鋼鉄すら斬れる刃だろう」
彼女は静かに聖杖を持ち上げ、その紅の渦を十三位に見せる。
「だがな、十三位」
その声は、凍てつく氷のように冷たい。
「この聖杖は、私の魔力で完全に覆われている。
お前の魔力で構成された剣では、それに触れた時点で“打ち消される”」
ドンッ──
セカンドが地面に聖杖の石突を打ち下ろす。
それだけで、床に細かく冷たいひびが走った。
「お前の魔力は、確かに強い。だが──私の魔力を超えることはない」
それは侮辱ではない。嘲笑でもない。
ただ、“事実”を告げるように、淡々としていた。
十三位は、拳を握りしめる。
(魔力の差……それが、これほどまでに……!)
だが──膝をついたままの彼の瞳には、まだ光が残っていた。
「さあ、どうする?」
セカンドが、静かに聖杖を構える。
「私の前に立ち続けるというなら──」
ほんの一瞬、セカンドのまなざしに微かな影が走る。
だが、それはすぐに紅の光に塗り潰された。
十三位は、深く息を吸い、立ち上がった。
魔力では勝てない。
その現実は、重く、冷たく、突きつけられた。
だが、それでも。
(勝ちたい? 違う……
俺は、守りたいだけなんだ。
だったら、考えろ。選べ。諦めるな──
何をすれば、この想いを通せる?)
迷いの中に、確かな意志が灯る。
この男の戦いは、まだ──終わっていない。