第三話 ──沈黙の刃、動く時──
皇帝の間に足を踏み入れたファウストとセカンド。
そこは荘厳で重厚な空気に満たされ、まるで時間すら凍りついたかのようだった。
玉座に座る皇女イレーネは、ファウストの姿を認めた瞬間、その顔に明らかな緊張が走った。
唇をきゅっと結び、指先が微かに震えている。
その場に居合わせた近衛兵たちも執務官たちも同様だった。
誰ひとりとして、この男と“対等”に言葉を交わせる者はいない。
冷たく張りつめた空気を、ファウストはまるで宮殿の主であるかのように、悠然と歩く。
無音の歩みが、広い空間に冷たく響く。
彼が皇女の前で一礼しようとした、その瞬間──
影のように滑り込むように、ひとつの人影が立ちはだかった。
白の礼装。
表情なき無機質な面差し。
特務、序列十三位。
「やぁ、十三位。久しぶりだね。そこをどいてくれないかい」
ファウストは不快な色ひとつ見せず、あくまでも微笑みながら、旧知の部下に穏やかに声をかける。
だが──十三位は、何も答えなかった。
まるで機械のように、微動だにせず。
だが、その沈黙には確かな意思が宿っていた。
ファウストは手を口元に添え、軽く首をかしげながら、彼の表情を観察する。
「どうしたのかな。君には皇女の護衛を任せていたのだが……」
その声に、ようやく十三位の唇が動いた。
「……あなたは、皇女様の“脅威”です」
空気が張り詰めた。
ファウストの眉が、わずかにひそめられる。
そして彼の視線が、まっすぐに十三位の瞳を見つめた。
──いつもなら虚ろで感情の読めない、曇った目。
だが今は違った。
そこには明確な“光”があった──意志、覚悟、恐れなき信念。
ファウストは小さく、深く、ため息をついた。
そして肩をすくめると、少しだけ寂しそうに笑った。
「なるほど……まあ、いいさ。君はもう、“決意”したんだね」
「……はい」
たった一言。
それで全てを伝える、忠誠の拒絶。
ファウストはゆっくりと腕を広げた。
その動作は挑発でも、敵意でもなかった。
ただ、受け入れる者の仕草。
「ならば……やるといい」
その声は、穏やかで、そして静かに恐ろしかった。
まるで全てを見通したうえで、“それでも”何かを許しているかのような、余裕と断絶の響き。
皇帝の間に、緊張が張りつめたまま凍りつく。
凍てついた空気の中で、一筋の火が灯った。
それは、かつて“感情を持たぬ刃”に宿った、たったひとつの意思だった。
その瞬間、帝国の未来を背負ったもう一人の男が、疾風の中を駆けていた
陽は傾き、風は冷たく、乾いた土が巻き上がる。
まるで大地そのものが、急かすように彼を追い立てていた。
馬を駆る男の名はクルツ。
元老院に名を連ねる、帝国の若き指導者、最も警戒すべき知恵者のひとり。
身にまとう衣は高貴な紋章をあしらった貴族服──にもかかわらず、彼は護衛も従者も連れず、全力で馬を走らせていた。
その額には汗がにじみ、手綱を握る指に力がこもる。
焦り、怒り、そして恐怖。
そのすべてが彼の背にのしかかり、足元を焚きつけていた。
有力者の貴族から届いた一通の手紙。
そこには、イレーネ皇女を正式に支持するという書状と、それに連なる有力貴族の署名が添えられていた。
手紙の日付は──ファウストが皇女に謁見する、まさにその日。
だが、クルツは信じなかった。
信じたくなかった。
ファウストが、あれほど慎重に進めていた計画を危険にさらすなどあり得ない。
だからこそ、自ら馬を走らせ、筆頭貴族のひとりに会い、事実を確かめた。
そして、知った。
──あれは、偽の手紙だったのだ。
「やられた……!」
喉から漏れた声は、風にかき消される。
クルツは強く歯を食いしばった。
ファウストはこの瞬間を狙っていた。
自分を王都から引き離し、無防備な状態で皇女との謁見に臨むために。
──ファウストの話術は、刃よりも鋭い。
その舌先ひとつで、貴族をたらし込み、兵を動かし、民衆の心すら掌に乗せてきた男。
そして何より許せないのは──あの男が、それを楽しんでいることだった。
もし、この謁見の場で皇女が彼の言葉に惑わされれば──
すべてが終わる。
議会も、制度も、そして帝国の均衡そのものが。
「……急げ、急ぐんだ……!」
馬に打ちかけた声は、もはや祈りに近かった。
頬に当たる風が痛い。
足元の荒れ地が跳ねる。
それでも彼は止まらなかった。
ファウストの前に立ち、彼の計画を阻むまでは。
宮殿が遠くに見え始めた。
重厚な石造りの城門、塔、屋根に翻る帝国の紋章──
クルツは、そのすべてを正面から見据えた。
自らの過去も、罪も、すべてを背負いながら。
「今度こそ……間に合わねばならん!」
──帝国の未来は、この数分に懸かっていた。
そして彼自身が、過去と決別するための、最後の選択に向かっていた。