第二話 ──黄金の静寂──
二人は無言のまま、重厚な扉をくぐった。
そこは皇帝の間のすぐ手前に設けられた控えの間──
一歩足を踏み入れた瞬間、その空間に漂う圧倒的な気配が、まるで目に見えるように感じられる。
高くそびえる天井には金糸で刺繍された天幕が垂れ、壁面には帝国の歴代皇帝を描いた絵画が厳かに並んでいた。
漆黒の床には赤と金の絨毯が敷かれ、純銀の燭台が等間隔に立ち並ぶ。
光を受けてきらめく調度品のひとつひとつが、帝国の栄光と威厳を無言で語っていた。
この部屋は“待機”のための部屋ではない。
“服従”の心を植えつけるための間だ。
謁見に来た者の心を静かに、しかし確実に、玉座の重みに屈させる空間。
ファウストはそんな空間にも気圧される様子ひとつ見せず、装飾の施された椅子に深々と腰を下ろした。
まるでそこが己の居場所であるかのように、堂々と、くつろいだ様子で。
ふと、思い出したように彼はセカンドに尋ねた。
「そういえば、皇女イレーネに特務から護衛を一人つけてたよね。誰だったかな」
セカンドは一瞬、唇を引き結んだ。
思い出せないふりか、本当に忘れているのか――いずれにせよ、癪に障った。
「十三位を護衛に付けたと報告したけど」
「……ああ、君の弟子だったね」
ファウストは頷き、椅子の肘掛けに指を軽く滑らせながら、満足げに言葉を続ける。
「感情のない彼なら安心だ。善悪なんて気にせず、任務を遂行してくれる」
その言葉に、セカンドは微かに眉をひそめた。
それは、師としての感情か、それとも人としての違和感か。
「それよりも……クルツは大丈夫なの? 謁見中に戻ってこられたら、面倒になるわよ」
彼女はあえて、ファウストの上機嫌に水を差すように言った。
だが、それはただの警告ではなかった。
彼女の心の奥には、ずっとくすぶっている疑念があった。
「彼なら、偽の手紙に騙されて有力貴族の支持を求めて駆け回ってるさ」
ファウストは言いながら、背もたれに体を預け、腕を組んでくつろぐ。
「まぁ……彼のことだ、そう長くは騙されないだろうけど。それでも、謁見が終わるまでの時間は稼げる」
全てが、計画通りに進んでいる。
そう、彼の中ではすでに終局までの道筋が見えていた。
だが、セカンドはその様子を見て、堪え切れずに口を開く。
「……なぜ、こんな回りくどいことをする?」
その声は、苛立ちと失望を滲ませていた。
「ファウスト。あなたなら、その気になれば皇帝すらも支配できる。議会も、院も、全てを無視して押し通せるでしょう? なぜ正面から行くの」
彼女は知っていた。
ファウストがどれほどの力と影響力を持っているかを。
だからこそ、なぜ彼が力を使わず、あえて正攻法を選ぶのか──それが、理解できなかった。
ファウストは静かに彼女を見つめ、わずかに微笑んだ。
その笑みにあるのは、どこか優しさすら感じさせる穏やかさだった。
「僕はね、この計画を“力づく”で進めたくないんだよ。あくまでも、合法的に。帝国全体の“支持”を得てやりたいんだよ」
彼の声は穏やかだが、その奥底には確固たる意志があった。
この空間が支配するためのものであると知りながら、彼は従わせるのではなく、納得させようとしていた。
「そうしなければ、失敗してしまう。……力で奪ったものは、いずれ力で奪われる。そういう世界だろ?」
ファウストは椅子に深く身を沈めたまま、まるで自分に言い聞かせるように言った。
「幸い、時間はある。だからゆっくり進めよう。焦る必要はないさ」
それは、静かな宣言だった。
彼の戦い方は、常に“見えない力”で相手を包囲し、確実に追い詰めるもの。
その確かさこそが、彼の強さであり、セカンドが最も苛立つ理由でもあった。
──だが、静寂の中。
控えの間の重い扉が、ゆっくりと開いた。
油を差された蝶番の音が、かすかに空気を震わせる。
現れたのは、皇帝直属の近衛兵二名。
いずれも無言で、完璧な礼儀と所作でファウストとセカンドに一礼を送る。
そして、無言のまま手で進むよう促した。
ふたりは立ち上がり、扉の向こうへと歩みを進める。
通されたその先は──皇帝の間。
荘厳な空気が、一歩ごとに肌にまとわりつく。
高くそびえる天井には、星々をかたどった黄金の装飾が煌めき、壁を飾る紋章とタペストリーが、帝国の威光を雄弁に物語っていた。
玉座の正面には近衛兵が左右に立ち、その横に数名の執務官たちが居並ぶ。
彼らは緊張の色を隠しきれず、固い表情のまま立ち尽くしていた。
そして──その玉座。
椅子に腰かけていたのは、次期皇帝候補たる皇女、イレーネ。
玉座に腰かけるその姿は、まるで“まだ空席であるべき椅子”に無理やり座らされたかのようだった。
【次回】
──「沈黙の刃、動く時」
玉座の間で交差する視線──十三位が、静かに、決意を告げる。