第一話 ──白の影たち──
フロイスト帝国の皇帝が暮らしていた宮殿。
その心臓部にあたる回廊は、まるで永遠に続くかのように真っ直ぐに伸びていた。
磨き上げられた黒曜石の床は、歩く者の姿を鏡のように映し出し、天井へと連なる円柱には金と銀の装飾が繊細に施されている。
静寂を破るのは、衣擦れと足音、そして低く交わされる会話。二人の男女が並んで歩いていた。
一週間前、この帝国の頂点に君臨していた皇帝が崩御した。
次代の皇位継承者は皇女イレーネ。だが彼女はまだ二十代前半、政治の場での経験も指導力も十分とは言えない。
ゆえに、彼女を補佐する後見人──すなわち摂政の座をめぐり、宮廷内外の有力者たちが火花を散らしていた。
帝国は今、静かなる混乱のただ中にある。
天井の高い回廊。金細工の燭台が、静かに揺れる仄かな光を灯している。
その荘厳で静謐な空間に、軽やかな声が跳ねた。
「やれやれ……ようやく政治院と軍事院の諸君が、“僕を信じる気になった”らしい」
場の空気にそぐわぬ軽口を叩くその男――ファウスト。
帝国直属の情報機関、その中でも最も深い闇を担う“特務部隊”の長。
雪のように白い肌。陽光を編んだような金髪。深海のような青を宿す双眸。
その外見は、まるで神に愛された天使――だが、その本質は、悪魔に近い。
隣を歩くセカンドは、その冗談に微動だにせず、冷ややかに返す。
「“信じた”んじゃない。“恐れただけ”よ」
声音は鋭く、冷たい刃のように空気を切った。
ファウストは芝居がかった動作で肩をすくめる。
「それは手厳しい。せめて祝福くらいあってもいいと思わない?」
「……そうね。毒入りワインでも用意しましょうか」
互いをよく知る者同士だけが交わせる、皮肉と毒に満ちたやり取り。
だが、すぐにセカンドは話を業務に戻す。
「宗教院の件は、序列六位が手を回してる。干渉の必要はないわ」
その言葉には、“これ以上、くだらない話はやめて”という明確な意図が含まれていた。
そして、核心へ踏み込んだ。
「問題は貴族院と元老院。あなたは相当嫌われているわよ。どうするつもり?」
懸念をにじませる問いに、ファウストは飄々と答える。
「貴族院の方は、貴族の序列四位と五位が、どうやら僕に協力してくれるらしい」
その一言に、セカンドの足が止まった。
表情に変化はない。だが、瞳の奥にわずかな揺らぎが走った。
かつて、フロイスト帝国は腐敗した貴族たちによって支配されていた。
そして、それを内戦によって根こそぎ破壊したのが、この隣にいる男――ファウストだった。
「……貴族を潰した“あなた”に、貴族の序列四位と五位が協力? 悪い冗談ね」
「現実より幾分やさしいものさ」
ファウストは穏やかに微笑んだ。
だが、その底に潜むものは決して軽くない。
「まったく。優秀な部下がいると助かるね、僕は幸せ者だよ」
飄々と語る彼に、セカンドは切り返す。
「……無能な上司がいると、部下が苦労するのよ」
その声音は静かだが、言葉には容赦がなかった。
ファウストは楽しげに、満足げに笑う。
「その苦労すら、“僕の功績”に数えておこうか」
「後世に語り継がれるわ。“史上最悪の上司として”」
仄暗い回廊に響く、皮肉と笑みを帯びたやりとり。
それは優雅さすら感じさせながら、どこまでも毒を孕んでいた。
だが、二人の間に流れる空気が、ふと変わる。
ファウストが、静かに呟いた。
「最大の問題は元老院のクルツ君だよ」
ファウストは、珍しく溜息混じりにそう言った。
「彼は僕の計画を、ことごとく邪魔してくる。もう、律儀すぎて困るね」
「……昔から、あの人は真面目だったもの」
セカンドは、ふっと鼻で笑った。
「クルツ。彼って、あなたの“大事な友人”だったんじゃなかった?」
その問いに、ファウストは肩をすくめる。
だが、その目元には、ほんの一瞬だけ寂しさが浮かんだ。
「彼とは、内戦の前に別れたよ」
低く、遠い記憶をたどるような声だった。
「けれど、彼はあなたとは違った。“壊す”ことより、“直す”ことを選ぶ人だった」
ファウストは、静かに言葉を続けた。
「僕だって、直すことは嫌いじゃない。ただ……効率が悪い修理なら、いっそ全部壊したほうが早いじゃないか」
「あなたの修理方法は、火薬と爆薬の詰め合わせでしょう。直すというより……灰にするって言ったほうが正しいわ」
セカンドの言葉に、ファウストは苦笑する。
「彼は改革者だった。傷んだ体制を少しずつ治そうとした。
僕は変革者だった。腐りきったものを、根ごと断ち切ろうとした」
淡々と語られる信念の違い。
かつて交わった志は、今では二つに分かれた。
「だからこそ……彼は僕を許せない」
ファウストは立ち止まり、天井に刻まれた帝国の星々を見上げる。
その眼差しは、ほんのわずかに、寂しげだった。
──彼は気づいている。今、進められている計画の輪郭を。
まだ確証はないはず
。
けれど、きっと感づいている。
ファウストの声には、敬意とも恐れともつかない、複雑な感情がにじんでいた。
回廊の静寂の中、二人の影が長く伸びる。
まるで、かつて交わり、今は決して交わらない運命を象徴するように。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今回は、壊れゆく帝国の"はじまり"を描きました。
静かに、確実に動き出す運命の歯車……
次回、さらなる揺らぎが広がります。
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