私に関わらないで
二年三組の教室に入ると、クラスメイトたちでいっぱいだった。
新しく同じクラスになった友達同士話したり遊んだりしている人たちもいれば、仲の良い友達と離れ離れになったのか、自分の席で手持ち無沙汰そうに座っている人、お互い緊張している感じの、初めましての会話をしている人、色々な人たちがいた。
教室の中はこれからの一年間が楽しくなるような雰囲気で満ちていた。
いいな。
みんな、友達になるんだろうなあ。羨ましいな。
間取りも配置も一年生の時とほとんど変わらないのに、二年生の教室はなぜか新鮮に思えた。
みんなどうやって座っているんだろう。友達同士とかかな……。やだなあ。
どうすればいいのかな。と思って黒板を見ると、座席表が書いた模造紙が貼られていた。教室の座席の配置と同じように、机を表す黒い四角の枠の中に、男子は青色、女子は赤色のマジックで書かれた苗字が丁寧に記されていた。とても綺麗な字で、国語の先生が書いたのだろうなと思う。
新しい担任の先生の手書きかなあ。
でも良かった。自由な席に座っていいんじゃないんだ。おかげで変に一人ぼっちにならずに済む。
ホッとしながら、その座席表に従って前から二番目の真ん中あたりの席につく。
右隣の席で男の子たちが楽しそうに話をしている。私は聞き耳を立てないように俯いて先生が来るのを待った。
やっと新しい担任の先生が来た。想像していた通り国語の先生だった。
初めの挨拶を聞いた感じでは、思っていたよりも優しい先生なのかなって思った。何より知ってる先生で良かった。
一時間目の朝礼は、体育館で始業式が行われる。先生の一声で廊下に出て、みんなでもたもたと名簿順に並んだ。新しいクラスの人たちがみんな楽しそうに並ぶ中、私はひとり自分の存在感を消すことに必死だった。名前順だから誰かに何かを言われるかもしれない。名前について触れられないように祈っていると、案の定「たかしの後ろか」と言われてビクッとした。
やめて、私に関わらないで。
祈りが届いたのか、その声の主がそれ以上話しかけてくることはなかった。
二時間目は教科書配布で、生徒は名簿順にそれぞれ自分の教科書を理科室に受け取りにいくことになっていた。この後の自己紹介の時間への不安で少し痛くなってきたお腹を抱えながら理科室まで往復する。きれいな、まっさらな教科書。教科書には名前を書かなければいけなかった。
国語の教科書に油性ペンで名前を書く。
『高橋たかし』
隠しながらひとつ書いたら早く乾くようにふーふーと息を吹きかけ、乾かしてから裏返す。
数学の教科書にも名前を書く。
『高橋たかし』
私は自分の名前が嫌いだ。もちろん、名前を紹介しないといけない自己紹介も大嫌いだ。今まで自己紹介でいい思いをしたことがない。
小学一年の時はまだ平気だった。たかしという名前は普通男の子につけられるものだと知っている子が少なかったから。私から話しかけに行ってもおしゃべりできたし、みんなも普通に話してくれた。
だけど、二年生、三年生になると、女の子なのにたかしという名前はおかしいとみんなも思い始めて、自己紹介した時に笑われることが多くなった。
四年生の自己紹介の時、初めてクラス全員に笑われた。三年生で名前の由来の授業をしてから、私を男だという人が増えてきていて、たまたま四年生のクラスにそういう人たちが集まったみたいだった。男だ。高橋は男女なんだ、って声がいくつも上がった。
私はその日、ずっと泣いていた。
五年生の初日、自己紹介が嫌で私は学校を休んだ。
ズル休みだ。
おかげで自己紹介をしなくて済んだ。良かったと思っていたのに、次の日学校に行った私にみんなは、ズル休みしただろうと言った。確かにその通りで学校を休んだ私が悪かったけれど、じゃあどうすれば良かったんだろう。
自己紹介をしてもしなくても辛いことに変わりはなかった。
六年生の朝、私の体温は三十七度三分だった。休みたかったけど、どうせ五年生の時みたいになるし、その日たまたまお休みでうちにいたお父さんに、ズル休みしたとも思われたくなくて、重い足取りで頑張って学校に行った。
あれだけ馬鹿にされたんだ、初めてクラスが一緒になった子でも私の名前を知っているんじゃないかって思ったし、私も大体の同級生の名前を知っていた。だからやらなくていいのに。と思ったけど、自己紹介は実施された。
私の番になると案の定、クラスのムードメーカー的な男の子が「男じゃねーのかよ」と言った。その声に、クラス中が湧いた。先生も少し笑っていた。
本当に嫌だった。
このクラスで一年間過ごすなんて考えられないと思った。
うちの中学校は東京だけど辺鄙なところにあるせいで他の小学校の卒業生が入学してくることはなく、中学受験をした人以外は全員がエスカレーター式に同じ中学校に上がる。ほとんどクラス替えをしたのに等しかった。
中学一年生のその日は三十八度近い熱が出て学校を三日間も休んだ。
三日も休んだからか、ズル休みだと言う人は、一人もいなかった。