私はそれをまだ許してないんだから
「大丈夫? みんな忘れ物なあい?」
車を出発させた後になって、そんなことを言われてももう遅いよお母さん。
「大丈夫だけど……」
車に乗り込んできて早速カバンからゲーム機を取り出している天を尻目に、私はため息まじりに返事をした。今更忘れ物があってももう遅いし、おばあちゃんのとこにも行きたくないし、黒猫のぬいぐるみも作りたかったし。本当にため息が出る。
「忘れ物はないよー。持ってきてたのこれだけだったし。でも僕もっと遊びたかったなあ」
急に遊びを切り上げさせられた天は天で不服そうだった。
「ごめんね、急な出発になっちゃって。でもお婆ちゃんが倒れちゃったから今日は許してね」
「お父さんは行かないの? お婆ちゃん大丈夫なの?」
ゲーム画面から目を離さずに天はお母さんに聞いた。
「お父さんはお仕事よ。お婆ちゃんも大丈夫みたい。ちょっと倒れただけだって。でも心配だから様子を見に行こうね」
ちょっと倒れただけなら行かなくたっていいじゃん。
お母さんのばか。
「あ、そうだ。晩御飯はどっかお外で食べて帰ろっか」
「やったあ! お寿司がいい」
「お寿司ね。天はお寿司好きだねえ」
外食。というかお寿司と聞いてお婆ちゃんが倒れたことに私は小さく心の中でガッツポーズをした。どうせ何かあったと言っても転んで大きな怪我をした程度だろう。
お母さんのちょっと不安な運転に体を揺られながら、窓の外に見える高速道路をぼーっと眺める。毎年お正月に合わせてお婆ちゃんの家に行く。その時は、お父さんの運転で、お父さんの大きな車で行く。窓から見える道路がいつもよりも近いし、横を通り過ぎるトラックも大きく感じてちょっと怖い。お母さんは喋らないし、私も喋らない。車の中はタイヤが道路を走る音と天のゲームから漏れるピコピコといった電子音だけだった。
いつもは朝に出発してお昼くらいに着くから、多分二時間くらいで着くだろう。
まだまだだ。
早く行って帰りたい。お婆ちゃんのことなんて、正直どうでもよかった。だって、このたかしって名前を付けたのはお婆ちゃんで、私はそれをまだ許してないんだから。
もちろん私はお婆ちゃんの具合の心配を少しはしていたけれど、お婆ちゃんのことを考えるとどうしても『たかし』のことを考えてしまう。今までこの変な名前のせいでいじめられてきたと思うと、なんでこんな名前をつけたんだってイライラする。
「天、ゲームの音消して!」
唐突に私に怒られた天はむっとした顔をしながらゲーム機の側面についた音量のバーを一番下まで下げた。車の中は静かになった。
「たかしっていつになったら男になんの?」
日直当番になった時、男子の日直の村瀬くんに言われた言葉がふっと甦ってきた。中学一年生の時だ。
その時はなにも言い返せなかったけれど、時折こうして思い出したくもない嫌なことがふと頭をよぎる。その度にああ言えばよかった、こう言えばよかったって、どうせ言えもしないけれど考えてしまう。
「私は女の子だよ。私は男にはならないよ」
ってそう言えたなら、何か違ってたかなって思う。
小学校五年生の時。遠足の班行動で一緒になった鮎村さんが険しい顔をして言った一言も、頭から離れない。
お弁当の時、「この広場でお弁当にするぞ。班でまとまって食べろよー」と先生が言った。班のみんなが集まってレジャーシートを広げたところに近づいていった私に、鮎村さんはこう言った。
「私、男の子って苦手なんだよね。高橋さん男の子でしょ。近寄ってこないで」
鮎村さんはすごく怖い顔をしていた。
「高橋さんはそこで食べて」
少し離れた木の下を指差された私は、先生に見つかったらどうしよう。怒られないかな。とおどおどしながらレジャーシートを広げた。
私は一人なんだ。
日のあたる暖かな場所で食べているあのグループに混ざりたい。混ざって楽しく食べたい。って思いながら可愛いうさぎの形をしたご飯の入ったお弁当を食べたのを覚えている。
違うよ、私は女の子だよ。おんなじ班なんだから、仲良くしてよ。
「男みたいな名前で恥ずかしくないの?」
この言葉はもう何度言われたか、誰に言われたかわからないくらい言われた。男の子にも、女の子にも言われた。
なんでみんなそんなこと言うの?
そんなこと言うから、だんだん自分の名前が恥ずかしくなるんだよ?
静かになって今までの嫌なことが頭の中に巡る。全部お婆ちゃんのせいだ。
はあ、帰ってぬいぐるみ作りたい。俯いて両手で顔を隠すように覆った。