私は今、自分の名前が大好きになった
「お母さん! お母さん!」
「はいはい。たかしちゃん。ぎゅーっ」
私は大声で泣いた。お母さんは頭を撫でてくれた。抱きしめてくれた。名前を呼んでくれた。
「たかしちゃん。大丈夫だからね。もう頑張らなくていいからね」
しばらく私はお母さんに抱きしめられながら泣いた。泣いている間、嫌なことも楽しいことも思い出したけど、悲しいけど嬉しい気持ちになった。お母さんの温もりは、こんなにも頼り甲斐があるんだって初めて知った。お母さんは頼りになるんだって、初めて思った。
別に今まで頼りにならないって思ってたわけじゃないけど、そういうことじゃなくて、もっと、精神的なことでこんなにも頼りになるんだって思った。
「よいしょっと」
お母さんが私のベッドの上にあぐらをかいて座って、膝を叩いて呼んだ。
「たかしちゃん、おいで」
私はお母さんに抱っこをされるような形でお母さんの膝の上に座って抱きついた。
「たかしちゃん、重くなったねえ」
頭を撫でながらお母さんが言った。
「だって、もう中学二年生だもん」
「そうだよねえ。もう中学二年生だもんねえ。おっきくなったねえ、すごいねえ」
「すごくないよ。何もしてないもん」
お母さんの言う、すごいねえの意味が私にはわからなかった。
私は私として普通に育っただけだ。何にもすごいことなんてしていない。
ただ幼稚園に行って、小学校に行って。中学校に行っている。家では宿題をして、ご飯を食べて、お風呂に入って、歯を磨いて。それだけだ。何がすごいんだろう。
何よりいじめられているのに。
「ううん。すごいんだよ。ただこうやってね、今、こうしてね、私の前で元気にしてくれるだけで、うんとすごいんだよ」
お母さんは私の頭を抱きしめた。お母さんも泣いていた。
「本当に、すごいねえ。本当にすごいねえ。ごめんね、私が、お母さんがたかしって名前をつけたからだよね? だからいじめられて、たかしちゃんが辛い思いをするんだよね」
きっかけは、確かにたかしっていう名前だったかもしれない。でも、その後は違う。名前なんて関係ない。名前なんて関係なく、ただ、私が目をつけられただけだ。名前のせいだけど、名前のせいなんかじゃない。だって、きらなちゃんは可愛い名前だって言ってくれたもん。阿瀬君は変な名前だって笑ったけど、馬鹿にはしなかったもん。
「あのね、お母さん。私ね。最近、自分の名前が好きになって来てるんだ。たかしってね、前までは男みたいで嫌いだった。けどね、きらなちゃんが可愛いって言ってくれて、そうなんだ、私の名前は可愛いんだって思ってね。だんだん好きになってきたの。いじめられるのは、もしかしたら名前がきっかけかもしれないけれど、でも、その後は私が悪いからいじめられるんだと思うの。だからね、お願いだから、お母さんは私の名前を嫌いにならないで? ずっと可愛いって思ってて。後悔しないで。自慢できるくらい、好きでいて」
私はお母さんをぎゅーっと抱きしめた。涙がお母さんの肩に吸われていく。
私は今、自分の名前が大好きになった。
たかし。
ひいひい爺ちゃんの名前が由来の、私の可愛い名前。お母さんの匂いが、とても気分を落ち着けてくれる。お母さんが私を抱きしめる力強さが安心させてくれる。私はさっきまで全然力の入らなかった腕に精一杯の力を込めてお母さんを抱きしめた。
「たかしちゃん。あのね……」
お母さんは私を抱きしめるのをやめた。
改まって私の肩を持って、しっかりと私の目を見て言った。
それはとても真剣な表情で、こんなお母さんの顔、一度も見たことがなくて、ちゃんと聞かないとと思った。
「お母さんはね、学校なんて行かないでいいと思ってるよ」
お母さんの言葉に鳥肌が立つ感覚を感じる。何かゾワッとした気持ちが込み上げてくる。
「前も言った通り、前の学校でいじめられていた事を知ってるの。今の学校でもいじめられてるかどうかは知らないけれど、お母さんはこうして学校に行きたくなさそうにしているのを見るといじめられてるんじゃないかって思うよ。昨日だって、急に自分で髪の毛を切って。そんなのおかしいって思うよ。泥だらけで帰ってきたことも、傘も刺さずにびしょ濡れで帰ってきたことも、いじめなんじゃないかって心配してた。でもたかしちゃんが頑張ろうとしてるから、お母さんには止められなかった。学校なんて行かなくていいって、逃げてもいいんだよ言ってあげたかったけど、できなかった。もっと早くに行ってあげればたかしちゃんが辛い思いをしなくて済んだかもしれないのに。でも、たかしちゃんの意志で頑張るって言われると、お母さんには止められなかったの」
「うん」
「だから、たかしちゃんが学校に行きたくないって思ってる今、お母さんは何度だって言うわ。学校なんて行かなくていい、家にいていい。幸せにしてくれるだけでいいのよ」
「うん」
「学校に行けって言われると思ってた?」
「うん」
「そりゃあ、行けるなら学校には言って欲しいなって思うわ。でもお母さんが一番嬉しいのは、たかしちゃんが幸せでいてくれることなの。たとえ近所の誰かが『あそこの娘は学校に行ってない』だの『不登校だ』だの言ってきたって気にしないわ。普通は学校に行くんだなんて誰が決めた普通なのってお母さんは思う。お母さんは普通なんてどうだっていいの。普通じゃなくたっていい。ううん。普通なんてお母さんは楽しくない。たかしちゃんの名前だって普通じゃないって言われた事があるの。だからなに? 普通じゃなかったらどうなの? 誰かに怒られるの? 不幸せになるの? ううん、そんなことない。こんなに可愛い女の子なんだから、普通じゃないくらい可愛い女の子なんだから。変なくらいが楽しいんだよ。お母さんはたかしちゃんに笑っていて欲しい。たかしちゃん。あのね。学校なんて行かなくていいからね。辛いことからは逃げて良いんだからね。勉強だったらお母さんと一緒にしよう? 教科書だってあるし、本屋さんに行けば勉強の道具なんていっぱい売ってるからね。それと、いじめてきた子達にはやり返していいって思ってるわ。何をされたかわからないけど、もしも髪を切られたなら切り返してやれって思うわ。泥を塗られたなら塗り替えしてやれって思うわ。たかしちゃんが、あの強いたかしちゃんが学校に行きたくないって思うだけのことをされたんだもん。それと同じくらい相手が嫌なことをするくらい、神様だって許してくれると思うの。ううん、たとえ神様が許さなくっても、お母さんが許してあげるわ。こんなに辛い思いをさせたんだもん、良いのよそれくらい。……でもたかしちゃん優しいもんね。きっとやり返すとか考えたことないんだろうなー。おかあさんならぎったんぎったんにしちゃうけどね」
「うん。ふふふ」
両腕で交互にパンチを繰り出すお母さんがあったかくて、おかしかった。
「よく頑張ったね、すごいね」
「うあああん」
私はいっぱい泣いた。泣いて泣いて、気がついたらお母さんの膝で眠っていた。