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第一話:冥界で

 いつも最も必要なときに、人生の制御を失ってしまう。


 ぼんやりとここに座って、どれくらいの時間が経ったのか分からない。おそらく、ここには時間の概念そのものが存在しないのだろう。何しろ、空には太陽も月もなく、ただ陰鬱(いんうつ)な深緑が冥界全体の湿気を覆っている。霧が立ち込め、視界を遮っているが、それでも遠くない場所から腐った死体の臭いを含んだ冷たい風が吹きつけてくる。巨大な流れの中で、何百万もの魂が悲憤(ひふん)に満ちて叫び、時折、怨嗟(えんさ)のすすり泣きがその悲壮な雰囲気をさらに際立たせる——彼女もその一人となるのだろうか?


 霧が次第に私の視界から離れていくと、目の前に朱色で「奈何橋(なかきょう)」と書かれた木の板が見えた。もしもまだ肉体があるのなら、私はきっと顔を強張らせ、歪めていたことだろう。だが、その感覚を思い出そうとしても、私はもう「強張る」という感覚そのものを忘れてしまっていた。それはおそらく、この木の板の模様に似ている——望んでそうなったわけではないが、ひび割れ傷ついてしまった。とにかく、私は絶望し、無力さを感じた。


 橋の両側には二つの大きな影がそびえ立っていた。一方は牛のような鋭い角を持ち、もう一方は異様に長い首をしている。どちらの影が話しかけたのか分からなかったが、こう言った。「白雅萍(ボーヤーピーン)……だな? まずはあちらの店へ行き、飲み終えてから戻ってこい。」そして、続けた。「何かを探しているのなら、ここではどうにもならない。あちらへ行けば、何か手がかりがあるかもしれん。」厳かで寒気を催すような声だったが、口調からすると、二つの影が交互に話していたのかもしれない。


 私は身を起こした。一歩動くたびに、心の奥底から込み上げる抵抗を感じる。この場所では、一度刑を受けることが決まれば、それは人間の時間で千年、あるいはそれ以上にも及ぶと聞いたことがある。だが、もしかすると私はただ先に到着しただけで、少し待てば彼女もすぐにここへ来るかもしれない。


 だが……彼女が罪人だろうか? 彼女が何をしたというのか? 罰を受けるほどの罪を犯したのか?


 私は、遠くにぼんやりと見える家のような影へ向かって歩き出した。途中、廃墟(はいきょ)の中を通る。崩れた木材や歪んだ鉄片が乱雑に散らばっている。この永遠の地にも、記憶が眠ることがあるのかと、意外に思った。


 ほどなくして、その建物の影がはっきりと姿を現す。それは二階建ての広々としたアーケードだった。周囲にはほかの建物がなく、その異様な雰囲気が心に直接響くようだった。だが、近づくにつれ、歌声、笑い声、グラスが触れ合うかすかな音が耳に届く。その建物の中から、久しく感じることのなかった「人の気配」が溢れていた。


 アーケードの入口には、冥府(めいふ)にありがちな陰鬱な様式ではなく、雑多な部品から形作られた独特の雰囲気が漂っていた。しかし、どこかちぐはぐで、妙な趣味の悪さを感じずにはいられない。派手すぎる色の雨よけ、入口に無造作に並べられた廃棄されたスクーター、そして色褪せた看板には、庶民的なフォントでこう書かれていた——「奈何橋前タピオカミルクティー専門店」。


 一体、どんな考えがあって、こんな店を作ろうと思ったのだろう?


 扉を押して中へ入ると、巨大なレトロなシーリングファンがゆっくりと回転し、店内の光を三等分に分けていた。深紅の大きなタイルの上には、木製の四人掛けのテーブルが並び、そこには数えきれないほどの鬼魂たちが座っていた。彼らは談笑し、まるでこの場所の陰鬱さを忘れているかのようだった。


 奥の方を見ると、二体の鬼魂が肩を組み、音楽に合わせて揺れている。口からは、楽しそうなのか、それとも悲しみに満ちているのか分からない歌声が漏れていた。その音楽の源は、巨大なジュークボックスだった。


 昔、両親が話していたことがあったが、実物を目にするのはこれが初めてだった。

 

 扉を押し開けると、鈴が小さく鳴り、カウンターの向こうにいた影がこちらを覗き込んだ。


 彼女は長い白髪を持ち、それを整えようとした形跡はあるものの、ところどころに跳ねた毛先が目立っていた。


 鋭い眼差しで私を一瞬で見透かしたかと思うと、開いた口からは意外にも、豪快さと優しさが入り混じった、まるで馴染みのある店の女将のような声が響いた。


 「いらっしゃい!席は全部埋まってるから、カウンターに座りな!」


 戸惑いながらも、私はカウンターに腰を下ろした。女将は素早くメニューを目の前に置きながら言う。


 「ここにはいろんな飲み物があるよ! 好きなものを遠慮せずに頼みな!あ、タピオカミルクティーが飲みたいなら直接言ってくれてもいいよ。うちの特製タピオカミルクティーを飲み終わったら、そのまま橋を渡れるんだから……なんたって私は(もう)……。」


 そこまで言ったところで、女将は突然言葉を詰まらせた。


 「孟……?」私は問いかけた。


 「孟……」


 言いかけたところで、店の奥から鬼の一人が大声で叫んだ。


 「孟婆(もうば)だろ! 女将さん、もう認めちまいな!」


 すると、店内は大爆笑に包まれ、その賑やかさがさらに増した。


 それまで聡明(そうめい)で上品だった女将は、眉をぎゅっとひそめ、その鬼たちの方へ向かって怒鳴(どな)った。


 「お前ら、ふざけんなよ! 『婆』って誰のことだ!? あたしを見てみろ!どこが婆なんだよ、えぇ?」


 そう言いながら、手に持ったグラスを拭き終えると、再びこちらに向き直り、先ほどの温和な口調に戻った。


 「この店な、少し不気味に感じるかもしれないけど、ここじゃみんな、転生する前にしがみついて『望郷台(ぼうきょうたい)』からなかなか離れないんだよ。だから、私は思い切って望郷台をぶっ壊して、その代わりにここを建てたのさ。鬼魂たちが転生する前に、ちょっと飲み物でも飲んで休めるようにな。あの台の上で泣き喚くより、こっちのほうがずっとマシだろ?」


 それなら、なぜタピオカミルクティーを売るんだ?それに、なぜ店をまるで昔の紅茶屋みたいにする必要があるんだ?


 そんな疑問が次々と湧いてきたが、聞き出したらキリがない気がして、結局、飲み込んだ。


 目の前のメニューを見つめる。載っている飲み物のほとんどは、誰かが生前に持っていた断片(だんぺん)的な記憶だった。さらにページをめくると、極楽(ごくらく)へ向かう者たちの記憶が並んでいる。そして、最後のページには……タピオカミルクティーの図示。ただし、それは全ページを埋め尽くすほど大きな黒いシルエットの上に、巨大な疑問符がひとつ。


 「すみません、お支払いはどうすれば?」


 ここでは経済の仕組みなんて機能していないはずだ。でも、店にいる以上、つい尋ねてしまった。


 孟婆は怪訝(けげん)そうな顔をしながら、私の右手を指さした。


 「クレジットカード、手に持ってるじゃないか?」


 思わず手のひらを開くと——本当にそこにあった。驚きのあまり、体が一瞬震える。


 孟婆はクスクスと笑いながら言った。


 「どうやら、まったく使ったことがないみたいだね。まあ、そりゃそうか。この世界には消費する場所なんてほとんどないしね。ここでは、すべての魂にクレジットカードが支給されるんだよ。何かを買いたいという欲望が生まれた瞬間、カードが現れるのさ。それに、生前の家族が焼いてくれた紙銭(かみぜに)は、このカードに自動的にチャージされる。もちろん、生前(せいぜん)善行(ぜんこう)を積んでいれば、その福報(ふくほう)が利息として還元されるってわけ。」


 冥界にもこんな貿易システムがあるなんて、到底信じがたい。もしお金がなかったら、タピオカミルクティーも買えない のだろうか?


 その結末を考えるのが怖くなり、とりあえず目についた「食の喜び」というドリンクを頼んでみた。


 しばらくすると、一杯の淡い青色の飲み物が目の前に置かれた。透き通った液面が、私の顔を映し出している。ひと口飲んでみると——ミルクティーの味がした。


 その瞬間、何十年も前の青く幼い記憶が(よみがえ)る。波打つ飲み物の光の中に、晴れ渡る温かな空が見えた。


 それは、高校時代の記憶に、永遠に封じ込められたままの風景だった。

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