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七滴め『蜜柑の味』

 サン・ベリコを離れる日、ルカとの最後の会話は、驚くほどあっけなく終わった。


 あの瞬間に言いたかったことが、今でも胸の奥でくすぶっている──



 ◇



 リラが新たに構えたカフェは、柔らかな香りと暖かな光に包まれていた。


 店の入り口には、『Tales of Grapes and Oranges』と書かれたカフェの看板が飾られている。

 そのデザインは、リラの実家の葡萄園のロゴと、サン・ベリコでの時間を象徴する蜜柑のイラストを組み合わせたもので、自分自身で選び抜いた特別なものだった。


 昼下がりの店内は、窓からの陽射しが穏やかに差し込み、柔らかな明るさがテーブルを照らしている。

 カフェの人気メニュー『蜜柑ワインのスパークリング』は、その日特別な一杯として、多くの客たちを引き寄せていた。


「蜜柑ワイン、好評ですね」


 スタッフが、トレーを手にしてリラに声をかける。


「そうね」


 リラは笑顔で答え、客たちが楽しげに談笑するテーブルへと視線を向ける。


 スパークリングワインの爽やかな泡が弾ける音。

 蜜柑の香りが立ち上る黄金色の液体。

 それを飲むたび、彼らはサン・ベリコの豊かな味わいに触れている。


 ……あの日々がなければ、きっと今の自分はいない。


 リラは笑い声が響く店内を見渡しながら、静かに微笑む。

 それは、サン・ベリコで得たものが、ただの思い出ではなく、今の自分を形作る大切な一部だと気づいたから。


 ふと、店内の一角に飾られた小さなスケッチに目を向ける。


 ルカが描いた、川沿いの絵。


 そのスケッチを選んで店内に飾ったのは、誰にも告げずにリラが決めたことだった。

 これを見れば、どんな日も自分に戻れる。


 ふと、スタッフが注文票を持って再びリラに近づいてきた。


「追加のご注文を確認して参ります」

「ええ、お願い」


 リラはカウンターの奥にある手帳を手に取った。


 ページを開くと、そこには蜜柑農園や葡萄畑のスケッチと共に、ルカとの何気ない会話の断片がいくつか走り書きされている。


 《それは君の中にちゃんとあるものだ》


 その言葉が、ノートの隅に黒インクで書き込まれている。


 リラはその文字を見つめると、ふっと小さく笑った。


 ◇


 その日の午後、リラは応接室で大事な打ち合わせを控えていた。

 父がセッティングしてくれた新しいワインについての取引先との面談があるのだ。


「リラ様、お客様が到着されました」


 カタリーナが控えめに告げると、リラは資料を整理しながら軽く頷いた。


「すぐにお通しして」



 応接室の扉が静かに開き、入ってきた人物の姿を見た瞬間、リラは固まった。


「──……ルカ?」


 そこに立っていたのは、あのカリオラで別れた青年だった。


 彼の髪は少し伸び、日焼けした肌は以前と変わらない柔らかさを保っている。


 ルカもリラを見て驚いたように一瞬目を見開いたが、次いで明るい笑顔を見せた。


「久しぶりだな、リラ」


 彼の手には小さな木箱があり、中にはいくつかのワインボトルが並んでいた。

 リラの視線が自然とその箱に向かうと、ルカはそのうちの一本を取り出して言った。


「これ、覚えてる?」

「……そのラベル」


 リラはワインのラベルに描かれた絵に気づいた瞬間、胸が詰まるような感覚を覚えた。

 そこに描かれていたのは、カリオラの村の象徴ともいえる蜜柑畑の風景だった。


「そう、サン・ベリコの丘から見える景色だ」


 ルカは微笑みながら、ラベルに指先を滑らせる。


「リラと一緒にあの畑を歩いた時に、アイデアをもらった」


 リラは言葉を失い、箱の中のワインをじっと見つめた。

 ルカの言葉を聞くたびに、サン・ベリコで過ごした日々が鮮やかに蘇ってくる。


「リラが言ってくれたことが、俺の背中を押したんだ。……蜜柑のワインを、ただの村の飲み物で終わらせたくないって思った。リラが教えてくれたことを形にしたくて、ここに持ってきたんだ」


 ルカは一度言葉を区切り、木箱に視線を落としながら、少しだけ照れたように笑った。


「村の人たちは、ずっと変わらない暮らしを続けていた。それはそれで素敵だけど、都会の人たちにもこの味を知ってもらえたら、もっと村が元気になるんじゃないかって。それで、生産者たちを説得して、一緒にやることにした」

「あなたが村の人たちを説得したの……?」

「そう。簡単じゃなかったけど。俺が必死になって、みんなの話を聞いて、それから未来の話をした。リラが言ってくれたみたいにさ──『都会の人たちにはこういう素朴で温かいものが必要だ』って。それを俺の言葉で伝えたんだ」


 リラの胸に、温かな感情が広がる。


「……じゃあ、これは村のみんなの思いが詰まったワインなのね」

「そうだ。俺たちの村の味を都会に広げるための第一歩だ。でも、そのきっかけをくれたのは君だよ、リラ」


 ルカの真っ直ぐな瞳に見つめられ、リラは息を飲む。


「あの村でリラが言ってくれた言葉を思い出すたびに俺も負けてられないって思ったんだ」


 リラの視線は再び木箱の中に戻り、並べられたワインボトルを見つめた。

 どのボトルにも、村の人々の思いや、ルカの熱意が込められているように感じられる。


「……わかったわ。取引の話は父とも相談するけど、私は個人的に、このワインを支持する」


 リラは小さく微笑みながら、そう告げた。


「本当に、すごいわね……あなた」


 その言葉には、感心と尊敬の念が込められていた。


 ルカは少し照れたように肩をすくめながら、軽い笑みを浮かべた。


「いや、それを言うならリラの方がすごいだろ? こんな立派なカフェを経営するなんてさ。本当にすごい。かっこいい。心から尊敬する」


 その瞬間、リラの心は不思議な暖かさで満たされていた。


 目の前にいるルカは、あの村で別れた時と同じ笑顔を浮かべている。


 けれど、そこには揺るぎない意志と、彼なりの未来への覚悟が見え隠れしている。


「それに、リラは俺を変えてくれた」



 ◇



 ルカと一通りの話を終えた後も、二人は応接室で雑談を続けていた。


 取引先との打ち合わせという形式は保たれつつも、話題は次第にくだけたものへと移り変わり、カリオラでの出来事や、ルカが手掛けた新しいプロジェクトの話などが飛び交った。


 陽が傾く頃には、リラはすっかり時間を忘れていた。


「せっかくだし……夜風でも浴びながら続きを話さない?」


 ルカが窓の外を見て、そんな提案を口にした。


「いいわね。外なら少しリラックスできるかも」


 リラは微笑みながら頷いた。



 二人はカフェのテラスへと場所を移した。


 夜の帳がゆっくりと降りる中、テラスは柔らかなランプの光に包まれている。

 テーブルの上には、リラのカフェの人気メニューである蜜柑ワインのグラスが二つ置かれていた。


「あなたは……いつまでソレイオにいるの?」


 リラの問いは、できるだけ自然に聞こえるよう努めたつもりだった。

 ……だけど、失敗した──内心の不安さが表れた声色だった。


 ルカはテーブルの上で指を組みながら、一瞬視線を夜空に向けた。


「さあ? 正直、まだ決めてないんだ」

「……そう」


 リラは、それ以上何も言葉を足さなかった。

 聞きたいことはあったけど、それを聞くのが怖かった。


「でも──」


 ルカがふと視線を戻し、リラを見つめた。


「──リラがいるなら、ここにいたいって思う」


 リラはその言葉に、思わず顔を上げた。


 ルカの瞳が、まっすぐにリラを見つめている。

 その中に宿る揺るぎない想いと優しさが、静かに胸に届いた。


「どう、して……?」


 リラは、自分の声が震えているのがわかった。それを隠すことはできない。


「どうして、そんなふうに……私のことを考えてくれるの?」


 ルカは照れくさそうに小さく笑った。


「リラが……忘れられなくて」


 ルカの言葉が、サン・ベリコで過ごした日々の記憶を鮮やかに呼び覚ます。


 緑の風に揺れる蜜柑の木々、笑い声、穏やかな夕暮れ。


 彼の隣で歩いたあの時間が、生き生きと蘇る。


 王都に戻ってからというもの、その全てが恋しかった。

 華やかで忙しない日々の中で、ふと蘇るあの風景が、胸を締めつけた。


 後悔は、しても、しても、し足りないくらいした。

 そして、ルカに会いたくて、会いたくて、堪らなかった。


「忘れられなくて……?」

「……うん」


 ルカは静かに息を吐くと、少しだけ目を伏せた。


「リラがいないと、何かが足りない気がしてたんだ。君の言葉や笑顔、君の考え方……全部が、俺の中にずっと残ってた。それに気づいてから、ただ待つだけじゃいられなくなった」


 リラは息を呑んだ。


 彼の眼差しには、何一つ偽りがない。

 ただまっすぐに、リラ自身を見つめている。


「……だったら」


 リラはそっとテーブルの上に手を置いた。

 その指先がかすかに震えているのを、抑えることはできなかった。


「だったら、あなたはどうするの?」


 ルカはリラの動きに目をやり、それからゆっくりと手を伸ばした。

 指先が触れそうで触れない距離で、彼は一瞬だけためらう。


 けれど、次の瞬間、そっとリラの指先に触れた。


「リラの、そばにいたい」


 その言葉は穏やかでありながら、揺るぎない力を持っていた。

 これまでリラが抱えてきた不安や孤独を、一つ一つ包み込むような優しさに満ちている。


 リラは目を伏せたまま、小さく頷いた。


 そして、静かに顔を上げると、彼の瞳を見つめた。


「あ、あなたが……ここにいてくれるなら、わ、私は……」


 リラの声はそこで途切れた──素直になるのは難しい。そして、怖い。


 けれど、ルカにはその続きが必要なかった。


 漂う蜜柑の香りと夜風が二人を包み込む中、ルカはそっとリラの手を取り、少し引き寄せた。


「じゃあ、俺はここにいる」


 その言葉に、リラの緊張がふっと解けた。


 気づけば、頬に一筋の涙が流れていた。

 それは悲しみではなく、心が軽くなるような涙だった。


 リラは手の甲で涙を拭った。


 かつて誰かに『道具』のように扱われた自分を、こんなふうに受け入れてくれる人がいるなんて。

 ……今、自分の手を握るルカの指先には、ただ温かさがある。それが何よりも嬉しい。


 ルカはリラの手をぎゅっと握りしめると、隣に腰を下ろした。


 そして、少し照れたように呟く。


「リラがいるなら、ここが俺の居場所だって思える」


 二人は言葉を交わすことなく、蜜柑の香りが漂う夜風の中で顔を寄せ合った。


 唇が触れるその瞬間、ランプの光がふわりと揺れる。


「……リラ?」

「なあに?」

「君、蜜柑の味がする」


 ルカがぽつりと呟いたその瞬間、リラは吹き出してしまった。


 笑い声が静かな夜に響き、二人の間に漂っていた微妙な緊張がすっと消えていく。


「ふふっ、当たり前よ。だって、うちの看板メニューだもの」

 リラはおかしそうに笑いながら言った。


 声には楽しさが滲み、ルカもつられて口元をほころばせる。


「ね、おかわりもらってもいい? そうだな、あと百回くらい」

「だーめ」

「ちえっ」

「……後でね」

「わかっているよー、って、え? 後で? え? ほんとに?」


 リラは赤くなった頬を隠すようにそっぽを向いた。


「……さ、さあ、どうかしら?」


 ルカは驚いた表情のまま一瞬固まったが、次の瞬間、笑い声を漏らした。


「えー、その言い方、ずる。期待しちゃうじゃーん」


 蜜柑の香りが漂う夜風の中、ふたりの笑い声が静かに夜空に溶けていった。

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