五滴め『旅の終わり』
リラは別荘の窓辺に立ちながら、カタリーナが淹れてくれた紅茶の湯気を眺めていた。朝の空気は澄み、少しひんやりとした冷たさが頬を撫でていく。
「リラ様、明日の列車でソレイオに戻るご予定ですが、大丈夫ですか?」
カタリーナの問いかけに、リラは頷く。
「ええ。戻らないといけないもの」
リラは紅茶の湯気をじっと見つめた。
言葉では『戻る』と告げているが、その奥底にはわずかな迷いが渦巻いていた。それをカタリーナに悟られないよう、そっと目を伏せる。
王都に戻れば待っているのは、父の跡を継ぐための責務。
そして、あの騒音と光に満ちた世界。
父も母も、自分を心から愛してくれている。
それはわかっているし、心から感謝している。
だが、家族の愛情に甘えて立ち止まれる年齢は、もうとっくに過ぎた。
リラは、父の後を継ぐ者として生きる覚悟を何度も自分に言い聞かせてきた。
エドゥアルドとの婚約破棄の痛みにも、周囲の噂話にも──そんなものに潰されるわけにはいかない。
紅茶を持つ手に、いつの間にか力が入っていた。
母の微笑みに甘える子どもではない。
父の期待に応えられる『大人』にならなければならない。
それが、これからの自分に課せられた役割だということは、痛いほど理解している。
──それでも、ここにいたいという気持ちは消えない。
……なくなってはくれない。
リラはそっと息をつく。
サン・ベリコの穏やかな日々は、リラにとって初めて『自分自身と向き合う』時間を与えてくれた気がしていた。
プレッシャーも義務もない場所で、ただ自分がここにいるだけで許される時間。
それがどれほど心を癒してくれたか、リラは痛いほどわかっている。
だけど、どちらかを選ばなければならないのなら、リラは王都を選ぶ。
それが大人であるということだから……。
いつか人の上に立つ存在として、父の跡を継ぐ者として、それを放棄することは許されない。
だからこそ、この村での時間が愛おしく、ここを離れたくないという気持ちもまた、本物だった。
紅茶のカップをそっとテーブルに置いたリラは、カタリーナに向けて小さく微笑んだ。
「少し散歩してくるわ」
リラはそう言って、村の中心へ向かった。
そこには、いつものようにルカがいた。
彼はカフェの前で誰かと楽しげに話し込んでいたが、リラの姿に気づくと自然と会話を切り上げ、手を挙げて近づいてきた。
「今日はどこに行くつもりだ?」
「最後の日だもの。どこかおすすめの場所に連れて行ってくれる?」
リラが言うと、ルカの動きが一瞬止まった。
「……最後の日?」
彼はほんの少し目を丸くし、リラの表情をじっと見つめた。
「明日、ソレイオに戻るの」
リラはできるだけ何でもないふうに言ったつもりだったが、失敗した──声には硬さが残った。
ルカは少しだけ視線を落とし、わずかに笑みを浮かべる。
「そっか……」
一拍置いてから、彼は顔を上げていつものように明るく言った。
「それなら、最高の場所を案内しないとな!」
リラは、彼のその切り替えの速さに驚いた。
だが、どこかその軽やかさに救われるような気持ちになり、小さく頷く。
「期待してるわ」
ルカは何も言わず、リラの横を歩き始めた。
「ところで、リラさ……」
歩き出してから数分後、不意にルカが口を開いた。
「最後の一日を俺に使うってことは、俺、結構大事な奴なんじゃない?」
おどけたような口調だったが、リラはルカの言葉に一瞬だけ足を止めた。
「……そ、そんなこと──」
否定しようとして、言葉を飲み込む。
ルカは振り返らず、前を向いたまま続けた。
「……なくてもいいけどさ。……なんか、今日はリラの顔が寂しそうに見えるんだよなー」
リラはルカの背中を見つめた。
彼の声はいつも通り軽やかだったが、その言葉には明らかな優しさが込められているのを感じた。
「……気のせいよ」
リラはそう答えたが、自分の声が少し震えていることに気づいていた。
「そっか、気のせいか」
ルカは振り返り、片手で頭を掻いた。
「じゃあ、まあ、気のせいってことにしておくよ。でも、ちょっとだけ真面目な話をするとさ」
「……何?」
「人が大事にしてる時間って、最後の瞬間ほど濃くなる気がするんだ。俺の絵もそうだ。完成が近いほど一筆一筆に力が入る」
彼の言葉が、リラの胸の奥に染み込んでいく。
「だからさ、リラがこの村で過ごす最後の時間も、特別な場所で締めくくるべきだと思う」
ルカはそう言うと、歩く速度を少しだけ緩めた。
「それで……どこに連れて行ってくれるの?」
リラは少し息を吐き出して、問いかけた。
「村外れにある古い教会だよ。まあ、何かすごいものがあるわけじゃないけど、俺にとっては特別な場所だ」
リラは彼の言葉に少し首を傾げたが、何も言わずに彼の後を追った。
教会は使われなくなって久しいらしく、外壁には蔦が絡みつき、小さな鐘楼には蜘蛛の巣がかかっていた。
しかし、その場所には静寂の中に古びた威厳が息づいていた。
「ここは、俺が子供の頃によく来てた場所だ。一人になりたいときとか、絵を描きたいときとか」
リラは小さな木製の扉を押し開けて中に入った。
埃っぽい空気の中、柔らかな光がステンドグラスを通して差し込み、床に色とりどりの影を作っている。
「どうしてここに来るの?」
リラが問うと、ルカは少し考え込んでから答えた。
「静かだからかな。誰にも邪魔されずに、自分と向き合える気がするんだよ」
リラはその言葉に何かを感じながら、そっと椅子に腰掛けた。
「私も、そういう場所が必要だったのかもしれない」
「……今は違うのか?」
リラは小さく首を振った。
「ここで過ごしていると、少しずつ変わっていく自分を感じるの。けれど……まだ完全に自由になれたわけじゃない」
「自由、ってどんな?」
ルカは少し首を傾げた。
リラは椅子の端を指でなぞりながら、言葉を探すように続けた。
「……自分がどうしたいのかを決める自由。ここでは少しずつそれが見えてきたけれど、王都に戻ったら、また見失いそうで怖いの」
ルカはしばらくリラをじっと見つめていたが、やがて口を開いた。
「見失っても、また見つければいいんじゃないか?」
その言葉はあまりにさらりとしていて、リラは一瞬だけ彼の顔を見つめた。
「随分と簡単に言うのね?」
少しだけ皮肉を込めたつもりで言ったが、ルカは気にする様子もなく笑った。
「うん、簡単に言ってる。でも、俺はそう思うよ。リラがここで少しでも自由を感じられたなら、それは君の中にちゃんとあるものだ」
リラは目を伏せ、ステンドグラスから差し込む光が床に作る模様を見つめた。
「そうかもしれないけど……王都では、そんな簡単にいかないのよ。あそこは、自由に動くよりも、周りの期待に応えないといけない場所だから……」
ルカはリラの横に腰掛け、天井を見上げた。
「期待に応えるってことは、それだけリラに期待してる人がいるってことだ。すごいことじゃないか」
リラは少し驚いたように顔を上げた。
「……そうね、期待に押し潰されてばかりだったけど、そう考えたことはなかったわ」
ルカは小さく頷いて、笑った。
「でも、期待に応えることと、自分を見失うことは違う。俺がここで絵を描くときも、そうなんだよ。誰かに見てもらうことを考えると楽しいけど、全部その人のために描き始めると、絵がうまくいかなくなる。だから、俺はまず、自分が描きたいものを描くようにしてる。それが結果的に誰かの期待に応えられたら、それでいいんだ」
リラは少しの間、ルカの言葉を反芻していた。そして、ふっと小さく息をついた。
「ルカ、あなたって……本当に面白いわね」
「んん~? どういう意味?」
「ただの気楽な人だと思ってたけど、時々すごく真面目なことを言うんだもの」
ルカは大げさに肩を上げ、にやりと笑った。
「そうそう。俺、普段は適当に見せておいて、大事なところだけ本気出すタイプなんだよなー」
「ふふっ、あははっ!」
その言葉に、リラは思わず笑ってしまった。
柔らかな笑い声が教会の中に響くと、ルカもそれに釣られたように笑う。
どこか軽やかで、それでいて深みのある沈黙が二人の間を包む。
リラはその時間の心地よさに、少しだけ自分の肩の力が抜けていくのを感じていた。
帰り道は、いつもの丘の上で夕陽を見ることにした。
橙色の光が村全体を包み込み、遠くに見える蜜柑畑が黄金色に輝いている。
ルカが草の上に座り込むと、リラもその隣に腰を下ろした。
「リラがここを離れるっていうのは、村にとってちょっとした事件だな」
ルカが冗談めかして言い、リラは「大げさね」と笑う。
「いや、本当だよ。リラがいなくなったら、この村の景色が少し変わる気がする──きっと、彩度が落ちる」
その言葉に、リラは一瞬戸惑ったように目を伏せた。
返事をしようと口を開いたが、何も言葉が出てこない。
代わりに、目の前の光景に静かに目を向けた。
この村での日々、ルカとの出会い、そして心の中に生まれた小さな変化。
それらが、自分にとってどれほど意味のあるものだったのかを、改めて噛みしめていた。
橙色の光が村全体を包み込み、遠くに見える蜜柑畑が黄金色に輝いている。
風が草原を揺らし、花の甘い香りが微かに漂ってきた。
リラは目を細めながら、どこまでも続くこの穏やかな景色を心に刻むように眺めた。
「……ルカ、あのね」
「ん?」
柔らかな声が耳に届くと、リラは胸の奥がぎゅっと掴まれたような感覚を覚えた
「……楽しかったわ」
ルカは一瞬だけ目を細め、それから静かに微笑んだ。
「俺も」
風が草原を揺らし、二人の間を通り抜けていった。
その沈黙は、言葉以上に多くを語っていた。
◇◇◇
翌日、リラは再びサン・ベリコ駅のプラットフォームに立っていた。
列車のベルが遠くで鳴り響く中、ルカはリラのバッグを軽々と持ち上げ、車両の入り口に置いた。
「最後の最後まで世話を焼いてくれるのね」
リラが笑いながら言うと、ルカも笑い返した。
「まあ、これくらいしかできないからな」
列車が出発を告げる汽笛を鳴らす。
リラはバッグを手に取りながら、最後に振り返った。
「また、どこかで……」
リラの声がほんの少しだけ震えた。
それに気づいたのか気づかなかったのか、ルカはいつものように軽く手を挙げる。
その姿を目に焼き付けるように見つめたリラは、一歩踏み出した足が少しだけ重たく感じた。
──本当に、これでいいの?
リラは足元に視線を落とし、自分に問いかける。
列車の車輪が軋む音が、その迷いに答えるように響いていた。
「……」
だが、列車が出発を告げる汽笛が迷いをかき消し、リラは列車に乗り込んだ。
窓から見えるルカの姿は、列車が動き出すと次第に小さくなり、やがて見えなくなった。
サン・ベリコの時間は、もう戻らない。
窓の外で過ぎ去っていく景色は、まるで手のひらの隙間からこぼれ落ちる砂のよう。
けれど、その柔らかな感触は、確かに胸の中に残っている。
「いつかまた」
リラは小さく呟いた。
窓越しに広がる風景が過去になっていくたび、その記憶の輪郭が少しずつ柔らかく、温かなものへと変わっていくのを感じていた。
サン・ベリコでの日々が、リラにとって新しい始まりを描く一筆となることを、どこかで確信しながら──