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四滴め『オレンジ色の記憶』

 日差しの柔らかい午後、今日もリラはカフェでノートを広げていた。


 サン・ベリコの滞在もすでに十日を過ぎ、ノートはメモやスケッチ、思いついたアイデアで埋まりつつある。


「──今日は何を書いてるんだ?」


 聞こえた声に顔を上げると、木漏れ日を背にして立っているルカの姿が見えた。

 彼はどこかから取ってきたらしい蜜柑を片手に持ち、もう片方の手でスケッチブックを軽く振っている。


「ふふ、また来たの?」

「リラといると面白いからな! それに、ここにいるのは俺の方が先だし。そうだろ?」


 リラはその言葉に、また小さく笑った。

 そして、彼の調子の良さに慣れ始めている自分がいることに気づく。


「ちょっと散歩しようと思ってたんだ。暇なら付き合ってくれないか?」


 リラは、すぐに頷いた。


「いいわ。でも、案内するならちゃんとした場所に連れて行ってね?」

「もちろんだ!」


 ルカは自信満々に笑い、スケッチブックを脇に挟んで歩き出した。



 二人が向かったのは、小さな川沿いの草原だった。


 風に揺れる背の高い草が音を立て、遠くには青々とした山並みが広がっている。

 川の水は透き通っており、静かなせせらぎが耳をくすぐった。


 ルカはスケッチブックを開き、リラに向けて言う。


「リラがここに来たことを記念して、何か描こうと思うんだ」

「私を?」


 リラは驚いた顔をして彼を見た。


「いや、リラそのものじゃなくて……君をイメージした風景かな。たとえば、この川沿いの草原にいる女の子。少しだけ悲しげで、それでもどこか優しい雰囲気が漂う感じ、っていうか」


「……悲しげ?」

 リラはその言葉に目をすがめた。


「悪い意味じゃないよ?」


 ルカはさっそくペンを動かしながら続ける。


「ただ、リラが抱えてるものって、そういう静けさを持ってる気がしてさ。それが、この景色にぴったりだと思ったから」

「……そんなふうに見えるの?」


 ルカは顔を上げずに頷いた。


「見えるよ。けど、リラがそれをどう思ってるのかは別の話だ」


 ルカの視線はスケッチに向けられたままだったが、その横顔には、言葉にしない何かが浮かんでいるように見えた。

 リラはその表情に気づかないふりをして、川沿いの石に腰を下ろした。



 スケッチが完成するまでの間、二人はほとんど言葉を交わさなかった。


 けれど、その沈黙には不思議と温かさがあった。


 川のせせらぎが穏やかなリズムを奏で、風が草を揺らす音が耳に心地よく響く。

 リラはその音たちが、まるで遠いどこかからの優しい呼び声のように感じられた。

 ふと視線を横に向けると、ルカが真剣な表情でスケッチブックに向かっている。そのペンが紙を走る音さえも、風景の一部のように自然に溶け込んでいた。


 リラはその姿を見つめるうちに、自分の胸の奥が少しずつ緩んでいくのを感じた。


 ルカは何を描いているのだろう?

 どうして、ただ目の前の景色に集中している彼が、こんなにも安心感を与えてくれるのだろう?


 リラは川の水面に目を落とし、そこに映る自分の影をじっと見つめた。


 その影は揺れながらも、どこか穏やかだった。

 まるで今の自分を、そのまま受け入れてくれているような……そんな気がした。


「よし、できたー」


 ルカが最後の一筆を入れた後、スケッチブックをリラに差し出した。


 そこに描かれていたのは、川沿いの草原に立つ小さな影だった。


 川の流れは光を纏い、草原の揺れは風を映しているように見えた。その中央には、小さく佇む人影が描かれている。

 その姿は静かで穏やかだったが、肩越しにどこか遠くを見つめているようで、胸の奥に何かを秘めているように感じられた。


 リラはじっとその絵を見つめた後、ぽつりと呟く。


「……綺麗」


 一度言葉を止めて、また絵に目を戻す。


「これが、私のイメージなの?」


 ルカは小さく笑みを浮かべた。


「本物よりは少し格好良く描いたつもりだよ」


 リラはその軽口にくすっと笑った。


「やだ、もう……ふふ。はあ……。何だか、私の中の曇りが少しだけ晴れた気がするわ」


 リラは絵から目を離し、川面に揺れる光をじっと見つめた。

 いつの間にか胸の奥に絡みついていた何かが、そっとほどけていくのを感じた。


 それは、長い間忘れていた静けさのようだった。


「だったら良かった」


 ルカは一瞬だけ真剣な顔をして頷いた。

 その後、柔らかな笑顔を浮かべながら、ふと呟いた。


「景色に、誰かの心が宿る瞬間が好きなんだ」


 リラは何も言わず、その言葉を胸の中でそっと反芻した。



 夕焼けが空を染めるころ、二人は村へ戻った。


 帰り道、リラはふと足を止め、振り返って草原を見つめた。

 川のせせらぎと揺れる草の音は、今もそこにあったが、その光景はなぜか胸の奥にじわりと染み入るようだった。


「……私」


 リラは視線を草原に向けたまま、静かに言った。


「ここがこんなに心に響く場所だなんて……思ってもみなかった」

「うん」


 ルカは一瞬だけ足を止めた。


 その声に、何か探るような色が滲んでいる気がしたが、リラは深く追おうとはしなかった。

 彼は静かに歩き出し、その横顔が柔らかな夕陽の中に溶け込むように見えた。


 リラは胸の奥に、ほんの少し苦しさを抱えるような感覚を覚えた。

 それは、喜びとも悲しみともつかない、曖昧で捉えどころのない感情。

 どうしてこう感じるのか、自分でも説明できないまま、小さく息をつく。


 彼と過ごすこの時間が終わることを思うからだろうか……?


 この日の夕焼けの色も、川のせせらぎも、風に揺れる草の音も──それらすべてが、リラにとって忘れられない記憶となる。


 だけど、その美しさの中に潜む、ほんの微かな痛みが胸を締めつけていた。……この時間が永遠に続かないことを、心のどこかで知っていたから。


 胸の奥にひそかな痛みが走る。それでも、この瞬間の美しさは、きっとずっと色褪せることはないだろう。




 ◇◇◇




 ある日の午後、二人は小さな蜜柑農園を訪れていた。


 リラがサン・ベリコに滞在してから二週間ほどが経った。


 村の静かな空気と人々の温かさに少しずつ心が溶けていくのを感じる日々。


 訪れた蜜柑農園は村の中心部から少し外れた場所にあり、柔らかな日差しを受けて、枝々に鮮やかな実が揺れていた。


「ほら、これを味見してみてくれよ」


 ルカが木の上から一つ取った蜜柑をポケットナイフで切り分けて、リラに渡した。リラは少し躊躇しながら、その一切れを口に運ぶ。

 甘さと酸味が口の中に広がり、リラは思わず目を細める。


「本当に美味しい……。このままでも十分だけど、これを使ったデザートやソースも良さそうね」


 ルカは枝に手をかけながら笑った。


「だろ? ここの蜜柑は自慢なんだ。……王都には持って行けないけどな」

「どうして?」


 リラが問いかけると、ルカは片方の肩を引き上げて自嘲気味に笑った。


「輸送費だの保存だの、いろいろ問題があるんだよ。それに、都会の人間にはこんな素朴な味じゃ物足りないだろ?」

「そんなことないと思うわ」


 リラはきっぱりと答えた。


「素朴で温かいものが、都会にこそ必要だもの!」


 ルカはその言葉に驚いたように一瞬目を見開き、それからにっこりと笑った。


「リラは意外と熱いんだな。……そんな顔をするとは思わなかった」

「私だって、ちゃんと考えることくらいあるわよ」

「もちろんさ。ただ、君がそういう表情をするのが……ちょっと嬉しいだけだ」


「……」

 リラは返事をしなかった。


 言葉の意味を深く考えるのが怖かったのかもしれない。

 けれど、彼の無邪気な笑顔にどこか救われるような気がしたのも事実だった。



 農園を出た後、二人は広場の小さな屋台でジュースを買った。


 リラは手にしたグラスを見つめながら、ぽつりと言った。


「……あなたは、他の場所でも通用するんじゃないかと思う」


 ルカはしばらく黙っていたが、グラスの底を見つめながら言う。


「そうかもな。……でも、今はここが好きなんだ。この村は何も変わらないように見えて、実は少しずつ変わっていく。そういうところを見守るのが楽しいんだよ」


 ルカの視線が、どこか彼方を見つめているように感じた。


「大きな変化じゃないけどな。新しい蜜柑の品種を試したり、屋台のメニューが変わったり。それに気づけるのが楽しいんだ。大きな都会じゃ、こういう小さな変化は誰も気にしないだろう?」


 リラは彼の言葉に耳を傾けながら、自分がこれまで失ってきたものを思い出していた。


 ジュースのグラスを握りしめながら、遠くを見つめる。


 ──ソレイオでは、何もかもが早く、効率よく、形ばかりの華やかさが求められていた。

 隙間なく埋められたスケジュールの中で、自分が何を感じ、何を望んでいるのかを考える余地はなかったように思う。


 けれど、この村ではどうだろう?


 ただ蜜柑を食べ、ジュースを飲み、夕陽を眺める。

 そんな時間にこそ、失っていた自分の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていくようだった。


「ここは見晴らしがいいから、夕陽を見たいときに来るんだ」

 ルカが草原に腰を下ろしながら言った。


 リラは隣に腰を下ろし、夕陽に染まる村を見下ろした。


 石畳の小道や瓦屋根の家々が柔らかな光に包まれている。

 その向こうには山の稜線が続き、どこまでも穏やかな景色が広がっていた。


「都会にはこんな景色はないだろう?」

「ないわ。でも、都会には都会の良さがある」

「たとえば?」


 リラは少し考え込んだが、答える前に小さく笑った。


「……ごめんなさい。今は、思いつかないわ」


 ルカは声を上げて笑った。


「はは! それだけここが気に入ったってことだな!」

「ふふ。そうかもしれない。でも、この景色を全部持ち帰ることはできない……」

「そうだなー」


 ルカは夕陽を見つめながら言った。


「だけど、持ち帰れるものもあるだろう?」

「なあに?」


「思い出」

 ルカはさらりと言った。


「あとは君自身が、ここで得たものをどう使うかだな」


 その言葉に、リラはしばらく黙っていた。


 自分がここで何を得たのか、それをどう未来に繋げるのか──答えはまだ見つからない。


 夕陽が空を茜色に染める中、リラはルカの言葉に耳を傾けながら、自分がここで何を得たのかを静かに考えていた。


 都会に戻れば、またあの喧騒の中に身を置くことになる。


 この村で過ごした時間は、きっと二度と同じ形では手に入らない。

 でも、この時間が永遠でないからこそ、美しいのだという気もした。


 リラはまだ、自分がここで得たものをどう未来に繋げるのか、その答えを見つけることはできなかった。


 ただ、隣に座るルカの言葉と、オレンジ色の中に広がる景色が、自分をそっと支えてくれているように感じていた。

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― 新着の感想 ―
ここ温かい所なんですね。蜜柑が出来るんだもんなぁ…まだ紅葉してませんものね。 その昔イギリス人が温室で栽培してでも食べたかった蜜柑!!木になってる姿は本当に太陽の果実って感じですもんね…!
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