三滴め『巡りゆく名前』
リラは村の中心にある小さな雑貨屋を訪れていた。
ガラスのショーケースには、素焼きの皿や陶器のカップ、小さな壺が並んでいた。
どれも手作りで、形の微妙なばらつきや筆の跡が残っているところが温かみを感じさせる。
それは、王都・ソレイオの完璧で洗練された品物にはない、職人の手のぬくもりだった。
その中でもひときわ目を引いたのは、蜜柑の絵が描かれた小さなカップだ。
明るいオレンジと緑の葉が描かれたそのデザインは、この村の陽光をそのまま映し出しているように思えた。
手に取ると、釉薬をかけた滑らかな陶器の感触が指先に伝わる。少し冷たいが、手に馴染む心地よさがあった。
カップの底には、小さく『Luca』という文字が刻まれていた。……職人のサインだろうか?
思わず微笑みながらそのサインを指でなぞっていると、不意に背後から声がした。
「いいカップだよなー」
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、昨日バルで踊ったあの青年だった。
「……またあなたなの?」
「驚いたのは俺の方だよ! まさかこんなところでまた会うなんて」
彼は、にやりと笑う。
「君、そのカップのセンス、なかなかいいな。俺も家で使ってるんだ」
リラはその言葉に少し眉をひそめる。
「そう? 確かに、素敵ね。でも……」
「……でも?」
カップを棚に戻しながら慎重に言葉を選ぶ。
「まるで自分が作ったみたいな言い方だわ」
彼は目を丸くしてから、吹きだした。
「ははっ! どうだろうなあ。それについては……うん。また今度話すよ。……じゃあ」
彼は片手で軽く挨拶をすると、扉の前で一瞬足を止めた。
扉を押し開けながら、ちらりと振り返る。
「またそのうち、な」
少し気取った仕草にリラは呆れつつも、曖昧な答えにそれ以上追及する気にはなれなかった。
ベルが軽く鳴る音とともに、扉が静かに閉まる。
店内に戻った静けさに、リラはバッグからノートを取り出し、ふと浮かんだことをメモした。
店内には他にも地元の陶器や雑貨が並んでいる。
同じ蜜柑柄の小皿や壺が目に留まり、その鮮やかな色使いに足を止めた。王都の洗練されたデザインにはない温かさがあった。
リラは小さく息をつき、店を出た。
外に出ると、村の明るい日差しが石畳を照らしていた。
リラは頭の中で雑貨屋での気づきを思い返しながら、ノートに走り書きをする。
蜜柑の絵が描かれたカップや雑貨の色使い。
それらが、葡萄の商品展開にどんなヒントを与えるだろうか?
ジュースやワインだけではない。たとえばビネガー、レーズン、ピクルス、ゼリー……あるいは保存が効く加工品なら──
考えながらノートに書き足しているうちに、ふと図書館の存在を思い出した。
「文献を少し調べてみるのもいいかもしれないわね」
リラはノートを閉じ、村の中心部にある図書館を目指して歩き始めた。
◇
村の図書館は、こぢんまりとしているが、どこか和やかさがにじむ静かな場所だった。
入口から漂う木の香りに包まれながら、リラは中に足を踏み入れる。
壁一面に広がる本棚には、農業や村の歴史に関する本が多く並んでいる。
目を引いたのは、蜜柑の栽培や加工について書かれた本のコーナーだった。
リラは一冊を手に取り、奥まった机に腰掛ける。
ページをめくるたび、保存技術や加工品の記述に目が留まった。
「こういう保存方法なら、葡萄でも応用できるかもしれない……」
小さく呟きながら、リラは本の端に付箋を挟み、ノートに加工法やアイデアを次々と書き留めていく。
ペン先が走るたび、自分の頭の中が整理され、少しずつ新しい可能性が見えてくるようだった。
「──またメモしてるのか?」
驚いて顔を上げると、そこにはあの青年が立っていた。
「あなたは、どこにでも現れるのね」
「君こそ、昨日に続いて仕事熱心だなあ」
彼は軽い笑みを浮かべるだけで、リラの冷ややかな視線をものともしていない様子だった。
「ここ、俺のお気に入りなんだよ。静かで、集中できるから」
「本を読むの?」
リラが何気なく尋ねると、彼は悪戯っぽく笑んだ。
「それもあるけど、まあ、いろいろ。……君もそうだろ?」
彼の答え方には曖昧さがあったが、それ以上問い詰める気にもなれなかった。
リラは軽くため息をつき、本に目を戻す。
「そういうことなら、邪魔しないでくれるかしら」
「はいはい、わかったよー」
彼は降参のポーズを見せると、その場から立ち去ろうとした。
だが扉の近くで足を止め、こちらに振り返る。
「そうだ、さっきのカップだけど、買わなかったのか?」
突然の言葉に、リラは一瞬混乱した。
「え?」
「いや、何でもない。……それじゃあ、またな」
軽く手を挙げ、彼は扉を開けて図書館を後にした。
リラは呆然とその背中を見送りながら、手元のノートに視線を戻した。
しかし、文字に集中しようとしても、さっきの会話が頭をよぎる。
彼は一体どういう人物なのだろう? 偶然なのか、それとも……。
考えても答えは出ず、リラは無意識に髪を指で弄りながら本のページを再びめくり始めた。
◇
図書館を出た後、リラは広場にある市場へ向かった。
道に漂う甘い蜜柑の香りが鼻をくすぐる。
広場には地元のお菓子や果物、手作りの雑貨が並び、商人たちの活気ある声が飛び交っていた。
リラは人混みを抜けながら、毛糸編みの人形や陶器の置物を眺めた。派手さはないが、どれも丁寧に作られていることが伝わる品々だ。
その中でも、蜜柑柄の瓶が目に留まり、思わず手を伸ばした。
そのとき──
「ねえ、本当は俺を追いかけてるんじゃないの?」
背後から聞き慣れた声が耳に届き、リラは驚いて振り返った。
そこには、またしても彼が立っていた。まるで、自分が来るのを待ち構えていたかのような表情で。
「どうしてあなたがここにいるの?」
リラは少し眉をひそめながら尋ねた。
「偶然だよ。……それとも運命かも?」
彼は片眉を上げ、いたずらっぽく笑う。
「……そういうのは信用しないわ」
リラは瓶に目を落とし、それをゆっくり戻す。
彼の軽い調子がどこか悔しいほど自然に聞こえ、それ以上追及する気を失わせたのだ。
「じゃあ、俺が君を追いかけてるってことにしとこうか?」
彼はそう言いながら近くの棚から適当な瓶を手に取り、ひょいと掲げてみせた。
「面倒だわ、そういう話」
リラが彼の冗談に軽く返し、その場を離れようとしたが、彼が軽く前に出て歩みを遮る。
「だったら、いっそのこと一緒に回らない? もう何度も会ってるし、ここは案内するよ。どう?」
彼の言葉には、どこか悪びれない自信があった。
「……まあ、時間を無駄にしないならいいわ」
リラは一瞬だけ考えたが、すぐに応じた。
どうせ、この村のことはほとんど知らない。
……それに悪くない、気がした。
彼はリラの答えを聞くと、目を輝かせて子供のように明るい笑みを浮かべた。
「いいところを教えるよ!」
彼の軽口に、リラはわずかに目を細めながらついていくことにした。
◇
市場を回り終えた後、二人は村外れの小道を歩いていた。
蜜柑の木々が両側に続き、その枝に実った鮮やかな果実が夕陽の光を浴びて輝いている。
風が吹くたび、葉がカサカサと心地よい音を立て、木漏れ日が地面の上で揺れていた。
「そういえば、名前を聞いてなかった」
ルカがポケットから蜜柑を取り出して皮を剥きながら、何気なく言った。
「名前?」
リラが軽く首を傾げると、ルカは頷いて蜜柑をひとかけら口に放り込んだ。
「ここまで何度も会ってるのに、まだお互い名前を知らないっていうのも変だろ? 俺はルカ、よろしくな!」
「リラよ」
リラが短く返すと、ルカはにっと笑みを浮かべた。
「リラか。いい名前だ! 花の名前だよな?」
ルカが蜜柑を半分に割って差し出してきた。
小さな果実の断面から、甘い香りがふわりと漂う。
リラはそれを受け取りながら、驚いた表情を浮かべた。
「……よく分かったわね?」
「植物を描くのが好きなんだ。スケッチするとき、花や木の名前を調べるからね。まあ、ちょっとした趣味だけど」
「ちょっとした趣味にしては詳しいわ」
リラがふっと笑うと、ルカは軽く頭をかいた。
「まあ、それなりに。……実は君が褒めてたカフェのロゴも、俺が手掛けたんだ」
「えっ?」
リラは驚いて顔を上げた。
昨日、目にしたカフェのロゴ。
その柔らかいデザインと珍しい構図が脳裏に蘇る。
「本当に? あれは、趣味の域を超えてるわよ。素晴らしいセンスだわ」
「ありがとう。たまに仕事にもなるけど、基本は趣味ってことで」
ルカは謙遜するように笑みを浮かべ、スケッチブックをちらりと見せた。
そこには蜜柑の木と村の広場が描かれており、その緻密さと柔らかさに、リラは思わず息を呑んだ。
「……なんて言うか……生命が宿っているみたい」
「そう言われると嬉しいな。でも、そんな大げさなもんじゃない」
ルカはスケッチブックを閉じ、空を見上げた。
オレンジ色に染まる空が、蜜柑の木々を静かに包み込んでいる。
「この蜜柑、昔からこの村じゃ『幸運を呼ぶ果物』って言われてるんだ。収穫した蜜柑を村の広場に集めてみんなで分け合う行事がある。子どもの頃、それが毎年の楽しみだったなあ」
ルカが懐かしそうに語る声に耳を傾けながら、リラはふと手の中の蜜柑を見つめた。
「幸運を呼ぶ果物……」
リラの小さな呟きは、風に溶けるように静かだった。
木々の葉がざわりと音を立て、二人の間を流れる静けさが、どこか心地いい。
「この村に来たのは、もしかしてそれを求めて?」
冗談めかして言ったルカの言葉に、リラはふっと笑みを漏らした。
「それはどうかしら。でも……少しだけ信じてみてもいいかもね」
ルカはそんなリラの言葉に小さく頷き、そっと蜜柑をもうひとかけら口に運んだ。
「──リラ」
少し間を置いて、ルカが名前を呼んだ。
その声が、柔らかく、静かにリラの胸に染み込む。
リラは足を止め、彼の顔を見上げた。
「ありがとう」
その言葉が口をついたのは、自分でも驚きだった。
そして、何に対しての感謝なのか、はっきりとわからない。
けれど──
エドゥアルドの冷たい声や、心を刺す棘のような記憶から解き放たれたのは、久しぶりだった。
蜜柑の甘い香り、笑い声、踊り、そして彼の軽やかさ。
それらが、重たく沈んでいた自分を少しだけ軽くしてくれた気がした。
そんな時間を与えてくれたルカに、ありがとうと言わずにはいられなかった。
ルカは少し驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの軽やかな笑顔を浮かべた。
「どういたしまして!」
その笑顔を見た瞬間、リラの胸の奥にこびりついていた暗い感情がふっと溶けていくのを感じた。
苦しめていた記憶が遠ざかり、代わりに小さな温もりが胸に灯るようで……。
それは、リラにとって久しぶりに味わう解放感だった。