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二滴め『偶然が紡ぐステップ』

 リラは同行してくれているカタリーナに勧められ、サン・ベリコ駅近くのカフェにやってきていた。

 石畳の通りに面したテラス席は陽光に照らされ、どこまでも穏やかだ。


 久しく感じていなかったこの空気に、ほんの少しだけ自分が解きほぐされるような気がする。


 木製のテーブルと椅子は少し古びているものの、風合いがあって居心地が良い。

 観光客らしい若いカップルが楽しげに話す声と、遠くで聞こえるアコーディオンの音色が、午後の空気に溶け込んでいる。


 メニューを広げてみると、すぐに目を引くのは『蜜柑』という単語。

 蜜柑ジュース、蜜柑タルト、蜜柑のコンフィチュール──すべて、この地域の特産品である蜜柑をふんだんに使ったメニューが並んでいる。


「……ここまで一つの素材に特化しているなんて面白いわね」

 リラはふと呟いた。


 この村には小さな蜜柑農園がいくつもあり、農家が共同で商品を開発しているらしいと聞いていた。

 飲み物からデザートまで、地域の特産品を軸にした品揃えは、王都・ソレイオのカフェには見られないスタイルだった。


 リラの家は地域の葡萄農園を管理し、その収穫をもとにワインとジュースの製造を中心に行ってきた。

 それだけでも十分な成果を出していたが、リラはずっと考えていた。新しい方向性を見出さなければ、いずれ時代に取り残されるのではないか、と。


 蜜柑を使ったタルトやコンフィチュールを見ながら、リラの頭の中で、葡萄の可能性が次々と形を変えていくのがわかった。


 蜜柑のように、葡萄にもまだ見ぬ顔があるのではないか──そんな考えが、少しずつリラの心の中に生まれ始める。

 それは、新しい何かを見つけたいという渇望と、仕事にすがることで心を落ち着けようとする自分自身の矛盾が混ざり合ったものだった。


 リラはバッグから小さなノートを取り出し、ペンを手に取った。

 表紙は使い込まれて角が少し擦り切れている。

 ノートを開き、何かを紡ぎ出すようにペン先を滑らせるたび、わずかに気持ちが落ち着く。


 《葡萄のコンフィチュール : 砂糖を使用せず、ヘルシーでフレッシュな──》


 持ってきたノートに、ペンがリズムよく走る音が響く。


 ここ数日の旅行中、リラは気を紛らわせるために仕事のことばかり考えているが、それが今は救いにもなっていた。


「そんなに真剣な顔して、何を書いてるんだ?」


 突然、聞き慣れない男の声がリラの思考を遮った。


 顔を上げると、目鼻立ちの整った顔が目に入った。

 無造作に整えられた髪は柔らかい光をまとい、日焼けした肌に散らばる小さなそばかすが、その顔にほんの少しの親しみやすさを添えている。

 いたずらっぽく口元に浮かぶ笑みと、太陽の光を受けてきらめく瞳。そのどちらも、少年の無邪気さを感じさせながらも、どこか大人の余裕を感じさせた。

 青年は、ラフなシャツを身にまとい、肩にはスケッチブックを抱えている。


「……仕事のことよ」

 リラはそっけなく答えた。


 彼は驚いたように眉を上げたが、すぐにまた笑みを浮かべた。


「真面目だな。休暇中なんだろ?」

「……どうして休暇中だと?」


 リラが少し警戒するように尋ねると、彼は少し眉を下げた。


「その服装、都会から来たって感じがする。洗練されていて、とても素敵だ」


 予想外の褒め言葉にリラは一瞬動きを止めた。

 自分の心が予想外の方向に揺れたのを感じながら、そっとノートを閉じる。


「ここ、座ってもいいかな?」


「……ええ」

 リラはため息をついて、軽く頷いた。


「どこから来たんだ?」


 彼は椅子に腰を下ろし、メニューをひょいと手に取って気軽に話しかけてきた。


「ソレイオよ」

「なるほど、王都のお嬢さんが田舎に休暇ね。それで仕事のことばっかり考えてるってわけだ」


 リラは彼の言葉に少しだけ笑ってしまった。

 皮肉たっぷりな調子だが、どこか親しみのある声だったからだ。


「それが落ち着くの。仕事のことを考えてる方が楽だわ」

「それはいい。仕事を愛してるってことだもんな」


 彼の言葉に、リラは曖昧に頷いた。……そう解釈してくれるなら、ありがたい。


「ところで、君が考えてるその《葡萄のコンフィチュール》ってやつ、どんな味になるんだ?」


 リラは驚いて彼を見た。


「……どうして、それを?」

 リラは、ノートを閉じ、手を少しきつく握りながら問う。


「いや、悪い。ちょっとだけ見えちゃったんだよ」


 青年は自分の胸を指差し、困ったように笑って答えた。


「そういうつもりじゃなかったけど、あまりに真剣な顔してるから気になってさ、ごめんね?」

「……ふふ。正直な人ね」

「で、その葡萄のコンフィチュールの話、聞かせてくれる?」

「……砂糖を使わないで作れないかしら、って」

「ええ? 砂糖なし? それって、甘いのか?」


 彼は信じられないと言いたげに首を傾げる。


「ふふ、糖度の高い葡萄を使えば、甘さは十分引き出せるわ」


 リラは少し微笑んで、説明するように言った。


「それなら身体にも良さそうだし、話題になりそうだな」

「そういうこと。甘ったるくないのに美味しいジャムが作れたら、ソレイオでも人気が出るかもしれないわね」

「王都で売り出すのか?」

「まだ決めてないの。ただ、こういう商品があれば市場が広がるんじゃないかと思って」

「それ、俺も食べてみたいな。どんな味か気になる」

「試作品を作ることになったら考えてあげる。でも、まずはあなたが食べる資格があるかどうかを判断しないとね」

「手厳しいなー、王都のお嬢さんは」


 彼がテーブルに肘をつきながら笑うのを見て、リラはふと目をメニューの表紙に移した。

 ロゴが目に入り、そのデザインが妙に印象的に思えたのだ。


「あら、このカフェのロゴ、素敵ね……」


 小さな蜜柑のイラストと、カリグラフィー調の文字が目を引くデザイン。洗練されているけれど、親しみやすくて、素直な空気を感じさせる。

 見ているだけで、ふわりと心が軽くなるような印象を受けた。カフェの雰囲気にも合っている。


「本当か?」


 青年が急に嬉しそうな顔をして尋ね返してきた。その変化があまりに突然だったので、リラは目を瞬いた。


「ええ、ロゴのイラストも文字も洗練されている。でも、それだけじゃなくて……」

「何?」

「どこか懐かしい感じがするの。ここを訪れる人たちの、優しさや温もりが伝わるような……そんな印象を受けたのよ」


 リラがそう言うと、青年はふっと笑った。


「なるほど……そう感じてくれたなら、このロゴもきっと報われたな」

「報われた?」

「あ、いや、俺がちょっと気に入ってるだけ。深い意味はないよ」


 彼は得意げな笑みを浮かべた。その表情はまるで、自分が密かに何かを達成したかのよう。

 リラは一瞬だけ首を傾げたが、深くは考えなかった。




 カフェの席で二人は、仕事の話や王都(ソレイオ)のこと、サン・ベリコの村の暮らしについて話し込んだ。


「──で、こうすれば上手くいく。どう?」

「それは、いいアイデアね。でも──」


 リラの言葉を遮るように、店員がわざとらしく咳払いをした。


「あっ、ごめんなさい! 長居しすぎね。すぐに出ます、お勘定をお願いします!」


 リラが慌てて立ち上がると、彼は悪びれた様子もなく笑った。


「まあ、俺との話が楽しすぎたんだから仕方ないよな」

「私との話が面白かったのよ?」

「……言うねえ」

「あなたこそ」

「はは! ねえ、どこかで、このディベートの続きをしないか?」

「受けて立つわ」


 それから二人は別のカフェに立ち寄り、また長居をしてしまった。


 そして、日が落ちる頃には、彼に誘われるまま村の広場にあるバルへ足を踏み入れていた。


 昼間の陽光に包まれたカフェとは違い、バルの中は蝋燭の灯りが揺れ、どこか神秘的な雰囲気が漂っている。

 低く響くざわめきや笑い声が絶えず、軽やかにグラスが触れ合う音が耳に心地よい。


 リラは店内をぐるりと見渡した。

 薄暗い中、磨かれたカウンターが蝋燭の灯りを柔らかく反射している。ざらりとした温かな空気が広がり、居心地がいい。


「これは?」


 リラの目を引いたのは、ピンクとオレンジがグラデーションになった、美しいボトルだった。指差した先を見て、彼が小さく笑う。


「それはこの店の名物だよ。蜜柑で作ったリキュール。試してみな」


 少年みたいな無邪気な微笑みと軽い口調に、リラは少しだけ肩の力が抜けた。

 彼の言葉に促されてボトルを見つめ直すと、その色彩が光を吸い込むようにキラキラと輝いている。


 グラスを受け取り、そっと口に含む。


 爽やかで甘い香りがふわっと広がり、あとから鼻を抜けるほろ苦さに自然と気持ちが軽くなり、思わず微笑みが浮かんだ。


「美味しい……でも、想像よりアルコールが強いわね」

「だろ? これ飲むとみんな陽気になるんだ」


 その一言に、リラはくすっと笑った。

 リキュールのせいか、体がじんわり温かくなってきて、胸に少しずつ軽さが広がっていく。


 ギターの音色が鳴り響き、手拍子が次第に店内を包み始めた。


 リズムに合わせて誰かが歌い出し、それにつられて人々が声を上げて笑い合う。


「ほら、踊るぞ!」


 彼が立ち上がり、リラの手を取った。


「ちょ、ちょっと待って!」


 思わず抵抗したものの、リラは否応なく立ち上がらされる形になった。

 彼の手は驚くほど温かく、しっかりとしている。


「ほら、リズムに乗ればいいんだ。難しく考えないで」

「も、もうっ!」


 彼が軽やかにステップを踏むのを見て、リラは仕方なくその動きを真似てみた。

 周りを見ると、自分たち以外にも多くの人が踊っていて、笑い声があふれている。その光景に、自然と緊張がほぐれていく。


「ちょっと上手くなってきた。……どう? 楽しいだろ?」


 彼がからかうように言うと、リラはつい、笑みを返した。


「そうね、楽しいわ!」


 踊りながら、いつの間にか体が軽くなっていくのを実感する。


 ぎこちなさが消え、音楽と周囲の熱気に自然と身を委ねていく。

 彼とステップを踏むたびに、胸の奥に張りついていた何かが少しずつ解けていく気がした。


 曲が終わると、店内は拍手と歓声に包まれた。


 リラは息を切らしながら立ち止まり、周りを見渡す。

 人々のほんのりと赤くなった頬に、まだ踊りの熱が残っている。彼も同じように息を整え、どこか満足げな表情を浮かべていた。


「さて、これで今日のハイライトも終了だな」


 彼が冗談めかして言うと、リラは息を整えながら、静かに笑った。

 踊りの熱気が体に残り、ぽかぽかとしている。

 店内には、余韻を楽しむざわめきが漂っていた。


 二人はそんな熱気を背に、バルの外へと足を踏み出した。


 夜風がそっと頬を撫で、リラは肩を震わす。

 昼間の明るさとは違う、ひんやりとした空気が清々しい。包み込まれていた音楽や笑い声の残り香が、静かに遠ざかっていくようだった。


「──……じゃあな、またどこかで」


 彼が軽く手を挙げて別れを告げた。


 リラは一瞬、何かを言おうとしたが、結局言葉にはせず、代わりに微笑みを返しただけだった。


「またどこかで、ね」


 その言葉は自然と口をついて出たが、夜の空気に溶けて消えていった。


 彼がその場に立ち尽くしている気配を背中に感じながら、リラは別荘への道を歩き始めた。頬を撫でる風が、ほてった肌を優しく冷ましていく。


 踊りのリズムと蜜柑リキュールの余韻が、まだ胸の中に残っている。それは、嫌な記憶を追い払ってくれるような気がした。


「またどこかで……ね」


 リラはもう一度、小さく呟いた。


 頭上の星々が瞬いている。

 その光が、リラの胸の奥にかすかな灯をともしているようだった。




 ◇◇◇




「リラ様、昨日はよく飲まれたみたいですね」


 翌朝、カタリーナがそう言いながら朝食のトレイを運んできた。

 窓の外から差し込む柔らかな朝の光が、頭を鈍く刺激してくる。


 リラは恥ずかしそうに顔を赤くしながら頭を抱えた。


「ちょっと調子に乗りすぎたかもしれないわ」

「いいえ、楽しんでいただけて何よりです。ただ、次回はほどほどになさってくださいね」


 その言葉に、リラは苦笑いしながら頷いた。


 頭の片隅に残っているのは、昨夜のリキュールの甘い香りと、彼──名前も知らない青年と踊ったときの笑い声。

 エドゥアルドの声は、そこにない。

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