一滴め『裏切りの記憶と新しい出発』
古びた鉄道の車両が、静かな嘆きを漏らすようにブレーキをかけた。
その音がプラットフォームを満たし、小さな駅のベルが呼応するように鳴り響く。
リラはバッグを手に、錆びついた時計の針のようにゆっくりと車両を降りた。
素朴な木造の駅舎が、午後の日差しを浴びて静かに佇んでいる。
風雨に晒され色褪せた木製の看板には『サン・ベリコ駅』の文字が彫られていた。
その彫り跡は時間の重みで少しずつ消えかけている。看板の手作りの温かさと、木々の影が、この土地の穏やかな歴史を物語っていた。
風に混ざるのは乾いた土の香りと、どこか遠くに隠れる海の気配。
そして、この土地を象徴する甘やかな匂い──蜜柑畑だ。
陽光を浴びてほんのり金色がかった小さな実がたわわに実り、風に乗った甘酸っぱい香りがリラの胸をほんの少しだけ揺らす。
どこか別の世界へ迷い込んだような景色だ。
陽光が肌を撫でる。
カリオラの空はどこまでも青く、雲はふわふわと漂う。
その光景は、一幅の絵のように静かで、自然が息づいていた。
──まるで絵に描いたみたい。
でも、その美しさも、リラの胸に張り付いた苦い感情を溶かすには足りない。
彼の声が心の奥底で蘇る。
「君は、絵に描いたような婚約者だな」
皮肉混じりの言葉が、再び棘となってリラの心を刺す。
あの日、リラがドアを開けると、そこにいたのは婚約者・エドゥアルドと彼の幼馴染のセシリアだった
──ソファの上で衣服が乱れたまま寄り添う二人。
その姿は、幼馴染以上の関係を何もかも雄弁に物語っていた。
リラの視線を捉えると、肩を抱かれていたセシリアは、わざとらしく小さくため息をついてみせた。
「……リラ、あらまあ! こんなところで会うなんて!」
気まずさを装うつもりもないのだろう。
その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。それは、申し訳なさではなく、明らかに優越感だった。
「セシリア……」
リラは言葉を失った。
だが、セシリアは気にした様子もなく、むしろ楽しげにその場の空気を支配していく。
「ねえ、エド? 私たちの関係、バレちゃったみたいよ」
友人と些細な秘密を共有するような軽い口調だった。
その目には謝罪も後悔もなく、ただ「面倒臭いけど、まあいいわ」とでも言いたげな諦めの色が滲んでいる。
そして、その瞳の奥には勝ち誇ったような光がちらついていた。
「どういうことですか……?」
声が震えたのは、驚きのせいだったのか、それとも怒りのせいだったのか、自分でもわからなかった。
エドゥアルドは、そんなリラを一瞥すると、平然とした声で答えた。
「見てわからないか?」
その言葉が意味することが、すぐには頭に入ってこない。
エドゥアルドの淡々とした声が、自分が知っているはずの現実をどんどん壊していくのがわかった。
「僕とセシリアのことなんて、君との結婚には関係ないだろう? むしろ、そういう問題で動揺する方が大人げない」
彼は一瞬の迷いもなく言った。
その声には感情の色すらなく、報告書でも読んでいるかのよう。
「そういうのって、ちょっと無神経じゃなぁい?」
セシリアが急に割って入り、エドゥアルドの肩に手を置き、リラのほうに挑発するように微笑みを向けた。
「リラなら大丈夫でしょ? 完璧なんだから」
その声色には、どこか小馬鹿にしたような響きが混ざっていた。
「……どういうことですか?」
リラは、エドゥアルドに対し、再び同じ問いを口にした。
「僕たちの婚約は、家同士の人間関係の上に成り立っているんだろう? 君と僕が結婚すれば、家族の絆はさらに強くなる。父たちが親友で、母同士も仲がいい」
エドゥアルドの言葉を聞きながらも、リラの視界はセシリアのわずかな仕草に引き寄せられていた。
彼女は何食わぬ顔で乱れた衣服を直しながら、指先でエドゥアルドの胸元にいたずらっぽく触れている。
あまりにも自然なその動作は、二人の長い親密さをこれ以上ないほどに表していた。
淡々と事実を並べたてるエドゥアルドの声には、迷いの欠片もない。
「そういう意味では、君は完璧な婚約者だ」
リラは何も言えなかった。
いや、違う。
言葉を絞り出そうとした瞬間、彼が最後の一言を投げるように言い放ったのだ。
「でも、可愛げがない」
セシリアが思わず吹き出した。
「やだぁ、エドったら正直すぎる! でもリラなら平気よね? そういうの、気にするタイプじゃないでしょう?」
セシリアは片方の肩を軽く引き上げて微笑んだ。その仕草は、明らかにリラへの挑発行為だった。
彼らの言葉のナイフは、リラの心を刺した。
何より、その一言を告げるエドゥアルドの顔に、迷いや悪意すらなかったことが、リラの胸を凍りつかせた。
その場を立ち去ったとき、自分が何を考えていたのか、今ではもう思い出せない。
ただ、彼の声とセシリアの笑い声だけが鮮明に脳裏にこびりついている──
足元の石畳が記憶の中で見たエドゥアルドの家のタイルと重なる気がして、リラは歩く足を一度止めて、深く息を吐き出した。
「可愛げがない、ね」
誰にも聞こえないように呟いたその声は、空気に吸い込まれるようにして消えた。
けれど、その残響だけが自分の耳にこびりついて離れない。
……もう、エドゥアルドの声に縛られるのはやめよう。
そう思ってはいる。
だが、その声と記憶は簡単に消えてくれそうもなかった。
緑が風に揺れる。
遠くから、アコーディオンの音色がかすかに漂ってきた。
それは、子どものころに聞いた父の友人の演奏を思い出させるような、懐かしくも優しい響き。その音が胸に渦巻く苦さをそっと撫でるようで、リラは思わず目を閉じた。
父が言っていた、「しばらく休め。カリオラの家を使え」──その一言に背中を押されるように、リラはここに来た。
そう、休むために来た。
だけど、この重さは、すぐには消えないとわかっている。
傷ついた心が癒えるまでには、時間がかかる。
もしかしたら、癒えないまま過ごすことになるのかもしれない。
──エドゥアルドとの婚約の解消は、ものの半日で済んだ。
父が正式に婚約破棄を告げたのは、昼下がりの応接室。
家の大きな窓から日差しが差し込む中、エドゥアルドの父は信じられないという顔をしていた。
いつも穏やかで、どこか柔らかな父の声が、石のように硬く冷たい響きに変わった。
「婚約を破棄する」
短い宣告が、応接室の空気を鋭く断ち切る。
リラの父の口調は揺るぎなかった。
「我が娘に対して、ご子息の振る舞いは到底許されるものではない。そして、これ以上、話すことはない」
──エドゥアルドの父が何を言ったかは、リラの耳には入っていない。リラが、途中で退室を促されたからだ。
後に、使用人のひとりが「旦那様の目がとても怖かった」と教えてくれた。
リラは、父が怒ったと聞いたとき、胸の奥が温かくなった。
婚約破棄が正式に告げられた翌日、エドゥアルドは慌てて手紙を送りつけてきた。
リラの部屋に届いたその封筒は、いつも彼が使っていた無地の白ではなく、急ぎ用の赤い封筒だった。
「これだけは緊急だ」と主張するような色だが、その鮮烈さがむしろ滑稽だった。
何が緊急なのだろう?
自分のメンツを守ることだろうか?
……封筒の色が、エドゥアルドそのものを象徴していた。
《君に誤解されているようだが、今回のことは些細な問題だ。婚約が破棄されるようなことではない》
そう書き出されたその内容は、彼のプライドを守るための言い訳だった。自分に非はない、自分は間違っていない、と。
どこにもリラに対する謝罪の気持ちはなかった。
ただ、リラの父に説得を試みるよう促していた。
《僕たちの結婚は、お互いの家にとって最善の選択だ。君もそれを理解しているはず。父上にそのことをお伝えいただきたい》
リラは、こみ上げてくる笑いを必死に抑えた。
それは、愉快だからではなく、虚しさが胸を満たしていたから。
……本当は、笑いたくなんてなかった。
ただ、これがエドゥアルドの『誠意』だという事実が、自分の心を逆撫でするようで、笑わなければ崩れてしまいそうだった。
父が「婚約を破棄する」と告げた場面を思い返す。
……エドゥアルドの父が口を噤んだあの瞬間、すべてが終わっていたのに。
それなのに、エドゥアルドはまだ、自分に状況を巻き戻す力があると思っている。自分に、よほどの自信があるらしい。
リラは手紙を丁寧にたたむと、机の上に置いた。
開封済みのままで放置しておけば、そのうち母が気づくだろう、と思って。
母がこの手紙を見たときにどんな顔をするのだろう、と考えたのだ。
しかし、その瞬間、自分の中でわずかに生じた期待感が、恥ずかしくてたまらなくなった。
自分はこんな手紙ごときに何を期待しているのだろう?
母が苦笑するのか、怒るのか、それとも哀れむのか──どの反応であっても、それに救われようとする自分が情けなかった。
その日の夜更け、リラが一人で私室にこもっていたとき、父が訪ねてきた。
硬い表情をしていなかったのは、きっと父なりの配慮だろう。
「この家のために、今まで本当に頑張ってくれたな」
その声には、深い思いやりが滲んでいた。
リラは父の言葉に返事をしなかった。
……返せなかったのかもしれない。
「結婚は、しなくてもいい」
父のその一言は、リラの胸を静かに締め付けた。
長い間、家のために尽くしてきた自分が、ようやく解放されたような感覚だった。
けれども同時に、その言葉を素直に受け入れることができない自分もいた。
解放の喜びと、空虚さが入り混じるその感覚に、リラはどう反応すればいいのかわからなかった。
ずっと『家のため』に尽くしてきたリラにとって、これほどまでに聞き慣れない言葉はなかったのだ。
それが正しいのか、間違っているのかさえも、わからない。だけど、父が自分の人生を考えるよう促していることだけは確かだった。
父が婚約を破棄したと知ったとき、母は声を上げて泣いた。
「リラ、もうこれ以上頑張らなくてもいいわ」
母の声は震えていた。
その手は、長年家のために犠牲を払ってきた娘への感謝と、これ以上苦しませたくないという祈りのように、リラの手をぎゅっと握りしめた。
言うことは、父とほとんど同じだった。
それから、そういうことを言ったのは母だけではなかった。
家中の使用人たちも、リラのために激しい怒りを燃やしていた。
特に長年リラの世話をしてくれたカタリーナが、「旦那様が終わらせてくださって本当に良かった! あんな男に一生捧げるなんて、絶対に許せませんからね!」と声を震わせたとき、リラは初めて、この家の中で自分がどれほど守られていたのかを実感した。
カタリーナの怒りの裏に、長い年月を通して蓄えられた自分への愛情を感じ、リラの胸がじんと熱くなった。
しかし、婚約破棄は王都・ソレイオ中に大きな波紋を呼び、エドゥアルドとセシリアの『真実の愛』がついに成就! という美談めいた噂が広まり、どこへ行ってもその話題が耳に入るようになった。
噂はそれだけでは終わらない。
ゴシップ好きの人々の間では、リラを貶めるような話が次々に作られていった。
「捨てられたリラ嬢、結局は『行き遅れ候補ナンバーワン』よね」
「華やかに見えたけど、エドゥアルドを繋ぎ止められなかった『残念なお嬢様』だ」
「完璧そうに見えて、実は愛されない女だった」
──そんな辛辣な言葉が、噂話として王都のカフェやサロンで囁かれるようになった。
さらに、一部の下品な週刊誌では、リラを大々的に取り上げた煽りタイトルが紙面を飾った。
《捨てられた令嬢! リラ嬢の栄光から転落の真実!》
《結婚目前で敗北! 愛されなかったお嬢様の今に迫る!》
その見出しが目に浮かぶたびに、胸の奥が嫌な熱を帯びた。
顔をしかめても、文字の形が脳裏に焼き付いて離れない。
内容は、リラが婚約を破棄された経緯を誇張し、《嫉妬深い性格がエドゥアルドを追い詰めた》《男性に尽くせない『冷たい女』が本性だった》など、根も葉もない憶測で書き立てられていた。
それらの言葉がリラの耳に直接届くことはなくとも、街を歩けば人々の視線がいつも以上に自分に向けられているのを感じた。
それが同情なのか、嘲笑なのかもわからない。
ただ、リラにとっては、そのどちらであっても耐えがたいものだった。
次第にリラは、人目に晒されることが煩わしくなり、外出を避け、家にこもりがちになった。そして、もっぱら家の仕事に打ち込む日々が続いた。
そんなリラの様子を見ていた母が、ふと旅行を提案したのは、ごく自然な流れだった。
「しばらくソレイオから離れてみる?」
「……私がいなくても平気?」
リラの声は少し震えていた。
これまで家のために何かを捨てるのが当たり前だった自分が、いなくても大丈夫だと言われることに戸惑ったのだ。
「寂しいけれど、リラにはゆっくりしてもらいたいもの」
母がそう言って微笑んだとき、その言葉がリラの心の奥に染み込むように広がっていった。
家族が自分を思い、自分を手放すことを許してくれている──その優しさが、胸を温かくした。
そして今、リラはカリオラの地に立っている。
サン・ベリコの穏やかな風景が目の前に広がる。
柔らかな緑の波がどこまでも続き、風が木々を優しく揺らしていた。
けれど、その景色の美しさを眺めていても、リラの胸に張り付いた苦さは簡単には消えてくれない。
それでも、ここでなら何かが変わるのではないか。
傷が全部消えなくても、少しずつ楽になって、新しい何かが見えてくるかもしれない。
そんな小さな希望が、リラの胸をほんの少しだけ温めていた。
リラはそんな希望を胸に、そっと手を伸ばして別荘の門を押し開けた。