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ヴェネッイア

作者: 遠 京

アンナマリアは、朝のカナル・グランデの水を確かめるために外に出て、冷たいパラペットにそっと手を置いた。

15世紀頃にダルマッイア海峡を渡り運ばれて来たと云われているイオニア石を使って造られたパラペットは薄ピンク色をして水の色に映えていた。

アドリア海から入って来てヴェネツィアのカナル・グランデをめぐる水は光と影によって様々に変化し続ける。潮の香と相まって、かたち創られる不思議な水の文様は自分の気持ちや思索に寄り添いながら、アンナマリアの傍らに美しくひっそりとおりてくる。幼いころから、アンナマリアは海からの水に対して特別な感情を持っていた。今朝も白くモヤモヤしたなかに銀色めいた輝きを含んだ朝霧が、つつましく鏡のようになった海の水に揺れている。ヴァポレットが出したレースのような波に押されてトラゲット・ヴェッキォ(古い船着き場)のちいさな木船がとまどいながら漂っている。そんなささいな光景を見つけた瞬間に幸福の感情が生まれるのではないだろうか。ほんのりと桃色がかったイストリア石で組まれたパラペットの繊細な四弁花も色あせることなく何百年もそっとここにある。アンナマリアの望みは日常が不滅であることだった。今朝も目覚めたばかりで幸福のもとになるちいさな要素を見つけられることは一日の始まりで、とても大切なことだった。昨日と同様今日も良い日が来るだろう。海の上の青い空を両手で抱きながら心を浮き立たせていた。


ひさしぶりに出演したヴェネッィアのフェ二―チェ劇場で歌ったアンナマリアは昨夜のかろやかな声の張りに満足していた。オペラはジョゼッぺ・ヴェルディの椿姫で1853年初演以来フェ二―チェ座だった頃からの出し物で、ヴィオレッタ役はアンナマリアの得意の演目でもあった。このシーズン中何回かはアンナマリアの引退公演の名目で主役を務める予定になっていた。アンナマリアはまだ若く歌唱力も体力も十分保持していたが、後輩の育成に力を尽くしたいと考え、母校のヴェネッィア音楽院で教鞭をとることを選択したのは一カ月前のことだった。


「もう一杯いかがですか」

「みなさんにすすめられてもう何杯いただいたかしら」

「こんどのことではほんとうに感謝しています。」

「あなたの実力よ。」

「どんなふうに感謝を表していいのやら・・・。」

「そんなに何度もいわなくても・・」

「うれしくて!とにかくもう一度ありがとうと言わせてください。」

「あなたに決まったのは審査員のみなさんの一致した結果選ばれたのだから」

「ホントですか、ありがとうございます!」

「私も、もちろんあなたが適役だと確信しましたわ。おめでとう!」

「一生懸命 アルフレード役を務めますのでよろしくおねがいいたします。」

「そうね。ありがとう。私の引退公演だから、期待しているわ。」

「頑張ります!!」


パーテーでの青年は内気な感じで恥ずかしそうに低姿勢で話していたのだが、オーデションの時には「乾杯の歌」を高らかに堂々と披露した。さまざまなフレーズを表情豊かに歌う歌手は正しい呼吸の方法を身につけるのに数年かかるが、その青年には自然な声の発生が生まれつき備わっているような声の出し方だった。歌唱力ではまだまだ荒削りだったが、オペラ「椿姫」のアルフレード役は田舎出の青年だったからそれにはピッタリあてはまった。よどみなく歌い終わったあとの緊張と興奮をおどけた少年のようにバラ色の頬で素直に表現していたことも審査員たちに好印象を残した


青い海から運河に来て浅くなった水は、昔の玄関口だった大理石の石段を行ったり来たりするたびに表面を舐め年月を経て緑色の苔となり海水のなかで輝いて見える。時の流れに添うような海水はカナル・グランデ(大運河)沿いに建つ石の館の大部分をむしばんで、かさぶたを剥がすように朽ち果てさせるのだ。

アンナマリアはヴェネッィアの大運河沿いのコルネール館に住まっている。現在は美術館になっているカ・ドーロ邸に隣接するコルネール館の三階のべエランダに立ちダルマッィア海峡からサン・マルコの入江を通り無秩序に水路に流れ込む海水を30年以上の間見続けてきた。

背が高くこぼれるばかりの肉づきに赤みのあるヴェネッィア金髪にギリシャ人を想像させる形良い鼻が上品な表情を見せる美しいアンナマリア。立ち居振る舞いもやさしく優雅で知性を兼ね備えているから、誰でもが吸い寄せられるほどである。なぜならアンナマリアはパーテーで身につける衣装の色に染まる人だったからカメレオンの女ともよばれていたほどである。環境にもそして父親コルネール卿にも多大に影響されていたが自我の「こころ」そのものには動じなく他者は触ることができなかった。

加えて出自は15世紀にさかのぼりドージェ(元首)を出し侯爵の称号を得ていた貴族である。現代ではすっかり衰えてしまったとはいえ、コルネール家は代々経済活動に長けていて何代にもわたって裕福な暮らしを続けていけるだけの不動産を保持していた。16世紀にはじまったイタリアの混乱も、その後ヒットラーがヴェネッイアに凱旋した戦争中にもしっかりと狡猾に富を得ていた。身分制度はなくなったとはいえどういうわけかイタリアでは貴族には税制的にも優遇されている。祖母もまたコロンナ家から桁違いの不動産を相続していてコルネール家の財は膨れ上がっていた。

お金というモノを意識しないで育ったアンナマリアは数々の男たちからの貢物には「こころ」を動かされることはなかった。知性が勝ちすぎて、頭では解っていても不用意な言葉が先に口から出てしまうという傲慢さをアンナマリア自身は熟知していた。大勢の人々にかしずかれた状態での出来事に対しては、心理的には思慮に欠けた振りをして黙殺することが習性になっていた。

過去に親しかった友人にも、ほんのり恋した幾人かの男たちにも、その時の「こころ」の衣装を纏いカメレオンになりすまし「こころ」の動揺は決して見せずにいた。アンナマリアには「こころ」を許せる友人は一人もいなかった。

結婚においても祖母と父が喜び決めたことで家柄が釣り合って音楽が趣味ということだけの条件が気に入ってしまいアンナマリアはあっさり承諾した。夫に愛情を抱かないし愛も求めていなかった分ほとんど支障なく暮らせるきわめて喜ばしい夫婦であった。家と家を守るための結婚などとはこんな事だろうと打算的な目的ありきの永遠なる未完成の結婚に納得していた。


ヴェネッィアでは何処に行くにも少々長い距離でも歩くことになる。足の感覚器官が石畳の凸凹の具合と水路にかかる橋の傾斜度をすべらかに足が測る。

リズムを取りながら気まぐれな路地を行く、石の上は足と脚と身体の平衛を保つために全神経を集中させなければならない。背筋をまっすぐにして神経を張り詰める、それは歌をうたう時と同じ動作だ。アンナマリアは「椿姫」のリハーサルに行こうとフェ二―チェ劇場に向かってノアール水路の橋を渡り不揃いに敷き詰められた小路を抜けヌオーヴァ通りを歩いていった。

朝早くから始まっているリハーサルはかなりの熱気をおびて進んでいた。


「いくつか音階を歌ってみましょうか」

「低音のオクターヴから始めますか・・」

「胸声・中声・声区を意識的に見つけて呼吸の抑制の仕方を合わせましょう。」

「アー アーアー」

「音声を合わせて!もういちど!」

「アンナマリア!ボクの声の調整はどうですか?」

「舌と下顎と、のど頭の力を抜くことを特に意識したらどうかしら。」

「そう、そう!とても素晴らしい低音だわ。」

「高いほうの音域はどうですか?」

「そうね。ゆっくりあげてみて!」


オペラ「椿姫」で田舎出の恋人青年アルフレット役の恋の告白場面の歌を朗々と歌う若い男の名はクロアチア国籍のスボルゴ。

終盤にはいり、皆の疲れもたまってきていたし、照明を落としたフェ二―チェ劇場の空気が呼吸を止めたようになった。それでもスボルゴのかすかな息の揺れがアンアンマリアにかかり半暗がりに傾けた顔のあごの線をいっそう際立たせて鮮明に浮き上がった。

ヴォーカル・パートの平均的高域と喉を鳴らす断定性は彼の体力と若さの表れだろう久しぶりの逸材との出逢いがなぜかアンナマリアを希望で満たしていた。

突然。スボルゴがアンナマリアに向かっておおげさに両手をひろげアリアの旋律にのせて声を張り上げた。


「時よ 止まれ!あなたはかくも美しい!」


歌詞にはそんな文句はないのに、急激に気が昂ぶり耳朶に熱い吐息を満たされた歌の言葉に電流を感じてしまい、柔らかな絹のスカーフがやさしくまとわりついたような心地になった。アンナマリアは自分がどこにいるか、なにをしているのか、わからなくなって混乱し気持ちが高ぶった。

不遜にも一瞬の空白が感覚と身体を奪いその後におしよせてきた動揺に耐えきれなかった。そう思ったアンナマリアはわざと意識を失ったふりをしてそっともらしたため息と共に数分間その場倒れてしまった。

恋と呼べるものか解らないが、アンナマリアの感情に電流が走ったことはまぎれもない事実だった。感情が発火しないまでも「こころ」の鍵を開けようとする電流!フェ二―チェ劇場の暗がりに燃えるような電流が流れ、詩的で不滅な瞬間に目を閉じてそのまま横たわってしまった。

しばらく体を横たえたあとで、アンナマリアは心配する劇団員に元気な笑顔を振りまき、ここヴェネィアは自分の庭だからと見送りを断わり外にでた。絶えず移りゆく水路の水文様は水を魅入る人をなだめながら、魅入る人の心を映し出している。水路にかかるデ・ロカの橋を渡ると水に浮いた感じがして島でない振りをしている浮き巣の街ヴェネッィアが自分と同じ境遇のようだった。足の感覚までがヴェネツィアの迷路を忘れてしまっていた。これまでは意識せずにカメレオンになって心の奥底に持っているものを解放せずにうわべだけの仮面を付けて生きてきた。今晩起こった心の動揺はどんな意味を持つことなのだろう。

理性では解っているが答えが見つからない。アンナマリアの解けない難問に海から来た水が漂い月の光と橋の影が呼応し、キラキラと高ぶる気持ちをやさしく風景に溶け込ませてくれた。


アンナマリアは晴れ舞台の上で現実とつかの間の夢とが混ざり合い区別がつかなくなってしまって、木製のアカデミアの橋の上をわざとゴトゴト音をたてながら登った。アカデミア橋の真ん中はサン・マルコから広がる外海を見るのに好都合だ。でも異国の大きな船が波のない大鏡のような入江いっぱいに、入港して来ていて、船で後ろの景色が見えない。視界いっぱいの外国船をみていると、アンナマリアは自分も判然としない塞がれた感情でいっぱいになった。

突然、海水の鏡を割って中からアルフレード役スボルゴがアンナマリアを見つめながら歌う「椿姫」の劇中歌が聞こえてきた。そのアリア「燃える心」の歌詞とスボルゴのテノールが耳から頭から身体中から離れない。

アンナマリアはいそいで耳をふさぎ甘い歌声をふりきった。しかし、まるでそのことを確かめるみたいにアカデミアの橋を下りてサン・サル―テ教会の方角に進みザッテレの河岸に出た。速度を速めた海水がたっぷりと満ちた水の型をとってジュデッカ運河を流れている。ゆったりと盛り上がった海の対岸にジュデッカ島が山のかたちをしていつもふいに視界いっぱいに現れる。山の形の左端に真白く引っ掛かって見えるのはレデンドーレ教会。その白い教会が目に入るたびにきまって物語を見っけたがっていた少女時代が蘇ってくるのは未だに答えを見つけていないからだろう。左側のリオを渡ればインクラビレ(治る見込みのない)病院の高い塀が見える。心の病は一生直すことが出来ないのだろか。

あの日もどうしても答えが見つからなかった。だれにも相談できず、体が小刻みに震えてとまらなかった。ちょうどこんな日ではなかったか。

出生の秘密の一部を感じてしまい生きている時間が静止した日アンナマリアは一人でザッテレのレデンドーレ協会を見つめるために、ここに来ていた。

その時は12歳になったばかりだったがしっかりと物事の判断ができていた。

祖母が死んだ夜、悲しみに疲れ眠ってしまったが、真夜中に起きてしまい居間に下りていった。たくさんいた弔問客は皆帰ったとみえて静かだった。アンナマリアは祖母が亡くなった寂しさから父親のそばでなら眠れそうだと父の寝室の扉をそっとあけた。ベッドに横になり泣いている父親を愛撫しながら慰めている知らない全裸の男がいた。ギラギラと生臭さが漂う部屋の空気から父親が男色であることを感じてしまい恐ろしさに震えた。そして動揺は自分の部屋に戻ってから恐怖とともにやって来た。

アンナマリアがコルネール家の館で産まれたとする証拠の写真は二枚、今も残っている。産まれたばかりの赤ん坊を父親が見ている場面で母親は父親にさえぎられていて顔がわからない。もう一枚の写真はお産の直後だろうか、父が危なげなく赤ん坊を抱いていて、そこにはベッドに臥し髪の毛で顔が判明できない母親が写っていた。祖母と父から、母親は産褥熱で死んだと聞かされ育った。

母親が誰か、母親と一緒の写真はないから確かめようがなかったけれど、アンナマリアに無償の愛を注いでくれた祖母付きの女中ブランカが母ではないかと密かに確信していた。子供心に女中ブランカと似ているところが多々あったからだったし、何よりも面立ちがそっくりだった。しかし女中ブランカは祖母が死んですぐ、アンナマリアに何も告げることなく2か月もたたない間に居なくなった。アンナマリアは12歳のその時まで父親だけは本当の親子だと信じて疑わなかった。しかしその光景を見たことで記憶の中のすべての証拠が切り裂かれ確実にはっきりしたことは父の子供でもないという事実だけが残った。


いつもの目にはいる風景がおちつかなく張りつめている。海からの風がまともに降りてきておだやかなカナル・グランデの流れさえも軋んで見える。島のふりをしているヴェネッイアが海にさらわれて船着き場の桟橋みたいにギィッとくぐもった音を出してグラリと揺れたような気もした。その揺れでアンナマリアの感情がコースを変えどこかへ引きよせられてゆくようだ。

昨夜舞台終了後スボルゴはアンナマリアの「こころ」の鍵を開けた。アンナマリアに本能的な愛の感情があふれ、ふたりはなんのためらいもなく自然に体を重ねあった。アンナマリアは初めて無償の愛を知ったのだろう、ダフネのように黄金の雨に打たれながらしあわせな眠りについた。

愛とはひとつの反射反応によってこんなふうに生まれるものだったのか。見たり聞いたり解ったりすることが経験だとする今まで持ち続けていた概念が壊されてゆく。男の持っているはちきれんばかりの若い細胞を受けた時の感動が体の隅々までたっぷりと残っていた。愛されるという無我にちかい高揚感と甘美な胸の高まりを揺れる風景の中で戸惑いながら抱きしめていた。


「今晩で、最後の舞台も終わりだね。」

「そう、楽日だけど、いらっしゃらないでしょ!」

「君の素晴らしい舞台を新聞各紙が誉めたたえているよ。」

「まだ、よんでないわ。」

「仕事で、これからロンドンに行ってくるよ。」

「・・・まぁ  早いお出ましだと思ったら。」

「君の素晴らしい声を祈っているよ!」

夫は大きな声で叫び、ベランダを大股で横切って消えた。アンナマリアにとっての大切な朝に夫との思いがけない会話にそこにあった朝の空気がしらじらしく泳いだ。これから始まる朝の小さなくても大切な発見にカナル・グランデの水の色が一瞬で変わった。夫はベランダから一緒に外を眺めたこのなどなかったのに、どうしたのだろうアンナマリアは自分を欺くひまがないままに妻としての罠の賭けあいを忘れてしまっていた。


「この舞台が終わったら、クロアチアに来ませんか?」

「・・・えっ?  どこに?」

「僕のふるさとクロアチアですよ。」

「楽日の後は、もぬけの殻みたいだから、何処にもいきたくないわ。」

「疲れを癒すためにも・・劇場から離れることが、いいらしいのに・・」

「わたし、ヴェネッイアにいるのがいちばん なの・・」

「ちいさな村で467人しか住んでいないし、 ホントに片田舎ですから・・」

「村の人全員知り合いなの?」

「ほとんど年寄りですけどね。家から海がすぐで、海がエメラルドで・・」

「海。ダルマッイア海峡の向こうかしら?」

「村の名はスクローデン!」

「行ってみようかしら。」


ゆうべ、帰りぎわ、スボルゴが音をたて部屋じゅうの息を吸ったかと思うと、ためらいながら、喋った誘いの言葉の切れ切れを今思い出した。その言いまわしは、ういういしくなぜか若いスボルゴが同じ時代に生まれた人間のようにも見え親近感が募った。朝早起きをしてわざわざ告げにきた夫の女との逢瀬、ロンドン行きがアンナマリアの背中を押した。迷ったことが嘘のようにスボルゴの誘いにのってしまった。クロアチアの小さな村に行ってみよう!


アンナマリアの感情にかられたひとつの決断が水面に映しだされ、形のない水がドレスの襞みたいに創りだされ、揺れて流れていった。

どこまでも蒼く晴れ上がったその日の朝、アンナマリアはサン・ジョヴァン二教会を左に見ながらユダヤ人街をぬけサンタ・ルチア駅まで歩いた。キャリーバックのカタカタとリズミカルに鳴る音が何かの予兆を読み取って石畳みの角にぶつかりガタッと音を変えた。特別に訪れた翼をもった小旅行はリオを渉る足元からスキップしながら這い上がってきていた。現実の中にも突然蘇った過去の中にも何も見つけられないで、時だけが足を止めずに一歩前を歩いていく。

待ち合わせのローマ広場でひときわたかく手を振っているスボルゴが見えた。後ろの黒いポルシェはたぶんレンタルなのだろう赤ではないことでアンナマリアへの気づかいをみせていた。

蒼い海を眼下に断崖を道路化したアスファルトがモンファルコーネまでくねくねと曲がっている。トリエステを過ぎるとイタリアの国はおわりユーゴスラビアの検問所で少年が自動操縦を持って立っている。アンナマリアは広陵とした地に砂ぼこりが渦巻いている風景を目の当たりにした。埃に低く絡みつくスモーク・ツリーをよごれた岩肌、ここは地図にない場所で時間も刻まないところなのだろうか。スボルゴボが入国手続きをしている間、アンナマリアは周りを見ないように座席を倒し眠ったふりで目をつむっていた。

ウソの眠りのはずがほんとうに眠ったらしい。ソボルゴは聞きもしないのに父親の初恋の話をお芝居のように熱を入れて話している。母親は亡くなったといっていたから、しばらくぶりで逢う父親のことをすこしでも知っておいて欲しかったのか、よほど自慢の父親なのだろう。


ほどなくして車が止まり水の音がした。頬に花びらをすくいあげるようなやさしい手の感覚を感じてアンナマリアは目を開けた。車から降りて見るとやっぱり夢の中で見たアドリア海が視界いっぱいに広がっているではないか!

歴史のなかではここにあるアドリア海を我ものとして千年もの間偉大な支配権をふるった都市ヴェネツィアが結婚した相手もまたアドリア海だったのだ。

それは死を招くアドリア海の抱擁と言われているがヴェネッイアもアンナマリアもアドリア海にやさしく抱かれているのは事実だった。

スボルゴの生まれ故郷クロアチア・スクローデン村はどこをみても静かな風景にとりまかれていた。5分も歩いくと海岸ではなく、深い海がある。背後の山々けがれのない牧歌的なもこもこした緑にあふれている。しかし贅沢すぎるほど豊な自然があるということをまったく忘れていて念頭に浮かべることもしないような平凡な暮らしぶりをみてとれた。母親は10年前に逝ってしまったと聞いていたから、どんな気持ちでスボルゴの父親に会おうかと思案していたが、スボルゴの父親は教会の催しでダルマッイァ地方の伝統音楽クラッパを歌うらしく夜の練習に出かけていて留守だった。かなり大きな構えのスボルゴの家には父親の妹であるスボルゴにとっては叔母さんに当たる人とその夫と息子が一緒に住んでいるとのことだが屋敷が広すぎてなんの音もしない。アンナマリアは二階でひろびろとしたシックなしつらえの角部屋に案内された。

アンナマリアは山と海にはさまれたゆりかごのような村に抱かれ安堵し、旅の疲れもあってめずらしくすぐに眠りについた。


部屋中に輝く陽がいっぱいに満ちてはやく目覚めたアンナマリアはテラスから繋がっている外階段を降りてちいさな村の空気を吸ってみるために歩きだした。この村に住む人々はきっとこの土地のためだけに生きているのだろう。村には緑の山々に囲まれて青い海があり風がある。そして美味しい草と一緒に地面に生えたように生きて暮らす人々は美しい風景の一部としてはめ込まれていた。

どこまでも続く海を眺めている、この幸福が海から抜け出して五彩のリズムを作りアンナマリアの気持ちを透明にしてくれた。水平線に目をやりながらダルマッアの海の音を聴いていると、波の運びがアンナマリアの脳裏に残る残骸が見えない何かと連動している。忘れようとしても根だやしにされなかった記憶の棘となって体中をちくちく刺す。その痛みをそらすことがここでは可能かもしれないなどと考えていると、スボルゴが捜しに来てアンナマリアを呼んだ。

島にあるトラットリア行くためにだけ海の上に板を渡してある。高潮が来たら海の中を行くしかないのだろうか。その時は誰も行かないのだろう、と一人で納得すると可笑しかった。すべてがおおらかで自然の言うことを疑わずに聴いて時間が過ぎてゆく村だった。ふっくらした白身魚に草の匂いのするミルクがかけられた料理が絶品でアンナマリアはこの旅をすっかり気に入っていた。


「ごきげんがいいみたいだね。来てよかった?」

「いいところね。いままでに見たことがなかったような海の色だわ。」

「だろう!僕のいった意味わかった?」

「不思議と、なんだか、わからないけれどとってもなつかしい気がする村だわ。」

「ヴェネッイアとは正反対でしょう?」

「ふるさとがある。って、すてきね。」

「今晩タータの、ぼくのパパの独唱を聴きに来てくれる?」

「もちろんよ。まだきみのパパにお会いしてないもの。」


ロデージャ教会は村人でいっぱいだった。照明はあるにはあったが、よく目をこすらなければ顔がはっきりしなかった。スボルゴが有名なオペラ歌手のヴェネッイア美人を連れてきていることはとうに村全体に知られていたので、古びたロデージャ協会内は騒めいていた。

盛大な拍手をうけてイヴィカ・シルニック氏が登場した。その歌声はまわりの自然からおしだされたような歌い方で、生きることと呼吸することが同じであることを物語っているような声だ。端正な顔立ちのシルニック氏の歌昌中に見え隠れする微笑に含まれたある自由な感じは、心の奥に持ついわばもの憂げな甘さを抑制している表情だ。

声質の底流に流れている調べの音節と抑揚、歌に込められた情緒と霊感その声のなかを歩んでいるアンナマリアはすべてを聴き逃すまいと声質にのめり込んでいた。シルニック氏の声は口から離れ空気に乗って過去に存在した記憶の断片をこじあけようとしているかのようにも聞こえてきた。

アンナマリアは全身で自分の鼓動がドキドキと脈打つのを感じた。いっときすべての時間がこの教会から消えてなくなったような気がした。そしてシルニック氏が横隔膜を通して吐く息の感覚に触れた。それは手でつかめるものだった。


クロアチアに入りスボルゴが父親のエピソードを語った話が脳裏に溶けてきた。


パパの自慢話はね。彼の恋のことなのよ。35年以上も昔の話みたいだけどね。ヴェネッイアでゴンドリエをして働いていた頃、素晴らしい恋をしたんだって。ヴェネッイアを知った今ではとても信じられないことだけど。笑っちゃうよね。パパはカ・ドーロのお屋敷のお嬢様と恋に落ちて夜に何度もそのお屋敷に忍んでいったらしいのよ。カ・ドーロにはお嬢様なんていないじゃない?

でもね、自慢話にしては信憑性もあって、娘に恋人がいるのがばれて侯爵に殺されそうになったそうだ!それでたまげてクロアチアに逃げ帰ってきたらしいよ。その頃のヴェネッイアでは海の殺人が大きなニュースになっていたらしい。殺人事件で運河にゴンドリエの死体が二体もあがったとか。恐怖が限界を超えて震えたと本人は言っているよ。


感覚が鋭く冴えかかりいくつかの過去が交錯し、シルニック氏の歌声から記憶のこだまのような振動を聴いた。シルニック氏から受け継いだ声を出す横隔膜が燃えてアンナマリアの魂を火だるまにした。

耳から入って来た記憶はアンナマリアの神経の中を縦横にはいずりまわり、脳にまで忍びこみ遺伝子をぎっしり組み込んで流れる血液に浸透していった。

シルニック氏。スボルゴのパパはわたしの父親。








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