57 イリュラ・ムンストン
人が人の道理を踏み外す時、そこにはどんな背景があるのだろうか。
少なくともイリュラ・ムンストンには、決定的な分岐点など存在しないように見えたのである。確かに彼は魔法使いの家系に生まれながら、一切の魔力を持たなかった。しかし、それもさほど珍しいことではない。事実彼の従兄弟も魔力を持たなかったが、決して不当な差別の対象とはならなかったのだから。
だが、ムンストンは物心ついた時から自らに無い魔力を追い求めていた。同族に対し、否、他者という他者に対し自分が劣っていることに我慢ならなかったのである。彼は世界に対して、正体不明の劣等感を抱きながら生きてきた。
ムンストンには凄まじい野心があったのだ。何もかもを屈服させたいが為に、自らの才と能力を高める努力を常に続けていた。そういう意味では、彼は空虚な人間ではなかったと言えよう。
はたしてその働きはノットリー国の王に認められ、異例の出世を果たすこととなった。そしてノットリーが極秘に進めていた悪魔召喚の術の研究長を任され、例の事件へと繋がったのである。ムンストンと同じように考える人間は、掃いて捨てるほどこの世界にはいるのだ。
だが、召喚した悪魔はとても彼らの手に負えるものではなかった。ここでロマーナの母――チュチュ・サンジュエルが居合わせたことも、ムンストンにとって不幸だったのかもしれない。圧倒的な存在を眼前に叩きつけられた男は、何としても彼女を超えんとますます力に執心するようになった。
命の石の欠片の研究を続け、錬金術師としてますます名を馳せ。サンジュエル国に入り込み、チュチュの娘の専属教師となった。だがここでロマーナという娘と出会ったのも、男の運命を殊更奇異なものにしてしまう。
ムンストンは、その劣等感を解消するためだけにこれまで様々な人間を潰してきた。言葉や暴力、その他非道とも言える方法を使い、多くの人を引きずり下ろしてきた。だがこのロマーナという小娘だけは、何をやってもムンストンに立ち向かってきたのである。
泣きながらも歯を食いしばり、あろうことかやり返してきた。明らかに自分より弱い存在に歯向かわれたムンストンは、この時初めて抱いたことのない感情を知ったのである。
何故、この娘は向かってくる。何故、自分の無能を思い知らされているのに潰れない。何故、自分の価値に絶対の自信を持っている。
『興味』。ムンストンは、生まれて初めて他者に素朴な疑問や関心を抱いたのだ。
しかしある日、ロマーナと言葉を交わしている時の自分の心情がどこか安らいでいることに気がついた。その理由は何に起因していたか。――子供だった彼女の怒りには、嘘や偽りが一切無かった。これまで欺瞞や偽りに満ちた世界に生きていたムンストンにとって、唯一真実の感情を向けられていると感じたのが彼女とのやり取りだったのである。
その事実は驚きと共に、ムンストンの価値観を多少なりとも変えた。つまり、ロマーナを手に入れてもいいと――伴侶として側に置いてもいいと思い始めていたのである。だが、ロマーナは一国の姫である。その頃には許嫁も決まっており、よもや専属教師であるだけの自分が夫になれる目など一つとして無かったのだ。加えて母であるチュチュが、ムンストンの狼藉と彼の狙いが命の石の核であると勘づき始めていた。追放が目前となった彼は、とうとうノットリー国を唆し、ロマーナや命の石ごとサンジュエル国を落とそうと踏み切ったのである。
策は――俯瞰的に見れば、失敗だったと言えるだろう。サンジュエル国は滅んだが、ロマーナは百年の眠りについた。その上命の石の核は一人の騎士に吸収され、永遠に失われてしまったのである。
それでもムンストンさえその気になれば、城を襲撃しロマーナを強引に目覚めさせることができた。そのはずだった。
……“彼女”さえいなければ。
「ムンストン。あなたでは絶対にロマーナを目覚めさせることはできないわ」
主人を失った城の中。燃え盛る炎を背にし、チュチュはゾッとするような笑みを見せた。
「あなたに強力な魔法をかけたの。ロマーナに触れた瞬間、二人とも内側から体が弾け飛ぶ。これはどんな魔法使いに頼んでも解けないでしょうね」
「……負け惜しみを。そんな魔法があるわけがない。あったとしても、たかが人間の魔力で使いこなせるはずがない」
「あら、私はこの数年ずっと命の石の核を身につけ続けた女なのよ?」
チュチュは、自身の胸元に手を当てた。
「この身には、計り知れないほどの魔力が移ってる。魔力を可視化できないあなたには分からないでしょうけどね」
「……」
「ええ、喧嘩を売ってるわ。許してもらおうとも思わない。私だってあなたのことは許さないもの」
彼女の形の良い唇が動き、呪文が紡がれる。逃げる間も無く、凄まじい爆発がムンストンの全身の肉を吹き飛ばした。
……命の石の欠片が彼の命を繋いだのは、皮肉とも言える帰結だったのか。それともチュチュの下した罰だったのかもしれない。ムンストンは全ての美貌を剥ぎ取られたまま、生きることを余儀なくされた。
ところがムンストンは、それでもまだロマーナを手に入れることを諦められなかったのである。怪我が治るのも待たず指揮を執り傀儡も同然のノットリー国を攻め入らせ、ありとあらゆる手を尽くし元サンジュエル国を復興させた。全ては、ロマーナの眠る城を守るために。
チュチュの魔法が解けたその日に、ロマーナを我がものにするために。
魔法は、どんなに強力なものでも百年ほどで効力を失う。――百年。百年! それは、人間の身であれば途方もなく長い時間であった。だからムンストンは命の石の欠片を使い、自分の身と心を分離させ定命を超えんとしたのである。百年間、ロマーナという存在を待つために。
しかし、分離したムンストンの体それぞれにどす黒い欲望が宿り始めたのは、彼自身も予想だにしないことであった。
「ロマーナ、ロマーナ、俺は待つぞ」
「魔法使いめ。俺に無いものを持ちやがって」
「俺を見下すな! 俺にひれ伏せ!」
「崇めろ! ここまで国が立ち直ったのは誰のおかげだと思っている!」
「不死の騎士。いつか必ず命の石の核を抜き取り殺してやろう!」
「ロマーナ!」
「こんな醜い、醜い体など。隠さねば。隠さねば」
「そんな目で俺を見るな!」
思考と欲望は膨れ上がり、収まることが無い。男の手には何も無かった。何も無い手で、男は永遠に空を掻いていた。
――今も。
そう、今もだ。耳障りな言葉を吐くロマーナを前に、ムンストンは腕を伸ばした。
体が重たかった。脳には言葉と欲望がひしめいていて、何一つとして選び取れない。
苦しかった。
それでもただ一つ、ロマーナが欲しいと思った。
「――!!!!」
ついてこい。
手に入れてやる。
飲み込んでやる。
せめてお前だけでも。
俺のものに。
――人の欲望を凝り固めたような巨大な手が、ロマーナを掴んだ。




