夢見のアロマ
ただでさえ、ずいぶんと蒸し暑い夜だったのに、まさか蚊までまぎれこんでくるとは。定岡は静かに息を吐いて、それからベッドの上で寝返りを打った。
あとちょっとで眠れそうなんだし、気にすることはない……。しかし、そういうときに限って、蚊というやつはうるさく耳元でうなりをあげるものだ。静かに吸うのなら、血などいくらでもやるというのに、まるで構って欲しいかのように、定岡の耳元であの耳障りな羽音を鳴らす。
「チッ!」
怒りに任せて起きあがると、定岡は電気をつけた。当然そうなれば、蚊もバカじゃない。あれほどうるさくしていたくせに、どこに行ったか皆目見当がつかない。もう一度舌打ちすると、定岡はベッドからのろのろとはい出した。
「蚊取り線香、ずいぶん前に買ってなかったっけな」
去年の夏の残りがあったはずだと、定岡は押し入れの戸をガタガタと揺さぶる。最近はガタが来ているのか、すんなりと開いてくれないのだ。
「……クソッ、面倒だな」
ごちゃごちゃにいろんなものが突っこまれた押し入れは、見るだけでやる気を削っていく。あきらめて寝ようと思ったが、どうせ蚊のやつはまた耳元でうるさく踊るのだろう。「はぁー」とやるせないため息をついて、定岡は山のてっぺんに手をかけた。
「ん? なんだこれ?」
ようやく半分ほど探し終わったところで、定岡は線香の箱のようなものを見つけた。蚊取り線香を探しているのに、線香を見つけるなんて、とんだ皮肉である。ガジガジと乱暴に頭をかいて、定岡はその箱を開ける。
「この際、線香でもいいかもな。案外蚊取り線香と同じような成分が入ってるかもしれないし。……って、なんだ、『夢見のアロマ』だと?」
その箱には、薄っぺらい説明書が入っていた。どうやら普通の線香ではないらしい。押し入れ整理にすっかり目がさえていた定岡は、説明書に目を通す。
「『睡眠導入の香り成分が練りこまれていて、安眠を約束します。さらに、レム睡眠を誘う特殊なエッセンスも配合されているため、良質な夢をあなたに』だぁ? なんだよそのエッセンスって。怪しいな、ていうかなんでこんなのおれんちにあるんだ?」
アロマなどという小じゃれたものを買うような定岡ではない。そんなものをくれる彼女も長らくいない。と、彼女というワードで、定岡はあぁと自嘲気味に、乾いた笑みを浮かべた。
「これ、あんときの……」
デリヘルを頼んだときの、ハズレ女のあばた顔が目に浮かび、定岡は軽く首をふった。
「ムードが出るとかなんとかいって、線香焚いてたやつだな。正直顔でもう萎えちまってたが、線香のにおいで集中できなかったんだよな。……チッ、いやなこと思い出しちまったぜ」
ふたを閉じてゴミ箱に放りこもうとして、定岡は手を止めた。この様子だと、押し入れを探したところで蚊取り線香が見つかるのは望み薄だろう。それにもう目がさえている。明日も仕事で朝は早い。……なら、『夢見のアロマ』とやらにすがって、焚いてみるのも面白そうだ。効果がないならないで、退屈な事務作業の合間に、同僚たちに笑い話を提供できるだろう。
「線香のにおいっていうか、あの女がハズレだったから集中できなかっただけで、正直においはまあまあだったしな」
とはいえ家に線香立てなどといったしゃれたものはないので、定岡は灰皿の上に線香を並べて火をつけた。わずかに紫がかったけむりが立ちのぼり、思わずあくびをする。
「……意外と、効果あるかもな」
そのまま定岡は、ブランケットもかけずにベッドに埋もれた。かすかに蚊の羽音が聞こえたような気がしたが、それもすぐに消えて、なにもわからなくなっていった。
――ん、もう朝か――
起きあがろうとして、定岡はおかしなことに気づいた。確かにベッドに寝ていたはずなのに、なぜか床に倒れていたのだ。そこまで寝相が悪いほうではないのだが、もしかしたらあの『夢見のアロマ』とかいうやつのせいだろうか。
――ま、それでもいいや。ぐっすり眠れたし。それにしても腹が減ったな――
眠気まなこで天井を見あげる。
――なんだ、天井がやけに遠いんだが。ていうか、なんだこれ? おれの部屋、おかしいぞ。こんな広くなかっただろ――
というよりも、広い広くないという次元ではなかった。果てしない大きさは、もはや部屋ではなく、広大な平原にでも立っている気分だった。ただ一つだけ違うのは、地面はまぎれもなくフローリングの床であるということだけだ。
――どうなってんだ、こりゃ。……あ、もしかして、夢かこれ? 説明書にも確か、良質な夢をあなたにとか書いてやがったな――
ならば寝てしまえばいいのだろうが、そうはできなかった。尋常じゃないほどの空腹が定岡を襲ったのだ。めまいがしてのどが渇く。早く吸わなければきっと死んでしまうだろう。
――吸う? 吸うって、なにをだ――
定岡はブンブンと頭をふった。空腹でどうやらおかしくなっていたようだ。吸うといえばただ一つだけだ。
――ああ、そうだった。血を吸えばいいんだった――
定岡は羽を動かし、宙を舞った。のどの渇きがさらに強くなる。いや、これはもはやのどだけではない。からだじゅうが渇きに飢えている。血だ。血を今すぐにでも吸わなければ……。
――って、はぁっ? なんだよ、血を吸うって? ……って、おい、どういうことだ? おれが、おれが立っている――
目の前に現れた巨大な足を見て、定岡は思わず方向転換した。羽をせいいっぱい動かして、タンスのすき間へと隠れて身をひそめる。巨大な足の主……定岡は、きょろきょろとあたりを見回していた。なにかを探している様子だ。なにか? 決まっている、それは――
――おれだ。じゃあ、まさか、まさかおれは――
毛におおわれた前足を見て、定岡は絶望する。動物でもない。足が六本ある動物はいないだろう。そう、このすがたは……。
――ヒィッ――
タンスのすき間の奥へもぐりこみ、定岡は身を震わせた。蚊取り線香を探して起きて、怪しげなアロマを焚いた結果、自分が蚊になってしまうなど、冗談がきつすぎる。だが、この圧倒的なリアリティは、到底夢とは思えなかった。なにより渇きが強すぎる。人間のときに感じた空腹などとは比べ物にならないほど、からだが空洞になってよじれるかのような、切迫した渇きなのだ。気づけば定岡は、かくれていたタンスのすき間からはい出て、ふらふらと人間の足へ飛んで向かっていた。
――な、なにやってんだおれは! つぶされたらおしまいだぞ――
しかし思考とは裏腹に、羽は、からだは、人間の足に引き寄せられてしまう。このままかくれんぼをして、夢から覚めるのを待つほうが得策だとわかっていても、羽がいうことを聞かないのだ。
――甘い、におい――
足に近づくにつれて、定岡は得もいわれぬ甘いにおいに気が狂いそうになった。人間のとき、フルーツや菓子類などの甘いものはどうも苦手で、酒ももっぱらビールか日本酒、それも辛口と決めていたはずの定岡だが、足からにおってくる甘さは、そんな矜持など吹き飛ばすほど強いものだった。生き死にに関わるような訴求力を持って定岡を誘惑せしめていた。
――うおっ、こ、これが――
足にしがみつき、針のようにとがった口で皮ふを突き刺す。ようやく渇きを癒せるという安堵感が、針の口からよだれを垂れ流させた。十分に刺すと、定岡は一気に血を吸い、からだじゅうへ行きわたらせた。
――おっ、おぉぅ……、くふぅ、うっ、うっ、う――
濃い。それにこの甘さ。砂糖なんか二度と味わえないほどの、脳髄をとろけさせる麻薬のような味に、からだじゅうをうるおわせるみずみずしさ、そしてなにより、なんという波打つエネルギーのたぎりだろうか。人間のときに、ホタルイカの踊り食いを食したことがあったが、あれを何千匹も胃の中に直接放りこんだらこんな感覚を味わえるのだろうか? とにかく『生きている』という実感を味わっているかのような、衝撃的な味に、定岡はなにもかもがどうでもよくなるのを感じた。
――うっ、うめぇ、うめぇぞ――
夢中で吸っている間に、じょじょにあたりが暗くなっていることに定岡も気づいたが、それでも吸うのをやめることはできなかった。このエネルギーをからだに満たしたおれが、死ぬことはない。たとえ人間と戦ったとしても、ひねりつぶすくらいわけないだろう。そんな天にも昇る万能感が消え去ったとき、ようやく定岡は我に返って、自分が置かれている状況を把握することができた。風を切る轟音と共に、巨大な張り手がせまってきたのだった。そして――
「……ハァッ! はぁっ、はぁ……ん、はぁ、な、おれ、死んだんじゃ……」
汗びっしょりになった顔を、引き寄せたブランケットで乱暴にふくと、定岡はもう一度「ハァーッ」とため息をついた。ふと、テーブルの上を見ると、例の線香が灰となって燃え尽きていた。
「夢が終わったってことか……。くそっ、あのハズレ女、なにが、『良質な夢をあなたに』だ! ……はぁ、助かったぁ……」
悪態をつきながらも、定岡は再び大きく息を吐いた。それとともに、のどの奥にあのエネルギーのたぎりがよみがえってくる。人間でなら、絶対に味わえないあの衝撃的な味に、定岡はのどを鳴らした。
「……あんなうめぇ血を吸えるんだったら、そりゃあ蚊も人間にすり寄ってくるわけだぜ。まぁ、今度やってきたら、おれが叩き潰す側になるんだがな。こんな風によ!」
ようやく見つけた蚊に対して、定岡が張り手を食らわせた。「パチィンッ」という破裂音とともに、一気に屋根が崩れ落ち、定岡はがれきの下敷きになった。まるで叩き潰された蚊のように、ミンチになる定岡の血を、一匹の蚊が一心不乱に吸い取っていたが、その蚊も同じようにがれきにつぶされてシミとなって消えた。
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