第三章 『僕たち』の物語 #1
夢を見た。
幼い僕が最愛の人と手を繋いでいるあの夢だ。
言うことだけを聞いていた僕は、指を指して彼女にわがままを言い続ける。
あっち行きたい。こっちに行きたい。遊びたい。あれが欲しい。これが欲しい。これは嫌いだからいらない。
最愛の人は変わらない笑顔で、僕の要求を聞き入れ叶え続けてくれた。
だから僕は絶対否定されないといい気になって、その人の気持ちも考えずに自分の願望ばかり叶える王様になっていた。
他人の事を考えず、自分だけが幸せになればいいんだと考え、苦しく喘ぐ馬に鞭打つように彼女に命令を下し続けていた。
僕が幸せになる事で彼女も幸せなんだと勝手に解釈していたから。
なのにある時、僕の手を掴んでいた柔らかさと温もりが何の前触れもなく消えた。
その感触だけではない。見ると最愛の人の姿もない。
辺りを見回してもおらず、そもそも誰かに助けを求めようにも僕以外に人っ子一人いなかった。
舞台の幕が下りたように視界が突然真っ暗になり、その場に蹲み込んで激しく泣いた。
泣けば彼女がやってきて僕を抱きしめ、甘やかして慰めてくれると信じて泣き続けた。
けれども最愛の人は現れず、鯨の潮吹きのように吹き出す涙で周辺が水没していく。
自分で流した涙の海に僕自身の頭が沈んで、声も出ないどころか息もできなくなったところで目が覚めた。
起き上がるとナメクジが這ったように頰がベタベタしていることに気づく。触ってみるとそれは泣いた跡であった。
いつも通りの起床時間に目覚め、いつも通りに服を着て髭を剃り、冷蔵庫に常備してあるペットボトルの水を飲んで紐を結んだままの靴を半ば押し広げるように履く。
準備が完了しドアを開けようとすると「いってらっしゃい」と後ろから声をかけられた。
振り向くと、あの女がいつもと同じ笑顔で僕の後ろに立っている。
僕は何も言えなくて、そのままドアを閉めて逃げるように外に出た。
曇天の空の下を歩きながら、あの女のことを考える。
あんな過ちを侵してしまったのに女は出ていかなかった。何故かいつも通り僕の身の回りの世話をしている。
僕に向ける笑顔は一見変わらないが、内心怒っているに違いない。
そして心の奥底では限界まで憎悪を溜め込み、一気に僕にぶつけようとしているに違いなかった。
だから僕は女に命令する事をやめた。向こうはいつも通りに接してくるが、こちらから話しかけない方がいいと選択したのだ。
話しかけたが最後、待ってましたとばかりに侵した罪を糾弾されるだろう。
だから無視し続けていれば、いつか出ていくだろうと信じていた。自分から謝罪しよう出て行こうという選択肢はなかった。
僕は何が最善の解決策なのか分からないまま、曇天の空の下を歩いていく。
仕事場は相変わらず少ない人数だが、従業員同士で話していて賑やかだ。
僕はその賑やかさの中で身を潜めるように仕事を続ける。
今日もまたセオイさんは怒られている。
以前に比べてげっそりとやつれていて、まるで見えない重荷を背負っているかのように酷い猫背になっていた。
周りも気になっているようで、上司がセオイさんの猫背を指摘している。
怒られたセオイさんは猫背を直そうと背筋を伸ばしたが、それも数秒の事で肩を引っ張られるように背中が曲がっていく。
その姿勢のまま、彼女は作業場を出て行った。
周りの人達もセオイさんの酷い猫背の話題で盛り上がっている。
その時の僕は『大変だな』くらいしか思えず人の事を構う余裕など欠片もなかった。
セオイさんや早番の従業員が皆帰って数時間後。僕はほとんどの洗い物を片付け終えて一息つく。
やっと一人でも効率のいい片付け方を見つけたお陰で、時間に少し余裕ができるようになったのだ。
後は残った商品の値下げだけ。やっぱり一人でやる方が楽だよな。誰にも邪魔されないし文句も言われないし。
そう思った矢先、新たな仕事が舞い込んできてしまった。
節分の恵方巻の飾り付けだ。人手が足りなくて探していたそうで、運悪く見つかってしまったのだ。
掃除はほとんど終わってますと言わなければよかったのだが、それも後の祭り。
値下げを終えた僕は飾り付けの手伝いをする羽目になってしまった。
節分行事では欠かすことのできない大きな鬼の顔を売り場が見える窓に貼り付けたり、恵方巻を模した浮き輪みたいなものを天井から吊り下げたりしていく。
ここまでは順調だったのだが一つ問題が起きた。
客に予約を促す販促映像を流すためのテレビとDVDレコーダーを用意してあったのだが、肝心のDVDが行方不明になってしまったのだ。
用意した社員は机の上に置いたというが、そこには沢山の資料が山のように積まれていて見当たらない。
僕を含め飾り付けに関わった全員であちこち探し回る。
DVDは会社が用意した物なので、紛失した場合は始末書を書かされてしまう。
書くのは社員であって、パートの僕には関係ない話だが、社員が血眼になって探しているところに「もう時間なので上がります」と言えるわけもなく、見つかるまで探し続けた。
結論から言うとDVDは無事に発見された。場所は社外秘の資料をしまうロッカーで、誰かがそこにしまったらしい。
結局犯人は分からずじまいだが、これで飾り付けは終わった。
時計を見ると定時で帰る時間を一時間もオーバーしていたが、これで少しは家にいる時間が短くなったと内心喜んでいる自分がいた。
ロッカールームで服をゆっくりと着替えて店を出る。
疲れているのはもちろんだが、家に帰るとあの女が待っている。出来れば少しでも一緒にいたくはない。
自分の家なのに帰るのが嫌になるなんて、これほど辛い事はないな。
近くのコンビニに入り、店員に変な目で見られないギリギリの時間まで雑誌を立ち読みする。
最初のページから最後のページを目で追い続けるが内容は全く入ってこない。ある時は同じ雑誌を二回続けて読んでいた時もあった。
出来る限り時間をつぶしたところで、今日の分の夕飯を買ってから鉛の靴でも履いているような重い足取りで家に帰る。
「お帰りなさい」
出迎えを無視し、靴を脱いで中に入る。
「夕飯作ってあるけど……食べる?」
拒否されるのが分かっているからだろう。躊躇いがちに聞いてきた女の問いに、僕は無言で首を左右に振って答えた。
女は「そう」と一言だけ残すと、そのままリビングへ引き下がった。
近づいて話しかけられるのも嫌なので、その場に鞄を置いて、買ってきた弁当を電子レンジの口の中へ放り込む。
レンジが低い唸り声を上げながら弁当を温めている間、僕はゼロに近づいて行くカウンターを眺めていた。
「いただきます」
唸り声の中で女が食前の祈りを捧げる。変わった事が一つあった。
今まで食べたところを見た事はなかったのだが、ここ数日毎日のように彼女は自分の作った料理を食べるようになっていた。
最初から作らなければいい。もしくは捨ててしまえばいいのに、勿体ないと考えているのか作った料理を黙々と食べていた。
見えた横顔はどこか悲しそうで『作るな』と言える雰囲気でもない。
レンジが温め終わった事を告げてきたので蓋を開け、温かいはずなのに何か物足りない弁当を飲み込むように平らげた。
食べ終えて部屋に戻ったら何もせずに寝巻きに着替えて布団に潜り込む。
「ごちそうさまでした」
女が後片付けと洗い物を始めた音がした中、僕は早く出て行ってくれと念じながら眠りにつく。
会話のない日々が続くある日、気になるニュースが僕の耳に飛び込んできた。
『……深夜に電柱が折れているのが発見されました。通報を受けた警察では衝突したと思われる車を捜索するため、付近の防犯カメラの映像を解析しており……』
自分の働くスーパーの近くで起きたらしく、映像には折れた電柱の先端が地面について、千切れた電線が力なく垂れ下がっている。
電柱が折れた事で停電が起きたようだが、幸い僕の家は無事だった。
もしかしてと思い店に確認の電話を入れる。停電は免れて通常営業との事。残念だ。
たとえ休みになったとしても女がいるので結局は外に行くしかないのだが。
仕事が休みになるかどうかしか頭になかったせいで、女が口に手を当てて食い入るように、件のニュースを見入っていたことには気づかなかった。
今にも落ちてきそうな灰色の雲の下を歩いていると、ニュースで報道されていた例の電柱が目に入った。
周りには野次馬やテレビ局が集まり、警官に守られるように電力会社の社員が修復作業に当たっているようだ。
その隙間から電柱が真っ二つに折れているのが目に留まった。
テレビでは車がぶつかったと報道されていたが何だか違和感を感じる。
確かに電柱は折れているのだが、その折れた部分はまるで握り潰されたように僕には見えた。
いやいや、電柱を握りつぶせる人間なんているわけないだろ。自分の考えに思わず吹き出してしまう。
だが何日経っても、電柱を破壊したと思われる車両は見つからず、自ら出頭する運転手も現れなかった。
それから数日の間、周辺では物が壊れる騒ぎが相次ぐ。
大きな拳で殴られたように駐車場のフェンスが凹んで道路が陥没し、駐輪場の原付や自転車がまるで放り投げられたように道路に散らばっていた。
近くに住む主婦達はその話題で持ちきりになっているようだけど、人が死んでいるわけではないし僕の物が壊されているわけではない。
いずれ収まるだろうと高を括っていた。
本当に事態を重く見ていたのは僕の家にいる女だけだった。
電柱が折れた騒ぎから数日後。
出勤のスキャンをする為にカードを取り出そうと鞄を開けた時、見慣れない物が入っているのに気づく。
大きさは掌に収まるほどで、引き出物等で使われるボンボニエールに似ている。
こんなもの入れた覚えがないんだけれど……。
中身を確認しようとしたところで、自分が出勤前だったことに気づき後回しにする。
その日の休憩時間にロッカールームに戻って、あの容器を調べてみることにした。
手に持ってみると軽く、不細工な僕の顔がはっきり映るほどに磨かれた銀色が蛍光灯の光を淡く反射する。
丸い容器に何も書かれていないのを確認する為に上下左右を見ていると、中で微かな音がした。
耳元で振ってみると中の物がぶつかり合う音、何か入っているらしい。
女性が使うコンパクトのように蓋を開閉させると、凸凹状の突起がある小さな物体が入っている。
一つを手に取ってみる。桃色のそれは砂糖菓子のように見えた。
子供の頃、おもちゃのおまけがついたお菓子によく似ていて必死に記憶を手繰り寄せる。
何だっけ? そうだ金平糖だ。
正体が分かったところで問題は解決していない。どうして僕の鞄の中に入っているのか。
災害に備えての非常食にも使われるらしいが、そんなものを自分で用意した覚えはない。
じゃあ犯人はあの女だ。僕が気づかぬうちに中に忍ばせたに違いない。
だけど何のためにそんな事をした?
いくら何でも知らないうちに入っていたものを食べたりしないのに……まさか毒でも入っているのではないか。
そんな考えが頭の中を駆け巡り、持っていた金平糖を容器の中に戻してすぐに蓋を閉めた。
捨てようと辺りを見るもロッカールームにゴミ箱はないし、万が一誰か拾って食べてしまって何かあったら僕の責任になってしまう。
しょうがなく自分の鞄の中にしまうと、トイレに駆け込み、金平糖を触ってしまった指を石鹸とアルコールを使って入念に洗った。
洗い終えた時には貴重な休憩時間が終わってしまった。
本当は毒なんて入ってなく、僕を怖がらせるためにこんな悪戯を仕掛けたのかもしれない。
だとしたら成功と言えるだろう。
毒物だったかもしれないしという疑問と休憩が丸々潰れたという二つのストレスが心を締め付ける。
僕は女の行動の目的を推察する事で、毒物に対する恐怖を少しでも和らげようと努めた。
手を洗って何時間経っても指は変色せず、身体にも異変は起きなかった。
命拾いしたことに安堵すると、今度は何故こんなものを忍ばせたのか女から聞いておきたい衝動に駆られた。
でも答えを聞く前から僕の気持ちは心なしか軽くなっていた。
昨日までの僕は例えるなら死刑を言い渡されて、首に縄を巻かれたまま放置された状態だった。
それが今、首の縄がキュッときつく締まったところまで来たのだ。後は女が足元の床を開けるスイッチを押してくれるだけだ。
仕事を終えた僕は寄り道せず足早に家に向かう。
この時は食欲も怒りも湧き上がらなかった。心の中を占めていたのは、そう開放感だったのかもしれない。
早く帰りたい一心だった僕は、暗闇から小さな影が飛び出てきた事に気づくのに少し遅れてしまい、思わず踏みつけそうになってしまった。




