ハイチュー馬超1
なーんかねー、陳先生ないっすよ。
足りてない。愛。馬超への。
なので自分が典略に基づき補足するっす。
馬騰が守備隊になったのが建安十五年。
このとき馬騰、自分の加齢を理由に、
過酷さがマシな内勤を希望したそうっす。
一方この頃、曹操が丞相、
つまり人臣のきわみに就任。
そこで人材マニアの曹操、馬超を
自分のもとに呼びたいと思ったっすが、
あっさりふられたっす。
その後馬超は鍾繇のもとで
郭援討伐に出向くっすが、
ここでアクシデント。
右膝に矢を受けてしまってな。
けど馬超、矢傷を縛るとそのまま戦い抜き、
龐德に郭援の首を取らせる大殊勲。
その後、徐州刺史だとか、
諫議大夫に任命されたそうっす。
って徐州? 遠すぎじゃないっすかね?
ともあれ韓遂とケンカした馬騰が
長安入りをしたとき、そこでは馬超の弟、
馬休が奉車都尉に、馬鉄が騎都尉になり、
しかもその家は鄴にまで移されたっす。
ものすっげー雑に中国を東西に
五分割したとき、涼州、長安、鄴って、
西から一、二、四番目っすよ。
曹操、馬騰の家族を
あんまひとところに
置きたくはなかったみたいっすね。
《典略》曰:十(五)年,徵為衛尉,騰自見年老,遂入宿衛。初,曹公為丞相,辟騰長子超,不就。超後為司隸校尉督軍從事,討郭援,為飛矢所中,乃以囊囊其足而戰,破斬援首。詔拜徐州刺史,後拜諫議大夫。及騰之入,因詔拜為偏將軍,使領騰營。又拜超弟休奉車都尉,休弟鐵騎都尉,徙其家屬皆詣鄴,惟超獨留。
《典略》は曰く:建安十五年に徵され衛尉と為れるに、騰は自ら年の老いたるを見たるに、遂には宿衛に入る。初にして曹公の丞相と為れるに、騰が長子の超を辟せど、就かず。超は後に司隸校尉が督せる軍に從事さるところと為り、郭援を討ち、飛びきたる矢に中たる所と為れど、乃ち其の足を囊囊たるを以て戰い、破りて援が首を斬る。詔され徐州刺史を拜し、後に諫議大夫を拜す。騰の入りたるに及び、詔に因りて拜して偏將軍と為り、騰が營を領せしむ。又た拜して超が弟の休を奉車都尉と,休が弟を鐵騎都尉とし、其の家に屬せるを皆な徙して鄴に詣でしむも、惟だ超は獨り留まりたり。




