1章 バカとバカ(7)
「さあ北野くん、脱出できるものならしてみるがいい!」
考えたが、やはりこれくらいしかない。
「それじゃ遠慮無く」
えっ、と言葉を漏らす大吾に背を向け、健斗は扉の反対方向に思いっきり駆け出す。
「おい何をしている、そっちは……」
「窓しかねえから走ってんだよ! おい、冬宮!」
「は、はい!」
顔は向けず、健斗は春香に声をかける。目的の場所まであと、五歩。
「お茶美味かった! 羊羹も! ありがとな!」
「い、いえ、私こそ、今朝はありがとうございました!」
振り返らないままブンブンと手を振る。あと、三歩。
「またどっかで会えりゃいいな!」
「そうですね! って、あの、北野さん、ここは三階……」
左足をバネのように使って跳躍する。あと、一歩。
「じゃあなー!」
「き、北野さん!?」
「北野くん、君は一体何を――」
「……うっそぉ……」
三者三様の声を背に受けながら、健斗は拳を振り上げ、
「オラァっ!」
思いっきり目の前のガラスに叩きつける。
パリィ――……ン。
ガラスが砕け散る小気味良い音が響き、それを耳にしながら体が窓枠を貫く。
日差しが直接目に入り、思わず目線を下に向ける。眼前に広がるのは、校庭で遊んでいた数十人の生徒たち。ガラスが割れる音を聞いてこちらに目を向けた人々は、誰もが驚きの目で健斗を見つめていた。
彼らに向けてブイサインを一瞬だけ出し、落下の衝撃に備えて着地体勢をとる。
そして重力に引っ張られ、健斗は地面に向かって落下した。
*
「北野くぅううん!? すまない、殺すつもりはなかったんだ!」
会長が窓に駆け寄る。割れたガラスが散乱していることなど気にしていなかった。もちろん春香もそんなことは気にせず、急いで会長の隣に並び、窓から下を見下ろす。
「くぅっ、まさかこうなってしまうとは……思慮不足だったか、俺としたことが!」
「北野さーん! 大丈夫ですかぁー! 今救急車を……あれ?」
大声を出してから春香は気付く。確かに北野健斗は窓の外にいた。しかしどこも痛がっている様子はなく、笑顔でこちらに向かって手を振っている。
春香は二、三度まばたきをして、現実を確かめてから声を出した。
「……会長。北野さん、平気そうです。ピンピンしてます」
「ここは俺の死を以って償い……は? そんなバカな、ここは三階だぞ? 頭から落下するに決まって……うそん」
会長が間抜けな声を出す。春香は半年以上この会長と一緒に働いているが、これほど間の抜けたような声は聞いたことがなかった。
「え、マジ? 彼無事だったの? てっきり死んだかと……」
「そう思わないほうが無理ですよ、こんなの……」
里美の疑問にもしっかり答え、腰が抜けてその場にへたり込む。無事で良かったという気持ちと、北野さんは凄いなぁという感想以外は頭から飛んでいた。
「北野くん……やはり君は強い男だ。……やっぱ欲しいなぁ、俺は諦めんぞ」
「かいちょー、まだ諦めてないんですか? 反省は……」
「しない」
「ですよねぇー……はぁ、心臓止まるかと思った……」
さっきまで面白がっていた里美はもう懲り懲りのようだ。春香としては嬉しいことだが、できれば会長も更生してほしかった。
これからきっと、健斗は会長に沢山迷惑をかけられるだろう。瀬戸海大吾という男にロックオンされるということは、間違いなくそれを意味している。そして、恐らく自分も振り回されることになるだろう。春香には会長を止められる自信がなく、少し歯がゆい気分になる。
(でもちょっとだけ、楽しそうかな……とか思ったり、しますね)
「……あ、かいちょー、このガラス、どうします?」
「あー……風子くん、片付けて……って、気絶してる……」
「さっきのを見れば無理ないですよ……私が片付けますから、弁償は会長、お願いします」
「金のことなら任せろ……ふぅ」
とはいえ、普段あんなにうるさい会長の声に珍しく覇気がない。どうせ放課後になれば、遊びながら騒ぐ生徒会長が復活するだろう。つまり今は会長に振り回されることのない、文字通りの休み時間だ。せっかくのこの時間を堪能しておくため、壁に寄りかかり、ゆっくり息を整える。
ぼーっと天井の照明を眺めながら、春香は思うのだった。
あー、そういえばどこのクラスか聞くの、忘れてましたね……と。




