第十一話 『恐怖の龍』
全身が石化したように動かない。いや、正確には動いている。が、それは震えであり、足裏だけが微動だにしないのだ。
目の前に迫る『恐怖』に対し、立ち向かうどころか逃げることさえできない自分はなんと愚かなのだろうか。頭の中では必死に動けと叫んでいるのに、身体が言うことを聞かない。
一瞬思考が白に染まる。が、すぐに黒に塗りつぶされる。働くのは考える脳と、動物的な本能だ。
目の前の世界がスロー再生されているように見え、コンマ数秒がとても長い。瞬きする余裕もなく、『恐怖』が口を開くのがわかった。
鋭い牙。鋭利なそれは、リュウキの腹を秒もかからずに捌けそうだ。一本一本が異常な程に長く、犬歯と呼べるものだけが特に長い。
熱い息は、ドライヤーを顔面に浴びるような風圧と熱を帯びている。いや、もはやそれ以上。しかし、それを浴びても背に感じるのは冷や汗だ。
長い舌を伸ばし、唾液の混ざった牙が妖しく光る。
そのまま『恐怖』の舌先が自身の顔面に近づき、目の前がだんだんと暗くなっていきーー
「え、え?」
視界が急激にクリアになる。頬に当てられる湿っていてざらついた感触。頬が上下に動いている。そこでやっと、リュウキは自分が龍に舐められていることに気づいた。
愛おしむように、慈しむように、優しい舌先の感触に、リュウキはしばらくの間動けなかった。舌先が離れても、リュウキは驚きを隠せないでいた。
無が。停滞した時間が、唐突に動き出した。音が聞こえ、色が戻ってくる。龍しか見えなかった景色に、壁や地面が見え始める。その光景に、リュウキの頭が冷えていく。
「リュウキ……大丈夫?」
二人からの視線を感じ、リュウキは慌てふためく。
「お、おおお!? 大丈夫大丈夫」
「凄い驚いてたみたいだけど……」
心配げに見やるソフィア。ソフィアはリュウキほど驚いていなかったようで、すぐに他人を気遣えた。それを理解し、自身の行いへの恥辱がどっと噴き出してきた。簡単に言うと、俺だけが無駄にビビりまくってたということだ。
「べ、別にビビってねぇし! ちょっと急に顔が近づいてきたから動けなかっただけだし!」
「それを驚いてるっていうんじゃないの……」
リュウキ自身、自分でビビってることを自白している感じがして口ごもるしかない。心配して損した、というような呆れ声のソフィア。しかし、それでも訂正しなければならない。男の小さなプライド的な意味で。
「ち、違うんだよ! えーと、そう、龍の偉大さに動けなかっただけだよ!」
「その言い訳……すごく苦しいと思うよ……」
フォローしきれないリュウキの言葉にソフィアは苦笑い。黙っていればよかった、とリュウキは後から後悔。
「確かに驚きすぎだね。まぁ、俺も驚いたには驚いたからあまり茶化すことは出来ないね。正確には、リュウキと同じ類の驚きではないけど」
目で馬鹿にされた気がしてリュウキは顔を引きつらせる。
「うるせぇよ。お前の驚きもどーせ俺と同じだろ?」
ついに自分で驚いたことを認めたリュウキにヨルムは苦笑。そうして龍に視線を向ける。
「この龍が自分から近づいてくることはほとんど……俺が今までに出会った人の中ではいないんだ。だからこそ、君がこの龍に懐かれていることに驚かされたんだよ」
その言葉に、リュウキとソフィアも龍へ視線を向ける。龍は三人の会話の邪魔にならないようにしているのか、舐めるのを止めていたが、未だリュウキを気にかけているようだった。
リュウキの自然に気づくと微かに笑っているような気さえする。
「俺こいつと出会ったことなんてねぇんだけどな……ってか今までに出会ったことあったらそれはそれで怖すぎるけど」
異世界召喚一日目にしてこの懐かれよう。本当に出会った記憶が無い。もし日本の中で出会ったものなら写真を撮りまくっていただろう。いや、逃げてるだろうか。まぁ、悪い気はしないし、むしろ安心感が芽生えてくるので異様だ。
そんなことを考えているリュウキは、その考えを一時中断するしかなかった。リュウキの周りに人だかりができる。龍の行動を見てたのは三人だけではないのだ。その証拠に、リュウキを囲う人々は目を輝かせている。
「え! なんでリュウキにこんなに懐いてんの!?」「やっぱリュウキってすげぇ!」「昔何かーー」「リュウキはーー」「そのーー」
「だからうるせーっての!!」
耳を抑えてしゃがみ込む。生徒全員が顔を近づけて話しかけに来るので、こうでもしないと鼓膜が破れる。
「あーあー」と声を出して拒絶の姿勢をとるリュウキに生徒全員が動揺。
そんな中、
「声がこちらまで響いてきました……授業中ですのでお静かに」
モノクルの位置を直してため息をつくフォルク。そちらを見やると、奥にいた二人の教師も苦笑いを浮かべていた。
「やべぇ! 第一印象最悪にしてしまった人が二人 内申点に影響がぁぁぁ!」
「内申点って言うのがよく分かんないけど……リュウキだし大丈夫だと思うよ」
「それってどういう意味で!?」
視線をそらすソフィアにリュウキは泣き真似。下手すぎてソフィアに引かれたので本当に泣きそうだ。
「リュウキへの対応の仕方がだんだんわかってきたところで、自由時間は終了です」
「なんか物申したいところがあったんですが」
リュウキの言葉にフォルクは視線をそらす。女性二人にこの対応。そろそろ泣いていいんじゃないだろうか。
よし、泣こう。泣き喚いてなんかしてもらおう。人間としての、男としての大事な何かを失いそうな気がするが。
『ーーーー』
「ーーっ」
「リュウキ?」
「ーーーー」
「どうされました?」
リュウキの異変に、ソフィアが名を呼ぶ。それでも尚、沈黙を守るリュウキにフォルクが疑問を口にする。
「いや……えっと……声、聞こえませんでした?」
二人に問いかけられ、やっとリュウキは口を開く。が、その口調は重々しい。
「いえ? 皆さん静かにしてくれていますし……別に何も」
そうですか、とリュウキは頷く。が、その表情は優れない。
リュウキの異変の原因。それは声だ。声が聞こえたのだ。その声は遠くから聞こえたようで、近くから聞こえた気がする。鮮明に聞こえたようで、ノイズの混じったようにも聞こえた。そもそも、声なのかもわからない。空耳だったのだろうか。
否、声は聞こえた。
声が鼓膜を震わせた瞬間、リュウキの喉は凍ったのだ。龍と対面した時以上の何か。恐怖などという言葉では語れないほどの何かを、リュウキは感じたのだ。
全身の毛穴が開くような感覚。汗という汗が流れ尽くすような感覚。一秒ほどの時間が、何百年のような長い時間に感じたあの瞬間。
聞きたくない音。聞いてはいけない音を聞いた気がする。
違うーー問題は声ではない。声を聞いて不快感は確かに得たが、この恐怖は声だけでの問題ではなかった。
嫌な予感だ。何か、有り得ないような異常事態が起こる。根拠の無い、それでも本能的な何かに警告を発信されている。わかる。何故かわかる。この後、全員が畏怖してしまう何かが起こると。
それを自覚した途端、言いようのない不快感が、リュウキの全身を締め付けた。痛みと苦しみに、リュウキの全身が震え出した。膝が笑い、歯が噛み合わずにカチカチと音を鳴らす。
龍との対面などと比べられない。比べることすらおこがましい何か。過呼吸になり、目の前が白くなる。黒くなるはずの景色も、白いままで変わらない。
恐怖が脳を締め付ける。今までのスケールとは比べ物にならない恐怖に、リュウキは押し潰される。
音一つでこの異常な恐怖。自身の行動の真意が読み取れず、リュウキは困惑し始める。
リュウキの異変にその場にいた全員が動揺する。
「ど、どうしたの!?」
「ーーーー」
ソフィアがリュウキに寄り添い、声をかける。しかし、リュウキには聞こえない。
ソフィアがリュウキの手を握り、懸命に寄り添うが、手を握られている感覚も感じられず、ただただ震えるばかりだ。
「リュウキ、何があった!?」
「これは一体……」
「う……あ……やばい」
そのリュウキに、ヨルムも声をかける。フォルクはこの事態への疑問を問う。生徒達もリュウキへ問いかける。そこでやっと、ゆっくりとリュウキがその口を開き始めた。しかし、声に含まれた恐怖に、その場にいる全員が事の重大さを察す。
全員がリュウキを気にかけている中、異変がリュウキ以外にも訪れた。
「ーーーーッッッ!」
咆哮が上がる。轟音が大気を揺るがし、大地を揺らし、音としての常識を外れる。
もはや破壊行為のような音に、その場にいるもの全員が耳を塞いだ。それでも尚届く音に、本能が足をすくませる。誰かが膝をつき、次第にそれが連続していった。
全身が粟立つような感覚。怒号を拒絶したい一心で、全員がさらに強く耳を抑える。そして、頭上を見上げ、呆然とした。
咆哮の主ーー龍が激昂し、目を血走らせてこちらを睨みつけていた。




