プロローグ
プロローグ
1905年5月27日対馬沖
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出撃、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
この日、この後の世界の運命が変わった。
「皇国ノ荒廃此ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」
対馬沖で展開された歴史的な海戦は、後に日本海海戦と名付けられ人々の記憶に残ることになる。
そして皇国のみならず世界の運命をも変える一戦となったのだった。
奉天会戦や旅順攻略によって勢いづく小癪な日本軍の息の根を止め、東洋の覇者たるのは自分達であるとの認識を持たせるべく遥々15000海里もの遠路を超えてきた世界最強を謳われるロシア海軍バルチック艦隊は、東洋の島国であり近代化が開始されてからまだ半世紀も経っていない大日本帝国の連合艦隊と対戦したのである。
しかし、バルチック艦隊は、無理を押した行軍がたたり、兵の士気は、最悪と言って良いほどに下がっていた。
そんな中で指揮旺盛な連合艦隊と戦わねばならなかったのである。
そして結果はバルチック艦隊の惨敗に終わる。
38隻のうちの9割以上を失う大損害を受けたのであった。
そして帝国陸軍は、満州の地に援軍を送ることに成功する。
そしてこれはボディーブローとなってロシア軍を襲い、結果的に極東ロシア軍は、満州からの撤退、もしくは降伏という事態に陥ったのである。
世界は、このことから戦艦こそが戦争の雌雄を決する平気であると確信することとなった。
そして日本軍がロシア軍を打ち破り敗北まで追いやった事が後の世に少なからぬ影響を及ぼすことになってしまう。
1941年12月9日太平洋上某海域
鈍色の輝きを放つ艨艟たちが、太平洋の波をかき分けて進んでいた。
振りかざされたその巨砲は、まさに大日本帝国海軍が世界有数の海軍である証であった。
そして、後数時間もすれば水平線の彼方にその姿をあらわすであろうアメリカ海軍もまた、帝国海軍と肩を並べる戦力を持っていた。
今まさに、この海面では、今まででに類を見ない巨弾が飛び交い、鉄と鉄がぶつかり合う。
そんな光景が繰り広げられようとしていた。
そんな中で一人の男が現時点において、帝国海軍最強であり、世界各国の有力な海軍の中でもっとも巨大な主砲、すなわち46センチ砲を搭載する戦艦山城の射撃指揮所で仁王立ちしていた。
「ついにこの時がやってきた。この山城が、ひいては我が帝国海軍こそが世界一であることを世に知らしめる時が。」
この男は、戦艦山城の全ての主砲を統括する立場にあった。
正式な所属と階級を言えば、大日本帝国海軍第一艦隊第一戦隊二番艦戦艦山城砲術長高橋雄次中佐である。
この時代において戦艦とはただの戦力としてではなく砲艦外交の名の通り武力を背景にした外交戦略の一つであり、また、国威発揚の象徴であり、国益の確保に必要なものだった。
そしてその巨砲が奏でるのは凱歌か否か、神ですらそれを知らない。