初めての体験
停留所で馬車を回収したおれとエクトルは、帝都イベルタルを出て、街道を進んでいた。
御者はエクトルだ。ほんと、何でも出来る人だな。こういう人、1社に1人はいるものだ。
馬車は手綱を持つ人が座る席があるだけで、後ろは荷台になっている。なので、おれは手綱を握るエクトルの隣に座っている。
「エクトルってなんでも出来るんですね」
「馬車のこと?」
「はい」
「はは、馬を走らせるだけなら簡単だよ。こうやって手綱を握っておくだけでいいんだから。あとは進行方向の指示と、止まれの指示かな。本当に難しいのは馬をここまで言うこと聞くように調教する人たちだよ。試しに握ってみる?」
「い、いえ、遠慮しときます」
さすがに何も知らないおれが手綱を握るわけにはいかない。下手したら馬が暴れるかもしれないし。余計なことはしない方がいいだろう。
「心配?」
「そうですね。わたしが下手に握って馬が暴れてしまったらと思うと、怖いです」
「それなら大丈夫だよ。僕が後ろから教えてあげるからさ」
「え、それは……」
にこにこしながら言うエクトル。
まあ、彼に悪気はないのだろう。だが、さすがにエクトルに膝の上に座るのはまずい。色々とまずい。特におれのプライドがまずい。今は女の子の身体かもしれないけど、元は男なわけで。いくらこの身体でも男の膝の上に座るのは躊躇われる。
「さ、ほら」
「あ、うー……」
やばい。エクトルがウェルカムモードだ。非常に断りづらい。
というか、女の子をナチュラルに膝に座らせるとか、どんなイケメンだよ。おれですらやったことないよ。てか世の中の男の9.5割が出来ないよ。
「やらなきゃ、ダメですか?」
「無理にとは言わないけどね。でもまあ、何事も経験って言うだろう? やってみて損はないと思うよ」
「それは、確かにそうですね。でも、エクトルはいいんですか? わたしなんかを、その、膝に座らせても」
「何を言い出すかと思えば。そもそも嫌ならこんな提案しないよ」
それもそうか。
御者のマネごと、こんな世界でもないとする機会はなかっただろう。
ここはもう開き直ってしまっていいかもしれない。おれはエクトルの膝の上に座るのではなく、手綱を握る体験をするのだと。そうすれば、おれのプライドも守られる……だろう。
ちゃちなプライドである。笑っちゃうぜ。
「わかりました。そう言って頂けるのなら」
「うん。おいで」
「は、はい」
エクトルの手を取り、落っこちないように慎重に。
おれはちょっぴりドキドキしながらエクトルの膝の上に座った。
なんだか不思議な感覚だ。男の時だったらあまり良い気はしなかっただろうが、今のおれにはむしろ良い気分だった。
「さ、握って」
「わかりました」
っと、目的はエクトルの膝に座ることじゃない。手綱を握ることだ。
人生初の体験だ。しっかりと噛みしめてやろうじゃないか。
「お、おぉ……」
握った。握ったぞ。
手綱握ってるじゃんおれ!
ホントに握ってるだけでいいのか。すげー。
変な緊張で心臓バクバクだけど、おれが馬を操ってると思うと、感無量である。
「どう?」
「よくわからないですけど、わたし、握れてます」
「はは、それはよかった。それじゃあ、少し命令もやってみる?」
「お、お願いします」
「よし、それじゃ手綱をゆっくり引いてみて」
「はい」
言われた通り、手綱を慎重に引く。
すると、馬は徐々に減速し始めた。
「良い感じだね。そのままもう一回強めに引いてごらん」
「わかりました」
ぐっと力を込めて手綱を引く。
すると、今度は馬が制止した。
「おぉ……」
「なんとなくわかったと思うけど、手綱をゆっくり引けば減速、速度を落として強く引けば制止。調教次第だけど、基本的に馬車用の馬はこんな感じだよ」
「なんだかすごいですね」
言うことを聞いてくれる馬。
それを育てる調教師。
どっちもすごい。これが異世界か。いや前世にも馬車はあったか。ただ乗ったことないだけで。前世の時代はクルマ移動が主だったからなぁ。馬車なんて時代も違えば文化も違う。
「ありがとうございました」
「もう大丈夫?」
「はい。満足しました」
手綱をエクトルに返し、おれは元の位置へ戻った。
ふと後ろを見ると、荷台には何も荷物が積まれていない。
広々としたスペースがあり、寝転ぶこともできそうだ。
「マーハ、どうしたの?」
「えっとですね、荷台に何も乗ってないなーと思いまして」
「ああ、そういうこと。今回の納品は大物じゃなかったからね。報酬は良かったんだけど」
「大きな物を運ぶこともあるんですか?」
「滅多にあるわけじゃないけどね。それでも大きな荷台はあるに越したことはないんだ」
「なるほどです」
大は小を兼ねるともいうしな。
持つべきものは大きいものってことか。わかるわかる。
「そういえばさ、ちょっときいてもいい?」
「はい。いいですよ」
「マーハって記憶がないんだよね? 自分が魔族だということもよくわかってないってことでいいのかな? 確認しておきたいんだけど」
「そうですね。私が何者なのか、私自身が把握できていません。元々魔族であったのか。それとも人間だったのか。どうして片目にしか紋章がないのかも覚えていないんです」
正確には、前世の記憶はある。
だけど、この世界でどうして女の子の姿なのか、どうして魔族という種族になってしまったのかは、皆目見当もつかない。気付いたら、あの洋館の地下で倒れていた。それだけが事実だ。
「そんな人間を助手にしようと考えるエクトルは、だいぶ変わり者ですよね」
「はは、そうかもね。でも、マーハには運命を感じたんだ。小太刀の件もあるけど、見た瞬間に、この子だ、って思った。それは本当だよ」
真顔で言うエクトル。
さすがに運命とか言われたら照れる。こっちは職にありつけるだけで万々歳だというのに。しかも住居付ときた。条件としては破格だ。
こんな身元不明のしかも魔族という忌み子、普通なら雇ったりそばに置こうと思ったりしない。だというのにエクトルは住む場所まで用意してくれた。お人好しもここまでくればただのバカかもしれない。それでもおれは、エクトルに頭が上がらないわけだけど。
「エクトルには感謝してます。あのまま1人だったら、多分のたれ死んでました。お金も何ももってませんでしたから」
「いや、僕もマーハと出会えてよかったよ。ちょうど一緒に仕事を出来る仲間を捜していたところだったからさ」
「そうだったんですね」
渡りに船……とはちょっと違うかもしれないけど、このタイミングでの出会い……エクトルの言う運命もわからないでもない。おれは職と居場所を探していて、エクトルは助手を探していたというのならなおさらだ。
川辺の景色を眺めつつ、馬車はゆっくりと進む。
聞こえるのは鳥の鳴き声や水のせせらぎ。
世界に2人だけになったかのような感覚。
平和である。とても平和。
前世では考えられなかった。とても穏やかな時間。
「そろそろ小さな村が見える頃だね。今日はそこで一泊して、それからエルクラークに向かおうか」
「わかりました」
それからしばらく進んで、エクトルの言う村で休むことになった。