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9.「舞踏会」と書いてなんと読む

9.「舞踏会」と書いてなんと読む



 舞踏会の当日、公妃はその日、午前中は自室で読書などをし、静かに過ごす。

 ことになっている。


「おはようございます、ミス・コリンズ。お茶をお持ちしました」


 まだ朝も明けきらないほどの早朝のこと、ハウスメイド“アグネス”はすでに仕事に取り掛かっていた。

 上級職であるレディーズメイドの下へ朝のお茶を運んで行く。いつもとは逆だ。たまにはこういうのも面白い。


「アグネス!? あなたどこにいたの? ちょくちょく姿が見えないようだけど」

「ちゃんと働いてますよお。ええと、奥様から使いなどを頼まれていましたので、ロンドンへ来てからは外出してばかりでした。た、確かめてもられえば」

「……あなたロンドンは初めてじゃないの?」

「……そ、ですけど。ち、地図とか見て、なんとか」


 我ながら苦しい言い訳。


「……まあいいわ。お茶を置いて、そうね、アグネスには食堂をやってもらおうかしら。ミセス・ハントはいないし奥様はご不調だから、今日は私の指示で動きなさいね」

「はい! かしこまりました」


 今朝は起こしにも来るなと伝えてあるので、公妃の不在はお昼までごまかせる。精いっぱい働こう、半日だけでも。


 昨夜の晩餐の時に使った暖炉の灰をかきだし、磨き、新しい石炭を足す。調度品のほこりを払い、床をはいて雑巾がけしたらランプの手入れ。このタウンハウスの食堂にはガス灯が備えられているので、油を足す必要はない。ついでにいうと水道も、部屋にお湯を通すパイプまである。中世からかなり現代に近づいたということ。掃除の手間は変わらないけど。

 

 でも。

「ふー。爽快……」


 一部屋まるごと掃除したら、なんだか気分が晴れた。無心に身体を動かすと気分も爽快。それに掃除って、重労働だけど成果が目に見えてわかる。自分の手で、この豪華でヴィクトリアンな内装の食堂が綺麗に仕上がったのかと思うと、なかなかの達成感がある。


 次は図書室の掃除を命じられた。読むのか読まないのか不明な、膨大な量の蔵書を誇る部屋へ。でも私もアーサーも、ロンドンへ来てから図書室を使っていない。ようするに掃除する場所はあんまりない。はたきで本のほこりを払って終了。

部屋を出ようとしたとき声が聞こえた。


「――閣下、お車のご用意ができました」

「ああ、うん。わかった。今いく」


 危ない。公爵本人と鉢合わせするところだった。やれやれ。そっと静かにドアの内側に戻り、やり過ごす。アーサーって、今日は昼間も出かけるんだよね。

 物音が消えてから外をうかがう。ふと見えた、公爵の居間のドア前に置かれた小さなテーブル。


「ああ! またじゃないの、あの人ったら」


 思わず私は、アグネスの立場を忘れて小さく嘆いた。テーブルに置かれた物をひっつかみ、階段をテンポ良くかけ下りる。すぐに気づいて足音ひそめたけど。今のはちょっと、ヴィクトリア朝の女性にしては元気が良すぎた。


「アー……パ、パジェットさん。お待ち下さい」


 追いついたのは玄関ホール、呼ばれた従僕が何事かと振り返る。手にした物を差し出した。


「閣下のお忘れ物ではないかと。これを」

「忘れ物? ……ああ、手袋か」


 なんだそんなことか、とばかりにパジェットは軽く肩をすくめた。


「閣下の手袋なら予備をお持ちしていた。別にそんなに息を切らしてまで持ってこなくともよかったのに」


 仔ヤギ革の白い手袋。ぽいぽい物を置き忘れるアーサーの従僕のやることだ、紳士の必需品の予備くらいは持ち歩いているのだろう。じゃないと務まらない。でも。


「ええ、そうでしょうね。でも持って行ってもよろしいでしょう? どうぞ」

「……まあ。ではもらおう」


 出先でまた置き忘れないとも限らない。だから替えも持って行ってほしい。大事な場所へ行くんだから。


「ん? あれ、君は……」

「ではいってらっしゃいませ」


 気づいたアーサーがこちらの顔を見る前に、頭を深々と下げておいた。

 貴族院議員の公爵さまは、ウェストミンスター宮殿、つまり英国議会へと出席あそばす。



 領地とロンドンを行ったり来たりする上流階級、それはそもそも、国会議員でもある貴族たちが、開廷期には議会へ出席するため移動を繰り返す習慣から来ている。議員たちは自分の家族も連れて出るため、ロンドンにはその時期かならず上流階級が集まることになる。

 それが“シーズン”だ。


 その主旨はだんだんと変わり、来る目的は、単に遊ぶためか、上流階級の社交のためのものへと変化していった。それともちろん、結婚相手を見つけるため。


 そして、復活祭(イースター)休暇が終わった後、これからむかえるシーズン最盛期の始まりを告げるように開かれた、グリーナウェイ卿の舞踏会。出席者のうちでも未婚の男女は皆、良縁を探し求めてやって来ている。


「The Duke and Duchess of Gainsborough! (ゲインズバラ公爵夫妻!)」


 案内係(アシャー)のよく通る声が、新たに到着した客の称号を高らかに呼びあげた。


 階段を上がるとそこがホールで、今夜の舞踏会の会場だった。グリーナウェイ伯爵のタウンハウス。二間つづきの広いホールを開放し、部屋の隅に楽団を置いている。高い天井では、数えきれないほどの蝋燭かがやくシャンデリアが壮観。花や緑の鉢植えと金モールで室内を飾り、ホールの隣の小部屋には軽食を並べたテーブルが用意してあった。


 出席者はそろそろ出そろったらしく、アーサーは案の定呼ばれて、最初の一曲、カドリルで主催の女主人の相手を務めさせられていた。

 ああ、あのひきつった笑顔。余裕のないのが丸わかりだ。しようのない人。でもあれでも、一番地位の高い男性客らしい。


 とはいえ、私とアーサーはすでに既婚者だ。舞踏会に箔をつけるための存在で、ただの背景であり、ただの脇役。添え物ともいう。


「はー……。もういいだろう。言われた通り一曲は踊った」

「二曲と言いましたわ。あらでも、今夜は男性が少ないようですから、お嬢様方が壁の花にならないようあなたも協力してさしあげなくては」

「え。それはセアラ、約束が」

「ほら、あの水色のドレスのご令嬢。あの方はいかが、レディ・ミラベルよ。覚えてるでしょう、サージェント卿の次女」


 一曲目が終わった途端、どうにかして部屋のすみに逃げようとする。そんな夫を、私はそれとなくうながしてみる。


「サージェント卿の娘さんか」

「ええ」

「……足を蹴らないよう祈っていてくれ」

「わかったわ」


 知り合いの令嬢だったので、ボンクラ公爵はけなげにもダンスを申し込みに行った。やっぱりダンスは少々ぎこちないが、それが笑えた。

 すると、なかなか誘われず緊張していたらしいご令嬢の表情が和らぎ、レディ・ミラベルはお陰でその次の曲も、他のイケメン紳士から誘われた。アーサーの見事な当て馬ぶり、グッジョブだ。やるじゃないの。


 さて次は誰に、と目星をつけようと見回していたら。


「――ねえ。こんばんは」

「え?」


 いきなり声をかけられた。少し低めだけど、女性のもの。振り返ると三十代なかばとおぼしき貴婦人が私を見ていた。親しげに微笑んで。

 でも私に見覚えはない。


「……。ご無礼を。大変申し上げにくいのですけれど、お名前がとんでしまったようですの。どなた様でしたか、お教えねがえませんか」

「いいのよ、わたくしとあなたが直接話すのは今が初めてだから。あなたは悪くないわ、公妃(ダッチェス)

「……」


 なら初対面ということだ。

 私は少し、不審の目を相手に向ける。知人でもないのにいきなり声をかけるのは無作法だろう。私はこれでも公爵夫人……偽者とはいえ。


 黙っていたら、貴婦人はますます楽しげに笑う。


「あなたかわいいわね。わたくし、気に入ったわ」

「……それは光栄ですこと」

「ええ、あなたはもっと喜ぶべきよ。わたくしに気に入られたことを。だって」


 その黒髪の貴婦人が、その後なにを言うつもりだったのかはわからない。


「セアラ!」


 何事かと思うほど大きな声で呼ばれた。見ると、周囲を驚かせていることに気づきもしないアーサーだった。こっちに歩いてくる。


「アーサー?」

 何か困ったことでも起きたのかしら、と私のほうからも一歩踏み出す。すっかり顔色を変えた夫は、焦ったようにこちらの出した手を取った。何があったボンクラ君。


「足を蹴ってしまったの?」

「え。いや。ちゃんとよけてる」


 私の手を取ったアーサーだけれど、視線は他に向けられていた。

 それは、そう、さっきの貴婦人がいた場所。


「あら。どちらに行ってしまわれたのかしら」

「……それは、今きみの隣にいた人のこと?」

「ええ。なんだったのかしら、名乗りもしないで」

「そう。……名乗りもしないで、か」


 だけどその女性の姿はすでになかった。朽葉色のドレスの、あでやかな美貌の貴婦人は。


「アーサー?」

「え?」

「あの、いつまで手を」

「あ。ああ、ごめん。いや」


 何かに気を取られていた彼は指摘されて初めて、妻の手を取ったままの自分に気づく。手を離そうとして、でもやめた。やんわり引っ張られる。


「ちょっと。私は今夜はもう」

「君こそ最初の一曲しか踊ってないだろう。ずるいんじゃないか、それは」


 ちっ。ばれたか。

 ワルツの曲がかかっているホールの中央近くに引きずり出されてしまった。片手は手を、もう片方は腰に。見つめ合ったりはしないけれども、普段にない至近距離になる。

 ……夫婦なのに、これより近い距離になったことがあんまりないのもいかがなものか。


「どなたかしら」

「うん? 何が」

「さっきのご婦人はあなたのお知り合いじゃないの?」

「……」


 他人には聞こえない音量で話すには便利だ。でも相手は黙りこむ。往生際が悪い。

 さっき、すぐにはわからなかったけれど。私は、あの貴婦人の瞳の色を思い描いた。


「綺麗な紫色の目をしてらしたわ」

 

 黒髪の、この時代の女性としては、すでに年増と言われてしまう年代だった。でもあでやかな美貌が圧倒的な、まるで薔薇のような人。

 実は、この前田舎のカントリーハウスで見かけたあの「紫の美魔女」も、黒髪なのだ。あの美魔女、もしや自分の瞳と同じ色だから、あの色を好んで着ているのではないか。アーサーの愛人は。


 もしかして……私たちって、修羅場にいる? いま現在。


「その話は……またいつかということにしてくれ。今はほら」

「……そうね」


 アーサーは私を見ようとしない。ほんと、しょうがない男だ。ヘタレなんだから。

 でも、修羅場を演じている場合ではないのは私も認める。



 そんな私の内心を知ってか知らずか。てか知らないだろうな。


「はあ。やっぱりセアラとだとほっとする。ワルツだしちょうどよかった」

「ふうーん。へえ」

「君は蹴られないよう自分で避けてくれるからね。楽だ」


 しゃべる余裕が出てきたらしいボンクラは、こんなのんきなこと言ってくれちゃう。この不穏な空気、読めとらんのか。なんだこいつ。


「なんでこんなことしないといけないのか、いまだにわからないし」

「わからない?」

「そう、ダンス。男女でペア作ってお膳立てしたいのは理解できるけど、別に踊らなくてもいいじゃないか。こんな近い距離で、手とか腰とか触るのもどうなんだろう。親しくもない女の人の」


 いやだって、知らない男女同士を近づけるためだし。そんなに気が進まないなら私じゃなくて紫の美魔女と誘えばよかったんじゃないの、と言ってやるのはやめた。


「変なところで頭が固いのね。機械的にやればいいでしょう」

「でも緊張する」

「足を蹴らないように?」

「違う。いや、それもあるけど。恋人でもない相手といきなりっていうのが一番きつい。近過ぎないか。その点、やっぱり君だと緊張しないで済むな。気を遣わなくていいからほっとする、本当に」


 ほう。手を出してもいないくせに、すでに緊張すらしない相手なのか、私は。どういう考え方してるんだろう。


「アーサー。それって、私のことを女として見てないわね」


 カマかけたつもり。だけどこのボンクラは。

 一瞬大きく息をのんだ後、こう言いやがった。枯れかけたような変な声で。


「当たり前だろう……! 君をそんな風に見るもんか、冗談じゃない」


 は? 今なんてった。


 わかっている。こっちは偽者公妃、文句つけられる立場じゃない。本来ならダンスのお相手だってなんだって、本物のセアラ様がするべきだ。私じゃない。


 でもね。


(こいつ……信じらんない!)


 女として見ていないだと? 冗談じゃないだと? 言うにこと欠いてそれなのか。


 じゃあ今、私が名乗っているのはなんなんだ。「公爵夫人」の夫人って、妻のことを言うんじゃなかったっけ。何十年も連れ添った倦怠期(けんたいき)の夫婦ならともかく、私たちは結婚してまだ一年足らずじゃなかったか。


 偽者でも偽者なりに、できる限り尽くしているつもりの私。屋敷の維持管理に目を配り、領地の住民にも気を遣い、使用人を監督している。侍女だった私には不慣れな、上流階級の社交界においても全力でサポートしているつもりだ。猛勉強して。

 それはもちろんセアラ様のためでもあるけれど、目の前の「夫」のためでもあった。


 なのにアーサーは。いかに身体の関係がないとはいえ、全否定しやがった。


 女じゃないならなんだろう? 使い勝手のいい雑用係? 現代風に言うなら秘書? 心も身体も愛人に捧げているから、こっちにはひとかけらの関心もないってか。それが本音か。


「……ふんっ」

「いてっ!!」


 平手打ちしてやろうかと思ったけれど、お互い恥をかくだけなのでやめておいた。代わりに。


「あらごめんなさい。あなたの足を避けようとしたら、間違えたわ」


 力いっぱい、足を踏んづけてやった。かかとで。




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