6.春だ、ロンドンへ行こう
6.春だ、ロンドンへ行こう
そう、ロンドンだ。19世紀末ロンドン。憧れのロンドン! 季節は春、きゃっはうふふと浮かれていたい。無理だけど。
「ミセス・ハント。そろそろキッチンの壁の漆喰の塗り直させておいて。それと中国風の間だけど、絨毯とカーテンを新しくするように手配しておいたから。飾ってある磁器を割らせないように注意いしてね。
あとはそうね、使用人棟の床をリノリウムに変える件はどうなったかしら?」
「はい奥様。本館の掃除が済み次第、使用人に休暇を取らせて職人を入れます。しかし……よろしいのですか、一緒に家具や布類まで新調なさるとは」
軍曹風に直立した家政婦が、戸惑い気味に尋ねる。手厚くしすぎじゃないかと。
「いいわ。みんなよく働いてくれているもの、お返ししないと」
「……ありがとう存じます、みな喜ぶでしょう。お戻りの時には、一層身を粉にしてお仕えさせていただこうと、心待ちにしていることでしょう」
「こちらこそありがとう。頼んだわ、ミセス・ハント」
春の大掃除についての指示だけど、あんまりこと細かく言われてもやりづらいだろうから、このへんにしておこう。
今の私、公爵夫人は旅支度を整えて屋敷の玄関に立っている。
横には公爵閣下。まだ早朝なので眠いのか、半目になっている。この夫もまたきちんと旅の支度をしているんだけど、やっぱりたたずまいに威厳がない。平常運転のアーサーだ。
それとなく彼を促し、一緒に馬車へと乗り込む。ドアが閉まる前にはっと思い出し、御者の手をとどめた。
「ミセス・ハント、忘れるところだったわ。領地内にある聖ニコラス教会だけど、屋根の補修に寄付をしたの。工事が終わったら知らせてちょうだい、また花か、新しい祭壇の覆いでも贈りたいの。お願いね」
「承知いたしました奥様。よくお気のつくことで」
屋敷の使用人にも、領地内の人にも心象よくしておかないとね。セアラ様のために。
(せめてもの罪滅ぼしってやつだから。気にしないでねミセス・ハント)
とうとうこの日がやってきた。出立の日。ロンドンへの旅に出る。
憧れのヴィクトリア朝ロンドンをこの目にできるのは嬉しいけれど、その果てに待ちうける私の運命を思うとのんびりもしていられない。試練はこれからだ。
カントリーハウスの維持管理は家政婦に任せ、公妃は社交季節を過ごすため馬車に乗り込んだ。居並ぶ使用人たちに見送られて。すると。
「やあやあ公妃様! おはようございます、いや、こんなところにまでお邪魔して面目ございませんな。私は別の車でもけっこうだったのですが」
「おはようございます、ムッシュ・ヴェルネ。いいんですのよ、席は空いていますわ。どうぞロンドンまでおくつろぎになって」
一瞬おどろいたけれど、すぐに気を取り直してにっこり笑っておいた。
公爵夫妻の馬車に、なぜか同乗しているフランス人。先に乗っていたのだ。
「悪いねセアラ。ムッシュが一緒だと気が紛れそうだからさ」
「いいのよアーサー。乗り物に弱くていらっしゃるものね」
馬車が苦手なアーサーが、おしゃべり相手としてムッシュの同行を希望したのだ。
「私もムッシュ・ヴェルネのお話が聞きたいわ。自然科学の研究、でしたかしら」
興味のない話を聞き流す技術はある。それだけなら別にいい。いいんだけど。
(なにこの苦行)
すっかり怪しいフランス人になり切ったホームズと、公爵と私。え、なにこの面子。胃が痛いんだけど。いっそ自分から白状するべきなの? このタイミングで。
もしや逃げることのできないこの状況で追及する気なのか、と身構えていた。でも。
「おお、『ファーブル昆虫記』をお読みでしたか。あれは大変興味深い本ですな」
「子どもの頃にはまったんだ。フンコロガシの段なんか、お腹かかえて笑ったな。実際あの虫をどうしても見てみたくなって、探したんだけど……」
私の内心の焦りを知ってか知らずか、目の前の昆虫オタクたちは自分たちの話に夢中だった。ファーブルくらいなら私だって知ってるけれど、話はそこからもっと専門的な内容になっていく。もはや異国の言葉だ。
どういうつもりなのかさっぱりわからない。わからないんだけど、馬車の旅はそのまま続いた。放置プレイ?
(……ガイドブックとかあったらよかったのに)
放っておかれるのなら、ロンドンの予習をしておきたかったなあ。バッキンガム宮殿、大英博物館、ロンドンブリッジ、ビッグ・ベンにハイド・パーク。21世紀でも名所として有名なそれらは、もちろんこの時代にも存在している。あ、でも。
(そうだ水晶宮! 一目なりとも見たい)
世界初の万国博覧会、ロンドン万国博覧会の会場だった水晶宮は、この頃には移転されてテーマパークみたいになってたんだけど、21世紀には現存しない。
*
19世紀末、移動手段の主役はすでに馬車ではない。途中で乗り換える。列車に。公爵邸の最寄りの鉄道駅まで着くと、すでに駅長みずから迎えに来ていた。誰をって、公爵夫妻を。
「公爵閣下、並びに公爵夫人。お待ちしておりました」
「ああそう。で、何か用?」
「よ、用と言いますか。お席までご案内を務めようかと」
「なんだそうか。悪いねわざわざ。ええと荷物は」
「もちろんこちらでお預かりいたしますとも。ポーター!」
平常運転アーサーの軽い態度に、駅長のほうが困っている。うん、もう勝手にやって。
ついて来ていた別の馬車には、ロンドンまで同行する使用人が乗っている。アーサーは列車の出発時刻まで駅長室でもてなされるそうだけど、私は使用人たちと一緒に荷物の運び込みの監督をしていた。
「奥様。その、ひとつ困ったことが」
するとレディーズメイドのコリンズが、すっかり困惑していた。
「どうしたの?」
「その、お連れになるはずのハウスメイドですが。出発時刻になっても現れないので、置いてきてしまいました。どうしましょうか」
「ああ、アグネスのことね」
ごり押しでロンドンへ連れていくことになっていたハウスメイド“アグネス”。というか私の変装。
そりゃ現れないだろう。本人は公爵と一緒にいたんだから。そして今コリンズの目の前にいるんだから。
「ミセス・ハントから聞いているわ。大丈夫、あとから追いかけさせるから」
もちろんそんなことはない。でもそういうことにしておかないと。
「心配いらないわ。とにかくロンドンの家まで来ていたらそれでいいから。あの娘にも事情があるのよ、許してあげて?」
「そうなんですか? 奥様がそうおっしゃるなら……」
不審そうなコリンズ。自分よりも地位の低いハウスメイドの特別待遇に、不満も持っている。ちょっとまずい。なんか考えておかないと。
「ん……あれって」
駅のホームで、考えごとしながらなんとなく列車を見ていたら、知人の姿があった。しかも何やら駅員相手にもめている。行ってみた。
「失礼ですけれど、サー・ウィリアムではなくって? どうなさったのかしら」
「おお! これは公爵夫人ではありませんか」
頬髭の老判事だった。客人だったサー・ウィリアムだけど、公爵夫妻の出立に先だって自宅に帰っていたはずだ。ここで何をしているんだろう。
「実はこれからロンドンへ。今年は姪のお披露目で、今夜も祝いのパーティがあるのですが、すっかり忘れていましてな」
「あら、そうでしたの。おめでとうございます、良いご縁があるとよろしいわね」
「ありがとうございます。……しかし急に切符を取ったせいか、手配ミスがあったようで。一等席にも二等にも空きがないと言われてましてな、どうしたものかと」
なるほど。
サー・ウィリアムには好感持っているので、困っているなら力になりたい。屋根のない三等に押し込まれては気の毒だ。どうだろう、「ゲインズバラ公爵」の名を使えば席のひとつや二つ、用意できそうなものだけど。そうしようかな。
「そろそろ出発するから乗ってくれって……あれ、サー・ウィリアム?」
駅長に頼もうとしたら、今度はアーサー本人が来た。ちょうどいいことに駅長連れて。私から駅長に説明し、席を用意してもらおうとしたんだけど。
「なら僕らの客室に乗ればいいんじゃないか? 僕ら三人でも広すぎるくらいなんだから」
「いや、まさか。ご夫妻の客車にお邪魔するなど、申し訳ない……三人?」
「そう、三人なんだ。構わないよな、セアラ? ムッシュ?」
口を挟んだアーサー、用意させるどころか自分のところに招いてしまった。お人好しの公爵閣下は、旅のお供をどんどん増やすつもりらしい。
はっきり反対できる理由もないので、私はうなずくしかなかった。
こうして、一等客車の広くて豪華な客車は、ボンクラ公爵と偽者公爵夫人の仮面夫婦、それと変装の名探偵と老判事によって占められた。
旅の道連れにしてはわけのわからないメンバーだ。せいぜい半日だけどさ。