5.これはあなたの義務なのでは
5.これはあなたの義務なのでは
晩餐会に着たドレスは、上品な銀灰色の生地が綺麗なサテンのドレスだった。
イヴニングドレスはあんがい露出が多いけど、開いた胸元ぐらいなら別にいい。現代人だし、だいいち元の自分の身体じゃないし。
そういえば、VTの中での貴婦人のドレスはバッスルスタイルだ。ひらたく言うと、お尻のあたりの部分に詰め物をして、スカートの後ろだけふくらませた形のドレスで、長めの裳裾をひきずる。クリノリンで全体を広げた状態よりはましだけど、TシャツとGパンよりは動きづらい。そりゃそうだ。
さて。すでに晩餐は終了した。忙しかった公妃も、そろそろ営業終了を許されるはず。
自分の寝室でメイドのコリンズに手伝ってもらい、衣装を脱いで結い上げた髪をほどき、腰湯で軽く湯あみをして、顔のお手入れなんかしちゃって、それでやっと。
「ああ……やっと人間に戻れた。ふー」
自分でも大げさだと思う。でもそれが正直な本音だ。
この時代の女性の衣装に、どうしてもついて回るアレの件。
私はいま、あの悪名高いコルセットからやっと解放された。
一日中つけていた。公妃だろうが使用人だろうが、己の体型を良く見せる努力を女性たちは怠らないので。なら私もやらないわけにはいかない、たとえ21世紀的感覚が受け付けなくても。それでもゲーム内だからか、実物ほどの締め付けじゃないんだと思う。
白くてうっとりするほど柔らかい、綿地の寝間着に着替えた。フリルのついたベビードールみたいな物に、何故かホットパンツ並みの長さしかない下穿きをはく。(下穿きは普通、膝よりも長い。)
……この格好、着心地は悪くない。悪くはないけれど。
(恥ずっ。この歳でこれはきつい)
シルエットが透けそうなほど布地が薄い。それでフリフリ。
これ、はっきり言ってエロい。変にそそる、というかなんというか。
わかりやすいセクシー衣装でもないのに。かわいらしいフリフリ衣装なくせに、妙にいかがわしいから始末に負えない。本当の私の実年齢なんかは濁しておくけれど、猛烈ないたたまれなさがある。
何かを誘っているとしか思えない格好でベッドに入った私。
コリンズもすでに下がらせた。あとはもう寝るだけ。
(ね、寝ちゃおう。うん)
何しろ一日中働いていたのだ。メイドとして、公妃として。激務で身体はくたくた。もうただひたすら眠りたいのが今の正直な気持ち。ごそごそとシーツの間にもぐり込んだ。
さ、寝よう。目をつぶって、夢の中へ……。
――コンコン。
(……空耳空耳)
――コン…………コン。
四回目の音の前の長い間。その、ものすごくためらいがちな感じに私は負けた。
「……どうぞ」
「……どうも」
おずおずと声をかけて入室を許すと、それ以上におずおずとした態度の人がドアを開けた。
「ええと」
「アーサー。その、何か」
夜も遅い時刻、寝室へとやって来たのは平常運転と違う様子のボンクラさん。
公爵アーサーが、白いシャツとズボンにガウンを引っかけた姿で現れた。
人前以外の普段はいつもくしゃくしゃにしている黒髪を、今は綺麗に整えていた。向こうも入浴後なのか、何やら石鹸みたいな香水みたいな匂いがする。
夫妻の寝室は別々だ。だから、夜一緒に過ごそうと思うと、どちらかが訪ねないといけない。そして夫が来た。何をするためかって?
「……あのさ。レノルズが、言うんだ」
「……」
「たまには夜、君の顔でも見に行ってはどうかって」
なるほど。レノルズとは、公爵家の執事の名前だ。もういい加減おじいちゃんで、アーサーが生まれる前からその仕事をしている。幼いころから成長を見守られていたアーサーが、屋敷ではほぼ唯一頭が上がらない相手でもある。
頭が上がらない相手に言われたからこそ、私のところ、つまり妻の寝室を訪れたと言いたいらしいなこのボンクラは。すっきり身なりを整えられて。
(そう来たか……でどうする、アーサー?)
「私の顔を見に来て下さったのね? 嬉しいわ」
「……」
「それで……?」
表面上は笑顔で答えている私だけれど、内心は違う。とっても緊張している。鼓動はどんどん加速していく。だけれど、心のどこかで安心している私は、一度入ったベッドを出てみた。すごーく、ゆっくり。
ドアの前から動こうとしない夫だけれど、今の私の格好をしっかり目に入れたはず。この、ベビードールと下穿きのみの私を。簡単に脱がせそうな格好の、(ゲーム設定年齢)二十歳の新妻を。
(さあ、どうする)
さすがに目を合わせる勇気はなく、私はアーサーを見られない。いったい彼がどう動くのか、高見の見物をする気持ちがある一方で、激しく緊張もする。
だけど。
「顔は……見たし。僕はもう行くから」
「へ? アーサー」
「おやすみ、セアラ」
「は、お、おやすみなさい……」
なんとも気の抜けることに、アーサーはあっさり出て行った。何もしないで。
夫が去り、ひとり残された妻はつぶやく。
「……あーあ。またか」
そう、これは「また」だ。毎回、というか初回から彼はああだ。ヘタレめ。
私が見物気分だったのは、どうせ何もないだろうとわかっていたから。夜、妻の寝室を訪ねても、何故かすぐにどこかへ姿をくらますアーサー。妻であるはずの私を一度も、ただの一度も抱いていない。ちゃんと結婚式を挙げた夫婦なのに、新婚初夜からそう。あの時は泥酔して寝てしまっていた。
「なんなんだろう、あれ」
結婚して後継ぎを得ること。言ってしまえばそれがアーサーの、公爵として最も重要で、かつ、欠かしてはいけない義務だ。だから執事が使用人の立場を越えてでもせっつく。
それは私の義務でもあるけど、聖母マリアよろしく処女懐胎するわけにもいかない。どのみち悪役メイドが妊娠しているシナリオなんかないけれど。
手を出そうとしないアーサー。だったら本当は私の正体を知っているんじゃないの、と疑りたくなるのが自然な推理だ。偽者妻を抱くわけにはいかないから、とか。誰だってそう考えるだろう。でも。
「あれでも、優しいのは優しいんだよね……」
こういう時以外のアーサーは、妻に優しい夫だと思う。
紳士と呼べないわけじゃない。横暴に命令してくることもないし、必要なエスコートは一応してくれる。女性使用人の人事権を一任しているあたりは、公爵の妻として尊重してくれている証拠。記憶を取り戻す以前の私はわりと、いやけっこう散財していたんだけど、それで苦情を言われたこともない。
ようするに、偽者に対する態度ではないのだ。アーサーは入れ替わりに気づいていない。
だったらどうして自分の義務を果たさないのだろう? どこまでもわからない男だ。
「まあね、どうせ他で解消しているんでしょうけど」
自分の格好をちらりと見下ろした。我ながらいかがわしい。
しかし夫はお気に召さないらしい。男色とかの特殊嗜好を持っている可能性もあるけれど、実はこちらもだいたいの察しをつけている。アーサーが、自分の若い妻を抱かない理由を。
昼間に見た紫色のドレスの貴婦人。あの貴婦人がそうだ。公爵アーサーが、私に触れもしない理由。
結婚後に知ったんだけど、あのボンクラには愛人がいるらしいのだ。しかも年上の。その女性の名前や地位までは知らないけれど、美人だけどわりと年増で、つまり美魔女らしい。
知った時はまさかと思ったし信じられなかったけど、やっぱり今日も紹介されることはなかった。それってやっぱり、後ろ暗い関係だってことだと思う。
彼女にはすでに「紫の美魔女」というあだ名をつけた。顔も見たことないけど。
いいんだ、別に。こちとら偽者公爵夫人、文句つけられる立場じゃない。でも。
「“妻”はほっぽって、今からあっちへ行くってこと? ヘタレのくせに」
あの美魔女のお陰で私とアーサーは、清らかな夫婦だ。
だから私は、これだけやっても女として見られないことにじゃっかん、いやかなり傷つきはしても、本気で落ち込まないようにしている。
「後継ぎは本物のセアラ様に産んでもらえば、ね、公爵閣下?」
ゲインズバラ公爵夫人、セアラ・ウォーターハウス。本来ならゲーム主人公が名乗っているべき名前。結婚前の称号はホルボーン伯爵令嬢、レディ・セアラだ。
現在そう名乗っている私だけど、悪役メイドの本名こそ“アグネス”だ。
私は――できれば自分が本来いるべき立場に戻りたい。
「寝よ! 明日もがんばれ、自分」
今度こそ、今度こそ私に平和なベッドタイムがやってきた。明日も勤労に励む予定だし。
眠りに落ちる少し前、ふと、ずっと前から抱き続けた疑問が頭に浮かんだ。
(アーサーって、どうして攻略対象じゃないんだろう? 主人公には本来の結婚相手なのに。愛人がいるせい?)
ゲームとしてプレイしていた頃からの、VTに対する私の疑問。
主人公が結婚するはずだった当の公爵なのに、どうしてか、アーサーは攻略対象キャラじゃない。財産も地位もある英国貴族で、他のキャラと比べても遜色のないスペックだ。だけど、何度プレイしてもそういうルートは発生しなかった。
それは結局、愛人がいるせいだろうか? うーん。なら攻略対象になった途端、愛人捨てる展開にすればいいのに。それじゃだめかな。
謎に対する答えのないまま、私、アグネスはいつのまにか眠りに落ちる。