3.オーバーワーク公妃 その2
3.オーバーワーク公妃 その2
午後のドレスは濃い緑のモスリンで決めた。メイドのコリンズが髪飾りに同じ色のリボンを使って結い上げてくれる。
そうしてハウスメイドの“アグネス”は退場、公爵夫人が屋敷に戻った。
昼食には滞在中の客人が同席する予定のため、料理人のムッシュ・グルーズとメニューの確認をする。ちなみにムッシュ・グルーズはフランス人だ。
「わかったわ、ムッシュ・グルーズ。それでお願い」
確認といってもこちらは新米の公爵夫人、中身はもっと残念ながら庶民生まれの日本人だ。わからないから全部お任せ。時間もないのでただの形式上の手続きだ。
そういえば、本とかメニューとかに書かれている文字は日本語だったりする。話す言葉も当然同じ。いやだって、製作地日本のゲームの中だからね。オール英語やフランス語だったら私は泣いてしまう。ていうかもう不貞寝するしかない。
さて。じゃ、ここからは気合い入れてかないと。
長いダイニングテーブルを中心に据えた大食堂では、すでに紳士貴顕が数人、席についていた。食堂付きの男性使用人が高らかに言う。
「The Duchess of Gainsborough!(ゲインズバラ公爵夫人!)」
そして私が入った途端、ガタガタガタっ!とけっこう大きな音が部屋中に響いた。
立派に正装した紳士たちが、私が入室すると全員が一斉に立って迎えてくれるのだ。貴婦人に対する礼儀ってやつ。これは何回やってもなかなか壮観で、とても慣れない。
内心で激しくびびってしまうのは、私が庶民の感覚を大事にしているせいだ、とでも言っておこう。
「これはこれはユアグレイス。ご不調と伺いましたが、もうよろしいのですかな」
「え、ええ。遅れて失礼いたしましたわ、サー・ウィリアム。ご心配いただいてありがとう。もうよろしてくてよ」
紳士の一人、太鼓のようなお腹を抱えた頬髭の老人がにこやかに声をかけてくれた。近隣地域で治安判事をしているサー・ウィリアムだ。気の良い人なので私も笑顔で答える。ほっとした。
で、やっと自分の席につく。いつも決まっているわけじゃなく、その場の状況で変わるんだけど、今日はいわゆるお誕生日席、つまりテーブルの片方のとっつきに自分の席を決めておいた。席順決めるのもいちおう私の役目。
お陰でゲインズバラ公爵その人とは最も遠い。真向かいの席だけど会話は距離的に不可能。よし。私が座ると他の人たちも座ってくれるので、居心地悪い時間もようやく終わった。
(アーサーとはさっきのさっきだしね。ばれないようにしないと)
The Duke of Gainsborough. ゲインズバラ公爵、名前はアーサー。さっきかんしゃく起こしかけてた公爵だけど、遠目で見る限りは平常運転に戻っていた。
周囲の会話を聞いているんだか聞いてないんだかわからない顔で、ワインのグラスを手に取ったり、銀器を触ったり、皿を持ち上げて眺めてみたりと、なんだか子どもみたいな態度で食事を待っている。落ち着きのない人間なのだ。そんな彼の趣味が、およそ貴族的とは言い難い昆虫採集なのは屋敷の者も知るところ。
(……やっぱり変な人)
私ですらどうかと思うけど、あれがアーサーの平常運転なんだから仕方ない。
何より。
(気づかないとか。あるんだろうか)
そう、あの人が公爵で私が公爵夫人なのだから、当然、あの人が私の夫だ。私は妻。
さっきの“アグネス”が自分の妻だとわからないのは、百歩ゆずって許すとしよう。変装もしていたし、“アグネス”として、今までは顔合わせる機会なんかなかった。こっちだって避けてたしね。
でもさ。
(まともに相手の顔も見ないで決めたとか? 結婚も)
そんなはずはない。封建時代の日本とかイスラム圏じゃないんだから、結婚前に顔も合わせたことありませんとか、それはないはずだ。この時代のことでも。舞踏会とかで容姿とか性格とかぐらいは確かめてから決めるんじゃないだろうか? 引く手あまたなんだし。
それなのに――この男は気づかなかった。結婚式で、自分の花嫁が別人に入れ替わっていることに。確かに設定上、ゲーム主人公と悪役メイドは顔がそっくりらしいけど。でもねえ。
この人、ちゃんと目がついているんだろうかと疑っている。ゲームとはいえ。
だから私は、夫のアーサーを密かにこう呼ぶことにしている。
「ボンクラ」と。脳天気、でも構わない。
*
そんなこんなで始まった昼食会。少人数で本式のものでもないけれど、英国貴族の屋敷だ。コース料理をひとつひとつフットマンが給仕してくれる。いくつも置かれたナイフやらフォークやら、ワイングラスやら。綺麗なお皿も何枚か重なっている。
元々の私は作法なんてかじった程度にしか知らなかったんだけど、どういうゲーム補正か、考えなくてもごく自然に振る舞えた。
「もう間もなくロンドンへ戻られるとか。シーズンも最盛期となりますな」
「え? ええ、そうですわね。行ったり来たりで落ち着きませんけれど」
すぐそばの席にしておいたサー・ウィリアムが、ほがらかに話しかけてくれた。会話を楽しみながらの食事がマナーなので、当たり障りのない話題をやりとりする。
地方に領地を持つ貴族や地主階級は、自領と首都ロンドンを、一年の間に行ったり来たりするものだ。一家そろって大移動する。
で、私たちがいま住んでいるのはカントリーハウスだ。田舎の領地のこと。ここはゲインズバラ公爵の本拠地だけど、もちろん家も領地も国内外問わず他にもいっぱいある、という設定。あくまでゲームの設定なんだから許してほしい。
「春ですからなあ。これからのロンドンは最も明るく良い季節だ。公妃様ならば多くのお楽しみのお誘いも受けられるのでしょう。羨ましい限りです」
「そうね。アスコット競馬もありましょうし、ボートレースにも参りませんと」
これからロンドンは社交の季節の真っ盛りを迎える。私とぼんくらアーサーも、田舎の領地から都会へ引っ越しをする予定。
老判事の言う通り、シーズン中のロンドンには様々な催し物が予定されているのだろう。屋外でのスポーツ観戦はもちろん、観劇に音楽会もある。また色々な人が舞踏会を開き、晩餐会を開催し、それらに多くの上流階級が参加する。着飾って。
「おお、そうですな。それに何より、今年はゴールデン・ジュビリーですからな。我らが女王陛下の御世も五十年になられるとは、嬉しい限り」
「そ……ですわね。へ、陛下のしもべたる臣民としては、本当に喜ばしいことですわ……ふふ」
だけど、サー・ウィリアムのその言葉で、私は一気に緊張する。
女王陛下。ヴィクトリア朝の女王だから当然ヴィクトリア女王のこと。今年は女王の在位五十周年を祝う記念の年で、ロンドンはそれ関連の催し物でいっぱいだ。娯楽がいつもの二倍、いや十倍ぐらいはあるかもしれない。首都を訪れる者たちも、例年以上に多いだろう。階級を問わず。
しかし――“私”にはそれが問題なのだ。ロンドンが。
*
食後、客たちが屋敷の庭でクロッケーをするのを観ないかと老判事が誘ってくれたが、それをやんわり断り私は家政婦室へ向かう。
「ミセス・ハント。ちょっといいかしら」
「奥様! ご用でしたらお呼びいただければよろしいかと。わざわざこちらに来られずとも」
部下であるハウスメイド“アグネス”に対するのとはうって変わって、最上級の丁寧な応対をする家政婦。事務作業中の机から立つと、今にも敬礼せんとばかりに直立不動で立った。
軍隊経験でもあるのかと尋ねたくなるが、んなわけないのでさすがに口にしない。
「ええ、わかっているわ。でも今は、私が頼んだあのメイドの件で指示があるの」
「もしやアグネスの件でございますか? 畏れながら、奥様のご紹介とはいえ、あの娘には」
「あなたを困らせているのは承知よ。でも言ったように、あの娘は私の縁者よ。使ってやって。それに私たちが出立した後の、春の大掃除の間は呼ばなくてもいいわ。その代わり」
やたらといなくなるハウスメイドに、ミセス・ハントが困っているのはわかっている。それを目こぼししないといけないのも気が重いだろう、他の使用人の手前。
私とボンクラ公爵がロンドンへ行った後、屋敷では使用人を総動員しての大掃除が予定されている。掃除が仕事のハウスメイドは主戦力だ。でも。
「アグネスも連れて行くから。ロンドンへ」
「お、奥様!? そんな、あの娘はまだ見習いで。ロンドンへお連れになってもお役に立てません」
「ミセス・ハント、これは相談ではなくてよ。指示なの。連れて行くから列車の切符なり部屋なり手配しておいて。ではそれだけよ」
主人と雇い人、立場をはっきりさせた横暴な指示の出し方。我を通すには高圧的に出るしかないのだ、この場合。それが許されるとはいえ私には辛い。家政婦のミセス・ハントは、今の私の母と言ってもいい年頃の人なんだよね。
だから。
家政婦室を出る前に立ち止まって振り返った。
「そうだわ。――妹さんの様子はいかがかしら」
「は、はい、ケイトのことですか? はい、快適に過ごさせていただいていると手紙が」
「ならよかったわ。またお花を贈らせてね?」
「ありがとう存じます。妹ともども、奥様のご厚意にはいつも感謝を」
雇い人といえども、その感情を無視してはいつかしっぺ返しを食うだろう。それが普通の日本の庶民として生きていた私の感覚だし、実際、上流貴族ほど使用人を大事にしたという話もある。
だから普段から気を遣うように努めている。家政婦に関しては、少し前に病気の妹がいるらしいと聞いたので、療養先を用意させた。他にも花だの果物だのを贈らせている。
少々あざといとは思ったけど、妹の件を持ちだされると、ミセス・ハントも困惑した表情を笑顔に変えざるを得なかった。しめしめ。
ちなみにこういうことを、大人は『懐柔』と呼ぶ。
うまくいったと胸を撫で下ろした私だけど、家政婦はふと首を傾げた。
「しかし奥様。アグネスは自宅で弟妹の面倒を看ているから住みこめないとお聞きしていましたが」
「そうよ」
「連れて行ってもかまわないので? 本人は」
「……な、なんとかするわ。大丈夫、本人も断らない」
「さようですか。それと」
「何よ」
「アグネスは……たしか奥様の乳母の姉の友達の従弟の娘、でしたでしょうか?」
「違うわ。ええと、私の乳母の従弟の友達の妹の娘よ。とにかく、あの娘は連れて行くから」
自分で考えた設定がこんがらがっている。
とはいえ、これで手配が整った。ロンドンでも一人二役を続けるための。
許せ軍曹、じゃなくてミセス・ハント。これもテムズ河ドボン回避のためなのだ。
その代わり、“本物”を取り返してあげるからさ。
*
目まぐるしいけれど、ここで再び公妃は退場。アグネスの出番だ。
午後の仕事に取り掛かる。確かに時間は制限されているけれど、働く姿勢は真面目だって思われたい。メイドとして有能だと思われておかないと後で困る。
午後は真っ黒いワンピースに、綺麗な白いエプロンをかける規則だ。
黒と白のメイド服。制服感が急上昇し、ヴィクトリアン名物、いわゆる“メイド”が現れるってわけ。メイド喫茶とかにいる人みたいになる。リアルにご主人様もいるしね。
完全にコスプレだ。そんなこと言い出したら着る服はぜんぶコスプレだけど、やっぱりこれが一番。
午前中は暖炉磨いて終わったので、今度は部屋のランプの手入れだ。この屋敷はまだ電灯はもちろん、ガス灯だってない。なのでオイルランプには油を足さないと。ランプシェードを拭いて煤を落とし、下の油壺にパラフィン・オイルを足す。この作業は嫌いじゃない。油臭いけど。
ちょっと慣れてきたのか、割り当てられた自分の仕事を早めに終えられた。ばんざい。
使用人棟に戻ると、サーヴァンツ・ホールの大きな作業台ではカーテン生地の端縫いを総出でしていたので、参加しておいた。ひたすら手を動かし、口も動かしていい仕事も嫌いじゃない。ハウスメイドやキッチンメイドが入り乱れて、盛大なおしゃべり会だ。
「次の休みには新しい服を着て帰るつもり……」
「絹のストッキングが欲しいわ、誰かプレゼントして……」
「今日の夕飯はなんだろ、プディングがいいな」
「……えええ、彼って郵便配達人でしょ!? いつの間にそんな仲に」
「エリカったら、レディーズメイドに出世した途端……」
他愛もない話題で盛り上がり、愚痴を言い合う若い女の子たち。これは現代と変わらない。
聞く専門のつもりだったけど、私も横から話しかけられた。
「そういえばアグネス。さっきはなんでわかったの?」
同僚のローザだ。お昼の前に会った。
「さっきって? 何のことでしょうか」
「閣下の捜し物よ。あのピンだっけ? どっちかっていうとシャツの型つける時に刺すピンみたいに見えたけど」
「ああ。展翅板のピンのことですか。だって」
ボンクラ公爵のピンのことか。「テレビか何かで見たことがある」と答えようとして止まった。危ない危ない。
そうか。情報の溢れている時代に生まれた者と、そうでない者の差だ。普通は見てもわからないのか。自分で標本を作った経験でもない限り。
「昆虫標本……作ってる知り合いがいて。だから見たことが」
苦しい言い訳考えていたら、助け船が入った。
「お茶の時間だ。銀磨き中の者、手を止めるように」
「はい! ミセス・ハント」
上官の号令だ。午後の休憩の時間になったらしい。よかった、一旦話が途切れる。
ん、待てよ。お茶って、イギリス名物のあれだ。てことは。
「わわ私、そろそろ帰ります。大変、こんな時間」
「あらアグネス。お茶にしてからにしたらどうなの。お腹空いたでしょうに」
「いえ、家で弟と妹が待ってますから! それでは失礼」
急いでその場を離れた。メイドのアグネスは、こうして今日の仕事を終えた。
その後、みたび復活した公妃には、今度は屋敷の女性客と一緒にお茶会を楽しむ、という仕事が発生していた。ぎりぎり間に合った。
“表”と呼ばれる上流社会と、“裏”と呼ばれる使用人の世界と。
場所だけじゃなく、身分的にもあっちこっちへ行っている一日だ。ああ、めまぐるしい。