1 女王陛下のプディング
※ 都合上、本編スタート以前の話となっています。
1 女王陛下のプディング
春は復活祭、初夏には各地で開かれる競馬やボートレース。そして晩秋の炎の祭典ガイ・フォークス・デイ。
英国にはいろんな年中行事があるけれど、人が最もワクワクするのはやっぱりこれだろう。
クリスマス。Christmas.
一年最も寒い季節、でも温かい季節。人が大切な誰かを想う真冬の聖夜。
それを目前に控えた私、ゲインズバラ公爵夫人セアラ・ウォーターハウス――その正体はアグネス・ジョーンズという名のレディーズ・メイドも、非常に浮かれてしまっている。
(だってクリスマスっていったらさあ……!)
イギリス有数の貴族の奥方になりすました私はこれからしばらく、(現在進行形で騙され中の)夫アーサーと共に、ある場所で過ごす予定だ。その彼が指をさす。
「セアラ。見えてきた」
「わあ! あれがそうなの?」
馬車から外を見た私の視界に迫るように、威容を示した高い城壁。灰色の、『巨大』としか言いようのない石造りの建築物が現れた。
「お城だあ……」
丘の上にそびえ立つのは、中世の城塞の雰囲気を残した城だ。灰色の雲り空を背景に、高く厚い石の城壁がぐるりと巡っているのが見えた。城壁の上のデコボコとした歯状の部分とか、角っこの物見塔の部分とかが厳めしくて、いかにも「吾輩は城である」とふんぞり返っているみたい。
「なるほど城だな。……すごいな、こんなところ初めてだ」
「初めて? アーサー、あなたは毎年ここでクリスマスを過ごしているって言ってませんでした?」
「え? ――ああ。そうだよな、そういえばそうだ。おかしいな、なんで初めて見たような気がしたんだろう」
首を傾げている公爵は奇妙な様子だった。確かに変だ、自分で言っていたはずなんだから。でもすぐに思い出したのか、城の来歴を“セアラ”に向けて語ってくれた。
公爵閣下じきじきの解説によると、この丘には、11世紀のチャールズ征服王によって最初に木造の砦が築かれた。その後百年戦争期に入り、今度は石造の要塞として建て直され、今わたしたちが見ているのとほぼ同じ外観になったという。
「中世のお城。素敵、そんな場所でクリスマスを過ごせるなんて」
丘を上る坂道を馬車で上がりながら、私は両手を合わせてうっとりした。自分の正体がメイドだってことはわかっているけれど、これは楽しまずにはいられない。
イングランド有数の貴族の奥方として、これまたイングランド有数の中世の城でクリスマスを過ごす。ヴィクトリア女王の夫アルバート殿下が広めた、ヴィクトリアンなクリスマスを。ツリーにクリスマス・クラッカー。ヒイラギやヤドリギの装飾に、七面鳥とクリスマス・プディングの世界だ。
(どうしよ、すごいテンション上がるんだけど)
ついわくわくしてしまう。そんな私を乗せ、馬車は城門をくぐり、中庭に入って停車する。
いつもはぼんやりだけど、不思議と要所は押さえている公爵閣下は、新婚の妻の手を取り馬車を降りた。外はかなり寒い。
出迎えの声はすぐに聞こえてくる。
「よく来た、アーサー! どれ、さっさと上がって来い。早く奥方の顔を見せんか」
「ええと? ……あ、ヘンリーおじさん、お久しぶりです」
声は上から降ってきた。大きな両開きの玄関は段を上がった先にあり、城の持ち主がそこで出迎えている。夫に手を引かれて階段を上がった私、偽物公妃は精いっぱい優雅そうな微笑みを浮かべ、城主と対面した。
口髭と繋がるほど長いもみあげも、ふさふさとした頭髪も、すっかり白くなったご老体。背が高くかっぷくもよく、普段着らしき茶色のツイードスーツが似合う。貴族的な白皙顔のアーサーと違い、なめし革のような日に焼けた顔色のご老人だ。
ヘンリー・ホガース卿。アーサーの大叔父で、インド帰りの元軍人。退役後、セイロン茶への投機によって莫大な財産を築き、この中世の城を買って悠々自適に暮らしている。アーサーは、この大叔父のところでクリスマスを過ごすのが毎年の行事、だそうだ。
そして今年、この曾甥は結婚したばかりの新妻を連れてやって来た。それってつまり私のことね、一応は。だから挨拶しないと。
「おじさん、彼女がその、僕の」
アーサーが紹介してくれようとするけれど、彼は妙に歯切れが悪い。しょうがない、自分で名乗ろうかな。
「『セアラ』と申します。初めまして、ヘンリー卿」
……とはいえこの替え玉の身、名乗る瞬間がいつも一番心苦しい。それを緊張しているとでも思ったのか、おじさんは勇気づけるように深くうなずいた。
「ヘンリーおじさんで構わんよ。なるほど、お前さんがアーサーの妻か。よしよし、中に入れ。外は寒い、この歳になると堪えるんだ」
脚を悪くしているというヘンリーおじさんは杖をついていた。足が悪いから遠出ができず、結婚式は欠席。そうして私とも今日が初めましてになったという事情がある。
「ご招待ありがとう存じます。――まだ外を見せていただいただけですけれど、本当に素晴らしいお城ですわね」
「だろう? わしが買った時は中も外もすっかり荒れていたんだが、ずっと修繕に務めていてな。やれやれ、わしの財産はすっかりこの城に吸い取られたものだよ」
「まあ。でもそれも愛ですわね、お城への愛。感服いたします」
「ほう、わかっとるじゃないか。――アーサー、お前は物わかりのいい奥方をもらったな」
「え? あ、ははは、そうですよね……」
ヘンリーおじさんがそう話しながらアーサーの肩を思い切り叩くので、彼は少しよろめいた。困ったような、煮え切らない半笑いを浮かべている。
玄関を入り、側に控えていたメイドにコートを預けた。そこには壁一面に数えきれないほどの銃器が整列して飾られている。斧や剣なんかも。
「まるで銃器室のようですわね。おじさまのコレクションですか?」
「その通り。元々の城にあった物も混ざっているがね」
大きな扉があった。先導していたフットマンが扉を開け、中に通してくれる。
そこはとてつもなく広い大広間だ。天井が高すぎて二階分あるらしく、上部を回廊がぐるりと巡っている。大理石の柱はギリシャ風の彫刻で飾られ、暖炉横の壁には神話を描いた古いタペストリーが掛けられていた。寄せ木細工の床には、草花の模様の絨毯が敷かれている。部屋の奥には二階の回廊へ上がるための大きな階段があり、その右には一階の他の部屋へと続く扉がある。
ここは昔、宴会などが開かれていたサルーン(広間)らしい。領主館の中心だ。
「素敵……!」
「気に入ったかね? しかしこの部屋は見栄えはいいが、ゆっくりするには不向きでな。広くて天井が高いせいで、いくら火を焚いても暖まらん。見ていてくれても構わんが、わしは先に行かせてもらうぞ」
おじさんは言葉どおり、右の扉を開けて先に行ってしまう。確かにここは外と同じくらい寒いかもしれない。私も来るように勧められたけれど、その前にじっくり見物したかった。
一本の大きな木が、これまた巨大な暖炉の横に据えられている。
「もうすっかり準備ができているのね。きれい」
金のガラス玉のオーナメントや銀色のリボンで、すっかり飾り付けられた樅の木。クリスマス・ツリーだ。ガラス玉が蝋燭の灯りを反射し、幻想的に美しい。ツリーの前のテーブルには山盛りのクリスマス・クラッカーと、色とりどりのカードが何枚も立てて置かれている。親類や友人同士でクリスマス・カードを送り合うのが習慣で、クリスマスにはこうして飾っておく。
「――セアラ? お茶を用意してくれるみたいなんだけど」
「……はい? ええ、今行くわ」
ツリーの蝋燭があまりにもたくさんなので、火事にならないかぼんやり心配していた。
するとヘンリーおじさんについて先に行っていたアーサーが戻ってきて、私を呼んでいる。少し長居しすぎたようだ。
向かった先はこじんまりとした書斎だ。低いテーブルにはすでにお茶の用意が整っていた。でもティーカップはまだ空っぽで、おじさんもアーサーも所在無げにしている。
(あ、そうか。私の役目か)
お茶を注ぐのは女性の役目だそうだ。なんだろう、その場の主婦的な人という意味か。この風習、客に何させるんだろうと思わないでもない。でも。
(お茶ぐらい淹れましょうかね。なんといってもメイドだし)
内心で乾いた笑いをもらしながら、ティーポットを持ち上げた。
「お淹れしますわね」
『カップに注ぐのは、お茶が先かミルクが先か』。イギリス人の中でも意見の別れるところだけれど、ヘンリーおじさんの好みは知らない。銀のティーポットから、青い絵付のスポードのカップへは、先にお茶を注いだ。
お茶で財産を築いただけあって、いい茶葉なのだろう。香りが立ち上る。ベルガモットかな。ミルクを入れて、ソーサーごとおじさんに渡す。アーサーと自分の分を淹れて、その時やっと気がついた。
「あら、これは」
時間的にアフタヌーンティーなんだけど、たった今運ばれて来たのは三段のケーキスタンドではなく、白いココット皿だった。
ココット皿の中身は、ふわふわした白っぽい泡みたいな物。ところどころ角が立っていて、少し焦げ目がついている。
「これ、女王陛下のお気に入り、ですよね」
「その通り。焼きたてを持って来させとるから、気をつけなさい。なあアーサー、昔お前はこれで火傷しなかったか?」
「そんなことありましたっけ? ……ああ、あったかな。ええと、気をつけます」
クイーン・オブ・プディング。パンプディングの上にラズベリージャムを載せ、さらにメレンゲを上からたっぷりかぶせてオーブンで焼いた物。スプーンを入れると、白いメレンゲと赤いジャム、黄色いパンプディングが層をなす。素朴なお菓子だけど、これがかのヴィクトリア女王陛下のお気に入りらしい。
「――腹も温まったことだし、新婚さんの話でも聞くとするか。セアラ、アーサーはどうじゃね? ぼんやりした甥だが、悪いやつではないだろう」
「ええ、本当に……あのいえ、『ぼんやり』のところじゃなくて、良い人という意味でですわよ、もちろん」
カスタードとジャムの味のお菓子をお供に、なごやかなティータイムが進む。ほっこりするなあ、会話にはひやひやするけれど。
「はっはっはっ、良い人か。新妻は初々しいな。まあ兎に角、仲良くやんなさい」
「はい、そうさせていただきたいと思っています」
「けっこうけっこう。そして一日も早く、跡取りをだな……」
「っ、おじさん!」
焦った顔のアーサーが、言いかけたヘンリーおじさんを無理矢理さえぎった。一瞬顔を青くし、次に赤くする。いぶかしそうな顔したおじさんの視線を受けて、誤魔化すように両手を振った。
「いや、あの」
「どうかしたのか?」
「……そういえば! 他の客はどうしたんですか? おじさんと僕らとだけ?」
「おお、アーサー。そのことか」
この時のアーサーの話題変えは随分と強引だったけれど、ヘンリーおじさんは乗ってくれた。
「先に来とる。いつもの連中だ」
「いつもの、と言うと。誰でしたっけ」
「毎年会っとるだろう。我が愛娘とそのまた娘さ」
「……ああ。そういえばそうか。そうだあの人たちか……」
返事をしたおじさんは、なんだかうんざりしているようにも見える。
それを見てアーサーも、何かを思い出したらしい。
ヘンリーおじさんには息子と娘がいるけれど、息子さんには先立たれているそうだ。そして娘さん一家と、今は亡き息子の妻がおじさんの孫に当たるご令嬢たちを連れ、毎年クリスマスに訪ねてくる。今年もすでに到着しているそう。
するとおじさんは、ニヤリと笑った。何かいたずらでも企んだような。
「さて、ジャネットがどんな顔するか、ひとつ楽しんでみようじゃないか」
「ジャネットって、ヘンリーおじさまの娘さんのことでしょう。どうしてです?」
「おお、セアラ。なんでもない、なんでもない。気にしてくれるな、君は」
なんだろう。楽しそうなおじさんと比べて、アーサーは頭痛でも堪えたような顔してるけど。
*
今夜のクリスマスイヴは、特に普段と変わりなく過ごす。変わりないとはいえ、そこは貴族の生活だ。夕食はダイニングルームで、当たり前のように正装して、軽いコース料理をいただく。
そこでやっと、他のお客様の顔と名前がわかった。
ヘンリーおじさんの亡き息子の奥さんがヘレン・ホガース夫人で、四十前後の黒髪の女性。そしてその娘たちである、二人姉妹のシンシアとサラ。もの静かな親子だ。
そしてヘンリーおじさんの娘で、金髪美人のジャネット・タッソー夫人とその一家。夫のモリスフィールズ伯爵ジョージ・タッソー卿と、その娘レディ・ラベンダー。ラベンダーもまた金髪の麗しい美女で、歳は二十歳くらい。母と娘は仲良しらしく、食事前はずっとしゃべり通しだった。
ディナーの席についたのは、この六人と私たち夫婦、それからヘンリーおじさん。女性が多いので、ずいぶんと華やかだ。そして。
ほっそりしたレディ・ラベンダーは、薄黄緑地に小花模様のドレスがとても似合っていて、同性からしても見惚れてしまう。それはいいんだけど。
「――レディ・ラベンダーも毎年こちらにいらっしゃるんですって? 子どもの頃からずっと」
「……ええ」
「まあ、お幸せな少女時代をお過ごしなのね、中世のお城でクリスマスだなんて。ツリーもとても綺麗だし、素敵ですものね」
「……そうね」
「そういえば、明日はどんな催しを用意して下さっているのかしら? あなたはご存じよね、毎年来られているんですから」
「……」
隣の席にいるラベンダーに話しかけるんだけど、いまいち返事が芳しくない。さっき自分の母親とはあんなにしゃべっていたんだから、無口ってわけでもないだろうに。
(なんか嫌われてる?)
とうとう最後には、ラベンダーは深い溜息をつき、反対側にいる彼女の従妹と話しだしてしまう。こちらは完全無視のようだ。ええー? それってマナー違反じゃないのかな。メイドでもそれぐらい知ってるぞ。
「……」
腑に落ちなくて首を傾げたら、向かいにいたラベンダーの母親、伯爵夫人とも目が合った。あれ、気のせいだろうか。
(いま私を睨んでなかった、伯爵夫人? 私なんかした?)
なんだよ、もう。明日のクリスマスの正餐も同じメンバーが出席するのに、嫌われているようだ。いやむしろ、偽者だってことがばれたか? それはないか。
*
なんだか微妙なディナーだったけれど、その後、この偽者公妃にはもっと大きな試練が待ち受けていた。
いつものようにレディーズ・メイドのコリンズの手を借り、ドレスを脱いでコルセットも取る。お湯とタオルで軽く体を拭き、明日の髪型のために髪を巻き紙でまとめ、それで寝支度は整った。
真冬ということもあり、袖も裾も長いワンピース型の寝間着姿となった私。さあベッドに入ろうとして、そこに先客がいると気づく。
よそのお宅に泊まるのは、決して初めてじゃない。結婚して以来。でも晩餐会や舞踏会の時って、たいがい真夜中過ぎても寝ないから、なるべく避けようと思えば避けられた。今夜までは。
「……もう寝てる?」
「……」
人型に膨らんだ掛け布から漏れる、寝息らしき音。話しかけるとそれが一瞬止まったような気がした。さてはアーサー、狸寝入りか。そうなんだな。
「お邪魔しまーす……」
ためらっていてもしょうがないので、私は夫の隣に寝そべった。ちょっと迷った末に、なるべく離れて。もちろん手など出してこないだろう。結婚してからずっとこの調子なのだから。
(うーん。やっぱりその手の趣味なのかな、この人は)
反対側を向いたまま、頑としてこちらを見ないアーサーの後頭部にそう考えた。
今に至るも清く正しい関係のままの新婚夫婦は、今夜は仲良く枕並べて眠るらしい。
自分たちの家なら別室で休もうがどうしようが文句も言われない。でもここはよその家。夫婦二人を泊めるなら、そりゃ誰だって寝室を別にしようとは思わないだろうし、こっちも文句をつけられない。
(でも私たち、仮面夫婦なんですよー、ヘンリーおじさん)
今までにないくらい気まずい寝床なんですか、どうしてくれましょうか。




