24.エンゲイジメント
24.エンゲイジメント
『「夢よ。これはきっと夢だわ。だってただのメイドのわたしに、こんなこと起こるはずないもの」
ノーラは目の前で起こっていることを、なかなか信じられなかった。ノーラの前には公爵がひざまずいている。その貴族は彼女の小さな手をこの上なく大切な宝物のようにおしいただいて、情熱のこもった瞳で見上げた。
己の全てを恋人の前に捧げる決心をし、公爵は告げた。万感の想いを籠めた声で』
*
「『ノーラ、私はもう耐えられない。どうかあなたのこの手と心を我がものとする名誉を、私に与えてくれませんか』? なんだこれ、古臭さ過ぎて冗談みたいだな」
「わっ」
読書に没頭していたら、突然それを読み上げる声。びっくりした。
「びっくりするでしょう。いつからいたのよ」
「いま帰ったところ」
図書室を掃除していたら、重厚な革装丁の二つ折り版ばかりと思っていた本の中に珍しい物を見つけた。三巻本のロマンス小説。公爵家の誰かがこの「公爵とメイドの身分違いの恋」を愛読していたのかしたと思うと変な感じがしないでもない。
「アーサー、その顔どうしたの!? 腫れてるじゃない」
驚かせないで、と言おうとした私の言葉は、別の驚きにとって代わった。
振り向いて見たアーサーの顔は、左頬のところが腫れていた。
「どうして、誰かに殴られたの? すごく痛そうなんだけど」
「そりゃ痛いよ。歯が折れなかっただけましだ」
ふっと自嘲の笑みを浮かべたアーサーは、痛そうにそこを触る。
「会ってきた。セアラに」
「……そう。お元気そうだった? 何か困ったりしてなかったかしら」
「ああ。普通だったよセアラ――妹は。本当にそっくりだな、君に」
「……」
いや、「私が」「セアラ様に」そっくりなんだけど。
だけどその言い方は素直に嬉しい。誰かの影として見られ続けるのは切なかった。
アーサーは今日、本物のセアラ様に会いに行っていた。色々相談するために、お忍びで。
「手当ては? 湿布とか」
「これから。いきなり殴られたんだ、セアラの雇い主に」
「ど、どうして」
「さあね」
「……もしかして、私のせいかしら」
そういえばどういう人なのか知らない。セアラ様が今働いている先のご主人を。なんだかセアラ様がずいぶん褒めていたのを聞いたから、人格者の学者みたいな人を想像していたのに。
もしかしたらその雇い主は、私がセアラ様を陥れたことを知って怒ったのかもしれない。何か誤解させて、代わりにアーサーが殴られてしまったのだろうか。
「いや、違うと思う、君のせいではないから」
「そうなの?」
「うん……何か違う誤解をさせたみたいだ。ほら、僕は兄には見えないだろう、セアラ本人も知らなかったんだし。いきなり慣れ慣れしくし過ぎたんだ、きっと」
何したんだか気になるけれど、手当てのほうが先だ。私は肩をすくめて、閉じた本を棚に戻した。
濡らした布巾で顔を冷やし、湿布を当てて。それが終わったところで、こちらをじっと見ている視線に気づく。
「何か?」
「前から思っていたんだけど、なんでメイドなってやってたんだ? そんなほくろまでつけて」
アーサーの視線は私の鼻の下の大きなほくろに向けられていたようだ。
「これは保険よ」
「保険?」
「そう。本物のセアラ様が戻ったら、いつでも入れ替われるように。その時、自分の居場所も確保しておかないといけないでしょう。私は元々メイドだし、お陰でいま役に立ってるじゃない」
そう、役に立っている。
「ゲインズバラ公妃」は、現在、公爵とは別居生活に入っている。国内の他の家にひとりで移り住み、公爵との離婚協議の開始を待っている、ことになっている。
侍女と令嬢の入れ替わりは、セアラ様の希望もあって今でも世間に明らかにされていない。だから協議を待つ公妃とは、今も私のこと。
暗殺共謀の件で逮捕?とかそっちの方面も気にはなるけれど、教授を裏切って暗殺阻止に動いていたことが認められ、とりあえずお咎めなしで終わらせてくれた。ホームズと公爵閣下のご威光のお陰もある。
そうして、本人というか偽者公妃はロンドンに舞い戻り、メイド“アグネス”として真面目に働いていた。実はお茶会の後、“アグネス”は実家で不幸があったため、帰したことにしておいたのだ。で、今は復帰してるってわけ。一人で二役こなさなくて済むのでずいぶん楽になった。
「セアラ様に全部返さないと、名前も身分も。本人がそうしたいって言ってるからって、まさかこのままただのオールワークスにしておくわけにはいかないわ、やっぱり」
「特に反対はしないそうだよ、離婚には。自分の問題じゃなくて、僕らの間のことだと思っているようだけど。いいんだろうか、セアラにもバツがつくってことなのに」
「……しょうがないんじゃない? 兄妹なんだし」
「だよな」
式では全くの別人が入れ替わっていたとはいえ、公爵と結婚したのは名目上の「伯爵令嬢レディ・セアラ」だ。このややこしい状況を穏便に解決させるには、密かに本物が戻ることだけだったんだけど、彼らは兄妹。結婚生活の継続は不可能だ。
だから。
「指輪を。あなたが外して」
「……うん」
やっぱり離婚することになった。私たち夫婦は。
私の差し出した左手から、結婚指輪を抜き取るアーサー。のろのろと。
これを嵌めた時から始まったのだと思うと、けっこう感慨深い。
(外すのはこれが初めてじゃないけど……)
既婚者の証とも言えるそれを、ハウスメイド“アグネス”が嵌めていると色々と波紋を呼ぶので、前はしょっちゅう外していた。だからそれほど抵抗はない。私には。
「あのね」
「もうそろそろ離してもいいのよ? 手」
「……」
メイドの手を取ったまま、ぐずぐずと離さないヘタレ公爵。
するとアーサーは意を決したように顔を上げ、はっきり尋ねた。
「アグネス。どうして戻ったんだ? ロンドンに」
「どうしてって、色々あるでしょう、あなたの代わりに手紙の返事出すとか」
「それは田舎にいてもできるじゃないか。不仲の妻のやることでもない」
「……」
詰まるのは私の番だった。しぶしぶ答える。
「掃除」
「は?」
「掃除がしたいから――この屋敷の」
「……掃除するために戻った?」
「そう。それと」
どうなのかな。これって、そうとう嫉妬深いみたいに聞こえるんだろうけど。
「浮気しないか見張るためよ」
「……」
「あなたが」
変な空気になる図書室。私はとても彼を見る勇気はなく、本棚に並ぶ背表紙を見続ける。
(だから嫌だったのに)
離婚成立まで別居先で大人しくしていればいいはずの偽者公妃。それがわざわざ抜け出してまで公爵の下に舞い戻るのはおかしな話だ。
そもそも、離婚後にどうするか私は行き先を決めていない。アーサーも今まで何も言わなかった。
そばにいてほしいとも、離したくないとも。
でもその一方で、「じゃ、元気でね」とサヨナラも言われていない。
ただのメイドに戻った私は、どうしたらいいんだろう。離婚が成立したとしても、彼は“アグネス”と再婚はできない。メイドと公爵が結ばれるのは物語の中だけ、ヴィクトリア朝の固い階級意識はそれを許さない。望めるとしたら愛人の地位ぐらいだ。
このまま働き続けたらいいんだろうか? 物理的な距離だけは近いところで、でも、階級的には天と地ぐらいに離れている場所で。そばにいられるだけで満足しないといけない位置のまま?
それとも。
「……はっきりするまで、言わないほうがいいかと思ったんだ」
「何を」
「返せるのかどうかわからない。一度すべてを相続した僕が、爵位を」
聞き捨てならず、思わず相手の顔を見た。
「訴えてもうやむやにされそうな気がする……母も認めないだろうし、先代ホルボーン伯爵は故人だ。恥かいて終わるだけかも。それでも」
「アーサー」
「アグネス、君は確かに『教授』の命令通りにセアラをはめて陥れたが。でもその後反省して、全てを正そうとしたじゃないか。事件を阻止し、元の自分に戻ろうとしていた。それで僕も考えた。偽りは長く続かない。わかるだろう、君なら」
「ニセモノ」の心境。その通り、それは私が一番よく知っているけど。
いやでもそんな。そんな真面目な理由じゃないんだけど。死亡エンド回避のためだから。
「それに、スキャンダルで困るのは僕じゃなくて押しつけられるトマスだろう。まあでも、この山のような財産のためなんだから、しょうがないと諦めてもらわないとな。そうだ、ゲインズバラの家を電化しようって計画立ててただろう? 実は話がけっこう進んでたんで、折角だからトマスに発電所設置を薦めてみようと」
「待って、アーサー。やめるの? 公爵を」
大変だ。それって。
「ああ。うまくいけば何もかも失くす。先祖代々の領地も家も使用人も、苺の葉っぱも白貂のローブも。別にそれが悪いわけでもないが、僕なら何か、自力で築き上げたものがほしい。借り物の人生よりはいいと思う」
まさか。まさかまさかまさか。
「それでもついて来てくれるか? 何もないただの」
「行く!」
アーサーが全部言う前に抱きついてしまった私は興奮し過ぎだろうか。彼の首に腕を回し、嬉しさで舞い上がる私は単純?
私のためだけじゃないのはわかってる。でも、やっぱり嬉しい。新しい生き方さがすと決めた彼が、ついて来てほしいとはっきり言ったことが。
抱きしめ返す腕に力が入っている。めいっぱいの力で抱きしめられているのを感じた。
「あてもなくはない。さっきも言ったが、トマスのやつに発電所すすめるついでに、僕もそっちの道にでも進もうかと。将来性ありそうだろ?」
「ええ、それは私も賛成する。でもあなたは本当にいいの? 後悔しない?」
「正直わからない。だがもし僕がこの先泣きごと言い始めたら、しっかりしろって君が言ってくれないか。その減らず口で」
「任せて、他の誰よりきつく発破かけてあげる。それにあなたボ……と、とっても人が好いものね。私がついててあげないと」
「うん、別にきつくじゃなくていいんだけど。普通でいいんだけど」
見つめ合う。
何もかも通じ合った。そう思った。ボンクラで、ヘタレで。情けなくも頬を腫らし湿布の臭いを漂わせる人を、こんなにも愛おしく感じる日がくるなんて、想像もしなかった。
「じゃあ」
身を離し、もう一度私の左手をとり、さっき外した指輪を取り出す彼は。
公爵ではなく、異母兄でも攻略キャラでもないアーサーは、この私、悪役メイドの左手をこの上なく大切な宝物のように持ち上げると。
「これは婚約指輪(engagement ring)だから。だからアグネス、僕らの離婚が成立した後で、他のどんな貴族の奥方に入れ替わる機会が訪れたとしても、断ってくれ。ないと思うが」
「ええ、断るわ。ないと思うけど。あなたも、セアラ様以外に私のそっくりさんが現れても、騙されないでね」
もう間違えるもんか、と指に嵌めてくれた。
どうしよう。これって全く未知の幸せなんだけど、いろんな意味で。いいのかな、悪役メイドがこんなハッピーエンド迎えちゃっても。
アーサーの手が、私の変装を取り去ってしまう。そのまま迫ってきた相手に腰を抱き寄せられ、唇を奪われていた。どんどん距離がなくなっていくことに少し困りながら、でも今さら拒むつもりも失くしていたら。
「アグネスさん? そろそろお茶のじか」
ノックしようね、と教えたはずの最近雇った新人ハウスメイド、つまり私のすぐ下の後輩が図書室のドアを開けた。
「わわ。わ、私は何も見てません! 告げ口とかしませんから!」
「……」
見られた私たちよりも慌てた新人ハウスメイドは、開けたドアを閉めて去っていった。
「まずいな。僕は妻のいない間にメイドに手を出した悪い公爵か」
「そうね。私は奥様のいない間にご主人を誘惑した悪いハウスメイド」
困ったね、と目を合わせる。アーサーは溜息をついた。
「これだから嫌なんだよな。貴族なんて」
「あら。基本的に責められるのは私なのよ、この場合。あなたは普通にしてたら誰も責められないわ。どうしようかしら、ミセス・ハントとかにどう説明しよう」
「いや、僕が言いたいのはさ。……自分の家なのにいつどこで他人と鉢合わせするかわからないなんて、すごいストレスだってこと。だから嫌なんだ、使用人がいるのは。他人に世話焼かれるのは落ち着かないよ、自分のことぐらい自分でやるのに。でも雇わなかったら雇わなかったで『雇用を作れ』って文句がくるらしくて」
この人にもこんな不満があったのか、と私はその愚痴を聞き流す。
*
ちょうどこの時だった。夫からもうすぐ前夫、婚約者にもなった彼の愚痴を聞いていた時。
――「『主人公』プレイヤー」が「キャラ」を攻略
――クリア条件が揃いました。よってただいまよりゲーム終了の準備を開始します
――テンカウント開始、ゲーム終了10秒前
――9
――8
――7
電子音。カウントダウンが始まった。
この音を聞くのは初めてじゃないと、薄れていく意識の中で思った。




