2.オーバーワーク公妃 その1
2.オーバーワーク公妃 その1
新しく公爵夫人付きの侍女に出世したばかりのコリンズが、私を起こしに来た。もう朝なのね。
「公妃様。おはようございます」
「ええ、おはよう」
私の毎朝は、コリンズが用意してくれる一杯の紅茶から始まるわ。ベッドのまくら元まで運ばれた一杯を優雅にすすると、紅茶の香りがまだ眠りの残った私の目を覚まさせるから。でもベッドからはすぐに出ないの。だって、有閑夫人の私には早起きする必要なんてないでしょう? 家事はみんな使用人の仕事ですもの。
ああ、今日は予定なんてあったかしら? ドレスの仮縫いはこのまえ終わったし、日曜じゃないから礼拝にも行かない。そうね、日当たりのいいロングギャラリーで、刺繍でもしてのんびり過ごすのはどうかしら。
……なんちゃって。うそです。思いっきり。
さっさと朝食を済ませた私は、いつものようにわざとらしくこめかみを指で押さえる。
「ああ。またいつもの頭痛だわ」
「奥様? またですか」
「ええ……寝室へ戻って休んでいるから。公爵にはそう伝えてちょうだい、コリンズ」
「あのでも、そろそろお医者様に診ていただいたほうがよろしいのでは? 差し出がましいようですが、あまり頻度が普通ではないように」
「いいの。ではね」
不審そうなメイドを手で制し、私は寝室へ戻った。そろそろ頭痛だけを言い訳にするのも無理が出てきたなあ、とか思いながら。
だけど。これはあと少しの間だけだ。
寝室へもどって一人になった私は、内側から鍵を閉めた。そして素早く午前中用のドレスを脱ぐ。他の誰も開けないよう固く命じた衣装箱を開き、中から一揃いの衣装を取り出す。
薄緑の小花模様のプリント地のワンピースに、丈夫だけれどかなり薄汚れたエプロン。黒いウールのストッキング。黒い革の靴。
一式を身に着けてちゃちゃっと化粧し、上からさらに黒いコートを羽織った。よし、準備万端。おっと、かつらも忘れちゃいけない。白いキャップもね。
「誰も……いないな。チャンス」
そうしてまた鍵を開けて、廊下の様子をうかがう。見渡す限り誰も人がいないことを確認してから出て、また鍵を閉める。素早く動き、すぐ近くにあった使用人棟へと繋がった裏階段の扉を開けて、中へと入る。
よっしゃ、今日もうまく抜け出た。裏階段を下りて、そそくさと薄暗い廊下を進んだ。
「……アグネス? もう来たのか。今朝は早いな」
「あ、ははい、おはようございます。ミセス・ハント」
わわ、危なかった。背後から声をかけてきたミセス・ハントは、公爵邸の家政婦で、メイドたちのトップなのだ。監督役とも言う。上品な黒いドレスに白いレースのキャップをつけていて、腰のベルトから下げた鍵束は、彼女が持つ権力の現れでもある。
すんでのところで、『アグネス』はビン底眼鏡を装着していた。危ないところだった。
「『鹿狩りの間』のお客様がお帰りだ。今朝はそこからだな。他の者が取りかかっているはずだから、お前もさっさと行くように。道具は自分で運びなさい」
厳格にメイドを監督し、物腰にも話し方にもどこか男っぽいところのあるミセス・ハントは、裏でひそかに「軍曹」のあだ名をちょうだいしている。
対してアグネスは、愛想笑いで答えた。上司よりも上官と呼びたくなるような上司に。
「はい、ミセス・ハント。かしこまりました」
「よし。では行ってよろしい」
「Yes ma’am」と、敬礼したくなった衝動はなんとかこらえておいた。
そして言われた通り、掃除用具一式を用意してから仕事にとりかかえる。さっき入って来たコースを逆にたどり、使用人の領域から表の領域へと出て行く。
使用人は極力、仕えている主人たち“ご一家”や、客人に見えないところで働かないといけない。移動や仕事を見えないところでこなせるよう、専用の裏階段や裏廊下があるくらいだ。
そう、使用人。今の私は、ハウスメイドの一人である“アグネス”だ。公妃ではなく。
アグネスは、本来なら使用人棟に住みこまないといけないメイドには珍しく、通いで来ている新参者だ。特別待遇は、“公妃様”の紹介状を持って現れたためなんとか許されている。ていうか私が自分で書いた紹介状なんだけど。
つまり私はいま、二重生活をしている。
公妃とメイドの二重生活。公妃のほうは今のところかなり暇とはいえ、一人二役だ。無理がある。メイドとして働ける時間に限りはあるが、そこはもう“公妃”のごり押しで通しているのが現状。
これが、この世界がVTの世界だと気づいた私が始めたこと。
どうしてそんなめんどうなことしてるかって、それは決まっている。
「死亡イベントを……限りなく回避してやる」
ハウスメイドの仕事ははっきり言ってきつい。初日が終わった時には二度とやるもんかと思ったくらいだ。今だって、死ぬほど重い掃除用具一式を運んで階段を上がっている。
だけど。本当に死ぬよりはましだと思うの。テムズ河ドボンよりは。
ひとくちにメイドと言っても、種類が色々ある。貴婦人付きの小間使いであるレディーズメイドから、台所にいるキッチンメイドに洗濯関連が仕事のランドリーメイドなど。その中でも、私、アグネスがなったのは『ハウスメイド』だ。主な仕事は掃除。
掃除。これがまたきつい。
何せ広い。公爵様のお屋敷だ。というか城。えんえんと続く廊下掃除もあるし、何枚あるんだかわからない窓拭きもやる。そして部屋では床を掃き、雑巾がけし、仕上げに磨き剤で磨く。暖炉掃除もする。
暖炉でねえ、リアルに石炭焚いてるんですよ。石炭なんて初めて触ったよ。
この暖炉がまた灰の山だわ煤が出るわで、まあ汚れてる。それを毎日、大事なところだからもう一度、「毎日」ピカピカに磨かないといけない。さらに寝室だったらベッドのシーツを取り替えて、灯りはランプだから油をささないといけないし、水道が通ってない部屋には水差しにも水を足し……ってのを何部屋分もやらされる。もちろん一人でやるんじゃないけどさあ。手は荒れるし膝も痛いし終わりは見えないし、もう散々だ。
それにしてもVTの製作スタッフよ、無駄にリアリティ追求しないでほしかったな。お陰で苦労させられてるよ。根性がとりえの私でも、愚痴りたくなる。
暖炉磨いているうちに考えごとにふけり過ぎていた。はあ、そろそろ戻んないと。
“アグネス”は一旦退場し、昼食のため、一度“公妃”に戻るつもりだ。だけど。
「違うよ、僕が捜しているのはただのピンだ。そんな大きな物じゃない」
「しかし閣下。ピンとおっしゃられましても、まさか縫い針をお捜しというわけでも」
「当たり前だ。だからってなんで帽子ピンなんか持ってくるんだ。それは婦人用だろう」
どこかの部屋の中で、大きな声で何やら言い合っている。言い争いってほどでもないけど。その様子を廊下ではらはらしながら見守っている同僚がいたので訊いてみた。
「ローザ。どうしたんですか?」
「あらアグネス。どうしたもこうしたも、また閣下がおかしなことでお怒り気味なのよ。従僕のパジェットも手を焼いてるわ」
「そう……」
背中に汗をかきそうになりながら、部屋の中をこっそりのぞいてみる。
閣下。Duke.この屋敷で公爵閣下と呼ばれる人間は一人だけだ。ようするに屋敷の主人にして、第……何代目の設定だったか忘れたけど、この栄えある大英帝国の貴族の一員として名高いゲインズバラ公爵その人だ。もちろん架空の爵位だし架空の人なんだけど。ゲームの登場人物だからね。
それはさておき、部屋の中で従僕を問い詰めている公爵はまだ二十代半ばの青年だった。イギリス貴族にしちゃ妻を娶るにまだ歳若いけど、それは今どうでもいい。
あの人って、ぼさぼさの黒髪をちゃんと櫛でとかしてればわりと見映えもするのに、基本はなんだかもっさりしている。シャツに部屋着のガウンを羽織っただけの格好のせいで余計にそう見える。んでもって。
「知らないなら口出ししないでくれよ。なんだよいつもいつも。僕のことはほっといてくれればいいのに」
なんというか。この人、子どもっぽいってほどでもないんだけど。変わっている。
それは、高い爵位を持った貴族にしては、って意味でだ。常に使用人に世話焼かれるのなんか、貴族に生まれたら当たり前のことだろうに。他人の干渉はお気に召さないらしいのだ。今みたいに使用人といさかい起こすのを、けっこうよく見る。
ついでに言うと、貴族としての威厳とか高貴さとかもあんまりない。ま、私に言われたかないだろうけど。
「私は閣下のお役に立つようにと、いつも真剣に取り計らっているつもりで」
「もういい、わかった。パジェット、いいから出て行ってくれないか。僕の部屋から」
「しかし、捜し物でしたら私にお任せいただきませんと」
「いい加減に……!」
あ、いかん。閣下が切れる。横暴に振る舞うわけじゃないけど、かんしゃく起こすのだ。
「あのちょっと、差し出がましいようですが。パジェットさん、ちょっとこっちへ」
下々の者である“アグネス”は自分から公爵に声をかけられない。従僕を通してやりとりする。思わず前に出た私は、部屋の外からその従僕を呼んだ。
「なんだ、今それどころじゃ」
「捜し物というのはこれじゃないかと。お見せして下さい」
迷惑そうに振り返った従僕に、私は指でつまんだ物を見せる。それは同時に公爵の目に入った。すると公爵は従僕の介在など無視して、こっちに来る。まずい、あんまり近づかないでよね。
「あった……! どこで見つけた?」
「畏れながら閣下。朝食室の前の花台にありました。ちょうどお持ちしようとしていたところです」
直接のご下問に、アグネスは慎ましく目を伏せてお答えする。ちょっとばかし腰を屈めて。
「ああ、そうか。朝ごはんで呼ばれて、つい持って行っちゃってたのか。入る前にタイを直そうとして一回置いたんだった」
公爵はメイドの手にあった一本の小さなピンを受け取ると、一転、不機嫌顔を笑顔に変える。そして。バツが悪そうに従僕へと言った。
「パジェット、悪かった。自分で置き忘れたんだ。ごめん」
「……いいえ! 閣下が謝られることは何もございません。こちらこそ気づきませんで申しわけないことを。従僕である私の不手際かと」
「いや、僕のせいだろう、どう考えても。見つかったしもういいよ、本当、悪かったな」
「はあ。では、失礼を」
謝られた従僕のほうが身の置きどころを失くしている。困っているのだろう。
普通、公爵ほどの身分の人間はそう簡単に謝らない。自分が悪い場合でも。それが貴族の威厳を保つ方法でもあるし、立場的にも許されている。
それなのに、この公爵はなんでも簡単に謝ってしまうのだ。変わっている。主の持ち物の管理は確かに従僕の仕事なのに。ルールを破っている。これだと周囲のほうが困惑してしまう。
どうしたものかしら、とか内心で考えていたら。
「一本だけ足りなくなってたんだよな……。そういや君、よくわかったな。僕のだって」
「はい?」
もう用はないので行こうとしていたら、呼びとめられてしまった。笑顔の公爵に。
「わかりますわ。このお屋敷で標本を作られているのは閣下だけですもの」
「! なんのピンだか知ってたのか」
「? ええ、展翅板のピンでしょう」
私が公爵に渡してあげたのは、一本の細くて小さなピン。縫い針ほどの大きさだけど、マチ針みたいな頭がついていないし、針穴もない。私の目にはどう見ても、昆虫標本を作る時用のピン――羽や脚を固定するためのピンなんだけど。
「君も標本作ったことあるとか?」
「ありませんわ。虫に触れませんもの。では閣下、そろそろ下がらせていただきます」
必要以上の興味を引きたくはないので、やや無礼になるけれども、ここで会話をぶった切った。ぶった切られたくらいでこの人は怒らない。
もう一度腰を屈め、スカートの裾を少し上げてお辞儀をして、ようやく“アグネス”は公爵の御前から下がった。やれやれ。