15.貴婦人の手荷物
15.貴婦人の手荷物
いやあ、よかった青春時代からの疑問が晴れて……って。
「んなことでうなずいてる場合じゃない! やばっ」
我に返った私。予想外だけど、美魔女のお陰でレディ二人から解放されたのだった。ラッキー。このチャンスをものにしない手はない。よし、死亡フラグから脱出だ!
周囲を見回し、ここよりももっとひとけの無さそうな方向へとさ迷い出る。楽団の音楽開始を合図にか、人々が芝の広場へ集まりだしたので、生け垣で作られた迷路には誰もいない。
本日の私の衣装は、上下に分かれるドレス。上着のすその下に手を入れて、飾りとしてつけていたシャトレーヌのはさみで紐を切る。ばさ、という音と共に、スカートの下に着けていた詰め物が落ちる。コルセットの紐もきつく締めずにおいたので、これで一気に活動的になる。
そして、細い鉄枠で作られたバッスルの中に、こっそり仕込んでおいた手荷物を取り出す。
エプロン。キャップ。白い付け襟と袖口。それと忘れちゃいけない眼鏡。
手袋も帽子も脱ぎ、動くには邪魔なバッスルを外した。コリンズを嘆かせ、キャロラインに馬鹿にされながらも、この地味な深緑のプリント地のドレスで晴れやかなお茶会におもむいた私が、それらを装着するとどうなるか。
そこにいたはずの“公爵夫人”は消え、あら不思議、メイドの“アグネス”が現れた。
変身した私は、何食わぬ顔で人前へ戻る。
私の目論見どおり、階級ピラミッドの頂点にいる紳士淑女たちは使用人の格好をした女の顔などまず見ない。空気になれる。
アグネスは、集まった上流階級の横を悠々と通り過ぎ、手ぶらもなんなので、誰もいないテーブルから使用済みの食器なんかを片付けちゃったりした。そのまま、建物の陰にあった通用口を使ってターナー侯爵邸に入っていく。私を見た他の使用人は一瞬変な顔するけれど、お茶会の手伝いに集められた他所のメイドだとでも思うのか、何も言わない。
それどころか、行き合った男性使用人に尋ねてみせる。我ながら大胆。
「キッチンのお手伝いに参ったのですけれど。お皿を下げに行ったら迷ってしまいましたの。キッチンへはどう戻ればいいんでしょうか」
「皿を下げたのか!? お前、どこから来たか知らんが、それは作法に反するぞ。いいか、キッチンへは連れて行ってやるから、二度とお客様の前に出るな」
「そうなんですか? 申し訳ありません」
物慣れぬメイドに扮した公妃は、抜け出すことに成功した。
で。
本心を言うならこのまま逃げたい。キッチンの裏口から。でも。
「……」
盛大なお茶会に食事や飲み物を提供するため、戦場のような状態のキッチンをのぞく。ちょうどよい具合に、端っこに置かれたテーブルに、お盆とグラスを見つけた。それらと下げた食器を交換する。
忙しく立ち働く使用人たちがいるのは、邸宅の裏側だ。自分の家じゃないので少し迷ったけれど、やがて見つけた。供待ち部屋を。
「――ジャック。“奥様”がお呼びですわ。こちらにいらして」
「……やっとですか。やれやれ」
供待ち部屋とは、客人たちが連れてきたお供の者が待機する場所。紳士淑女のお供でついてきた侍女や下僕たちが、お茶など出されて待っていた。私が呼んだのはその中のひとりで、ゲインズバラ公妃がお供として連れてきたフットマン……ではなく。
フットマンのお仕着せを着ただけの、中身は全く別の者だ。金髪でなかなかの男前、歳も若く好青年といった雰囲気の男だけど、全然ちがう。
「ところでお前は何者だ? “奥様”はどこに?」
「あなた方の協力者です。事前にこちらに雇われました。“奥様”は屋内ですわ。今は身づくろいのためという口実でお部屋を借りてらっしゃいます」
「それで?」
「お茶会にお戻りになる時に、あなたをお連れするそうです。計画通り、“奥様”と一緒なら殿下のところへ近づけますわ」
「ふん……そのために送りこんだんだ。まったく、どれだけ時間がかかるんだ。その上こんな人があつまるような場所とは。お茶会だと? どれだけ目立つんだ」
「殿下のご身辺ががら空きになるチャンスでしてよ。お茶会に武装した護衛官を連れ込んでは無粋ですもの。これが最良の機会だと、『教授』もおわかりのはずです」
廊下を先導しながら進む。振り返って相手と睨み合った。
私は平気な顔してるつもりだけど、本当は怖くて仕方ない。
ジャック。この19世紀末で最も有名な“ジャック”といえばやはりこいつだ。
Jack the Ripper。切り裂きジャック。
悪役メイド“アグネス”が送り込まれた本当の理由。それは。
「まあいい、俺は『教授』の命令通りに息の根止めてやるだけだ――皇太子を」
うわあ。甘いマスクなのに、目つきがおかしいよこの人。さすがイギリスを代表する猟奇的殺人鬼だ。
「教授」の目的は英国皇太子の暗殺。VTで最も大きな陰謀であり、ゲームイベントでもある。「教授」からアグネスに与えられたのは、この殺人鬼を皇太子のもとへ近づける手引き役。偽者公爵夫人の権力でもって、むりやりねじこむこと。
*
とはいえ、まさか本当に殺させるわけにはいかない。そもそも協力すると見せかけて、私は阻止にしにきたんだから。
「あそこの部屋ですの。ご準備ととのったのか見て来ますから……こちらでお待ちになったらいいわ、誰もいませんから」
外で催し物をやっているせいか、ターナー邸の表の部屋はとても静かだ。そのうちの一室をてきとうに指さし、その隣の部屋を開けた。よかった、ここも無人だ。たぶん応接間だけど。
「そうそう。これを言付かっています。どうぞ、景気づけにでも」
と、なんでもないふりして、持って来たお盆の上の物をすすめる。ヴィクトリアンな小説にしょっちゅう登場する、万能気つけ薬ブランデーの小瓶を添えて。(そこまで回復力のある代物なのか、昔から疑問でしょうがないんだけど)
「そうか? 気がきくな」
よし。
ジャックがそれに手をつけるのを見届けて、私は一度部屋を出た。ドアノブに真っ白いレースのハンカチを結び付けて、細工は終了。
しばらく待って、もう一度そっとドアを開ける。ジャックは椅子に座り、眠りこけたようにうつむいている。決してブランデーで酔ったわけじゃない。
「うわっ。効くんだなあ、阿片って」
ホームズ譚にも登場する、麻薬の一種・アヘン。ヴィクトリア朝時代には普通に薬局で売られていて、鎮静剤代わりに使われていた。さっきのブランデーには、医者から拝借した原液そのままの阿片チンキを混ぜておいたのだ。
麻薬の作用でぼんやりした夢見心地にいるジャック。しばらく正気は戻らないだろう、うまくいった。さて、じゃあ潔く自白しに行くか。セアラ様にちゃんと謝って、穏便に許してもらえないか頼もう。そしてこいつを突き出そう。
と、私は計画していた。
「……おーい? “奥様”はまだか」
「へ……ってええ!? なんで起きてる」
出て行こうとした私だけど、その腕を掴む者があった。痛い。振り返ると目を覚ましたジャックがものすごい顔で私を見ている。え、中毒症状起こしてたんじゃないのか。
「っ。なんだ、こいつ。酒に何を混ぜた」
「何も。今、呼びに」
「おい……何か盛っただろう! きさま」
「ひっ」
阿片の夢の中にいるはずのジャックは、思いのほか強い力で私を捕える。手でのどを掴まれ、痛いし苦しい。
「やめ、はなし、て」
「この女、どういうつもりだ? 本当に協力する気があるのか? アグネスはどこ行った」
私がアグネス当人だとばれていないのはいいけれど、自分が捕まってしまっては元も子もない。どうしよう、失敗した?
止められないのだろうか、悪役メイドの力では。私はシナリオに逆らえないのか。
(どうしよう)
ジャックの言いなりに、皇太子のところへ連れて行っても失敗するだけだ。あっちはあっちで察知しているはず。シナリオ上、この暗殺は失敗すると決まっているのだから。
阻止される暗殺。元のシナリオなら、暗殺者を伴って御前にあがる偽者公爵夫人の正体は、人前で派手に暴露されてしまう。ゲーム主人公が陰謀を阻止する。その後、悪あがきして逃亡したジャックとアグネスが、仲良くテムズ河ドボン。それが本来のストーリーだ。
私だって、正体が明かされるのは仕方ないとわかっている。でもせめて、自分から告白したい。それにできればひっそり解決してほしい、衆人環視の前じゃなく。
そしてついでと言ってはなんだけど、悪役メイドにもなんとか生き延びる余地を残してもらえないだろうか。そう訴えたい。
「アグネスを呼んで来い。でないとお前を殺すぞ」
放してもらえたが、乱暴に床に叩きつけられた。倒れ込む。そこへ。
「! なんだ」
大きな足音が響いて来た。近づいてくる、いくつもの足音。「あの部屋だ!」という声。やがて足音はこの食堂のドアの前で止まり、そのまま勢いよく開かれる。
「いたぞ、ジャックだ!」
「な……なんだよお前ら」
飛び込んで来たのは、老紳士に率いられた制服の集団。黒い上着に釣り鐘型の帽子、ロンドン警視庁で働くPeelers――警官だ。
先頭の老紳士――いきなりここに現れたサー・ウィリアムに率いられた警官たちは、ジャックを捕えようとした、のだと思う。だがしかし。
「え」
「近づくんじゃねえ! こいつの命はないぞ」
助かった!とか思えたのはほんの一瞬。
警官の姿を見たジャックの行動は素早かった。すぐそばにいた女――ようするに私――を床から引き起こし、羽交い絞めにしたのだ。どっから出したのか、大きなナイフを突きつけて。
いやいやいや。そりゃないでしょ。もしかしなくても、これからテムズ河へGOってことですか?




