幻影
最後に覚えているのは白い部屋だった。
天井も、壁も、全てが白一色で統一された部屋、その部屋には無数の機械が置かれており、白衣を纏った医師が一人、忙しくキーボードを叩いている。
(あれ?)
白衣の医師が孫娘の結衣であることには、すぐに気が付いた。幼稚園の頃から、手元で育てた最愛の孫、後姿とはいえ、それを見間違える筈はない。
(ここは?)
ぼんやりと混濁した意識の海の中、澄江さんは何があったか思いだそうとする。しかし、それは虚しい努力のようだ。思いだす前に結衣が近付いて来る。
「おばあちゃん、聞いて」
返事を返そうと思うが、澄江さんの口にはマスクが付けられており、うまく言葉にならない。
「目が覚めたら、そのまま、その場所にいて。私がいくから、それまでそこから動かないで。いい? 絶対よ? 絶対に動かないで」
孫娘が何を言っているのか、よく分らない。それでも、この娘のいうことならば、聞かねばならない。澄江さんはそう思い、小さく頷く。
「ごめんね、おばあちゃん……でも、あたし、一人ぼっちにはなりたくないの」
(一人ぼっちになりたくない)
遠のく意識の中、その言葉だけが澄江さんの脳裏に反芻されていた。
澄江さんが目覚めたのは、冷たい石畳の上だった。冷えて澱んだ気味の悪い空気、身体に纏わりつく様な湿気、吐き気を催すような異臭。
澄江さんはゆっくりと立ち上がる。自分の手元さえ分らないほど、あたりは暗い。立ち上がろうとして、澄江さんは気が付く。あれほど痛みに煩わされた膝に痛みを感じないのだ。常ならば立ち上がる時、痛みへの予感に恐怖を感じつつ、覚悟を決めねばならないのに、どういう訳か、その神経を突き抜ける様な激烈な痛みがない。
「……」
澄江さんは、己の膝にそっと手を伸ばす。そこにあったのは肉付きがよく、固く引き締まり、ごわごわとしたすね毛に覆われた脚……。明らかに自分のモノではない掌の感触に慌てて、手を引っ込める。しかし、脚にも触られた感触がある。恐る恐る、もう一度、手を伸ばす。そこには、やはり脚がある。まごうことなき己の脚。
「あら、まあ」
思わず驚きを、そのまま、言葉に出す。出さずには、頭の中が整理できなかった。ようやく、闇に慣れ始めた目に映ったのは、まるでプロレスラーのような脚だったのだ。
脚を、腕を、腹を、胸を見て、澄江さんはため息をこぼす。
衣服と呼べるのは、何かの毛皮らしき腰巻のみで靴すら履いていない。太く固い脚、ちょっと曲げるだけで力こぶがグイと盛り上がる腕、割れた腹筋、そして垂れた乳房ではなく盛り上がった筋肉に覆われた胸……。
腰巻を少しだけめくり上げ、澄江さんは恐る恐る中を確認する。
「あら、まあ……」
我知らず、先程と同じ言葉を繰り返してしまう。そこには男性そのものがついていたのだ。
岩塊を削り出したような隆々たる筋肉に覆われた四肢と身体、手を顔面にあててみれば、頬も顎も鼻の下も伸び放題の髭。
「鬼になっちゃたのかねえ」
澄江さんは、自分自身の知識を総動員して己の存在を確かめる。
鬼――――。
それは、澄江さんが知る限り、鬼と呼ばれるモノに近いと思えた。自らの手をそっと頭にのばす。そこに角があれば、もはや確実に自分は鬼だ。
「角は……ないみたいだね」
角はない。ないが、それで状況が好転した訳ではない。第一、これから生えてくるかもしれないではないか。
「鬼だとしたら……ここは地獄の一丁目なのかしらねえ」
そんなに他人様に対し悪いことをした覚えはないけど、閻魔様のなさることだし……。
途方に暮れつつ、どこか諦めにも似た感情が心をよぎる。
(きっと、あたしは死んだんだね)
死んで、鬼に生まれ変わった。澄江さんの知識では、そう思わざるを得なかったようだ。
「おばあちゃん! おばあちゃん! どこ?」
聞き覚えのない声。だが、その口調、イントネーションには聞き覚えがある。最愛の孫娘、忘れる筈もない。その声は、どうやら澄江さんの立つ場所から、そう遠くない場所から聞えて来たようだ。
「ここだよ」
澄江さんは、そう声を上げようとして躊躇う。
自分は死んでいる。死んだ自分が、孫娘を呼べば、彼女も死の世界へと誘うことになるのではないか?
或いは、自分はまだ成仏しきっていないのかもしれない。
本当の自分は、病院のベッドの上で顔に白布をかけられているのか、或いは、葬儀の真っ最中で棺桶の中にいるのではないか……。
それでも、結衣の顔をもう一度だけ、見ておきたい。まだ、言っておきたいこと、伝えておきたいことは山ほどある。
どれだけ、自分が彼女を愛していたか、愛おしく思っていたか。
声をかけるべきか、かけないでおくべきか……迷いは残るが、この迷いこそが自分を成仏させてくれない原因なのかもしれない。澄江さんは意を決し、声を出す。
「ここだよ」
「おばあちゃん!」
遠く、日差しに包まれた出入口らしい場所から、孫娘とおぼしき女性が駆けて来るのが見える。陽光を背景に負っている為、その姿は判然としない。
「おばあちゃんはここだよ」
澄江さんは再び声をあげ、駆けよって来る結衣に向け、歩み始める。一歩、歩くごとに宙に浮いている様な違和感を覚える。それは多分、視線の高さによるものだろう。身長一五〇センチそこそこだった生きていた頃の自分と違い、今の自分はそれよりも大分、大きい。
「おばあちゃん!?」
数歩先で結衣は立ち止まる。その口調は確かに結衣とそっくりなのだが、身につけている衣装はまるで現実感のないものだ。頭には兜を被り、その兜の両脇からは小さな羽が生えている。やや露出の多い絹地と思われる薄手の衣の上には鈍く銀色に光る甲冑、肩からはマントを羽織り、腰には細身の長剣を下げている。
「なんで? なんで、おばあちゃんが……」
そこまで言って、結衣は言葉を呑む。
「結衣ちゃん、ごめんよ」
何に対して謝るべきなのか、澄江さんは分らぬまま、謝る。強いて言えば、孫娘を驚かしてしまったことへの詫びか。
「なんで……おかしい。こんなのおかしいよ! おばあちゃんがバーサーカーになるなんて」
「ばーさーか?」
「どうして? あたしと同じ、ワルキューレになる筈なのに……そうしたら一緒に」
「……」
孫娘に似た顔を持つ、異形の女性剣士の言葉に澄江さんは困惑する。なんとなく、直感的に面前の女性剣士が、自分の孫娘であることは間違いないように思える。しかし、何故、その様な格好を?
「おかしい。絶対におかしい。おばあちゃんが男性キャラに移植される筈がないのに……どうして?」
女性剣士は混乱しきっている様子で、首を小刻みに左右に振りながら少しずつ、後ずさっていく。
「ごめんね、おばあちゃんが悪かった」
澄江さんのその言葉を女性剣士が最後まで聞いていたかは分らない。女性剣士は双眸から涙をあふれさせると、そのまま、来た道をゆっくりと後ずさりながら戻っていく。
追うべきか? 追って、もう一度、話すべきではないのか?
広がる困惑の中、澄江さんは迷う。しかし、追えば最愛の結衣を地獄に招き入れることになるのではないか、と恐怖を感じてしまう。
自分は死んだ。それはいい。
そして成仏しきれておらず、鬼として迷っている。それもいい。
多分、今、自分の面前で泣きじゃくりながら去っていこうとしている女性剣士は、孫娘の幻影、今生に未練を残した自分に対する閻魔様の戒めなのだろう。
結衣は生きている。それでいい。
それだけでいい。