狂気
「こんな時間に……どうされたんですか?」
研究所正面ゲートの警備員は夜陰、訪れた女性医師の姿を見て、怪訝な表情を見せる。元々、研究員という種類の人物達はどうやら時間の概念が一般人とはかけ離れているらしい……ということに気が付いてはいるものの、それでも深夜、研究所から帰るというケースはあっても訪れるというケースは珍しい。
「あら、聞いていません? おかしいわね」
「え? 何がです?」
「今日の夜、被験者を連れて来るってお話し……事務方から警備会社に連絡がいっているはずですが」
警備員は詰所の中、連絡事項の書かれた書類ファイルを手早くめくる。しかし、その様な連絡はない。
「すみません、そういった連絡は来ていないようですが……まあ、でも植原先生ですから」
そう言って愛想笑いを浮かべた警備員はスイッチを操作し、正面玄関のゲートを開ける。
「ありがとう……事務方には私の方から苦情を言っておきますね。そちらから言われると、言った、言わないってムキになるかも知れませんし」
「はい。お気づかい頂き、申し訳ありません」
車の運転席から艶然と微笑む女性医師の視線に少しだけドキドキしながら、若い警備員はやや頬を赤らめながら愛想笑いを返す。目鼻立ちのくっきりとした美しい顔だち、豊かな知性、それでいて江戸っ子特有の気風の良さと面倒見の良さ……警備員が知る限り、彼女を悪くいう者はいないし、彼自身もそんな高嶺の花とも言うべき彼女に対し、密かに憧れを感じていた。
「何かお手伝いしますか? 助手の皆さんはもうお帰りみたいですが」
手伝うと言っても荷物運びぐらいしか出来はしない。それでも、筋肉の塊の様な体躯をした体育会系の警備員は、少しでも憧れの女性医師との距離を縮めたく思い、そう尋ねる。
「ありがとう。御言葉に甘えるわ。後部座席に被験者がいますので、ストレッチャーに乗せるのを手伝って頂けると助かります」
「はい! 喜んで」
若い警備員の視線の先には、女性医師の自家用車の後ろを覗きこむ。そこには、薬で眠らされているらしい一人の老婆が安らかな寝息を立てていた。
結衣は、若い警備員が自分に好意を寄せていることに以前から気付いていた。それを利用する形になってしまったことには、やや罪悪感を覚えてしまう。しかし、今はやむを得ない。屈強な警備員は小柄な老婆をなんなくストレッチャーに移すと、笑顔で研究所奥へと消える結衣を見送った。
そこで、これから何が行われるのか、まったく気が付かぬままに……。
『収電特措法』に用いられる人格を電気信号として保存する技術は、云わば禁断の技術だった。何故ならば「人格を電気信号として保存する」ということは、「人間に永遠の生命を与える」と同義だからだ。
人間に限らず全ての生命体に平等に存在する寿命、その自然の理を覆す、神の御技――――。
この技術を一般化し、利用すれば、全ての生命体に寿命が存在しないことになる。この先、ロボット技術、或いはクローン技術が進歩し、電気信号化された人格をデータベースから自由にダウンロード出来る様になったとしたら……? もし、それが軍事技術に転用されることになったとしたら……? 人格本体が電気信号化されたまま保存されているのであれば、コピーに過ぎない戦場で兵士は死を怖れるだろうか?
現状、そこまで技術は進んでいない。ロボット技術もクローン技術も、そこまでの進歩を見せていないし、電気信号化された人格を再び、脳や神経ニューロンに戻す技術も開発されてはいない。現在できるのは、あくまでも肉体からデータベースへのアップロードの一方通行に過ぎない。
しかし、この技術の利点に既に一部の関係者は気付いている。
「人格を電気信号化し、一時的に保存しておき、将来、肉体又は疑似肉体へのダウンロードが可能となった時に備えておけば……」
この分野における新進気鋭の研究者として知られる植原結衣も、そんな関係者の一人だった。
データベースに保存された人格自体は、人間でいうところの眠りについている状態となんら変わりない。データベースの中で、全てのインプットもアウトプットも断たれ、ただ単に数列として存在しているだけだ。
その電気信号化された人格が唯一、自由に動き回れる場として存在しているのが、とある企業が運営するSNSとゲームが融合された疑似世界の中なのだ。むろん、全ての電子人格に自由行動が与えられている訳ではない。かつて佐藤氏が知らされた通り、電子人格をゲーム世界に放逐することは重大な人権蹂躙行為であり、それは違法行為なのだ。
ゲームの運営会社に「売り飛ばされた」電子人格は、データベースからゲーム会社のデータベースに移動する訳ではない。データ総量が厳重に管理されているデータベースから数列化され、コピーガードが施された電子人格を持ちだすのは容易なことではないからだ。
だが、所詮は人間が管理するところ、しかも管理者は根本的に「お役所」なのだ。抜け道を見つけ出すのはさほど難しくない。ゲーム運営会社は大金を支払って、しかるべきルートから任意の電子人格に対するアクセス・パスを入手しているだけであって、収容されている研究所内のデータベースに書き込むことも、消すことも出来ない。
では、ゲームの中で「死亡した」電子人格はどうなるか? 答えは簡単であり、ゲーム運営会社のコンピュータがデータベースにアクセスしなくなるだけなのだ。
肉体もなく、全ての外部刺激を断たれ、内部からの発信もできない状態、それが死でなかったとしたら、いったい何だというのだ?
全身に機器を取り付けられ、深い眠りについている祖母が横たわるベッド。
結衣には時間が無かった。全ての作業を朝までに済まさなければならない。もし、研究所内の誰かが出勤し、その行為に気が付いたとしたら、結衣の願いは水泡に帰する。何としてでも、それまでに澄江おばあちゃんの人格をアップロードし、そのアクセス・パスをゲーム会社に送信しなくてはならない。
無論、アップロードだけで済ませ、アクセス・パス送信は後日にするという手もあるが、送信する前に一件が露見し、結衣自身が逮捕拘束される可能性もある。そうしたら、全ては無駄となる。
「おばあちゃんを死なせはしない……」
何度、その呟きを口にしたことだろう。必死に呼吸を整え、気持ちを落ち着かせようと思うが、自然と手は震え、目は涙に曇る。過去、何度も行ってきた作業、何人もの犯罪者から人格を取り除いてきた経験や実績も、たった一人の肉親者を前にすれば、まるで始めての行為のように心もとない。
第二、第三、第四……幾人もの人格を一つの肉体に内包した複雑な犯罪者ですら肉を切り分ける様に的確に除去作業を行ってきたはずなのに、唯一の肉親というだけで、澄江おばあちゃんの単純人格をアップロードするのに焦りを感じてしまう。
自分の行為を迷っている訳ではない。一人ぼっちになるのが嫌だったし、長生きできるおばあちゃんだって、きっと……きっと喜んでくれるはず……。
幼児退行した結衣の精神はそう信じていた。
ゲーム世界には結衣の操るキャラクターも存在していた。結衣自身、このゲームのヘビーユーザーであったし、リンクするSNSを介して知り合ったネット上の友人達とパーティーを結成し、時には冒険を楽しんでいる。
ゲーム世界は様々な構成要素によって成り立っている。
ネット通販やネットオークションとリンクし、現実世界以上にあらゆる商品が溢れ、現実世界、ゲーム世界双方との商取引が可能な市場、全ての参加キャラクターが住むネット上の街『ジェリコ』、冒険やオークションで手に入れた大金を使い、或いは課金によって郊外に城のような邸宅を構えたヘビーユーザー達の住む高級住宅街、そして地下階に構成されたモンスターの巣窟・迷宮『ソドム』。
「えっと……神話は北欧を選択。で、タイプは戦士を選択……」
結衣の操るキャラクターは、北欧神話に登場するワルキューレだ。軽やかな薄絹の上に甲冑を纏い、戦場を駆け巡り、戦死した勇者の魂を天上世界に誘い、そして最終戦争に備える女性戦士。
結衣はこの「勇者の魂を天上世界に」のくだりに自分自身の仕事を重ね合わせ、いたく気に入っている。
「おばあちゃん、気に入ってくれるかな……」
美しい額に微かに汗を浮かべ、口元を綻ばせながら結衣はキーボードを操り、数十項目に渡るキャラクターの設定を次々と行い、虚像世界における澄江さんを自分と同じ北欧神話のキャラクターとして作り上げていく。深夜から始めた作業も既に7時をまわり、間もなく、同僚や部下達が出勤を始めるだろう。1分1秒が惜しく、キーレスポンスの1分1秒にも激しい苛立ちを覚える。
廊下から靴音が聞えた。
結衣は一瞬、その足音に恐れを覚え、最終確認画面を良く見ぬままエンターキーを押してしまう。運営会社の依頼で何度も行ってきた手慣れた作業だったし、自分が間違いを犯している可能性を考える余裕はなかった。
足音が廊下を通り過ぎて行き、聞きなれた中年女性達の賑やかな声が耳に届いた。結衣は胸を撫で下ろす。恐らくは研究所内の清掃を請け負う会社の人たちだろう。壁一つ、ドア一つ向こうでは、日常と変わらない風景が、秒針と共に過ぎて行く。
ドア一枚向こうの室内において、想像を絶する狂気が蔓延していることも知らずに……。