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4話

 篠崎さんが僕を置いて行って駅に入ったとき、頭上に降ったのは雪だった。手を伸ばすと、先輩が振り向いて、僕は誤魔化すみたいに彼女のコートの肩の雪を払った。くすぐったそうに目を細めた彼女の仕草が、次には決意を持って冷え込んだ。

 彼女の声が僕の思考を真っ白に染める。まるで吐き出した息の色が、伝染したみたいに。

「私、大学は東京に行くから」

 即座に返すことは出来なかった。長い時間、濡羽色の瞳が僕を貫く。僕らは肩に雪をのせ、溶けた雪の雫が彼女の頬を伝った跡を残してこぼれ落ちた。

 行かないでくださいと叫んでいれば、何か変わるのだろうか。でも、僕は嘘をつくばかりで安心していた。

「そうです、か。東京、良いですね」

 僕の口から溢れた白は彼女をあやふやに笑わせた。雪の花は咲かなかった。そんな笑顔をさせるために、話していたわけじゃないのに。

 手を伸ばす。肩を震わせた彼女に、また雪を払うだけしか出来なかった。寒空にさらされた彼女の手は赤い。

 それが視界の端でつかめるものを探してさまよう。

「中に入りましょう」

 見ていたのに、誤魔化した。瞳は伏せられ、どんな表情をしているのか見れない。でも、仮に見れたとして、僕は彼女の望むような言葉を出せるだろうか? 分からなかった。

「……うん、そうだね」

 彼女の足取りは踏み場を無くしたみたいに定まらなくて心配になったけれど、手を取るなんて図々しいことは選べない。もしかしたら、僕も同じように踏み場を無くした歩き方をしてるのかもしれない。だから、先輩は手を出そうか迷ってるんだろうか。

「ねえ」

「なんですか?」

 いつもなら僕の目を覗き込む彼女は、振り向かない。鳥が飛び立つ瞬間、空だけ見てるみたいに、彼女は前だけ見ている。ここじゃない、遠い空。そこは、雨なんて降らず晴れているんだろうか。

「……なんでもない。東京ってどんなところだろうね」

 彼女は僕の踏み場を無くしていく。外から吹き込んだ風が彼女の髪を揺らし、黒に白の雪が映えた。

 出会った頃のようにお互い笑えなくなったのは、きっとこの時だろう。

「どんな、ところなんでしょうね」

 雪は彼女のリズムを生み出さない。凛と冷えながら、しんしんと降る静やかな雪世界で僕も彼女も互いのリズムを見失って、結局見つけることが出来なかった。


     φ


『試験が近いから』

 なんて簡単な言葉なんだろうかと思った。東京行きを告げてから先輩が部室に顔を出すのを辞めた。学校内で見かけなかったから、来てないんだろう。

 そして、先輩は結局卒業式も来なかった。でも、彼女に宛てて部室に置いた手紙は、いつの間にか消えていて、受け取ってもらえたらしい。

 だけどそれは、僕と顔を合わせたくないという事実を突きつけられても同然だった。同時に呆然と過ごしている僕が見られなかったことに、ほっと安堵するべき事だったのだろうか。

 だから、一枚の紙が置かれているのに、気付いたときは目覚めたように何度も見返した。自分が息を吹き返したと思った。

『三月二十日 十三時 駅』

 それだけだ。手紙なんかじゃなくて、業務連絡と変わらなかった。でも、僕はその日、その時間、駅で待っていた。来いとも書かれてない一枚の紙にすがったんだ。

 雪はとうの昔に雨へ変わっていて、雨音が不安のせいで不快だった。

「なんでずっと待ってるかなぁ」

 僕が持っている傘を一度見返す。これが僕の手元にあるなら、彼女は常なら傘を持ってくることない。なのに先輩は傘を差してそこにいた。

 ずっと居たことを知ってるってことは、十三時ちょうどになるまで先輩は離れて見ていたんだ。

「……今日は、傘持ってきたんですね」

 軽口は返せなかった。必ずどちらかが傘を忘れてきて、相手を傘に入れて帰っていた。僕が忘れれば先輩が持ってきて、先輩が忘れれば僕が持ってきた。暗黙の了解で、互いに一本の傘を貸し借りし続けただけだ。

 でも、先輩は今日、新しい傘を差してここに来た。

 約束は終わったんだ。

「秋の文化祭でしたライブは楽しかったねぇ」

「僕は本当にすることになるとは思ってませんでしたよ。作詞させられるなんて、なんの冗談かと思いました」

 うんうんとなんでもない様に頷く彼女は、あの頃と変わらないように思えた。変わったのは僕だけなのだろうか。

「大失敗だったけどね」

 客はほとんどいなかった。当たり前だ。天文部とか書かれてて聞きにくる阿呆はいない。

「もう終わったことです」

「楽しくなかった?」

「さあ、どうだったでしょう」

 こんな意味のない会話をどうすればいいんだろう。思い出を掘り返しても、今更何も僕は言い出せないのに。せめて、先輩が手紙のことを言ってくれれば変われるのに、どうして言い出してくれないのだろう。

 僕の言葉はそんなに薄っぺらかっただろうか。濡羽色の瞳が伏せられてしまって、長い髪がざわめきを出せず風になびくのを止めた。

「そろそろ、電車来るから、行くね」

 だったらどうしてもっと早くここに来てくれなかったんだろう。僕はずっと待っていたのに。雨の穿つ静けさに震えていた僕を、彼女は馬鹿にしていたのだろうか。

 罵倒するのは簡単だった。喚くのは単純だった。でも、僕は傷つきたくなくて、目を背けた。

「……そうですか」

「これ」

 先輩が最後に何かさし出してくる。手紙だろうか。淡い期待を抱いて顔を上げても、彼女の目は僕を見ていなかった。応える気が無いのだ。ケースが彼女の憂いの表情をわずかに反射している。

 僕らが暗い表情を見せるのは、いつだって何かに映す時だけだった。

「CD?」

「文化祭の……録音したの入ってるから。思い出がてらに保存しておいてくれないかな」

「そんな、もの」

 ビクっと震えた彼女は、それでも僕の手の中にそのCDケースを押し付けて言った。有無を言わせず矢継ぎ早に飛んでくる彼女の声があまりにも憎たらしかった。

「それじゃ、行くね」

 電車が滑りこんでくる。彼女はかけ出した。雨の音が止んだ。僕は顔を上げると、電車に乗り込む寸前の彼女がこちらを見ていた。いつも、また会いましょうと別れた彼女は、

「さようなら」

 そう唇を動かした。その瞬間、全ての音が遠ざかっていった。彼女の声が響く。だから叫んだ、嘘を。

「さよなら」

 雨は彼女の頬を伝う。彼女は泣いていたんだろうか? 走り出した電車のせいで、確認することは出来なかった。ベンチに座り込む。

 長い時間うつむいて、ふっと耳を澄まして気付いた。

「雨、止んだのか?」

 雨が天井を叩く音も聞こえない。見上げた窓の外は、強い雨が降っていた。風がヒューヒューと寒々しく泣いた。雨が窓を打ちつける音だけが聞こえない。

 篠崎さんが好きだと言った傘が雨を打つ音が聞こえない。

 僕の雨音は、彼女のリズムだった雨音は、彼女を失うことで失った。


―――

空っぽの部屋の隅 君の歌は聞こえない

―――


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