2話
携帯電話の着信音が鳴っているのに目が覚めた。煩わしい無機質な音で起こされたことにイライラしながら電話に出ると、なんで知ってるのかと聞きたくなる声が僕を出迎えた。
「おはようございます、先輩。もう学校行かないと間に合いませんよ!」
「……あーうん、サボるから。それより、なんで番号知ってるの?」
昨日のことで疲れた心は投げやりな声を出したが、華やかで明るい声が返される。
「昨日、先輩がいない間に交換させてもらいませいた」
うんそれ犯罪だから。ツッコミを入れる元気はなく、思い浮かんだ単語は沼へ沈み込んでいって、代わりを差し出した。
「なんで、起こしたの?」
「あの、昨日先輩の家から傘借りて行ったままだったので、お返しがてらに」
「そっか、ありがと」
短く返した。カーテンを開けた窓は、今日もまた雨が降っていた。昨日の帰り道と同じくらい、細かな雨粒が地面に落ちていく。
―――
そうさ 僕らは互いの気を引くため わざと傘を忘れてくる
頬を流れるのは雨なんだ 一緒に走った帰りに嘯いたのに
―――
細かい雨が二人の入った傘を叩いているようだが、僕には雨音が聞こえない。彼女が強いですねぇーと言うのに曖昧にうなづいた。アスファルトの道路には水たまりがそこら中にできて薄暗い雲を写しながら、時としてスカートの中さえも移してしまいそうだった。邪な考えに慌てて視線を前に上げた。
彼女は僕の態度に気づかなかったのか、明るい声だ。
「それにしても、先輩、ありがとうございます。まさか本当に送ってもらえるなんて」
信用してなかったのかよ、とはおくびにも出さずに少しだけ頑張って笑みを作った。
「そりゃ、約束したからね」
「なんだか嫌そうです」
変なところで鋭いな、思っても口には出さず。もしかして頬が引きつってしまったのかと、鏡が見れない救命手段として傘を持ってない手で頬を掻いた。ひきつっていなくてほっとする。
「雨が嫌いなんだ。ここって、この時期になると、梅雨でもないのにずーっと雨だから」
「えー、私は雨が好きなんで、ずーっと雨でもいいですけどね」
部屋がくさくなるねっと脅そうとして、それを言ったのは篠崎先輩だったなと思いだした。意図せず彼女の影響を色濃くうけたらしくて、虚しい気持ちで笑ってしまった。こんな時のほうが自然な笑顔になる自分が憎らしくあった。
「どうしました?」
「前を思い出してね」
僕の言葉をなんと勘違いしたのか、彼女は嬉しそうに両手を叩いた。僕が傘を持ってるから、動きが自由だ。でも、必死で僕が濡れてそっちが濡れないようにしてるんだから、傘から出ないで欲しいとは思う。
「子供の頃って、なんでだか雨の中を走りまわりたくなりますよね。私もよく幼い頃は、友達と走りまわってました」
「犬だな」
「犬が喜ぶのは雪では?」
素で間違えた事に恥ずかしくなり、目を泳がせて彼女の瞳から逃げ出した。帰り道の途中にある寂れた電車の駅が目に止まる。めったに利用する人がいないローカル線だ。
「この寂れた人のいないしょっぼい駅で休みましょう、先輩!」
何を思い立ったか、雨が好きならこんな帰り道は苦でもないだろう彼女が言い出したことに、まゆをしかめた。
「嫌」
「なぜですっ!?」
自分でひどい形容詞を足して表現した駅で休もうなどと提案するのがおかしい。僕は早く雨から解放されたかった。だが、彼女が駅の方へ足を向けてしまえば、僕は傘を持っている性質上、彼女を追随するしか無い。長い溜息をついたが、彼女は気にしない。
古びた駅は先輩を見送ったときと変わらず、雨の染み込んだ木の香りを漂わせて静かに佇んでいた。閉じた傘の先から雫が落ちる。誰がおいて行ったのか、壁に併設されたベンチに古雑誌が数冊置かれていた。
「懐かしいですねー。昔、この漫画見てましたよ」
彼女はベンチに座り、ペラペラと古雑誌をめくる。確かに懐かしい漫画がちらりと見えた。
「なんで立ったままなんですか?」
「すぐに出て行くかと思って、待機」
うらめしそうな目で見られて、もうしばらくここにいることになりそうだと諦める。傘の先から落ちる水が、駅の出入口に伸びて外にあった水たまりへと合流していた。おとなしく流れに従うのが一番だろうと、ため息をつく。
少しだけ離れて、彼女のとなりに座った。嬉々としてページをめくる彼女に、なんとなしに尋ねた。
「どうして、活動してないって言った部活に入ったんだ?」
雑誌から顔を上げた彼女はまだニコニコとしていてた。そんなに漫画は面白かったんだろうか。
「うーん、特にしたいこともなかったので、だったら部室を持ってる天文部がいいかなって。サボったときに隠れ家的に使えるじゃないですか」
伝統は受け継がれる、とでも言えばいいのか迷った。先輩も僕も同じような気持ちであの部室を使っていたから、内心賛同せざるをえなかった。
遠くから踏み切りの警告音が響いて聞こえた。
カンカンカンカン。
警告音なのにそれは日常の一つの音で、彼女はちらりと窓の外を一瞥してから、上目遣いに覗き込んでくる。
笑顔は消え、端正な顔立ちが人形のように無表情にじっと僕を見つめてくるのは、仕草とその顔のギャップに怖くなって、彼女の生きた声によって絞めつけられた心臓が解放されてほっとした。
「こんな考えだと駄目でした?」
「僕もほとんど考えが一緒だから別にいいよ」
最初に入ったときの理由は、僕の場合はもっと不純だったが。何が嬉しいのか、さらに華やかな笑顔を見せる彼女に苦笑を浮かべた。
「本当はこんな理由で高校生活を駄目にしたらダメなんだろうけどね」
「そうですかー?」
電車が滑り込んできて、しばらくしてから出発のベルを鳴らしてあっさりと出発していった。先ほどまでと同じさびれた駅に戻っただけのはずだった。
ポタポタ、屋根を伝い地面へ落ちる滴、窓を恨むようにガラスを叩き、再会を喜ぶように水たまりに落ちる音。
一年以上の間をあけて、雨の音が聞こえた。それは新鮮なようで、懐かしい声と同時に戻ってきた。
そちらに目を移す。彼女も声のした方へ目を動かした。
「こんにちは、雨啼君。お久しぶり」
口を開こうとして、何度ももごもごと戸惑いながら、やっと発することが出来たのは単純でありきたりだった。
「お久しぶり、です。篠崎先輩」
「もう先輩なんて呼ばなくなってたくせに、また戻ったの?」
楽しそうに笑みを浮かべる篠崎さんから目をそらした。そらした先に、戸惑った顔が入った。
「そちらの方、どなた?」
「笠森です、はじめまして。部活の後輩です」
すらすらと答えた彼女のおかげで、やっと名前を思い出せた。思い出せたと言うよりは、知ったに近いが。僕とは違い笠森さんはにこやかに篠崎先輩をみやっている。
「へぇ、私がいなくなったら休部すると思ってたんだけど、後輩入ったんだ」
「篠崎先輩は、どうしてここに?」
「遊びに来たの」
軽やかな声が、僕には重くのしかかる。なぜいまさら。
「去年は全くこっち帰ってこなかったから、もう帰ってこないのだと思ってましたよ」
すらすらと出てくる悪意に、みじめな気分にさせられた。自分が長い間溜めこんだ気持ちは、にこやかに篠崎先輩に応えることなんてできそうになかった。
「そんなひどいことを言う後輩じゃなかったと思うんだけどなー」
「そんなひどい後輩にしたのは、先輩ですから」
一人、仲間外れになっていた笠森さんが僕と先輩を見比べた。僕の顔なんて見てほしくなかった、こんな惨めな顔を。
「二人で一つの曲を考えるぐらい仲よかったじゃない」
「そんなことあったんですか?」
篠崎先輩の話に興味津々と言った笠森さんの瞳が僕を捉えた。すぐに目を背ける。
「若気の至りだよ」
「それでもすごいです」
「確かに、あんなこと、若気の至りじゃないと出来ないよねー」
くるくると指を回して、楽しげに昔を思い出しているような篠崎先輩に、つい自嘲気味な笑みがこぼれた。笑った音が聞こえたのか、篠崎先輩の怪訝な顔をする。
「若気の至りだったからって、嘘をつきあって笑ってたのもどうかと思いましたけど」
「私も君も、笑い合って別れたはずだけど?」
小首をかしげられる。僕は首を横に振った。彼女はどうしてそんな嘘を言うんだろう。
「笑い合って別れた覚えなんて無いです」
「じゃあ、泣いてた?」
「怒ってました」
「どっちがさ」
どっちもですよ、嘘は言葉に出せなくて口を閉ざした。強がらないと負けてしまいそうだった。
彼女の声に雨が広がる。彼女が口を閉ざせば静寂が広がる。まるで彼女の声だけが僕に活力を与えるみたいで、未練がましい自分の心が腹ただしかった。
「君から手紙をもらったよ?」
「貴方は何にも応えてくれなかったですね」
だって、と彼女の唇が動いたのが分かる。声は出てきてない。キッと睨む先輩のまなざしが、氷を削るように僕をすくませ縮こませる。
「文字だけで、君は何も言ってこなかった。くだらないことには乗ってくるくせに、何も自分からしてこなかった。振り回される私の気持ちを推し量ったことなんてあったとか言うの?」
「先輩の真意が見えなくて、振り回されてた僕へのあてつけですか?」
しまったと思ったとき、僕の目の前に手のひらが差し出されて、声を発するのを止められた。笠森さんの手と細い指の肌は、音を奪う白雪の降った地面のようだった。
「雨啼先輩、私は言い過ぎだと思います」
「……そうか」
「私の方こそ、ごめんなさい」
笠森さんがせめたのは僕の方だというのに、篠崎先輩は目を背けながら呟いた。また雨音が僕の耳から止む。
「先輩は……どうしてもどってきたんですか」
もう一度尋ねた。真意を知りたかった。笠森さんがじっと責め立てるように瞳を向けるが、僕は知りたかった。
「……本当に、遊びに来ただけなの」
こちらを見ないそんな彼女の答えに、僕はそうですかと答えられなかった。笠森さんは沈黙を救ってくれそうには無かった。ゆっくりと僕の顔の前に向けられていた手のひらが下げられる。
少しだけ篠崎先輩の方を盗み見る。憂いた目が地面に注がれていた。
「……ぁっ」
「雨啼先輩、私、時間が無いので送ってもらえません?」
声を出すと同時に遮られた。何をしゃべろうとしたのか、僕自身も分かっていなかった。言葉がさまよって声に出せず黙りこんだ。笠森さんがぐいぐいと僕の服の袖を引っ張る。助けてくれたのは冷たくも先輩だった。
「送って行ってあげれば?」
「……はい」
投げやりな声にうなづいた。笠森さんに引かれるまま外へ出る。傘を差して、ふと気付いた。
「篠崎、さんは傘は?」
「……持ってるから大丈夫」
でも、彼女の両手には傘なんて無かった。折り畳み傘でもあるのか。尋ねる前に、笠森さんが歩き出す。
「それじゃあ、篠崎先輩、私はお先に失礼させていただきます。またお会いしましょう」
振り向くこともなく告げる明るい声に、篠崎先輩が力なく手を振りかえした。笠森さんがさっさと歩みを進めるのに、何度も振り返りながらも小走りで追いかけた。
彼女は先ほど出会った篠崎先輩のことなど覚えていないように、しゃべり続ける。結局、家の前で傘を彼女に渡して別れる時もずっと、曖昧な答えしか返せなかった。でも、何を喋ってきたのかさっぱり覚えていなかった。
――
掛け合った伝えきれない嘘を
きっと本当みたいに笑い合って
物語に踊っていた
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