1話
女性ボーカルが澄んだ声を響かせる。学校の体育館で録音したもので、音質はいいとは言えない。でも、どうしても手放すことができなかった。
何度もCDをたたき割って引き出しの奥底へ放り込みたかった。そんな光景を彼女が見たら、泣くかもしれないと思った。だけど、そんな妄想をするぐらいしか、僕にはどうしようもなかった。
『雨に濡れたウソツキは 救われないのがリアル』
その通りだ。こんなくだらないことをした自分は救われないんだって。それでもあの頃の彼女のリズムを思い出したくて歌い続けた。
僕は雨の音が聞こえない。
――
雨に濡れたウソツキは 救われないのがリアル
水降る世界へ謳う君 現実に物語が負ける
――
淡紅色の雪の花が風に舞い散り、雨に穿たれ地面に叩きつけられる。ヘッドホンで音楽を聞きながら、ぼけーっとなんともなしに見ていた。耳を女性アーティストの澄んだ声が撫でていくように流れていく。時折ざらつくノイズが僕の神経を逆撫でするのを意識から遠ざけようとして目を動かした。
中庭に植えられた桜の木陰の傍に人影を見た。ふいっと視線をそちらにやる。すらりとした姿に長い栗色の髪と、遠目でも分かる端正な顔立ちをした少女が立っていた。
僕よりも二つ下の子だ。知った子だった。
こんな場末の、幽霊部員を抱えた部活に入部するだけでなく、部活動をしましょうと言って顔を出した子。名前は……。
「誰だっけ」
彼女の名前を忘れてしまった。確かに聞いたはずだったが、覚えるのが苦手なのに加えて、どうせすぐにこなくなるだろうとタカをくくっていた。名無しの彼女はじっと、こんな雨の中で虚空を見つめている。その姿は小説に登場したなら、怪しく狂気をはらんだ存在に感じられるだろうが、現実にはただの変人だ。
すっと彼女の手が胸元に運ばれ、目が閉じられる。その瞬間、僕の耳から音が遠ざかった。無意識にヘッドホンを外していた。まるで歌い出すような格好をした彼女に、目を奪われる。
彼女が歌いだすかと思った瞬間、彼女はまるで見ている僕の視線に気づいたかのようにこちらを見た。
距離が離れているからはっきり見えるはずはないのに、茶色の瞳がまっすぐに僕を射ぬく。
息がつまる。彼女の唇が動く。
何を言っているかは分からなかった。鋭い視線はゆっくりと溶けていき、にこりと表情が笑みに変わる。花咲く笑顔というのは彼女の笑顔を言うのだろう。
「先輩!」
だが、彼女のその一声が全てを台無しにしてしまった。良く通る声が煙って沈む空気を切り裂いて鼓膜を震わせる。
やめてくれ、そう叫んで部室へ引っ込もうかと思ってしまった。先輩と呼ばれる筋合いはないし。ましてや雨の中でぽつんと桜の傍にいる人物を、他の人々が奇異の目で見てるかもしれない。。
もしかしたら、僕の方へ目が向くかもしれないんだ。
でも、僕は無視した場合の彼女との関係をわずかばかりにおもんばかって、手を上げるだけでも反応を返す。楽しそうに手を振り返した彼女は、走って校舎の中へと消えていってしまう。
「なんなんだ。そんな顔見知りでもないのに、あんな嬉しそうにされても……」
可愛い姿だが、あまりにも彼女の行動が奇っ怪だった。
けれど、彼女の先程の態度から、なんだか面倒ごとを持ってこさせられそう。そんな予感がした。
僕は急いで逃げようとし、大事なヘッドホンを忘れないように付けてから立ち上がったが時すでに遅し。
扉が開いている。涼しい風が窓から扉へ流れ、彼女のセミロングの髪を揺らした。
物言いたげな彼女の瞳に、気圧されてパイプ椅子に腰をおろす。古いパイプ椅子が抗議の悲鳴を上げた。
「……こんにちは」
やっと吐き出せたのはそんな挨拶一言だった。
「先輩、こんにちは。まさか、誰かがこの部室にいるとは思いませんでした」
彼女の言い分ももっともだ。
「活動してないって、教えたからね」
「はい、でも、先輩は部室におられるんですね……」
「サボり魔だから」
力なく答えた。彼女は困った笑みを浮かべてしまう。多分、僕もあの人と出会ったとき、そんな顔をしていたんだなと自嘲した。
彼女が体をわずかに震わせているのを、遅れて気付いた。かばんの中を漁る。
「ほら、使ってないタオルあるから」
「あ、ありがとうございます」
ヘッドホンを付けて、そそくさと部室から退散する。彼女が僕を呼び止めようとしたが、僕はそれを無視して、廊下に出て扉を閉めた。春の涼しい風が吹きやむ。空気が沈泥した。
かばんを置き去りにしてしまった。
このまま逃げるつもりだったのに、目論見が外れてしまう。
どうしようもなくなって、廊下から見える窓越しの灰色空を見上げた。ただ流れる時間に苛立って解放されないか待っていた。
「つぶやいてみても、結局なんにもなってないんだ」
自分がこの一年間、あの部室でしてきたことといえば、誰も来ないことを良い事に占領して音楽を聞いていただけだ。停滞と安寧と暗穏を望んだ結果で、広がらない世界は、まるで今しがた見上げた空みたいだった。
背中を預けた扉が誰かに叩かれているのが、背中に伝わった振動で気付いた。ヘッドホンを外す。
「先輩ー?」
「何?」
「あ、やっぱりおられたんですね。かばん忘れているようなので、廊下にいるのかなって」
「終わった?」
「はい。なので、どうぞ」
彼女の言葉に促されて、僕は扉を引いて開ける。目の前に栗色の瞳をした彼女と向き合う形乗った。息が触れ合うかと思えるほど近い。扉の前から離れようよという言葉は、形にならず霧散した。
「中入れないんだけど?」
「今、どきます」
彼女が脇にどいたことで、僕はやっとかばんのもとへ辿りつけた。
「タオルは洗って返しますね」
「そうしてくれ」
投げやり気味に答えると、彼女がヘッドホンを注視してることに気付いた。
「……何?」
「それ、先輩好きな曲なんですか?」
「好きじゃないけど?」
背中に冷汗が流れる。
「どうして、ずっとそれだけを聞いてるんですか?」
ざらつくノイズが耳障りだった。彼女の言葉に答えようとして、本当の声は出てこない。だから、すらすら出てくる嘘をつく。
「気が向いたからかな」
「気が向いたから、ずっとそれだけ聞くんですか? もう二年も前の曲ですよね」
「俺は五年前の曲でも、それだけ聞きたかったら、それだけ聞いてるよ」
うまく笑えたかわからなかった。これが二年前の曲だって、どうして知ってるんだろうか。疑念が強くなる前に、彼女の声でかき消される。
「そんなもんですか」
小首を傾げる仕草をした彼女に、おざなりに答えて、ヘッドホンをつけようとする。もう話は終わりだ。
「雨、ひどくなってますね」
僕が逃げようとすると、彼女は何気ない仕草で僕の行動を邪魔をする。あの頃を思い出してしまうのに、慌てて記憶から逃げ出した。
雨の音などついぞ聞くこともなくなったから、雨がひどくなったのは人に言われてからしか気付けなくなった。なんだか困った風な姿の彼女にまさかと思って尋ねた。
「……傘は?」
「持ってきませんでした」
堂々と言われても困る。
「天気予報見なかったの?」
「私、天気予報って信用しないタイプなんです」
「笑って自慢することじゃないから」
でも、天気予報を信じないのはお仲間だ。残念ながら僕は傘を持ってきているけれど。
長い溜息を吐いて、持ってきていた傘を手に取る。過去に二人が入るために使われた傘は、ある意味で 本来の使い方に回帰した。
「帰ろうか。……帰り道がどこまで一緒かわからないけど」
「! ありがとうございます。たとえ一緒じゃなくても、先輩の傘を奪えるもとい借りれるところまでついて行きます!」
なんだその覚悟と僕が呆れ顔になったのと対照的に、ガッツポーズした彼女の、色素の薄い唇は綺麗に三日月型になった。
――
雨濡れた憧憬 桜穿つ烟景
見上げた空の灰色で 便箋を濡らした
掴み取ることばに どんな形があるのかな?
――
屋上を開ければ、空が見える。そんな当たり前の光景に、ひとつだけ違ったのは、美しい声に乗せられた歌だった。
淡紅色の花が風に舞い、鉄の扉がわずかにあいた隙間から時折滑りこんでくる。
僕が開けた扉の音に反応して、その声はすぐに止まってしまう。しかし、歌い手はそこにいた。
「何か用かな?」
「いえ、どこか行く宛がないかと思って」
「そりゃそうだろうね。今、授業中だし」
あなただってそうでしょうという言葉は飲み込まれた。濡羽色の鋭い瞳が、僕を射抜いたからだ。
「えーっと」
「会話が面倒くさいから自己紹介してもらえる? いちいち、君って言うのも違和感覚えるから」
唾を飲み込むと、変に力が入って勢い込んで足を一歩踏み出してしまう。
「僕は、一年の雨啼です」
変な名前と、声に出て無くても唇が動いたのは分かった。むっとすると、ごめんごめんと笑われる。
「私は三年の篠崎よ。サボり魔としてよろしくね」
ウインクした先輩に、まるで背後に花が咲いたような錯覚を覚えた。それが先輩との出会いだった。
―――
濡羽色の光が射ぬく 僕らを曇らせる元凶
何でもできる 互いに叫んだ
空っぽの部屋の隅 君の歌は聞こえない
―――