第八十七話 皇女
破壊された天井からふりそそぐ月明かり。その優し気な光が室内を僅かに照らすなか、タナカとひとりの女性が微動だにせず対峙したままだった。
その一方、剣を突きつけているこの国の皇女カリンは、これまで経験したことのないプレッシャーに襲われていた。
先ほど相手の隙をついた渾身の一撃があっさりと躱されていたからだ。いや、実際には躱されたのかすらわからなかった。それほどの力量差があるのだと思い知らされていた。
事実、「突きが綺麗ですね」などという余裕の発言までされる始末である。もはやその言葉に怒りを覚えることすらできないほどに心理的に追い詰められていた。
幾度となく激闘を演じてきた自分が、皇国闘技祭の頂点に到達した自分が何もできないままにいるという現実は、皇女自身に重くのしかかってくる。
たいしてもう一方のタナカさんはというと、背中を流れる冷たい汗を感じながら考えこんでいた。このままではまずいと。
それはそうだ。剣を向けられた状態に危険を感じないというのはあり得ない話である。しかしそれはあくまで素人であればの話。タナカの場合は一味違う。
物事には優先すべき順序というものがある。そしてそれが非常時なればなおさらのこと。こういった状況でタナカが考えることといえばこれしかないだろう。
満を持して発揮したオサレスキルはあっさりと躱され、このままではせっかくの美女とのイベントをフラグをたてることもできずに逃してしまうと。
なんという冷静で的確な判断力であろう。この剣を向けられた状態でこの考えにいきつくとは恐るべき漢である。そんなことができるのは強くて凄くてカッコいい主人公かただのアホくらいのものだろう。タナカさんがどちらであるかは言うまでもないことだと思うので言及はこのくらいにしておく。
そんなこんなで膠着状態が続くかに思えたこの状況は、あっさりと第三者によって瓦解した。
「そこまでです。剣をひいてください」
この襲撃をうけとっさに隠れたのであろう。部屋の隅に隠れていた者は姿を現し二人に近づいてくる。
「離れていてください。この襲撃者、只者ではありません」
「只者でないことなどわかってますよ。あなたの力では彼を抑えることができないということもね」
消えていた魔道具に光が灯り、その姿があらわとなる。
「エチゴヤさん!」
「やあ、おひさしぶりです。とりあえずいろいろな話はあとに。今はこの状況をどう誤魔化すか考えなくては」
そう言っているうちに扉の外が騒がしくなってきた。第三者が介入してくるのはもはや時間の問題だろう。
「そういうことならまかせろ。言い訳や誤魔化しはオレの最も得意とするところだ」
自慢なのかなんなのかよくわからないことを口にしたタナカを華麗にスルーしたのは、エチゴヤなりの優しさだろう。いっぽうのタナカはというと美女の前なのでやたらと張り切っている。
「炎より生じし子なる地精よ――。廻り集いて形を成せ――」
壊れた天井に手をかざし詠唱を始めるタナカ。片方の手で顔を覆い流し目を送る美女へのアピールも忘れてはいない。
「スプラ・ナトラ!」
タナカが破壊した天井の残骸が形を失い砂へと還る。そして生みだされた砂の山は、まるで生きているように蠢めいたかと思うと移動し始めた。
もはや説明不要な生活魔法の応用である。地面に影響を及ぼす魔法をいくら地面に接しているからといって、建造物の最上階にまで効果を及ぼせられるのはこの漢くらいのものだろう。
「こんな感じでどうだ。残しておいた残骸と合わせると、『老朽化でちょっと崩れちゃったみたいだね、テヘ(ハート)』的な言い訳が通じるだろ」
「いやはや、驚きました。以前、魔法は得意ではないと聞いたような気がしますが、これで大したことがないというのは謙遜しすぎでしょう」
「フッ、そんなことはない。と言い切れぬものがあるような気がしなくもないと言わざるをえない」
ドヤ顔でおのれの有能さをひとしきりアピールした後、カサカサと部屋の隅に移動する。その凛々しき様はまさに最凶の生物を思わせんばかりだ。
さらにタナカはここで小物としての本領をいかんなく発揮する。彼の持つ小物としてのオーラを最大限に発揮することにより、自分という存在を路傍の石と化して身を隠すという絶技を披露したのだ。まさに小物のなかの小物。エリート小物という称号は彼のためにあるといってもいいだろう。
美女とのイベント強制終了を無事回避し、ムフフな展開へと望みをつないだタナカはご機嫌だった。コソコソと隠れるタナカを、美女がまるでGを見るような目で見ていたことも、タナカにしてみれば好材料にすぎない。
「さては……、オレに惚れたな」
思いっきり調子に乗っていた。
コンビニで女性店員にお釣りをもらう際に、少し指が手に触れただけで「あの娘、どうやらオレに気があるらしいな」と妄想してしまう漢にとって、この程度の予測は朝飯前なのだ。
ありもしない未来に鼻の穴を大きく膨らませるタナカをよそに事態は動く。扉が勢いよく解き放たれ、屈強な兵たちがなだれ込んできた。
「ご無事ですか、カリン殿下!」
幾人かの兵を引き連れた隊長らしき者があわただしく部屋に入ってきた。
「……ええ、この城も思ったより老朽化が進んでいるようですね。近いうちに改築の指示を出しておきましょう」
皇女カリンは静かにそう答え、冷たい瞳で原因を指し示す。
彼女の目線の先には少なからぬ残骸らしきものが落ちていた。その上を見ると天井の一部が剥がれおちたことは一目瞭然だった。
「派手な音がしましたので、何者かの襲撃かと駆けつけたのですが。思ったほどのことはないようで安心しました。ところでいかがいたしましょう。別の部屋を用意いたしますか?」
「必要ありません。別に穴が開いたわけではないのですし、不自由はないでしょう」
「わかりました」
カリンの出ていけという仕草を受けて退出していく護衛たち。その誰もが路傍の石に気づくことはなかった。すごいぞタナカ。存在が無価値すぎるぞタナカ。
こうして残ったのは彼女と――。
「やれやれ、なんとかばれずに済みましたか。まったく、なかなか派手な登場をしてくれますねタナカさん」
そうため息をついたのはカリンと護衛の会話に参加することさえしなかったこの部屋の主である。
「いや、ほら……、なんというかさ。アレだよ、アレ……。そう! 行方知れずになった親友を心配するあまり、ちょっと義侠心が暴走した的な? どうよ、この設定なかなかいけてるだろ」
部屋の隅に隠れていたタナカが適当な言い訳をしながら姿を現す。その神経を逆撫でするような態度はあいかわらずでエチゴヤは苦笑していた。そんなエチゴヤにカリンが話しかける。
「――それで兄上。その者は一体何者なのです。とりあえず誤魔化しはしましたが、場合によっては護衛を呼び戻しますよ」
「呼び戻したところでどうこうできるとは思えませんが。それは相対したあなた自身もよくわかっていることでしょう」
エチゴヤにそう諭されたカリンはそれ以上なにも言い返さなかった。そのかわりタナカが全力でリアクションしていた。
「兄上……だと……」
「ええ、紹介しますね。こちらが私の妹カリン。皇国闘技祭で優勝したこともある一流の騎士ですよ。我が妹ながらたいしたものです」
エチゴヤに紹介されたカリンは無愛想な表情で、なんの反応もしめすことはなかった。
「そしてこちらはタナカさん。ギルドに頼んだ仕事で知り合って以来、よく仕事をご一緒しています。たいへん優秀なかたですよ」
特に意味もなく片手を水平に伸ばしバッとマントを翻すタナカ。そのまま決めポーズに移行して幸先のいいスタートを切る。
「よろしく、お嬢さん」
二本指でビシッと挨拶を決めたのだが、相変わらずカリンはなんの反応もしめさない。しかしタナカにはすべてがわかっていた。この瞬間、心を盗むことに成功したのだと。
そしてタナカが心待ちにしている「素敵、抱いて……」の台詞が始まるかと思いきや。
「なるほど……、兄上の仕事仲間ですか。そういえば商人の真似事などをしていたのでしたね」
「真似事とは心外ですよ。これでもそれなりの成果をあげていたんですから」
一見失礼な物言いの妹にエチゴヤは不愉快な様子も見せず、笑みを浮かべて抗議する。たいしてカリンのほうは少し張り詰めた様子に変わった。
「とりあえず先ほどのことは見なかったことにします。しかし、次に問題を起こしたときは見逃しません。これは兄上にも言えることですよ。皇都にいる以上、怪しい行動は慎んでもらいます。もはや兄上は皇族ではないのですから」
「わかりましたよ」
「皇族……だと……」
エチゴヤの返事に頷くとしっかりとした足取りで部屋を後にするカリン。タナカにしてみれば期待を裏切られる上、渾身のリアクションさえも無視される形となったわけだが今日のタナカさんは一味違う。
「フッ、どうやら思った以上に照れ屋さんのようだな」
「どう考えたらそういう結論になるのか、甚だ疑問なのですが」
「ヤレヤレ、わかっていないな。義兄さんは」
この返しに思わずイラッとしたエチゴヤは悪くないだろう。




