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主人と従者と浴衣と温泉と

お久しぶりですが、私たちは元気なようです。

 こんにちは。マスター専属メイドの悦子と申します。本日はマスターは隣には居りません。

 夕飯も済み入浴も済ませたマスターは、とても器用な人間なのでごろっと寝そべったままゲームのコントローラーを握ったまま眠ってしまったようです。きちんと魔物の襲ってこないセーブポイントに立ち尽くしたまま、不意の寝落ちにもきちんと対処出来るマスター、さすがマスターと言ったところですね。

 早々に寝室のほうへマスターを移送しても宜しいのですが、やはり私がさみし――起こして機嫌を悪くされてもメイドとしては心外ですし、まだ9時をちょっと回った時間です。もう少しこのままお眠りになって頂きましょう。

 はて、私はといいますと、多少最近のマスターとの共有する思いスゥイートメモリーを整理しようかとひとり家計簿に向かい、記憶回路を弄っているところであったりします。

 とはいえ、頭の中に手を突っ込んで、というものではなく、人間で言うところの『回想による記憶の定着と確認、それに伴う美化』といったところでしょうか。

 記録されている記憶をしっかりと思い出へと変換するのもメイドとしての重要な使命です。マスターが私に与えてくれる掛け替えの無い報酬、そう喩えるのが一番しっくりきますね。

 何事にも波というものがあるように、ここ最近のマスターとの生活もそれなりに波の多い日々だったような気がします。

 人探しの依頼かと思い快く受諾してみればターゲットが猫であったり、マスターの黒歴史を覗いて私が悶々としてみたり、マスターが卵黄の味噌漬けに嵌ったかと思えば琥珀卵黄に夢中になってみたり。

 他にもいろいろとありますが、一番近い過去の記録で印象に残っているものといえば、やはりマスターと温泉施設へ赴いた際に起こった殺人事件とそれに付随する推理対決でしょうか。

 まさか本当に温泉施設へ出向いて、そこであのような事件に巻き込まれることとなるなんて、世の中何があるのかわからないものです。

 マスターのように不死身の人間や、私のように明らかにオーバーテクノロジーなメイドが言っても説得力に欠けるかもしれませんが、不思議なものは不思議ですよね。

 マスターも私も推理はそこそこ、でも犯人はほぼ確実に当てるタイプの探偵なのですが、あの場に居合わせた少年探偵は推理の過程に重きを置いていた様子。

 有名な探偵さんもご一緒で、その方の身内の方ということだったので流石と言ったところでしょうか。探偵さんより淀川君の活躍のほうが大きく見えたのは気のせいなのかそうでないのか。

 あ、淀川君とは少年探偵の名前のようです。マスターは『何だか嘘くさい』と仰っていましたが、私にはよくわかりませんでした。

 そもそものことの発端はマスターの大学の研究所への定期出向のときだったと記憶しています。何の変哲も無い、いつもと変わらない定期出向でした。

 マスターが検査等で私の傍を離れる際は研究員の方のお茶酌みと談笑のお相手をさせていただいて、そしてほどなくしてマスターがやってきて、ここまではいつもと変わらずと言ったところでした。

 しかし、マスターが所要から戻った際に、まさかの事態が待ち受けていようとは、そのときの私には知る由も無かったのです。


「悦子、貰った。これ貰ったぞー」

「あら、マスター、お疲れ様です。何か良いものでも貰ったのですか? マスターは魅力的ですから、特に不思議は御座いませんが」

「うんまあ、良いものっちゃー良いものなんかなー、これ。ほい、無くすといけないし、悦子持っててよ」

「畏まりました。では確かにお預かり…………これはこれは、マスター、びっくりですね」

「あんまりびっくりしてるように見えないけどなー。で、どうする? 来週末みたいだけど」

「問題ありません。是非行きましょう。好意を無駄にするわけにはいきません。行きましょう」

「う、うん。行くのはいいとしてノーウェイトで回答してくることに驚いたわ」

「マスター謹製の演算回路ですので、0,0002秒もあれば問題ありません」

「ふぅん、まあ別にいいけど。んじゃとりあえず行くってことで」

「畏まりました。雨が降ろうと槍が降ろうと決行致しますのでご安心くださいませ」


 報酬とは別に、毎度毎度大変だということでマスターが研究所の偉い方から頂いたのはなんと、温泉施設のペア宿泊券。

 まさかまさか、まさかマスターと温泉旅行に行けることになるだなんて、渡りに船とはまさにその瞬間の為にあるような言葉と実感致しました。

 そのような理由により次週の週末の予定はガッチリと喰らいついたら離さない、例え桜吹雪が降ろうとも私の心は来週の週末にロックオンです。

 その日の夕飯はマスターも笑顔で顔が引きつってしまうほど豪華になってしまったのは言うまでもありません。嬉しい日はステーキの日、かなりランクの高いお肉を久しぶりに堪能致しました。

 そして宿泊券は無くしては大変ということなので、額縁を購入しリビングの一番見えやすい位置に飾っておく周到さ。マスターには『そこまでしなくても……』と仰られてしまいましたが、念には念を、それに楽しみは見える位置にあったほうががんばれるというものですので。

 旅行から帰ってきてその額縁はどうしたのか、気になるところかと思いますが、私はしっかりとしたメイドですので、宿の方に頼み込んで宿泊券はきっちり回収して参りました。

 あれほど人様に頭を下げたのは生まれてこの方初めてかもしれませんが、マスターも思い出の品が御手元に残りきっと満足に違いありません。

 というわけで、使用済みの判子は押されていますが、きちんと額縁に入れてリビングの見易い位置に飾ってあります。今では眺めるたびに楽しかった想い出が蘇り、48時間ほど元気に活動出来そうなご利益のある家宝になっております。


 哲学的な名言のひとつに『遠足は準備しているうちが一番楽しい』というものはあながち間違いではないと、私もひとつ学習しより人間に近い感覚と感性を得られたのではと思うと嬉しくなるものです。

 マスターとの何でもないような日々が幸せであるのは、不幸な事故が起こらずとも確定的に事ある毎に感じてはおりますが、旅行までの日々はそれを遥かに凌駕し、コップを2つ3つ割り、お風呂のお湯を何度か溢れさせ、砂糖と塩を間違えるほどに心が躍っていました。

 少しずつ準備をし、1日1日を指折り数え目的の日がやってくるのを心待ちにする、あのときの気持ちを忘れないために、適度な回数の旅行を計画するのも悪くないかとメイドとして心の中で決意致した次第です。

 狭いながらも楽しい我が家ではありますが、やはりマスターもたまには羽を伸ばしてゆっくり休みたいはずですので、折を見てこっそり計画を立てる、所謂サプライズも面白いかもしれませんね。

 しかしながら残念なことに、『旅行に行くまではとても楽しみで楽しくて仕方なかった』という感情は記憶しているのですが、日が近づくにつれ記録に曖昧な点が増えてしまって、早い話はっきりと覚えていないのが残念です。

 そのような理由もあり、次回があるならばもう少し落ち着き、冷静に準備の時間も心に刻もうと決めたのでした。

 マスターは普段と全く変わらずに見えたのは言うまでもありませんが、恐らく内心は私と同様、楽しみで楽しみで仕方なく、勝手に口角が上がり目尻が下がってしまうのを堪えていたのだと信じて疑いません。


 はてさて、平穏な日常に突如入り込んだ時間の加速装置の所為と言うべきかお陰と言うべきか、楽しみにしていた旅行の日はあっという間にやってくることとなりました。

 前日は言うまでもなく、朝も早くから荷物の準備をし、1時間置きくらいに何度も確認をし抜かり無く仕上げるのはメイドの務めです。

 結局のところマスターの『多すぎるからもっと減らしてよ』という鶴の一声で荷物は半分以下に減らされることとなりましたが、荷物を持つ私のことを思ったマスターの優しさに感謝感激でした。

 結論と致しまして、荷物はバッグ1個分もあれば十二分過ぎるということが判明しましたので、次回の教訓として活かすと致しましょう。何事も経験と学習が大事なメイドの悦子でございます。

 書籍やインターネットに於いて『遠足・修学旅行の前日は不思議と眠くならない』という半ば迷信に近い都市伝説が事実であったことを、この身を持って経験したことは言うまでも無いでしょう。

 ロボなのに睡眠が摂れなくなったり、ロボなのに寝不足で若干ナチュラルハイになってしまったり、本当にマスターは私を人間より人間らしく作製していただいて、実際のところちょっとは考えてほし――とても私としても満足しております。

 マスターは普段どおりに床に入り、隣で気持ちの良さそうな寝息を湛える一方、私はたまに起きては荷物やバス、電車の時刻の確認をきっちり何度も行うことに余念がありません。時間を守り行動する、それがやはりメイドインジャパンの証です。


 雀の鳴き始める頃に床をあとにし、朝食を作りマスターに起床を促し、あれよあれよという間に出発の時間と相成りました。少し気だるさを身体に感じつつも、各種回路はこれ以上に無いほどクリアーという現象に見舞われつつ、家を後にしました。

 本当のところ、お弁当もしっかり作り電車の中で景色を見ながらマスターと頂こうと思ったりもしたわけですが、『折角の旅行なんだから駅で売ってる駅弁食べたほうが良いでしょ』というご尤もなご意見に従うこととなりました。

 本当は私ひとりでも十分に持ち運びの出来る荷物の量だったのですが、お優しいマスターが半分荷物をお持ち下さり、それすらそのときの私には天にも昇る喜びに感じられつつ、狭いながらも楽しい我が家を後にすることとなりました。

 マスターには『まだちょっと早いでしょ絶対』等とお小言を言われつつ、余裕を持っての1時間前行動を私は忘れません。道中何があるのかわからない、それが旅行というものだと私はしっかり事前に学習しておりますゆえ。

 そのような理由により早めに家を出発し、バスを乗り継ぎ電車を乗り継ぎ目的の電車の時間の一時間前には駅のホームに降り立つことが出来ました。

 案の定、マスターのお小言に曝されることとなりましたが、予定に遅れるぐらいであればお小言に曝されたほうがマシというものです。

 お小言を言いながらもしっかり売店やお土産売り場を回り、お弁当や珍しいお菓子、一風変わったキーホルダー等、旅の想い出になるようなものをマスターと一緒に購入致しました。

 帰り足でも良いのではと思うこと無かれ、帰り足は疲労により売店に立ち寄れないかもしれないというのも考慮に入れての好判断です。さすがマスター、頭が下がります。

 しかしおかしなことに、『お小言を言われた』『楽しく買い物をした』という記憶があるのに、詳細な中身は覚えていません。不思議なことがあの日の朝は起こっていたようです。

 そしていよいよ待ちに待った電車の到着時間と相成ったわけですが、マスターがあれやこれやと見て回って時間を忘れていて駆け込み乗車――――的確な時間配分のお陰で出発する1分前に乗車するという、時間を最大限有意義に使った時間が過ごせました。

 駆け込みに近い乗車になっていたとはいえ、しっかり座席は予約していたので座ることに苦労することはありませんでしたが。ここは私の機転、さすがマスターのメイドと言ったところでしょう。

 朝ごはんも軽めに済ませ、席に着いた頃にはほどよく漂う空腹感。旅のお供は見たことの無い景色と馴染みの薄い駅弁当に限ります。手作りを断られた際には、実は結構なショックがありましたが、いざ実食となるとやはりこれでよかったと思えてなりません。

 さすが出来る女と評判のマスター、ここまで計算されつくしているとは。メイドであるはずの私の思慮の浅さが悔やまれてなりません。


「マスター、ご覧になってください。山の上に雪が積もっていますよ!!」

「まー、標高も高いし雪ぐらい積もるんじゃないの? 見目、涼しくてよいけど」

「マスター! このお弁当、紐を引っ張ると温かくなるなんて、素晴らしいですね!」

「冷えてる駅弁も良いけど、やっぱり温かいほうが美味しいよね」

「マスター!! このシート、リクライニングしますよ!! ほら!! ほら!!」

「あー、うん、やって見せなくてもわかってるから平気」

「マスター!!! 売り子さんが来たらお弁当、もうひとつ頂きましょうか!!?」

「い、いやぁ、さすがにそんなに食べられないでしょ……って、悦子、元気だね」

「マスター!!!! 食欲が無いだなんて、電車良いですか!? 何かあっさりしたものでも頂きましょうか!?」

「どっちかっていうとアタシは通常運転で、悦子のテンションが高いだけだと思うけど」「マスター!!!!! トンネルですよ、トンネル!! トンネルを抜けたら雪景色なのでしょうか!?」

「いや、さすがに季節柄それは無いでしょ。……随分楽しそうで良かったわね」

「いいえ、メイドたるものいつでも平常運転ですよ――――マスター!!! 噂の『ダァ、シエリイェス』も聞けるかもしれませんね!!」

「…………新幹線でそりゃ無いでしょ……」


 このようにマスターの気分の高揚に引かれるように私の気持ちもほんの少しだけ高まり、いつもより幾分か賑やかな時間はあっという間に過ぎてゆくのでした。






 その後新幹線を降り、電車に乗り換え数駅、時間に寸分の狂いもなく目的の駅に到着致す運びとなりました。あまりのはしゃぎっぷりにマスターに苦い顔をされるというハプニングも御座いましたが、旅は道連れ、楽しさも道連れです。

 あまりの楽しさについつい駅を乗り過ごしてしまいそうになってしまったのも旅の醍醐味といえましょう。もちろん『どちらがはしゃぎ過ぎて』というのは言う必要なく理解していただけると思いますゆえ、割愛させていただきます。


 行き帰りの順路の確認はもちろんのこと、現地に着いてからチェックインするまでの時間に楽しむべきポイントもしっかり押さえておりましたので、退屈するような時間は1秒も無かったという点は多少評価して頂いても宜しい点かと思います。

 硫黄の匂いに誘われながら歩くという経験は記録している範囲では私の脳内にはございませんので、とても新鮮な気持ちで歩くことができたのは未だに鮮明に覚えております。

 ゆでたまごを調理するたびに、あの光景がフラッシュバックしてしまうようになってしまいましたが、記憶デバイス内のみにとどめておくよりも再び触れることのほうが有意義――ですが話が逸れてしまいましたね。

 駅に荷物を預け、足湯に季節限定の路地販売特産品コーナーにお土産に良さそうな木彫りの人形作製体験コーナーと様々なところを巡り歩きました。

 温泉饅頭は不思議といつもいただく饅頭の数倍は美味しく感じられ、木彫りの人形は匠の目を持ってしても唸ってしまうような逸品に仕上がり、今ではマスターと私の日常を彩るインテリアとなっております。

 『こ、こんなすげえ彫像、みたことねぇ……』、匠にそう言わせてしまうマスターとマスター譲りの芸術センスを受け継いだ私は鼻が高くて仕方ありませんでした。ウサギにコアラ、かわいい動物が今にも動き出しそうですね。

 一通り駅の周辺を見て回り、ちょっと休憩なさりたいと思う程の時間、丁度見計らったようにチェックインの時間となっていました。見計らったように、というと語弊がありますね。見計らっていました、私、メイドが。

 駅からは少し離れた場所にあるその宿には、駅からの送迎バスが便利ということでしたので、出発時刻の10分前にはしっかり駅の待合所に到着し、眺めの良い席を確保することに余念がありません。

 バスの運転手さんは多少訛りが強く、それがまた一層旅の雰囲気を引き立ててくれたことは言うまでもありませんでしたが、マスターは訛りに訛りで返しており、さすがマスターだと改めて実感した瞬間でした。素晴らしきマスター、素晴らしきバイリンガルです。

 バスの内部は出発の時間になっても閑散としておりましたが、やたらと落ち着いたお子さんとファンキーと形容するほか無い髪形の女性、それとどこかで見かけたことのあるような中年男性はやたらと記憶に残ったものです。

 運転手さんの話ではバスは1時間前にもう1本あったということで、私の下調べの不十分さを悔いるとともに、貸切状態への野望――旅は道連れ、人が多いほうが楽しいというもの。

 バスも出発の時間となり、あまり賑やかでないバスがゆっくり動き出すと、少しずつ車のエンジン音とともに賑やかな会話の声が聞こえてくるのでした。さすが子供さん、景色を眺めては大いに盛り上がっている――ということはなく、主に私が車内の雰囲気を盛り上げるために仕方なく話に華を咲かせるのでした。

 しかし、景色を眺め車に揺られているだけでこのように盛り上がることができるなんて、さすがマスター、私の進化は止まっていないようです。ほら、私の軽やかで軽快なトークと身振りと手振りを交えた盛り上がり具合に、マスターもそしてバスの車内も、華やいできている光景が蘇りますね。

 そしていつの間にかバスは目的の宿へと到着致しました。インターネットでの事前情報はあてにならず、画像加工ソフトにより宿の外観内観等を美修正しているものとマスターも仰っていましたので、正直期待していなかった分、期待以上の宿です。

 年代を感じさせつつも小奇麗さを残した外観に、これぞおかみさんといった風貌のおかみさんによるお出迎え、メイドである私の対抗心が煽られたことはいうまでもないでしょう。

 そして迎えられるままに向かった宿の内部もこれまたネットで拝見した以上に上質な空間が広がっておりました。古風とアンティークをベースにしつつも新しいものを邪魔にならないように配置する腕前、これは見習い我が家の内装に活かすべきだと感動したものです。

 あちらこちらと物珍しそうに眺めて回りたそうなのに遠慮をしてかなかなか見て回らないマスターへの配慮としまして、私が率先してあれやこれやと物珍しそうに眺めて見せていたのは良い思い出です。あのときのおかみさんの苦笑いも良き旅の思い出といったところでしょう。

 マスターが内装見物に飽きたのか、私の服の袖をお引きになるまで思う存分お楽しみになられたようなので私も安心して宿泊する部屋へと通していただく運びとなりました。

 おかみさんも私も大事な方へと従う身、わざわざお待ち頂き頭が下がります。しかしながらおかみさんの優先順位がお客である私どもであるなら、私の優先順位はマスターにあるので仕方ありません。

 おかみさんに謝罪しつつ、部屋へと案内されると、これまたネットで確認したものより数段素晴らしい部屋でマスターともども驚きでした。窓から眺められる景色も深い山々に眼下に広がるは美しい清流。

 おかみさんの説明を聞き終え、メイドである私顔負けの腰の低さでおかみさんが退室したあとは、とりあえずの荷物整理と相成りました。実際のところ、ここまで記憶があまり鮮明でないのは慣れない場所での磁場の影響などでしょう。

 荷物を整理し、まずは部屋の中をマスターとしげしげと眺めて周り、さてお次は部屋の外の探索へ――と、思いきやマスターはそうはなさらずにタオルに浴衣を手に持ち、何やらウォームアップを始めたようです。

 ま、まさかマスター、宿に着いて早々に温泉へと向かうなんて…………まだ私の心の準備が…………。も、もちろんメイドとして追従しなければいけないわけです。我が家のお風呂とは違い外でのお風呂、危険があるかもしれない!

 しかしながら、マスター謹製の演算回路といえども、心の準備を万端にするには時間がまだ――――


「んじゃアタシ温泉浸かってくる。何回も入ったほうが体に良さそうだし。てことで悦子は留守番するなり宿見て回るなりするといいよ」

「ま、マスター、お待ち下さい。単独での行動は危険です。ここはぜひ私がご一緒に――」

「ははは、別に温泉宿で危険も何もないから。悦子はゆっくり羽でも伸ばしとけば?」

「いえ、いつでもどこでもマスターのもとへ駆けつけられるよう、羽は常時伸ばしっぱなしです」

「あっそう。んじゃゆっくり羽でも畳んでたらいいわよ。伸ばしっぱなしだと疲れるでしょ」

「マスター、実のところ今日は羽を畳んでおります。なので畳むのは不可能です」

「……んじゃ好きにしてたら良いんじゃない? って、いつの間にかお風呂セット抱えてるし」

「あら、本当ですね。驚いて声も出ません。このような偶然は無駄にするべきでないと私は考えるのですが、マスターはいかがでしょうか?」

「はいはい。最初から悦子も温泉行きたかったんでしょ。それならそう言えばいいのに」

「……ごにょごにょ…………ずかしい……ですが、マスターからの提案とあらばお断りするわけにも行きませんね。ご一緒させていただきます」

「わぁ!! 悦子さん優しい!! 家で裸なんて見て見られてしてるのに今更……」

「さてマスター、参りましょうか。参りましょう。参りますよ」

「はいはい。最初から気付いてたけど、それは敢えて言わないでおく」

「マスターさすがお優しい。その言葉、聴かなかったことにしておきます」

「あ、はい。んじゃ行くかー」

「はい、喜んで」


 マスターの意向もしっかりと汲み取り、私も温泉へと動向することとなりました。マスターからの提案とあらば、従者である私はお断り致すわけには参りませんゆえ。

 心の準備もしっかりと決まり、私はマスターと温泉へと向かうことと相成りました。しかしながら残念なことがひとつ。

 本来は全て記憶領域に記憶し、マスターの湯船でのあられもない姿をいつでも眺められるようにフォルダを500くらい作製して保存しておくべき事柄――何かメイドとしての不手際が無かったか確認する作業のために記憶が、全くもって真っ白だということです。


 温泉地特有の湿度の高さのせいか。はたまた温泉の湯気のせいか。映像として何度も再生し閲覧することができないのは残念ではありますが、きちんと映像では計れない記憶として保存はされているのでよしと致しましょう。

 思い出は薄れていくからこそ美しい、人間とはそのようなものだと認識しておりますし、マスター製のメイドであればこの程度の機能はあたりまえのことです。残念ですが良しと致しましょう。残念ですが。残念ですが。残念ですが。

 私の記憶領域に言い表せないような幸せな幸せな入浴タイムを終えたあとは、浴衣でふたり部屋に戻りくつろぎ、そして旅館内を散策してみることとなりました。

 マスターはまたしても『悦子は休んでて良い』とお心遣いをなさって下さりましたが、やはり見知らぬ土地でマスターをひとりにしてしまうということは、メイドとしてさすがに出来兼ねましたので私もご同行させていただくことと相成りました。

 浴衣姿のマスターに私、この状態だとさすがに主従関係が見えにくく、ともすれば逆転して見えてしまうことを危惧した私は、しっかりヘッドドレスを装着するのでした。もちろん、おしゃれのアクセントとしてネックレスも忘れずに。

 マスターには苦笑いをされてしまいましたが、マスターの従者であることを忘れないため、マスターには私という従者がいるということを示すため、それと実は気に入っているため、そのあたりの事情は私の胸にそっとしまっておきましょう。

 宿の内部は古風さを残しつつもやはりどこか若者を意識したような造りで、散見される細かいアクセントになり得ているであろうインテリア、これは帰宅した暁には参考にさせて頂きました。

 『なんでこんなところに岩置いてあるの?』等、芸術への興味と関心をくすぐられたようなお言葉をいただけましたので、これからも精進し内装をどんどんグレードアップしていく次第です。

 そして内装もさることながら、遠くに見える景色によくお手入れの行き届いた庭等、景観美もなかなかのもので、視覚機能が一層洗練されそうな思いです。マスターも私も目は良い方ですが、旅行に行ってからはさらによく見えるようになったように思えます。

 ふたりでもお仕事中に『悦子、10円拾った!!』や『マスター、100円を拾いました』というのが増えたのはきっとそのお陰でしょう。もちろんしっかり交番に届けているのでご安心を。しっかり6ヶ月待ち、それから頂く事としていますので。

 内観を見て周り、マスターに飽きが感じられるころには私たちは外へと繰り出すこととなりました。しかしながら外に出ても待っているのは見渡す限りの深い緑、中心部の温泉地から少し離れた場所にあるというだけあって、周囲には散歩コース以外に見るべきようなところが見当たりませんでした。

 それでも周囲の景観に深いため息を吐きつつ、部屋に戻ろうと言い出すマスターの本心をしっかりと見抜いた私は、少しだけ散策路を歩いてみてはと提案致してみると、マスターは渋々了承してくださったので、マスターと私は散策路を散策することとなりました。

 マスター、本当は散策してみたくて堪らなかったはずなのに、私が声を掛けるまでは遠慮して言い出すことが出来ないというかわいらしい一面を持ち合わせています。私が気付かなければ、このまま部屋へと戻ってしまうところでした。

 マスターの『はいはい、仕方ないわね。そんなに見たいなら仕方ない仕方ない』という言葉は、極上の照れ隠しということで私の胸にしっかりと記憶されたのでした。


 浴衣に宿で借りてきた下駄での散策、なかなか風情があり風流ではありましたが、そこはかとなく動きにくいものです。浴衣はゆったりとした造りであり、なかなか動きやすくはありましたが、下駄というのは履きなれていなく、さすがに足に疲労物質が蓄積されていくのがわかります。

 このような悪路に備えて下半身をキャタピラーに、そのようなこと妙案が頭を過ぎりますが、マスターに申し上げてしまうと面白そうだという理由で本当に作製されかねないので胸のうちに秘めておくと致しました。

 ……それにキャタピラーなメイドは見目的にメイドらしからぬ雰囲気がありそうです。移動の際に振動しないと思われるので、食事を運ぶさいには便利かと思われますが。

 はてさて、歩き疲れはしましたが看板での案内がありました展望台までは足を運んでみようということになりました。他媒体で視認することはありますが、直接大自然の大パノラマを目の当たりにする機会は滅多に御座いませんので、マスターの好判断が光ります。

 本心はそのようなものであると信じて疑いません。『お腹を空かせておけば夕飯が美味しい』『汗をかいたあとのお風呂は気持ちよい』『疲れがあるくらいのほうが夜ぐっすり眠れて気持ちが良い』というような思惑は持ち合わせていないと信じています。

 様々な思惑が交差しない中、マスターと私はあれやこれやと風景や野に咲く植物を眺めながら歩を進めるのでした。

 ……ま、マスター、蚊に刺されたところが痒いのはロボとしては欠陥ではないでしょうか。


「ま、マスター、どうやらもうすぐ展望台のようですね」

「ふぅ……、こんなに歩くならちゃんと着替えて靴履いてくるんだったね……」

「も、申し訳御座いません、そこまで気を回すべきでした、ふぅ……」

「え、悦子は悪くないでしょ。何はともあれもうすぐそこだからー」

「あ、ありがとうございます。展望台についたら少しお休みさせてくださいませ……」

「それはアタシからもお願いしたいところ、よーし、あとひとふんばりだー」


 足場の良くなさを増長させている原因に私は気付いておりました。横を歩くマスターの浴衣がどんどん乱れ始め、首から胸部にかけての布がまるでまるで何ものをも飲み込むブラックホールのように私の視線を釘付け――肌蹴た浴衣が足に絡まり、転倒しては一大事と目を離さずに歩いていたのが原因です。

 いつも壊れたメトロノームのように徐々に早まる鼓動を抱えつつマスターの素肌を拝見させていただいておりますが、大自然に囲まれている状況に浴衣という日常を逸脱した服装、そして舞い散る桜のように乱れる浴衣と様々な要因は関与していると思われます。いつもと家具の配置が違うというのに似た違和感を感じ取ってしまえば、そこに目が行ってしまうのは自然なことでしょう。

 そしてどんどん近づいてくるは180度ほどの大パノラマです。カメラでも持参してくればこの風景を形に残せると思いましたが、残念ながら持参しておりませんでした。一応、コードを咥えてプリンタに接続すれば印刷することも可能ですが、人間離れしすぎた所業であり、なぜか雑多な情報も映りこんでしまうので推奨されません。

 そのようなことは思慮しつつ、大パノラマへとマスターとともに足を踏み入れようとしたときに視界に飛び込んできたものは。


「ま、ま、ま、ままままますマスマスマス」

「誰が魚類よ…………って、悦子、なぜ隠れる。気持ちはわからんでもないけど」

「マスマスマスマスター、このような場面は邪魔をするべきではありません!! ご一緒に草葉の陰から見守りましょう!!」

「……ったく、確かに邪魔してたら気まずくなるし良いけど。って、あれ、カップルじゃないんじゃない? 目と目あわせてうっとりしてるけど、女の子同士でしょ、あれ」

「マスター、世の中は広いのですよ。いろいろな形があって然るべき――――あああっ!! ま、マスター!! ちゅーしますよ!! ちゅーしますよ!!」

「え、悦子声が大きいしチューチュー隣で言われるとちょっと恥ずかしいんだけど……」

「ちゅー!! ちゅー!! ちゅーですよ!! ちゅー!!!」

「ネズミか、悦子は…………。ほーぅ、女の子同士のキスなんて初めて見たかもしれない。なんてーか、絵になるね。キレイ」

「ま、マスター!? ではここはひとつ私たちも記念に――――」

「……せんわ、そんなこと。ああやって雰囲気作ってするから良いんでしょーが。意気込んでキスするとか、中学生かい」

「で、では雰囲気を上手く作ればもしやもしやもしやますますますますますます」

「はいはい、上手に雰囲気作ってちょうだい。ほれほれ、良いところも終わったみたいだし、アタシたちも行くよ」

「はいっ!! がんばって雰囲気を作らせていただきます!! それではまず一緒に景色を眺めるところから参りま」

「あ、どーもー、こんにちはー。同じ宿の方ですか? わぁ!! すっごい景色がきれいですねー!!」

「マスター、景色もきれいですがマスターのほうがきれ」

「おーい、悦子もこっち来なよー。やっぱり同じ宿のお客さんなんだってさー」

「そ、それではお言葉に甘えて…………んちゅー…………って、ま、マスター?」

「…………悦子は独りで何やってるんだか、まったくもう……」


 これはもう来るべきときに備えて雰囲気の作り方を学んでおこう、強く強く何よりも強くそう記憶領域に刻んだ瞬間でした。欧米ではチューなんて挨拶みたいなものですからね、挨拶は人間関係の基本とも言いますし、やはり挨拶は大切であると私もロボでありながらしっかりと学習しているのでやはりマスターとも挨拶――と、恐らく凄まじい量になりますので、ここから先は割愛させていただきましょう。

 展望台で思わぬトキメキシーンに遭遇してしまったというのに、マスターは平然とカップルさんに近付き、そして仲良くなってしまうという人間離れしたコミュニケーション能力を発揮し、旅の出会いがまたひとつ増え、楽しい時間がさらに楽しくなりました。

 件のシーンを目撃してしまいましたが、マスターも私もそこには触れることなく、会話は流れていきました。さすがに興味津々でソワソワしていた私でも、下世話なことを聞かないくらいの気遣いは持ち合わせております故。

 お話をしてみた感じでは、大変仲の良いお友達であり、たまの休みを利用してふたりで旅行をしに来たようです。相部屋とのことなので、相部屋ということは、相部屋で思いを同じくする女の子がふたりですって!? 荒くなる吐息、肌蹴る浴衣、紅潮する身体、少なくなっていく会話、そして…………飛び交う枕。そう、やはり若い子の旅行といえば枕投げですからね。他には全く思いつきませんとも。

 しかし会話を楽しみながら家政婦は見てしまいました。にこやかに会話を楽しむ彼女たち、その手が視界に留まりにくい背後で只ならぬ繋ぎ方をされていることに。ここは私たちも対抗して、と思いましたがマスターが恥ずかしがってしまいさっぱり手を出す素振りすら見せてくれなかったことが残念でなりません。

 このように仲睦まじいおふたりの笑顔がずっと続いていくことが無く、もうすぐ終焉を迎えてしまうことになろうとは、そのときの私には砂の欠片ほども思いもしなかったのでした。


 散策を終えマスターとともに再び温泉に入り、部屋に戻りぐだーっとしながら時の流れに身を任せ、そしてまた温泉に入る。なんとも温泉三昧で、体液が温泉に入れ替わってしまうのではないかと思えるほどの温泉攻めですが、マスターと一緒ならば楽しくて仕方の無いものです。相変わらず温泉へと足を進めるごとに頭が源泉のように熱くなり、記憶が定かでなくなってしまうのは残念で仕方なくはなりますが。

 そして兼ねてより楽しみにしていた夕食の時間です。個室での食事のほうが静かで落ち着けるというものですが、それでも大広間でみなさんでというのは、外食の際に周囲に人が居て賑やかというのとは異なり、なかなかどうして乙なものですね。

 ここへのバスでご一緒になったボクちゃんご一行に、さきほどの展望台でマスターと私に見せ付けるかのごとく百合――中睦まじいおふたりも同じ大広間でのお食事と相成りました。

 なかなかどうして和を乱すという好意はメイドインマスターフロムジャパンの私には得意ではないようで、軽く挨拶や無難な会話を交わすのみとなりましたが、それでも親交は深まったと自覚しております。

 マスターは私よりも社交的な一面と二面性な一面を持ち合わせていらっしゃったり致しますので、頭のてっぺんから足の先まで猫をすっぽりと被って――持ち前の愛嬌で距離はある程度縮められることができたようです。マスターの本来の姿を知っているのは私だけと言って過言ではありませんので、さっぱりヤキモチ等の邪な感情プログラムは作動致すことのないまさによくできたメイドと評判の私です。

 そして始まるは本日のメインイベントの次点についてもおかしくないであろうサブメインイベントのひとつ、夕餉の時間と相成りました。季節のものに旬のもの、地場産品に旅館オリジナルの献立、どれもこれもなかなか我が家では味わうことが難しいものが多く、そしてそのどれもがマスターと私を笑顔の表情にするのに十分すぎる逸品ではありました。

 あんなにひとくちひとくち、最初から最後まで嬉しそうに食事をするマスターは見たことがないかもしれません。恐らく旅先での食事であること、そして私のように健康に気遣いマスターの嫌いな食べ物を巧みに混ぜ込んでいたりしないからでしょう。

 ええ、悔しくなんてありませんとも。私の味覚と記憶領域にしっかり保存したことの味を超える食事でマスターが更なる笑顔を見せてくれるはずですからね。――帰宅の際はマスターの好物のみの献立を立てると致しましょうか。

 しかしながらなかなかどうして全ての料理が美味しいのは良かったのですが、中には旅館内のお土産売店で絶賛販売中のものも数点あり、そのような料理に限って『もう一口食べたいのにもう無い』というような状態になることもあり、マスターの視線に負けて仕方なく注文してしまったのも良い思い出です。

 主に売店で購入したものは漬物類となりますが、製造したてのものを送っていただけるということでしたので、明日あたりにでも到着するかと思います。あの塩気と独特の醗酵味、箸を休めるだけでは勿体無く、豪快に乗せてお茶漬けになさればさぞ美味しい――と、マスターが仰っていました。美味しいお茶漬けを召し上がるためにも明日はしっかりと昆布と鰹の出汁を用意しておかねばなりませんね。

 はてさて、夕餉の時間も終わりマスターと私は再び温泉へと向かいました。はてさて、何度目かの入浴となりますが、やはりあまり詳しくは覚えておりません。マスターが浴衣を脱ぐ瞬間のメイド三大絶景は何とかかんとか記憶することは出来ましたので、複数のメディアに後ほど保存しておくと致しましょう。

 そして温泉では先ほどまでご一緒させて頂いていた百合ップルさんたちと遭遇致しましたが、遭遇場所が更衣室ということもありあられもない光景を目にすることが出来なく残念ではありました。

 しかしながらふたり並んでの入浴中にさりげなく水中で手を交錯させていたという事実をメイドの私はしっかりと目に焼きつかせていただいたのも良い思い出ではあります。

 願わくば羨ましくも思える彼女たちの関係が、永久よりも短くともそれに匹敵するほどの期間続いて欲しいと思いました。彼女たちの、彼女の手に入れた永遠については、私もマスターと同じ考えではあります。このお話は時系列に沿い、多少後でお話致します。


 入浴を済ませ、丁度宿のおかみさんと鉢合わせをし、冷たいものでもどうぞということになり、マスターと私は一旦部屋に戻ってから広間へ向かうことに。百合ップルさんたちは少々のぼせたとのことで部屋で休むとのことでした。

 部屋で短い時間涼みつつのんびりとしたあとに再び広間へ。この間おおよそ30分といったところかと思います。浴衣で何もせずにぐでーっとするのもなかなかどうして充実した素晴らしい時間のようで、気が付けば時間が経過しているという不思議な自体も十分に起こりえるものですね。我が家でも着たいところですが、さすがに正装を崩すには抵抗が生まれてしまい断念したのは無念ではありますが、旅の楽しみということで取っておくのもまた一興です。

 まだまだ入浴と夜の余韻に浸っていたいという思いに負けそうになりながらも、マスターと私は部屋をあとにし、広間へと向かうこととしました。そろそろ冷たくて甘いものが恋しくなる時間なので、頃合といえば頃合でしょう。私はともかく、マスターは甘いものに目がありません故。

 夕餉の刻のときほどの人影はありませんでしたが、それでも見知った顔は広間にあり、出会いより半日も過ぎていないというのに嬉しくなるというのは、やはり旅の魔法というものでしょうか。百合ップルさんのお一方、どちらかと言うと攻めにカテゴライズされるであろうお方は見当たりませんでした。

 せっかくなので良好な関係以上の関係へと発展させるようなコツでもあれば伺いたいと考えておりましたのに残念です。『まるで恋人のように仲睦まじい関係』を指しているのであって、それ以外の他意は全く持って含まれておりませんので誤解なきよう。


「マスター、随分美味しそうに召し上がりますね。事実、とても美味しいですが」

「ぱくぱくっ、美味しいなんてもんじゃないでしょこれ。しゃべってると美味しさが逃げちゃうって思えるくらいじゃない」


 それにしてもお風呂上りにいただくデザートは大変おいしいもので、思わず女将さんのお言葉に甘えてマスターとともにお替りを頂いてしまったほどでした。

 見た目には派手さの弱い抹茶のパルフェでしたが、派手さこそないもののこれがまた素晴らしい逸品です。独特の味わいを残しつつ万人受けを狙ったであろう葛きりの上に置かれた人口甘味料等をしようしていないであろう抹茶の味を存分に感じさせてくれる抹茶アイス、さらに香ばしい黄な粉が振りかけてありその上濃厚な味わいで抹茶アイスを十二分に引き立てつつ、さらには周囲に添えられた小豆の煮物で味にメリハリを。

 研究のためにとおかわりいたしましたが、さすがの私も白旗です。あのパルフェは家庭では再現不可能な味。大人しく旅の醍醐味のひとつとして心の中にとどめておくと致しましょう。遠くは及ばないものではありますが、ある程度までの再現は致せると自負しておりますので、そのうちマスターに不意打ちデザートというのも面白そうです。

 デザートタイムを終えるころに、経過した時間にしてみれば1時間といったところでしょうか、受け百合子さん――面倒なので受子さんと致しましょうか、受子さんが席を立ちました。なかなか攻子さんが部屋から顔を出さないので心配になったのでしょう。たまにケータイを弄りメールでもしていたようですし、やはり伴侶となるべき方が隣にいないのは落ち着かないものです。

 蛇足ですがマスターの助手として探偵業に精を出すことも多く、そのお陰で常に周囲を気にかける癖が身についているわけであって、決して疚しい視線で百合ップルさん方を眺めていたわけではありませんので誤解なきよう。

 マスターもさり気に席を立つ受子さんに視線を送ってみたりしているあたり、これから何をするのか気になって目が離せない――やはり探偵業も相当板についてきたということでしょう。


 マスターも私もパルフェを食べ終え、お勧め頂いた玄米茶でティーブレイクを楽しみつつ更なる寛ぎタイムに突入です。広間にいらっしゃる方々もまだ部屋に戻ることなく余韻を楽しんでいるようでしたが、やはり旅にはハプニングが付き物のようです。


 はい、そのようなわけでここでまさかの事件発生です。厳密には事件になった事象が発覚することとなった、でしょうか。まさかまさか、旅行に来て妙な事件に巻き込まれることとなるだなんて、何やら妙なものでも憑いているのでしょうか。


 それでは事件についてのまとめを致してみましょうか。


 19時35分、受子さんが『部屋に鍵が掛かっていて開かない。受子さんも返事が無い』と女将さんへ報告。同40分、受子さんと攻子さんは同室であり仲の良い友人ということであり、女将さんが合鍵でドアを開けることに、そして広間をあとに。

 淀川君が『ボクも行く』と仰り、保護者らしき女性が同伴。何を思ったのかマスターも随伴することとなりもちろん私ももちろん随伴することに。

 特に部屋までは変わったこともなく辿り着き彼女達の部屋の前へ。受子さんがドアノブをガチャガチャとやっても開かない様子。女将さんが通常と同じ型の金属製の鍵を受子さんに渡し、カチャンカチャンと開錠、その後名前を呼びつつ部屋へ。マスターに私、女将さん、淀川君たちは外で待機。

 その後悲鳴により全員で部屋に突入。それまでの間は時間にして10秒に満たないと推測されます。

 私達の眼前に飛び込んできたのは震えながら膝を落とす受子さんと、そして涼しい部屋の中で仰向けになりまるで眠っているように瞳を閉じた攻子さんの姿でした。その光景を目に入れた故ではない肌寒さも同時に感じることとなったのは気のせいではありません。

 それが自然の摂理に逆らった死であるのは胸に突き立てられた刃物とそこを中心に広がった赤い血溜まりが如実に物語っていました。

 ここで取り仕切ったのは我らがマスター―――といきたいところだったのですが、マスターと淀川君が上手いこと場を取り仕切ることとなりました。

 さすがマスター、見目的には相当若くなかなか人様に影響を及ぼすようなことは控えることが多いのに、このような場面での本領の発揮具合は他の追随を許さないものがあります。

 しかし、マスターに全く物怖じすることも無く場を取り仕切っていた淀川君、只者ではありません。

 その後、実は何やら有名な探偵であるという淀川君のお父様らしき人物が取り仕切ることとなり、とりあえずは落ち着きは取り戻すこととなります。


 それではおさらいと参りましょう。攻子さんを最後に目撃したのはマスター、私、受子さんとも部屋に突入する30分前、死亡時刻はそこから突入までの90分以内と推測されます。

 女将さんのお話によると、マスターキーは持ち出しが不可であり他人が持ち出すというのはありえないことだと申しておりました。端的に申しますと、マスターキーの傍には人が常におり、持ち出された可能性はゼロだと考えて間違いないでしょう。

 マスターキーを用いて部屋に入室した際、部屋の正鍵は攻子さんのバッグの中、その後の調査で判明したことであり、マスター、私、淀川君とその父以外はバッグに触れていませんでした。もちろん、受子さんその他が突入時にバッグに忍ばせた、というのはマスター、私の目がありえないと断言していました。窓ははめ込み式ではありませんでしたが、開けて外を眺めると下は川であり、ちょっとそこを移動してというのはありえませんね。内側から施錠もされておりました故。

 そして気に掛かった点は冷房の18度設定。さすがに暑い日といえども下限設定では寒すぎます。

 そしてともすれば自殺にも見えかねない利き手であるという右手が添えられた胸に刺さった刃物、ここには多少の疑問点も。刃物で胸部を一突きし絶命する自殺法というのも疑問がありありですが、もしありえたとして『刃物の進入が左側から』というのは否定の決定打になり得ます。

 そして突入時に私が視認した体温は部屋の温度のせいかすっかり低下しておりました。


 と、これくらいのところでしょうか。

 多少本格的風ではある事件、もちろんマスターと私はもう犯人がわかっていたりします。それではマスター、ささっといつものように犯人をビタっと特定してしまうことになった次第です。

 現場の保全が第一ということもあり、そもそものところマスターと私は犯人は当てども、手段方法動機等を詮索するようなことはせずにそのようなお仕事は警察官にお任せするのが一番の最善と考えております。労力も大幅に削減できます故。

 しかしとりあえずの犯人特定をしておくというのは有意義ではあります。不安を抱えていらっしゃる宿泊客に宿の関係者の方もおりますので、犯人だけでも判明すれば警察の到着までに落ち着いた時間が過ごせることでしょう。

 幸い宿泊客の全部ではありませんでしたがデザートの時間に広間にいらっしゃった方は集まっていますし、もちろんその中には目星をつけた犯人の方も。

 多少居た堪れない気持ちにはさせられてはしまいますが、それとこれとはお話が別であります故、警察の方がいらっしゃるまで大人しくしておいて頂きましょう。

 どんよりとした空気も少しは晴れてくれることと信じつつ、マスターといつものに参ることと致しました。


「悦子、一応確認だけもう1回取ってそれからいつもどおりの流れでいくからよろしく」

「ええ、畏まりました。それでは確認後いつもの調子でよろしくお願い致します」

「オーケー。じゃあ…………はいはーい、突然すみませーん!! 私実は探偵業を営んでおりまして、犯人が分かっちゃったんですけど!!」

「隠すつもりは御座いませんでしたが、私、探偵助手のメイドで御座います。これから犯人さんを指差し致しますので、大人しくお縄につくまで大人しくしていてくださいませ」

「それでは、犯人はーーーーー――――って、淀川君? 今良いところだからお話ならあとでにしてほしいんだけどなぁ、お姉さんたち」

「ええ、今お姉さんたちは取り込み中なので、飴玉を差し上げますので大人しく――って、はい? 犯人が本当にわかったのかと? ええ、もちろんです。的中率は9割を超えますので」

「そういうことだから淀川君も安心してみて――トリックなんて見破る必要がないからね? 淀川君、テレビの見すぎなんじゃないかな? ――違うわよ? わからないんじゃなくて、私の仕事は犯人を当てること――」

「――分からないのにどうやってと申されましても、これは企業秘密ですので。もし外れていたら責任を取るくらいの覚悟はマスターにも私にも御座います故」

「そういうこと。わからないからじゃなくて、しなくて良い仕事をしないだけ。専門的なことは専門家に――だからっ!! 出来ないわけじゃなくて!! しないの!!」

「まあまあ、マスター落ち着いてください。淀川君、飴玉では不服なのですか? それでは仕方ありません。120円上げますので、お好きなジュースでも――お父様が探偵ということで手柄の先取りを許したことに因縁をつけるのは分かりますが――お父様ではないと。それは失礼致しました」

「あーもう、いいから仕切りなおして犯人特定しとくわよ。そうやってけしかけても、私は悦子と自分を信じるからいいの。んじゃほら、悦子お願い」

「畏まりました。それでは淀川君、また後ほど。報酬は無い仕事ですが、一応の誇りはもっておりますので。あら、飴玉で宜しいのですね? はい、美味しいベッコウアメをどうぞ」


 大人しく淀川君は引き下がってくださって助かりました。やはりお父様ではないにしろ、保護者の方のお仕事をとられてしまうというのは子供心に複雑なものがおありになったのでしょう。

 ジュースではなく飴玉1つで納得して引き下がっていただけるとは、いまどきの子にはない慎ましさがあるように見受けられます。恐らくマスターや私に食って掛かってしまったのはやはりプライドが邪魔をしてしまったのでしょう。

 しかしながらマスターと私に掛かればこのような単純殺人事件は赤子の手を捻るようなものです。熟練の詐欺師ともなると心拍、体温すら平常時と変わらずに平坦な表情で嘘を吐けると申しますが、どうやら今回はそれに該当しないようですので。


「それではマスター、仕切りなお――あ、あら、何か首筋に虫に刺されたような傷み……ああ……ま、マスター…………」

「ちょ、ちょっと悦子!? ど、どうしたの急によろよろっとしてイスに腰掛けちゃって」

「ま、まふた……急に眠気…………マスター、イスに腰掛けたまま失礼します。全部分かっちゃいましたんですわ。これも全てマスターのお陰ですわ」

「……な、なに……変なものなんか食べてないのに一体どうしたの…………」

「犯人もトリックも、マスターの助言のお陰で全て綺麗に分かってしまったのですわ。これから全部説明しますわ」

「……口調まで変わるなんてどういうこと……。とりあえず、話を聴きましょうか」


 スリープモード展開。緊急時の為、聴覚のみ作動モードに移行。一体全体マスターを差し置いて私は何を――


「まずは密室のトリックから暴きますわ。マスター、被害者の部屋はどうなっていましたか?」

「そりゃ、今悦子が言ったとおりの密室。悦子も一緒に駆けつけたんだから、それぐらい見てたでしょ。ピッキングなんて出来そうな人なんて居ないし」

「駆けつけたときに鍵を開けたのは誰だったですか? 『マスターキーを用いて施錠を解除致したのは』どちらさまでしょう」

「それは悦子も見てたでしょ。開けたのは受子さん。だからそれがどうしたっていうの」

「そこですわよ。施錠を解除したのが女将さんではなく攻子さんというところが私には引っかかりました」

「口調も変だし、言ってることもイマイチ容量を得ないね。だからといって、何か変わるわけでも――――あー、なるほど? もしかして、そういうこと?」

「ええ、さすがはマスター飲み込みが恐ろしく早く助かります。施錠を解除する際の音にも違和感がありましたわ。慣れていない場所であって回す鍵の方向を間違えたとして、2回も開錠の音が聞こえてくるというのは不可思議でなりませんわね」

「となると、部屋の中、攻子さんの鞄の中に鍵があったというのは全く無意味になるってことね」

「ええ、誰も確認すらしていない『心理的密室』であって『施錠された本来の意味での密室』ではありませんからね」


 なんということでしょう。普段はあまり使うことのない視覚聴覚のみを活かしたスリープモードに移行しているはずなのに、私の声でまさかの密室トリックを暴いてしまいました。

 これはもしや、私の隠れた才能が事件をきっかけに開花してしまったということでしょうか。しかしながら、私の声がなぜか私の中から発せられているのではなく、私の背後から聞こえてきているのが気にはなります。

 しかし、なんというか私の声のはずなのに口調にちょっと不安定さを覚えてしまいます。


「密室じゃなかったということなら……アリバイなんて何の意味も無いか。『誰が』までわかっていたし『どうやって』ってところまで結構繋がるな」

「やはりマスター、犯人の目星はドンピシャだったのですわね。そうするとガンガンにクーラーの効いた室内も、もし自殺であるのならばその不自然な角度で刺さっていた刃物についても繋がるところがあるかと」

「何言ってんの。犯人ドンピシャも何も目星をつけるのは悦子でしょうに。冷房は死亡推定時刻を後ろに倒すため、刃物の角度は……まあ、自殺の可能性を打ち消す程度だけど」

「そこです。自殺の可能性が打ち消されたのなら、犯人としての線が色濃く出てしまう人物はたったひとりですわ。問題は『なぜ、どうして』というところですが――」


 粛々と進んでいく推理、場を取り仕切っているのはなぜかメイドである私ですが、やはりまだ聴覚以外の感覚は虚ろでなかなか思うように動きは致しません。

 指先くらいは辛うじて動きは致しますが、それ以外の部分のところを動かそうとしてもまだまだ指令が届いていないのか、はたまたそれを無視しているのか言うことなど全く持って聴いては頂けません。

 それにしても唇、喉、肺、全ての感覚が私の意識の中に無いのにはっきりと聴こえてくる私の声というのも不思議なものではあります。これが俗に言う『金縛り状態』というものなのでしょうか。未だ経験の無いことなので断言は出来ますが、恐らく近しいものかと思われます故。


 そして近くに聞こえるマスターの声と私の声が展開していく推理の数々。主に主導権は私が握っていき、そこにマスターが口添えをなさるといういつもには無い珍しい進行です。珍しいといいますか、タネまで明かして犯人を追い詰めるというのは初めてかもしれません。

 『完全なる物証』の無い状態で職業としてとはいえこのように犯人探しをしてみようとは、マスターも意欲的ではありますが、確定した犯人と予想より導き出す犯人が異なってしまう場合も出てきてしまう可能性もございますので、今回限りとしていただきたいものです。


「胸の刺し傷は『左側から刺された傷』、角度的にそういうこと。わざわざ自殺するために不自然なことをする必要も無い。冷房で死亡推定時刻をずらせば『一緒に居た時間』だというアリバイも作ることが出来る。それに仮初の密室、悦子が上手いこと気付いてくれなければ、恐らくこれは破ることが出来なかった」

「ありがとうございます。しかしマスター、ここに気付かずに自信満々に犯人を特定しようだなんて、一体どこに根拠があったのか教えていただきたいものですわね?」

「??? 何言ってんの? 教えるも何もそんないつものこと。それよりも、ここまでいろいろとバレちゃってきてるけど、それでもシラを切り通す予定とかあったりする、受子さん?」

「というわけで受子さんとやら、まだまだ推理に斑もありますが、ここで自白してしまえば恐らく自首扱いになる可能性も残されておりますわよ」

「あら優しい。いつもはそんな猶予なんて与えないのに、厳罰でいいのよ厳罰で。まー、悦子がそういうなら今回はそれでも良いけど。悦子のほうで記録してるだろうし、警察の取調べからも逃げられないと思うけれど――――」


 そのときにマスターの言葉尻を捕らえたのは受子さんの似つかわしくも無い大声でした。先ほどまでのしゅんとした被害者偽装モードからの一転、犯人にはよくあることでしたが、あまりの大きな変わりように落ちていた感覚が飛び起きて身体をびくりと震わせてしまうほどでした。

 一瞬で覚醒まで持って行くことが出来、そのまま顔を上げコレまでに無いほどに重くなったまぶたを開くと、そこには不適という言葉がこれ以上無いというほどにしっくりきてしまうような表情をなさった受子さんの姿がありました。

 顔には後悔や遺恨の類の感情を全く見せずに、むしろ嬉々としたものを感じずにはいられないのは体温や脈拍も物語っておりました。それを拝見してしまいますと、私の口から紡がれてしまった自首を促すような言葉に後悔を覚えも致しましょう。

 全く持って私の意志とは関係の無い言葉であっても私の口から出てしまった言葉ですので、責任は私にあるというものです。


 そのようなことに思いを馳せていると展開されるは受子さんの犯行吐露ショーのようなものでした。どうやらトリックその他諸々の推理は寸分たがわずに合致していたようです。さすがマスター、読みの深さも一級品ですね。

 後ほど記憶デバイスに落とし警察に渡すためにもしっかりと録画録音を開始しながら受子さんの様子を伺いますが、やはりまだ眠気が残っているせいか体は起き上がる命令は受け付けてくれずに椅子に腰掛け、一部始終を見守る運びとなりました。そういえば開幕時にはうろうろしていた淀川君の姿は見えませんが、お菓子でももらいにいったのでしょうか。

 喜々とそして誇らしげに受子さんが語るのは、攻子さんへのどうしようもないほどの愛情のお話でした。好きで好きで好きでどうしようもない、だからこの想いが一番大きい今こそ、この想いを永遠としておくべき瞬間だという。

 きっと攻子さんの想いは今後衰退減少してしまう、それならばこの瞬間で時間を停止させてあげればいい、私の想いはこれからも大きくなる一方だから、自分の時間は流れさせておく必要がある、そのような言葉の数々です。

 ともすれば聴こえもよく、涙を誘う可能性すらある言葉に周囲の方々の表情は複雑なものではありましたが、マスターの表情だけがあまり私がお目に掛けたことの無いようなものとなっており、内心を察するに余りありました。

 私も睡魔に襲われていなければもしかするとマスターと同じような表情をしていたかもしれない、それほどまでに不快で仕方の無い歪で利己的でしかないような愛情と呼ぶのもおこがましいような言葉の数々。

 しかしながらこのようなことは犯人特定時にはままあることであり、心象を悪くすればするだけ後に響く結果となるのみ。ここは厳罰のためにも好き放題お話をさせてあげて、後ほどじっくりとお灸を据えていただきましょうか。幸いもうすぐ警察の到着する頃合であるはずですので。


 しかしながらここで予想外の出来事が起きてしまうとは、私の予想の中には全くございませんでした。つかつかと受子さんに歩み寄るマスター、そしてギリッという歯軋りと舌打ちをひとつ。そのどれもがマスターには似つかわしくも無いもの、そう感じた瞬間に起こした行動はやはりこれも私の予想外のものでした。

 振りぬかれるマスターの手、そしてパァンという乾いた音。反射的に立ち上がり、マスターの元へと向かおうと立ち上がろうとしバランスを崩してしまった私を支えてくれたのは、なぜか背後にいらっしゃった淀川君でした。


「アンタさぁ、一体何言っちゃってるわけ? 愛情が減退しないように彼女を殺した? 彼女の愛情は死んだ時点で停止したと思っちゃってるわけ? 随分とまあおめでたい頭してんのね、アンタは。もう彼女には愛することも憎むことも出来ない。感情も愛情も何もかも、アンタが身勝手な理由で奪っただけにすぎない。彼女はもう、愛しているということは無いし、アンタの身体に触れることもない。あとは焼かれて灰になるのを待つだけ。地球上どこを探してももう、彼女の意思も思いなんてものはありはしないの。わかるわよね? アンタ、好きなのよね、彼女のことが。好きで好きで仕方が無くて殺したのよね? だったら今でも彼女を愛しているわよね? 愛せるわよね? 彼女の愛情が最高潮で停止しているなら、その愛情にアンタももちろん応えることが出来るわよね? 喋ることが出来なくても、身体が熱を失っていても、それでも愛しているのよね? だったら今から彼女のところへ出向いて、愛し合うことぐらい余裕よね? いつものように彼女と口唇を、身体を重ねることが出来るんでしょ? 物言わぬ骸になった彼女に優しく語り掛けて微笑んで、アンタは喜びで満たされながら彼女を愛することが出来るんでしょ? 愛を計るようなことをするアンタだし、立会人とか必要だったりするわよね。いいわよ、見ててあげるから彼女を愛してあげなさいよ。愛おしく狂おしく彼女を愛してみせなさいよ。出来るんでしょ? アンタの愛情は衰退せずに今も成長しているんでしょ? 出来るわよね? 出来ないの? なんで? 愛しているんでしょ? なんで出来ないの? 死んでるから? 死んでるもなにも、殺したのはアンタ。アンタが彼女を殺したの。身勝手極まりない理由で。もう、彼女の愛情なんてどこにも無い。あるのはアンタのエゴだけ。彼女の愛情が衰退していくのが怖かったって言ったわよね? じゃあ何でアンタが死ななかったの? アンタが死ねばアンタの愛情は今のままで残るんでしょ? 永遠に彼女を愛することが出来たのに、何でアンタは生きてんの? そう、アンタは死にたくなかったんでしょ。彼女を殺しても、自分が死ぬのは嫌なんでしょ。ここでアンタにナイフを差し出しても、彼女の後を追ったりなんか出来ないんでしょ。アンタの愛情はその程度。わかる? わかるわよね、そうやって涙を流すくらいなら。泣いても喚いても彼女が生き返ることは無い。アンタが殺した。アンタがその手で、彼女の愛情もろとも全てを奪った。そうやって少しでも後悔出来るなら、死ぬまで一生そうやって後悔し続ければいい。いいや、後悔し続けろ。アンタが死ぬその最後の瞬間まで悔いて悔いてそして死んでいけばいい。殺すぐらい愛していたなら、アンタが死ぬまで彼女を想うくらい容易いことでしょ? だから、最後の一瞬まで後悔しながら、彼女を愛せ。もう彼女の想いはアンタの中にしか無いんだから。その想いに応えてくれることはなくても、愛せ。もしそれが出来なかったら、アタシはアンタを許さない。わかった? よし、悦子、行くわよ!!」

「えっ? あ、は、はい!? ま、マスター、ど、どこへ!?」\


 胸に刺さるような言葉を連ね終えたマスターは、そそくさと広間を後にしようと歩き出してしまいました。受子さんは任せてくれて構わない、その言葉に安堵しつつ、覚束ない足取りで、私もマスターの後を追いかけます。そのとき、涙を啜る音が耳について離れませんでした。


「まったくもう!! 何でアタシが説教しなきゃないのよあほらしい!! 風呂よ風呂!! こういうときは風呂に限るわよー!」

「え、ええ、お供しますが……警察の方がそろそろいらっしゃるかと思いますが……」

「大丈夫、風呂に入ってれば連れて行かれないでしょ」

「それはそうだと思いますが……着替え等も――」

「いいからいいから、マスター命令。何とでもなるから付き合いなさい」

「はい。かしこまりました」


 早足で廊下を歩くマスターの表情も声も、それはもう普段と変わりの無いものです。あえて体温やらで推測するという出刃亀は致しませんが、普段どおりさが逆に心配になってしまうというのもあります。

 あそこまで他人に強く言うマスターというのは記憶にある範囲で拝見したことがありませんでしたので、私はどうすべきか、どうするのが最善か考え、思考回路をフル回転です。


「……永遠に一緒になんて居られないんだから、1秒でも長く一緒に居られたほうが幸せなのに」

「ですね。ですが前提が間違えていますよ、マスター。マスターも私も、いつまでも一緒ですからね」

「はははっ、そういえばそうか。まあでも、アタシより1秒で良いから長生きしてよ、悦子は」

「……マスター命令ならば仕方ありませんね。マスターのメンテナンス次第という感じも致しますが」

「うむ。アタシもしっかりしなきゃならないな。というわけで、とりあえずは風呂!!」

「ええ、お供いたします」


 マスターの笑顔に浮かんで見えた涙は気のせいだったのか、そのときの私には知る由もありませんでした。



「ねえ、悦子。さっきから何物憂げな表情してんの? 思い出し笑いとか、気味が悪いんだけど……」

「あ……マスター、おはようございます。いつの間にか起きていらしていたんですね」

「うむ。起きたら悦子がぼーっとしてたから、それをぼーっと見てた」

「左様でございますか。あまり見つめられるとメイドといえども照れてしまいますよ」

「メイド関係なく照れると思うけど、そこは。それはともかく、寝なおす!!」

「はい。きちんとセーブをなさってテレビを――既に済ませているとはマスター、さすがです。それでは床へと参りましょうか」

「よし。あ、そのまえにトイレ」

「畏まりました」


 マスターがお手洗いのために席を立つのを見届けてから、ネックレスに手を掛けそれを定位置となった置物の首に掛けてスタンバイオーケーです。

 メイドではありますが、私は多少欲張りです。やはり私は、永遠よりも長くマスターの隣でお仕えしたいと思いつつ、電灯の紐に手を伸ばすのでした。

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