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主人の秘密と従者の鬱屈

まだまだ続きますよ、マスター。

私たちの日常は終わることを知りませんゆえ。

「晴れた夏の日~君と一緒に~♪」


 おっと、失礼致しました。マスターが不在ということもあり、鼻歌が飛び出してしまったようです。実のところお掃除が捗ってくると在不在に拘わらず鼻歌は飛び出してしまうものですが。

 先ほども申しました通り本日はマスターが在宅ではありません。珍しいことのように思われるかもしれませんが、危険の無い簡単な依頼の際はマスターが単独で行動することもしばしば。

 心配ごとと言えば、お小遣いと昼食代は決まった額を渡してはいるのですが、どうしてももしものときに備えて多めに渡していても使い切ってくるマスターの食生活くらいのものでしょうか。

 先日の猫探しの一件から、どこで情報を仕入れてくるのか分かりませんが、動物探しの依頼が増えてしまいました。そのような理由で、本日はわんちゃん探しに出かけている次第です。

 動物探しなら妙な案件に足を突っ込んでしまうということもありませんし、マスターも一人で大丈夫と仰る故、私は家事に勤しめるというとても効率的な行動をとることができるわけです。

 お弁当も毎日きちんと残さず食べ切って帰ってきて頂けて、供に行動することが出来なくとも、これはこれで楽しみがあるように感じられるメイドであります。


 はてさて、キッチン廻りに浴室にお手洗い、いつもどおりの家事は終わってしまいました。時間を考えて優雅にお茶の時間を楽しむというのも悪くないですが、一度腰を下ろすと上げるのが億劫になってしまうので、もう少しがんばってからに致しましょう。

 がんばる場所はあと2箇所、マスターのお部屋か私の私室のみ。私室と申しましても使用するのは時間が空いたときに少々趣味を嗜む程度なので使用頻度は低め。

 何時の頃からか忘れましたが、マスターの部屋で充電しつつ睡眠をとることが日課となっています。寒い時分は暖められますし、抱き枕いらずでとても合理的です。

 それに緊急の場合にはマスターの一番お側で即座に行動出来るという利点も御座いますし、マスターも寂しくなく睡眠に集中出来るというもの。さすが私、ナイスなメイド具合です。

 そのような理由により、マスターの部屋のお掃除を行うと致しましょう。○○っぱなしが多いガサツ――細かいことを気にしないマスターの部屋のお掃除は手応えがあり、良い時間潰しになりそうです。

「おや、珍しい。パソコンのスイッチ、切り忘れでしょうか?」


 故障ではありませんのでご心配なく。独り言というのはロボである私にも標準装備の機能のようですので。それに音声に出して確認するというのは確認行為として優れているとのことですので。

 それはそうとパソコンを付け放して置くというのはマスターには珍しいことのように思えます。一時寝る間も惜しんでネットゲームにハマっていたとき以来でしょうか。

 マスター、何事にも熱心に取り組む性格なので『無課金で極める』と妙な目標を設置し、私を巻き込んで延々と狩りとクエストに情熱を傾けて、気付けば本当にサーバーで1、2位を争うキャラになっていましたね。

 私もなぜかマスターに並ぶほど強く、周囲から頼りにされる存在までには登りつめたのですが…………そういえばあのレアリティの高い武器だけ手に入れることが出来ませんでした。

 どうせなのでそれだけ入手して…………と思って始めると、またマスターも夢中になってしまうので辞めておきましょう。私はさほど夢中になりませんが、マスターの熱しやすさは私の中では評判です。

 さて、昔を惜しむのはこれぐらいに致しまして、とりあえず清掃作業を開始すると致しましょうか。

 電源のケーブルを引き抜いてしまわないようにだけ気を付けなければいけませんね。


「…………ふぅっ。こんなところ、でしょうか。相変わらず綺麗ですね」


 細かいところまで生理整頓、マスターの部屋だと思うとより一層力が入るというもの。徹底的に綺麗にしようと思ってしまうと、パソコンも分解して清掃したくなるのでこの程度が丁度良いでしょう。

 先ほど干した布団を陽が落ちる前に取り込んで寝床を整えれば完璧です。お日様の匂いというのはイマイチわかりませんが、干した布団の気持ちよさはロボでもよくわかります。

 しかしながら……電源が付きっぱなしのパソコンが気になって気になって仕方ありません。とりあえず手は触れないで起きましたが、消し忘れならば消しておくのが節約のため。

 パソコンならばマスターほどではないにしても私も詳しくはありますし、もし作業中であればそのままに、消し忘れであったら電源を切っておくと致しましょうか。

 本当は人様のパソコンを勝手に弄るというのは良くないのですが、ここは節電節約節制のため。マスター、申し訳ありません。悦子は涙を飲んでパソコンの確認をさせていただきます。


「マウスをちょろっと動かしまして~…………やはり画面だけ真っ暗になっていただけでしたか」


 マウスを動かすやいなや、生命を宿したかのようにパソコンのモニタがパーっと明るくなりました。起動音で動作しているのは知っていたので予想の範囲内ですけれど。

 とりあえずは節電の為、ここは確認をさせていただいて電源を落とすか否かの判断をさせていただくと致しましょう。猫をも殺す好奇心からではなく、善良な給仕心からですのでお間違えなく。

 しかしマスター、デスクトップが壮大なほど汚――賑やかで心踊ります。新しいフォルダが7までデスクトップにおいてあるパソコンなんてそうそうお目にかかれるものではございません。

 とりあえずは処理中の案件も無いようですし、これはそのままシャットダウン処理を行っておいてまず問題ないでしょう。古くないパソコンなので動作音が小さいですし、やはりマスターのうっかり消し忘れでしょうね。

 はてさて、少しでも省エネルギーでのエコ活動で地球温暖化を阻止することに貢献致しましょうか。


「ふむ、マスター、きちんとダイアリーをお付けになっておりますね。感心感心です」


 シャットダウンを行う前に一応のチェックを、と思い思いがけず『ダイアリー』フォルダを発見してしまうことはよくあります。ついつい見えてしまう、そんなことは日常茶飯事ですので。

 …………ごくり。ま、マスターに何か悩みが無いかどうかきちんと知っておくのもメイドとして重要な努めだと私は思うのです。普段は言葉に出せないそんな悩みもあるかもしれませんね!!

 というわけで業務遂行上、どうしても必要となるかもしれない気がしないでもないので仕方ありませんね。涙を飲んでダイアリーを拝見させて頂くと致しましょう。

 毎日パソコンに向かって面白ニュースや巨大掲示板鑑賞をなさって楽しんでいるだけかと思っておりましたが、まさか真面目に日記を認めていたなんて、さすがマスター、出来る女ですね。

 それではダイアリーを確認させて頂くと致しましょう。


「…………ふむ。マスターの日記、ありえないほどに…………普通ですね。これはこれで逆に驚きです」


 これはびっくり仰天、まさかの真面目日記で何の面白みも御座いません。日々起きたこと感じたことをつらつらと書き連ねる方式で、締めにちょっとした総括が書いてあるというスタンダードなもの。

 形式としては当日の収支を記載し最後に感想を書く私の家計簿に似たものだと思っていただければ結構です。記録と後日確認の容易さを重視した、日記の原点と言って差し支えないタイプですね。

 後日確認する分には便利ではありますが、真面目に記載している分、他人に見られたときの恥ずかしさは計り知れないものがありますが、見られることはまずありませんし、マスターになら見られても私は構いません故。

 はてさてランダムに数日分抜粋して拝見してみましたが、依頼の成否についてやテレビ番組の感想、明日食べたいお菓子についてとマスターが不服に思っている節は見受けられません。

 多くはありませんがたまに見かける『おやつのクッキーが美味しかった』や『夕飯のおかずが美味しかった』の文字に心が躍ってしまうのは従者として当然のこと。

 『また食べたい』なんていう文言を見つけてしまった日には、夕飯のおかずを毎晩それにしようかと思ってしまいますが、栄養が偏ってしまうので2日に1回程にしておこうと心を決めるほどです。

 とても有意義な発見もありましたし、杞憂を抱えている様子もございませんので、日記を盗み見――後学のための参考はここまでとしておいて、家事に戻ると致しましょうか。

 他にはこれといって気になってついつい開いてしまうようなファイルもございませんし――――


「…………ありますね、とっても気になるファイルが。まるひというファイル名、これはそそります」

 ダイアリーのずーっと下のほう、がんばってスクロースしなければ発見出来なかったであろう場所に申し訳無さそうに置いてある『まるひ』と書いてあるテキストファイル。

 これは…………熱湯のたっぷり入った浴槽の前で押すな押すなと言われているに等しい状況かと冷静に自己分析致しました。となると、私のとるべき行動はひとつだけに絞られてくるというものです。

 もう引き返しにくいところまで足を踏み入れているわけですし、今更恐れるものは何も御座いませんので、多少の躊躇は残しつつ拝見させていただくと致しましょう。容量も小さいようですので。

 クリック2回であっけなく開いてしまうテキストファイル、パスワードも施されておりませんし、やはりそこまで機密にしておくような内容でも――――


『私の命はもうすぐついえてしまうだろう。随分長く生きてきたが、私自身の身体のことは私自身が一番良く分かっているつもりだ――――私は長く生き過ぎた。死ぬには十分すぎるほど生きたと思える』

「…………なん、ですか…………これは…………」


 ちょっと何なんですかこれ。意味が分かりません。マスターはまだまだやりたいことも食べたいこともいっぱいだって言っていたのに、こんなこと可笑しい。


『ただし、死に行くであろう私にも人並み程度には心残りなことはある。それは――――私と同じ不死の身体を持った、寂しがり屋の姉の存在だった』


 ……姉? マスターにお姉さん? 私が産まれてからマスターに家族が居るなんて………………


『ったくもー、ちゃんと最後にニンジン食べるから大丈夫だって。悦子は小うるさい姉みたいなもんだねー本当に』


 なぜ今になっていつのことかも忘れていた会話の一片がフラッシュバックする? マスターに血の繋がった家族なんて居ないはず。だったら姉というのは――――


『私が死に行く前に、私が居なくなったあとにどうしたら姉が――彼女が幸せに暮らせるか、命の灯火が消えてしまう前にきちんと考えておく必要がある』


 …………文章はここで…………終わっています…………。

 この小さい、2キロバイトに満たない文字の並びの意味が、理解出来ない。

 噛み砕かずとも理解出来るはずの意味の難解さも全く無い文章列、言葉通りの意味だと考えて間違いないはずなのに、頭に上手く入ってきてくれない。

 マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………死ぬ? マスターが…………


「ただいまー!! おーい、悦子ー、帰ったぞー? いないならいないって返事せーい」

「お、おります!!! お待ちください!!」


 覚束ない指先を無理矢理動かしパソコンの電源を落とし、呼吸を整えマスターのもとへ向かうこととなりました。今日はマスターの顔を上手く見られる自信がありません…………。



 思えばそうです。マスターは最近私にとても優しくしてくれていたように思えます。車道側を歩いて下さったり、おやつを私に分けてくださったり。

 私の作った食べ物を文句ひとつ言わずに召し上がってくださったり、嫌いなニンジンも文句をあまり言わずに口に運んだり、毎晩ちゃんと言われなくても歯を磨いたり。

 …………そして一緒に居る時間が僅かずつではありますが、本日然り、徐々にではありますが減少の傾向にあるように思えてなりません。

 依頼の内容が至極簡易でマスター単独でも問題なく達成できるものである故のこと、つい先ほどまではそう信じて疑うことすらしませんでした。

 しかし今になって考えるとそれは全てマスター自身のためではなく、残されるであろう私のための――――


「なーんか焦げ臭い匂いがするー…………って、悦子!! 煙出てる!! 煙!!!」


 そうです。こうやって夕食の調理中に話しかけてくれる人間も居なくなってしまうということ。魚を焦がしてしまっても誰も何も注意も文句も申してくれなくなります。

 そもそも、食生活のバランスを考えて調理を行っているのは自分のためではなくマスターの体調を思ってのこと。それも必要なくなります。

 さらに言えばマスターの味覚に合わせて、少しでも美味しく召し上がっていただけるようにと味付けを行っているわけです。それも必要なくなります。

 美味しいと、ちょっと口に合わなくて残念と、食卓を囲みながら談笑する相手も居なくなってしまいます。お箸もお茶碗もコップも全部全部全部全部1つだけ並ぶ食卓、そんな光景見たくも――――


「あーもうっ!! 何ぼーっとしてんの悦子!!! グリルの火、止めたよ?」

「……え、ええ、申し訳ありません。少々ぼーっとしていたようです」

「珍しい。っていうか大丈夫? 最近メンテしたばっかだけど、お風呂の前に見てみようか?」

「いえ、システム系統はオールグリーンです。ぼーっとしていただけです。申し訳ありません」

「なら良いけど。ちょうし悪いんだったら言うこと。これは命令だから」

「かしこまりました。不調を感じた際には遠慮せずに申し上げさせて頂きます」

「うむ、よろしい。んじゃご飯待ってるよ。お腹ぺこりだからなるべく早く!!」

「了解致しました」


 マスターに声を掛けて頂いても全く喜びに属する感情が湧いてきません。産まれて初めて味わう、欠落に似た感情に私は戸惑っております。

 『もうすぐ』とはいつのことなのか、それはどれだけ『遠い未来』のことなのか。長く生きてきたマスターの仰る『もうすぐ』はどれほど『遠い未来』なのか、私には分かりかねます。

 何時爆発するのかわからない時限爆弾を抱えつつ、私は夕食の準備を続行すると致しましょう。

 …………あと何度、私はマスターにお料理を提供出来るのでしょうか?


「えっ、何この緑色の謎液体。もしかして、これも飲めと?」

「ええ、美肌効果が高いレシピであるとテレビで申しておりました。味付けは飲みやすいかと思います」

「……材料足りないから買いに行くって、もしかしてこれ買いに行ってたの?」

「ご名答で御座います。焦がしてしまった焼き魚の代用食のついで、ですが」

「うーん、まあ飲んでみるか。美肌効果あるなら仕方ない…………ごくごく…………うぷっ!! ごくごくごく…………あー、不味い、もう1杯!!」

「もう1杯でございますか? 申し訳ありません、1杯分しか御座いません。明日は2杯分作ろうと思います」

「……冗談。ま、あるなら飲むけどー。んじゃ口直しに頂きます」

「頂きます」


 いつもならばこのような飲み物は嫌がった挙句に渋々渋々口に運ぶマスターが、今日は何も仰らずに特製野菜ジュースを完飲なさってくださいました。

 原因が何か推測すら出来ない今、私に出来る本当に些細な抵抗をマスターは嫌な顔ひとつしかせずに。私は、まだマスターが居ないと生きていたくありません。

 サーモに心拍数、それと様子を観察していて気付いたことがひとつ。体温と心拍の上昇、顔面の色が幾分か白んでいるようです。

 風邪ではと思いましたがマスターは否定するばかり。そもそものところ、マスターは風邪を引かない体質であることは私が一番良く存じ上げております。

 であればマスターの体温と心拍の上昇の原因はどこにあるのでしょうか。それを知る術は…………私には無いのかもしれませんね。


「悦子、ほんとにどったの? ぼーっとして箸も進んでない」

「あ、え、い、いえいえ、少々明日のレシピのことを考えておりまして」

「ふーん? ま、それなら良いけど。考えるなら美味しいの頼むよ。美味しくて死んじゃうようなやつを、ね。あはは」

「美味しいと死ぬというのであれば、美味しくないレシピにすればマスターは死んだりしませんか? 美味しくなければ、まだまだずっと生きて頂けますか?」

「え、悦子、顔が真面目。喩え話なんだから、美味しくて長生きするやつにしてよー。美味しく食べて健康健康!! これが食事の究極系だねー」

「ええ、かしこまりました。それではそのような方針で精進させて頂きます」


 喩え話だと、冗談だと仰ったマスターの言葉が、その言葉に乗せた表情が私には喩えでも冗談にも見えなかったのは、気のせいなのでしょうか。

 気のせいであって欲しくても、いつもは見られない食欲の減退に時折見せる苦悶に近い表情がその言葉を冗談にしてくれません。

 肯定する根拠のみ数多に揃ってしまっているこの状況で否定出来る程、私は非論理的な思考を行えるように作られていないのが残念でなりません。

 進まない箸と進まない会話、蛍光灯が煌煌と照らしているにも関わらず黒く暗い食卓風景。それでもマスターと私は、明日へ向けての箸を動かし続けます。

 この黒く暗い食卓風景すら迎えることの恐怖と戦いながら。




 あれから何日、いいえ何ヶ月私はこうしているのでしょうか?

 薄暗い部屋の布団の中、ここにあるのは私ひとりの熱のみ。マスターの温度はどこを探してももうどこにも見当たりません。

 記憶デバイスの中にマスターは生きている、そんなことに縋っても、下らない会話も手を繋ぐことも一緒に眠ることも、マスターを感じることなんてもう有り得ない状況です。

 思い出を再生し、再生が終わった後に真っ黒な感情に襲われるくらいなら、私の防衛本能はそれを遮断しじっと耐えることを選択致します。

 マスターと『一緒に過ごした』痕跡はあの日からずっとそのまま。マスターと食べるはずだった夕飯も、疲れを癒して頂くために沸かしておいたお風呂も、食べたいと駄々を捏ねていたチョコレートプリンも、あの日からずっとそのまま。

 もしかしたらふらりと戻ってきてくれるかもしれない、検体として解剖に回される直前まで一緒に居たにも関わらず、理論的ですらないその思考に身を任せているなんて滑稽にも程がありますが、私はこうすること以外何もしたくありません。

 冷たくなった手、色を失った顔、鳴らない心音、その全てを味わったというのに、私はまだ希望というには絶望的な糸にしがみ付く行為にしか。


 それでも私は生き続けマスターを待ち続けようと思います。待つのを止め活動を停止することが出来れば、全てから開放されるのでしょうが、充電が切れてしまう前に強制的に充電してしまうこの機能、そこにもマスターの意思が宿っているのですから。

 あとどれくらい待てばマスターは帰ってきてくださるのでしょうか。いつまででも布団を暖めてお待ちしておりますので、早く帰ってきてくださいませ――――


「おーい、悦子? 最近おかしくない? アタシは仕事行って来るよ?」

「……申し訳ありません。ぼーっとしていました。お弁当、用意致しますね」

「あー、平気平気。食べる時間あるかわかんないし、時間見つけて適当に食べておく」

「了解致しました。申し訳ありません」


 いつの間にか閉じていた瞳がゆっくりと意思とは無関係に開きました。そこに飛び込む光が映し出す風景は、さっきまで見ていたものとは違う、まだ暖かい風景。

 最近このような夢と呼べるのか分からない映像を見ることが多くなってしまいました。あれから数日、マスターはまだ私の傍で生きていてくれています。

 マスターがまたペット捜索の依頼に向かおうと着替えに勤しんでいる姿を眺めることに幸せを感じつつ、先ほど見た映像が遠くないであろうことが脳裏を過ぎり、複雑すぎる私の少ない語彙では表現出来ない感情に襲われることも増えました。

 あれから様々な回避策を思案してはみたものの、どれも決定的でなくマスターの体調も悪化しているように見受けられます。

 そんな折であるにも拘らず、マスターは私の同伴を断り、お独りで依頼を達成しようとする優しさには胸が痛くて痛くて仕方ないものです。

 しかし、ここまで日数の掛かるペット捜索の依頼も珍しいような気もします。

 もしや依頼と言いつつ、どこかに行っていて、私には知られたくないような場所に、体調について相談するために行っている、というのは考えすぎでしょうか。

 もしそうであるのならば私も知っておくべき事柄であり、知ることが出来るのであれば私なりの対処、回避策も思いつくかもしれません。

 僅かな確率であってもそれを確認しておいて損なんて全く無いはずです。それになにより、私独り家に居たとしても、家事も手につかないというのは目に見えています。\

 そうと決まれば今日の予定は決まりです。時間が限られているのならば尚のこと、今日を逃してしまっては夢が現実になってしまう前に。


「んじゃ悦子、アタシ行って来るからね。具合悪いんだったら寝るなり焼くなり――って、焼いたらダメか。それはともかくマスター命令だからよろしく」

「把握いたしました。体調不良を感じた際は家事を切り上げ休ませて頂きます。お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「はいはい。ほいでは行って来ます」


 いつもと相も変わらずといった様子で玄関を後にするマスターの姿に、いつもどおり加減が逆に不安を煽ってしまうのは言うまでもありません。

 無理をしているのであれば、そうするマスターのお気遣いには心痛みますが、私とマスターの仲なのですから、無理そうであれば無理そうな表情をして欲しいものです。

 そのような理由からやはり私はマスターのあとを追わねばならないでしょう。後をつけてマスターの体調のヒントになるようなものを得る、これで決まりです。

 もし何が原因なのか分かってしまえば、手段を講じるなどというのは容易いこと。マスターの体調回復のためなら私、メイドとして世界を敵に回すことすら厭わない覚悟です。 それに不肖私、出来る女代表のマスターの助手をさせていただいているおかげで、尾行術には並々ならぬ自信が御座いますゆえ、腕――もとい足が鳴る、いえいえ、鳴らせてはいけないのですが、喩えとして腕も足も鳴るというものです。

 マスターが玄関を後にしてから既に数分、もうマスターの意識は背後に無いと考えて間違いないでしょう。現在の依頼の内容柄、背後に注意を払う必要はございませんので。

 それでは、戸締り火の始末等、全て確認済みでありますし、私もマスターの尾行へと出かけることと致しましょう。

 マスターの体調を回復させる術を発見できれば幸いなのですが。



「…………とりあえずは異常なし、といったところでしょうか」


 尾行中とはいえ現状確認を口頭で行ってしまうのはマスター譲りで、それを思うと何だかおかしくなりますが、零れだしそうな微笑はグッと我慢すること致します。

 それ自体で尾行に気付かれてしまうほどの尾行術だとは思っていませんが、念には念を入れるのは探偵助手メイドとしての基本といえましょう。

 はて、マスターの尾行を始めて早1時間程、取り立てて行動として疑問に思うところは御座いません。

 動物病院を回っているのも当然といえば当然、保健所やらを回っているのもわんちゃんを探しているのであれば当然のことといえば当然のことでしょう。

 しかし、医療関係の機関ばかりを回っているのも事実といえば事実、後ほど尾行を終えてから立ち寄った先全てで情報収集を致すのが宜しいかもしれません。

 夕飯の際にでも2,3件回ってみるのがよさそうですね。


 ……………………。


 それにしてもマスター、やはり普段より体調が芳しくないのが私には分かってしまいます。サーモと心拍、どちらも歩き回っていることを抜きにしても、平時より若干の上昇が見られます。

 やはり日記の文章にあったとおり、徐々に徐々にマスターの体調は悪化の一途を辿っているのでしょうか。

 お弁当は全て平らげて頂いていますが、家での食事の際は箸の進みも若干悪く、ゲームやインターネットもせずに早めに就寝なさることがままあります。

 私の観察眼はマスターも認めるところ、さすれば私の目が正しくないなどということはあろうはずもなく、正しいものだということは明白です。

 マスターの日記に紛れ込んでいた『死期が近い』旨の文章、あれは間違いなくマスターの書いたもので間違いないと私は思っています。

 筆跡というのはパソコン上の話であるので判別が出来ませんが、文章の雰囲気と何よりマスターのパソコンにあったテキストファイルのこと、他にアテがありません。

 死期の近さを悟れるほどの距離まで死期が差し迫っているのか、マスターを救う手立てはどこにあるのか、それを探すのが私のメイドとしての役目でしょう。


「…………街の雑貨屋さん、ですか。こんなところに何の用があるというのでしょう」


 あれやこれやと思考の網を川に投げ込んでいる間に、マスターは見慣れない小さな雑貨屋さんへと滑り込んでいってしまいました。

 あまり広くなさそうな店構え、さすがの私も後を追えば尾行がバレてしまうので外で待機することを余儀なくされてしまいます。

 もしやマスター、体調の悪化を食い止めるためにマジナイや神頼みに走っているのでは、と私は多少心配になってまいりました。

 そこらへんに走ってしまう人間の心理は些か理解に苦しむところではありますが、そこに縋ってしまいたくなるというのがあるのでしょう。

 私ももし合理的な思考に走れないような人間であったのなら、そうしてしまうような状況に置かれているのだと思うと心が痛みます。

 いえ、違いますよ? マスターは完璧に近い人間だと私は思っていますので、先ほどの邪推はマスター以外の人間なら、というところの雑感といったところですので誤解なきように。

 おや、マスターが店から出てきましたね。バッグが幾分か膨らんでいるように見えますが……何か購入なさったのでしょうか、気になるところではあります。

 そろそろ昼食の時間ではありますがマスター、まだまだ歩き回るつもり満々のようです。

 見失うと厄介なので、きちんと尾行させていただくと致しましょう。


「……さすがマスター、わんちゃんなら裏路地に入り込むだろうと予測したわけですね」


 標的の足はどんどんと人気の無い裏路地へと向かっていきます。やはりマスター、探偵業が天職と言って全く差し支えない洞察力、御見逸れ致します。

 周囲も気にせずずいずいと進んでいくマスター、歩行速度がやはり遅く感じてしまいますが、何一つと言っていいほどまだマスターの体調改善の手掛かりは見つかっていません。

 ただしマスターが立ち寄って回っていた機関については数箇所チェックすることが出来たのは収穫には違いのないことです。逸る気持ちを抑えつつ、後ほどどのような用件で立ち寄っていたのかを確認できれば少しでもヒントを得られると思われます故。

 はてさて、マスターはしっかりわんちゃん捜索の続きを行うようですが、やはり今日はしっかりと私が引き続き尾行を――――


「あらあら、よしよし、猫さん今私はいそがし…………くしゅん。だ、ダメですよ、私は用事があるので…………くしゅん!!」


 さすが裏路地、黙っていても野良なのかそうでないのかわからない猫ちゃんがそこかしこに、そしてそこかしこから寄ってきてしまうようです。

 さすがに今日は猫ちゃんに構っている暇は御座いません――――が、折角寄って来てくださったのですから少しくらいは…………。


 ……………………くしゅん。


 ささ、猫ちゃん、今日はこれぐらいで勘弁を。次回訪れる機会があれば何か食べ物を持ってきて上げますので。

 今はマスターを追わなくては――――と、見失ってしまったんでしょうか、私は。全く、困った猫ちゃん達ですね。

 猫ちゃんを地面に置き、ぐしゅぐしゅしかかった鼻をハンカチで拭いながらマスターの後を追いかけることと致しましょう。

 最後に視界の端に捕らえた場所でおそらく方向を変えて歩き出したに違いありませんので、少し早足で追えばすぐにでも追いつけることでしょう。

 そのようなわけで急いでマスターの後を追い、曲がり角を鋭利な角度で曲がることと致しましょ――――


「ま、まま、ます…………だ?」

「アンタも枡田でしょうが。なになに、朝からずっと尾行してたみたいだけど、何か用? アタシ何か忘れ物でもしてたっけ?」

「え、ええ、私もマスターも枡田ではありますが、どちらかというと『マスターだ』の途中が抜けてしまってそのように聞こえてしまったようです」

「あらそう。その調子だと全くバレずに尾行できてたつもりなんだろうけど、残念ながらバレバレもバレバレ。残念でした」

「残念です。さすがマスター、完全なる尾行だと高を括っていましたが、本当に残念です」


 さすがにマスター仕込の尾行術はマスターには通じなかったようで大変遺憾です。そして驚いたことに、家を出たところからバレていたとは驚愕の極み。

 バレていたにも関わらず、それを私に悟らせないことについてもやはり驚愕しておくべきところでしょう。さすがマスター、私なんかが尾行できる相手では無かったようです。

 しかしもうひとつ大きな問題が御座います。マスターにより看破されてしまったということは何か言い訳を用意しなくてはいけないだろうということ。

 特に怒っているような様子は見受けられはしませんが、メイドとしてマスターに嘘をつくのはやはり心が痛むというもの。しかも日に2度も嘘を、というのはさすがにマスターが赦せても私自身が赦せないところ。

 かといって本来の目的を告げてもマスターに不快な思いをさせてしまうだろうということは目に見えているわけで……難しいところです。

 さて、どうこの場を乗り切るか。マスターの体調のこともありますので、あまり時間は取らせないようにするべきなのでしょうが――――


「まあ、理由はあとで聞くとして、お腹空いたしお昼付き合ってよ。独りで食べるよりふたりで食べたほうが美味しいし」

「ええ、私と致しましても願ったり叶ったりですが、宜しいのでしょうか? マスター、お仕事の真っ最中だとお見受けしていたのですが」

「別に構わないよ。裏路地に入ったのは悦子を誘き寄せるためもあるけど、お昼ご飯買おうと思って入っただけだし」

「さすがマスター、そこまで考えての行動でしたらお付き合いしないわけにはいきません。私も昼食はまだ済んでいませんので喜んでお供させて頂きます」

「ずっと尾行してたんだから昼食がまだだってことくらい知ってる。んじゃとりあえず昼食食べてお腹を満たしましょ」


 マスターに言われるがままに昼食をご一緒してしまうことになる始末。しかしきちんと昼食を摂ってくれていることにメイドとして一抹の喜びは隠せません。

 そして言われてみるとどこからか空腹感が漂ってくる不思議な現象。尾行の理由も気付かれてしまった理由も今はおいておいて、マスターとの昼食を楽しむことと致しましょう。

 これから先、数え切れないほど一緒に食卓を囲もうとも、それは1度として同じものは無く、全てが全て私にとっては掛け替えの無いものなのですから。


「んまいわね、このカツサンド。さすがに20分待って買っただけのことはある」

「マスターに同じく、ですね。揚げたてでないのにジューシーで柔らかいカツにスパイスと甘みの効いたソース、さすがの私でも真似するのは難しいかもしれません」

「ふぅん。まー、悦子の揚げてくれるトンカツはこのカツサンドに負けず劣らずだし、そんな話をしていたら何か食べたくなってきたし」

「畏まりました。幸い本日の夕食の献立はまだ決まっていませんので、トンカツにさせて頂こうと思います。カツにカツはマスター的にはお辛いものがありますか?」

「大丈夫。カツサンドとトンカツはパンとご飯だし、主食とおかずだし全然オッケー。夕飯楽しみにしながら午後もがんばれるってものね」

「私にとって最大級の喜びな言葉、ありがとうございます。このカツサンドに負けず劣らずなトンカツになるよう、努力致します」


 マスターが事前に目星をつけていた人気のカツサンド専門店にてカツサンドを購入し、近くの河原が見渡せる公園でのランチタイムと相成りました。

 そして夕飯のリクエストを頂けるという、夕飯を考える手間が省け―――マスターの召し上がりたいものを作れる喜びに浸れるというもの。

 しかしながらやはり気に掛かるのはマスターの体調がやはり芳しくなさそうに見えるということです。美味しそうに召し上がっているカツサンドも、やはり手の進みが速くないのが明らか。

 マスターの箸――は使っていないので手の進みが遅いのを感じてしまうと、折角の美味しいカツサンドの味もどんどん鈍っていってしまいます。

 近くで食事をお供出来ることがこんなにも幸せなことだなんて気付いたのはつい最近、こんなにも単純で傍にある幸せに気付くのは、いつだってそれが終わってしまう直前だと言う話を思い出し、胸が締め付けられる思いでいっぱいです。


「で、今日は何でアタシを尾行してたわけ? ちょっと心当たりが無いんだけど。もしかして悦子が最近調子悪そうなのと関係ある感じ?」

「マスター、お気遣いは心痛み入りますが体調不良はございませんよ。メイドインマスターのメイドですので、体調が不良になるということは有り得ません」

「まー、それなら良いけど。で、尾行してた理由、話しなさい。聞かなくても良いけど、気になるからマスター命令ってことで」

「把握致しました。マスター、体調に芳しくないところは御座いませんか? 命令できる権力は持ち合わせていませんが、出来れば正直にお願い致します」


 察しの良いマスターのこと、この程度の遠回りな質問は真意を汲んでくれることと期待している半面、マスターが正直に回答してくれた場合の気の持ちようはまだ定まっていません。

 十中八九私にとって宜しくない事実が語られるであろうマスターの表情はどこか困ったようなものです。やはり言葉を口に出すのはそれ相応の覚悟が必要なのでしょう。

 マスターの覚悟を私も汲み取り、私も覚悟を決めるために一切れ残ったカツサンドを口に運びます。さっきまではあんなに美味しかったカツサンドが、今となってはなんと味気の無いことか。

 事情を知ってか知らずか、どこからともなく集まってくる猫ちゃんたちを片手であやすマスターを眺めながら、そのときを待ちます。

 長い長い、とても短い時間の中で。


「おーよしよし……って痛っ!! 甘噛みじゃなくて本気で噛んだなー!! よいしょっと、噛めないように抱っこしてやるー」

「マスターは猫ちゃんに大人気ですね。世界中の猫ちゃんたちはきっとマスターのことが大好きなんですから、居なくなったら悲しみま……くしゅん」

「まーアタシがいなくなることなんて有り得ないけど。体調は――ちょっと良くないけど。よく気付いたわね、上手く隠せてるかなーと思ってたのに」

「やはり体調不良だったのですね。どれだけ長い時間ご一緒させていただいていると思っているんですか。存じ上げないはずが御座いません」

「それもそっか。でも大丈夫、もうじき楽になると思うから」


 もうじき楽になるという言葉が何を指すのか、それなりの知能を持った私には簡単に察しがついてしまいます。

 それを避ける手立てを講じるのが私の役目。それが真っ当出来なかった場合の結末は…………くしゅん、ぐずぐず。


「やはりマスターは…………何かとてつもない病に掛かり、今も笑顔で苦痛と戦ってらっしゃるのですね……ぐず」

「え、何それ? どっからそんな話が出てきたの? そりゃまあ、辛いっちゃ辛いけど」

「マスターには申し訳ありませんがパソコン内部の「まるひ」と書かれていたファイル、拝見してしまいました。そこにマスターの病状が――――」

「あああああ!!!! あれ読んだの!!? ギャー!! い、痛い!! 引っかくなにゃんこ!!」

「大丈夫です。そのような大声を出して驚かずとも、出来る範囲、いいえ出来ない範囲であっても私が協力致します。全てをお話ください」

「いや、可能な範囲も何も、アレは――――」


 くっしゅん!!


「アタシにゃ文才があるんじゃなかろうかとか思っちゃって、適当に書いて投げた小説もどきなんだけど」

「なるほど、事実を基にした小説というわけですね。それならば説得力が強かったのも頷けまくしゅん」

「うんまあ、もう何年も前のだけど置いておいたらネタとか出るんじゃないかと思って消してなかっただけ。黒歴史ってやつにあたる部類の話」

「何年も前のお話であれば――――何年も前……なのですか?」

「そうだけど? ファイルの更新日時とか見なかった? 死ぬ予定が無いし、死にたくも無いしああいう話はやっぱり思いつかないわ」

「更新日時…………帰ったら確認させていただきましょう。半分ホッとしました」

「さようですか。アレ見て気にして何だか変な感じだったのね。どうしたんだろうって思ってたけど、よかったじゃん。お互い疑問が氷解して」


 マスターが仰るとおり全ての疑問が氷解して一安心――とはいきません。マスターの言葉を信じないというのは有り得ませんが、それでも体調不良であるという事実が残っています。

 もしやマスターのあのテキストが現実のものとなってしまう、それぐらいのことは起こってもおかしくない世の中ですので。


「ああ、あと体調不良は月のものが長引いてて重いだけ。病院で検査したらどこも異常無し。って、毎月のことなのに忘れてた?」

「……そういえばそうでした。私としたことがついうっかり……ぐずぐず…………」

「どれぐらい辛いか知りたいなら似たような機能つけてあげても良いけど? 辛いわよー、本当に。不死身のアタシですら気が滅入るくらい」

「マスターと同じ痛みを共有出来るのであれば喜んで……ぐずぐず、ぐっしゅん」

「冗談よ。意味も無く痛くても嫌でしょ。これで質問は終わり? 調子は悪くないし、テキストは帰ったら更新日時でも確認すればいい、おっけ?」

「……オッケーです。どうやら全て邪推、だったようですね…………ぐず」


 今日は天気も良く、風も気持ちが良いというのに、猫アレルギーの調子が絶好調のようで、鼻水が止まらないようです。

 安心したせいか、どこか体中の力が抜けていくような不思議な感覚、これは今まで味わったことがありません。胸が熱く、顔が火照るようなこの感覚。


「なんだー、心配して損したなぁ。悦子が元気ならそれでオッケーだけど。ったくほら、これあげるから元気出しなさい」

「申し訳ありません。と、これは? 何かネックレスのように見えますが……」

「ネックレスに見えるけど、どうみてもネックレス。喜ばせたら元気になるんじゃなかろうかと思って買ったんだけど、要らなかった?」

「いえいえいえいえ、ありがとうございます。とても嬉しいです……ぐずぐずぐず」

「ったく、涙なんか流して、そんなに喜ばれると買った甲斐があるってもんね。ほら、つけたげるから」

「あ、ありがとうございます。有難き幸せ……」


 マスターのほうに向き直り、目を瞑り首筋に架かるネックレスの重さに酔いしれる一時。先刻までの気持ちの重さとは違う、とんでもなく嬉しい重さが首に加わります。

 そして目を閉じていて確認は出来ませんが、目の前まで迫っていたマスターからの吐息が顔を撫で、まさに夢にも昇る心地とはこのこと。

 本当に、良かった。


「はい、普通は向こう向くもんだと思ったけど良いか。どーれ、カツサンドも食べたし、悦子も元気になったしそろそろ行きますか」

「はい。その前にマスター、ひとつだけよろしいでしょうか? お時間は取らせません故」

「なになに、まだ何かあった? 別に長々でも良いけど、どうぞ」

「マスター、私を置いて居なくなったりしないでくださいね? ぐずぐずくしょん!」

「当たり前。ちゃんと家に帰るし、遠出のときは絶対一緒。だからもう余計な心配はするんじゃないわよ」

「はい……ありがとうございます……ぐじゅぐじゅ…………」


 ぽんぽん、と頭に乗せられるマスターの手に、猫アレルギーが加速していくのがよくわかってしまった瞬間でした。

 マスターは私の前からいなくなることはない、そう約束してくださって私は本当に幸せなメイドだと実感出来ます。

 これからもずっと一緒に、今日の夕飯はトンカツとレバニラにしよう、様々な思考が思考回路を駆け巡りながらも私の心はマスターと共にあると改めて感じました。

 その幸せを噛み締めつつ、昼食の時間は終わりを告げることとなります。

 それでも私は、先ほどまでとは見違えるかのように幸せな気分でいっぱいで、そんな機能が付属していなくても空も飛べそうな予感すらしてしまいます。

 ずっと一緒に、永遠に終わりなんて無い、そんな幸せがここにはあるのですから。



「マスター、そういえば何故私の尾行はバレてしまったのでしょう? 距離や気配の消し方、全てにおいて完璧だったと自負していたのですが」

「……メイド服のまんまだし近所で後ろを歩いてたら『今日はケンカでもしたの?』って近所のおばちゃんに声掛けられるし、通行人もメイドが歩いてるって話してたし」

「成程。さすがマスター、そこまで気付いてしまうとは、本当に流石のマスターですね」

「いや、流石ってほどじゃないし…………って、何で変に抜けてるところあるのかしらね、悦子は」

「抜けてなどいませんよ。素晴らしきメイドインマスターですからね」

「褒められてるのか馬鹿にされてるのかわからないわよ、それ」


 こんなにも楽しい日常が、これからもずっとずっと。

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