↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

最期の先まで、愛してる

作者: 青井空
掲載日:2026/09/05

初めて会ったのは、私が十歳で、あいつが九歳だった。


あの日の私は、風でぐちゃぐちゃになった髪もそのままに、庭にしゃがみ込んでいた。冬が明けたばかりの朝、土は黒く冷たくて、指の間から湿った匂いが立ちのぼってくる。垣根の向こうでは、隣の空き家に荷車が横付けされ、重い家具を運び込む音が響いていた。でも、そんなものは目に入らなかった。


――絶対に、綺麗な花を咲かせる!


去年は、育てた花を全部枯らしてしまった。あれは最悪だった。結局、ママの花壇から摘んだ花を、そのままママに渡すという間抜けなプレゼントをすることになって、自分の不器用さにかなり落ち込んだ。今年こそ、自分で育てた花を渡したい。


名前は知らないけれど、太陽みたいにパッと花びらを開く、色とりどりのあの花の球根を選んだのも、ママの笑顔みたいな花束を作りたいからだ。


スコップをザクザクと突き立てて、七個目の球根を埋める。鼻歌まじりに土をかぶせていたら、頭の上から声が降ってきた。


「何してるんだ?」


――え!? ラッパ?


振り向き、仰ぎ見る私の目の前で手を振っているその子には、先端にフッサリとした毛がついている尻尾があった――ライオン種の男の子だ。金色の髪はフワッと広がり陽の光を受けてキラキラしてる。天使みたい。


「おい? 聞こえてるのか?」


天使が吹くラッパってこんな音なのかな。


「うん」

「そうか。それで何をしてるんだ?」


なんか……日向に干した毛布みたいな、温かくて甘い匂いがする。


「うん……」

「わかった。答えられないなら、まぁいいだろう」


天使は、私の前にしゃがみ、もっと音を鳴らし始めた。


「俺はな、隣の家に引っ越してきたガロウだ。お前の名前は?」


しゃがんだ分、天使の顔が近くに来た。金色のアーモンド形の瞳とすっきりとした鼻と口。綺麗な天使だ。


「うーん、俺の種はな、ライオンだ。お前の種は?」


ライオン種の天使っているのかな。


「ふぅ……。お前はアホなのか?」

「アホじゃないかな」


これは否定しておかないとね。


「なら、なんで質問に答えない」


髪と同じ色の瞳を光らせながら私を見つめている。


――ツガイ? 

そんな訳がない。ツガイを感じるのは、十四歳になってからだ。


無意識に、左胸の上に入れられた刺青を服の上から押さえながら、掠れた声で答える。


「そこね、球根植えた場所だから、とりあえず、どいてくれる?」


これが私の横柄な天使――ガロウとの初めての会話だった。






この町はデガ。様々な獣人が住む町だ。町というより村と言ったほうが合っているぐらいの規模の町。石畳があるのは中央広場だけで、あとは踏み固められた土の道だ。そんな素朴な町だけど、活気はあり、朝はパン屋の煙突から甘い匂いが流れ、昼は鍛冶屋の槌音が響き、夕方は各家の煮炊きの匂いが混ざる。


この町の警備隊の隊長をしているパパは、


球根を売っていた流れ商人のおじちゃんは、「ギルドもねぇし、宿屋は一軒。ほんとに、辺鄙な場所にある町だが居心地が良くてな。つい、儲からないのに来ちまう」と、ため息交じりに文句を言っては、毎年、いろんなものを売りに来ていた。




私の家は村の中央近くにあり、パパはこの町の警備隊の隊長をしていて、ママは服屋を営んでいる。一人娘の私は、たまにママの服屋を手伝っているが、裁縫や接客は苦手だった。


「あなた、今日は隣にライオン種が引っ越してきたのよ」

「ああ、詰所まで挨拶に来てくれたよ。さすがライオン種だな」

「そうねぇ。長たる種族ですものね。町長の交代でいいのかしら」

「うむ。今の町長は中央で後継の育成に入るそうだ」

「ライオン種は少なくなってきたものねぇ」

「しょうがない。ツガイが見つからない以上、種族の繁栄は厳しい」

「ライオン種はハーレムですものね」

「ああ。ツガイに他の相手がいるなんて、許せるわけがない。最悪、殺し合いになる。ライオン種だけは、ツガイに会わないほうがいい」


ぼーっと両親の話を聞きながら、また無意識に胸の刺青を押さえる。


ツガイ。


ツガイと過ごす時間は、何物にも代えがたい幸せらしい。まだ刺青の風習がなかった昔は、身体が初潮を迎えたり、精通したりするとツガイを感じることができた。


けれど、幸せだけじゃなかったみたいで、相手がツガイを認識する前に無理やり攫うこともあった。当然、攫われた方は相手を拒絶するし、激しい怒りと嫌悪をぶつける。それで心を病む人だってたくさんいた。だから私のじいちゃんの時代、成人する春まではツガイを感知する部分に、感覚を麻痺させる刺青を入れるルールが決まったんだ。


ため息をひとつついて、胸から手を放す。


とりあえず、服屋はない。警備隊に入るために身体でも鍛えるか。





ガロウはモテた。


出会ってすぐに変声期を終えたガロウは身体がどんどん大きくぶ厚くなっていった。それと同時にライオン種は一種のフェロモンを巻き散らかしているようで、メスがドンドン寄ってくる。


私はガロウの傍にメスがいるのも耐えられず、ガロウの隣から走って逃げる。だが、ガロウのほうが足が速くて、毎回、必ず捕まっていた。


「視界から出るな」


これがこいつの口癖だった。


何をするにも一緒だ。午前中、教会に行って勉強をする。午後になると一緒に帰り、どっちかの家でご飯を食べる。夕方まで勉強するか狩りの練習をして、また夕食を一緒に食べる。寝る時と起きる時だけは別々。そんな生活を毎日送ってた。




私が十三歳のある日、待ってろと言われて教会にいると、戻ってきたガロウからメスの匂いがした。


ふわっとむせ返るぐらいに『反吐がでそうな、気持ち悪い』匂い。


「待たせたな」


そう言って、大きな布袋を抱えて寄ってくるガロウ。匂いがどんどん濃くなっていく。


頭が痛い。吐き気がする。身体の内側を無数の虫が這い回っているような、おぞましい感覚が襲ってくる。逃げ出したいのに、どこから逃げればいいのかもわからない。身体中、這いずり回る何かを、今すぐ引きずり出してしまいたかった。


耐えられない。

――もう、耐えられない。


私は、何かの千切れる音を聞いた。




気がついたのは家のベッドの上だった。ママの顔が目に入る。


「大丈夫? ルータ。何があったの?」

「……ん」


『認めたら生きていけない』

その言葉だけが、機能を止めた頭と心を埋め尽くした。そして口は——ママを安心させるような言葉を持っていなかった。


「痙攣を起こして、泡を吹いていたのよ。ガロウ君がここまで連れてきてくれたわ。……ママにも言えない?」

「……」

「そう……。言えるようになったら相談してね」


そう言い残してママは部屋を出て行った。


私は独占欲が一番強いと言われてる狼。そして、ライオン種は一夫多妻だ。本能的に相容れない。そういうことだ。私にとって、私のオスが他のメスを抱いているを感じるのは無理だった。


ツガイだと思う。

でも、決定していない今なら――逃げられる。




次の日、ギルドに狩人登録した。


「なんでだ。危険だから今すぐ辞めろ」


何度もあいつは言ってきたけど、その度に香るメスの匂いに決意は固くなって行く。


狩りを行いギルドランクを上げる。狼種は集団狩りが得意だけど、個々でも強い。資金は順調に溜まっていた。それでも——あいつのそばを離れる決意だけがつかなかった。


――声をかければ何を差し置いても来てくれて。

――いつだって側にいて。


逃げる準備だけが着実に整っていった。





ある日、ポツリと人生の分岐点が生まれた。


ライオン種の将来を不安視した大人が、三つ先の町から、同種のメスを呼んだのだ。


「私、彼の許婚になるの。あなた、ガロウと仲がいいのでしょう? 狼種だけど、まぁいいわ。第二のメスにしてあげる」


教会の裏に呼び出してきたライオン種のメスは、ニヤって笑って、決まった事項のように私に言ってきた。


「そう……」


――婚約。


このメスの言うことをそのまま鵜呑みにするほど、私は馬鹿じゃない。だけど——心はそういう物じゃなかったみたいだ。時が来たと、理解してしまった。






その日の夕食後、ソファに二人で仲良く腰掛けてくつろいでるパパとママに伝える。


「私、成人したら隣町に働きに行く」

「……ガロウ君はなんて言ってるの?」

「まだ言ってない」

「言わなくていいのか?」

「言うけど行く」

「……そうか」

「パパもママもルータのことを愛してるわ」

「辛かったら言え。俺たちもお前のところに行く」

「パパ……ありがとう。ママも大好き」


抱き締めたママは涙をボロボロと流してた。


二人は、いつ頃から、私のツガイに気がついたのだろうか。まぁどっちにしても、ライオン種は狼種のツガイにはなれない。これは両親ともによくわかっていて、それ以上は何も言わなかった。ただ——長生きできない娘との別れを歯を食いしばって耐えているパパの顔が、見てて辛かった。


これが、春の儀式の七日前の出来事だった。





「なぜ行く」

「ここにいろ」


ガロウは、そんなことばっかり言い続けたが、


「無理」

「稼ぎたい」

「新しい町を見てみたい」


と言って逃げた。


「オスを作るのか?」


これには言葉が詰まった。ガロウ以外のオスなんて無理だってわかってたから。ツガイだと正式にはわからなくても、もう心がこいつだけって言ってる。


「ううん。ツガイが見つかるまで待つよ」

「絶対だな」

「うん、絶対」

「そうか」


それ以上、ガロウは何も言わなくなった。


嘘は一つでいい。

たった一つ。


「何処に行くんだ」

「隣の町だよ」

「ずっと居るのか?」

「うん」


二つも要らなかった。






旅立ちの日。広場に成人の獣人だけが集まり、町長の話を聞いた。何を話してたのかはわからない。町長が一人一人に薬を渡して歩いている。あの薬を飲めば、次の朝には刺青が無くなってるはずだ。


「ルータ、綺麗になったね。あと少しだ、がんばってくれよ」

「ん」


町長はそういうけど、何を頑張るんだろうか。身体が大きく、毛並みもつややかだから皆に美人だと褒められる。けれど、ツガイに褒められないなら何の役に立つのだろう。綺麗なんて意味がない。


そのまま、貰った薬を飲み、荷物を持った。








町のはずれで、ガロウが待っていた。


「すぐに行く」

「へぇ……」


成人してからじゃないと村からは出られない。それがルール。だから、ガロウが来るとしてもあと一年後の話。


「お前が帰ってきてもいい」

「……もう、行くよ」

「すぐに行くからな、オスは作らないよな!」

「ツガイ待ちだって」

「ならいい」

「あははは。じゃあね、ガロウ」


さよならだよ、ガロウ。




街道を走る。草が刈られているから走りやすい。ただ、待ち合わせ場所は少し森の中にある小屋だから急がないと。


アップダウンが激しい道を飛ぶようにして走りすぎて行く。初めての村の外を楽しむ余裕なんてない。流れ行く緑色の景色を視界に納めながら、荒くなりつつある呼吸を抑え込み、ひた走った。


夜、何とか待ち合わせ場所に指定した小屋に滑り込む。そのまま、息も整わないうちに一つしかないベッドに倒れ込んだ。


そのときには、村を離れてから徐々に酷くなっていた身体の不調が、耐えきれないぐらいになっていた。


――あいつの匂いが……ない。

なんで? なんであいつは私のそばに居ない!? あいつはどこ!


洗濯物を絞るかのように脳みそを駆使して鼻を動かすけど、匂いが感じない。脳が痛い。鼻が苦しい。胸が引き裂かれている。


胸を掻き毟ると、身体中が凍傷にかかったようにイタイのに気がついた。それと同時に、皮膚の下に虫がいるかのようにむず痒くて、肌を脱ぎたくなる。


「ガ……ろゥっ」


身体も心も脳みそも、あいつから離れたことを詰るかのように私を切り刻んできた。


のた打ち回る。

食いしばった口から血が垂れた。


掻き毟った肌からも血が流れ、暴れる身体から飛び散る。ツガイって判定出る前でもこれか、と、痛さでも、辛さでも、泣いた。


何日経っただろうか。暴れる体力も無くなって、身動きもできなくなったら、やっと周りを見渡せるようになった。黒目だけであたりを見渡すとザャアが心配そうな顔で覗き込んでいた。


教会の息子で三つ年上のザャアは、梟種で、世話焼きの兄みたいな人だ。今回の計画は全部知っていて「そんな片棒担いだら、俺が殺されるだろ!」って泣いてた人。それでもライオン種と狼種を知ってるから、手を貸してくれてる。


「死んだかと思ったぞ」


一週間、のた打ち回ってたらしい。視界に入ったザャアの腕に包帯が巻いてあった。


「ほら、食え」


出されたスプーンには、お粥が乗っていた。開かない口に何とか隙間を作り入れてもらう。味は……なかった。


翌日、少し動けるようになった私は、よろけながらも風呂場に行く。


服を脱ぎ鏡を見たら、私は、真っ白な髪と傷だらけの肌、骸骨みたいに痩せこけた姿になっていた。


ガロウが見ないなら、どんな外見でも何でもいい。ただ力が入らないのが困るな。


そんなことを考えながら、お風呂に浸かる。心は麻痺をしたみたいに、色んなものがボヤケてみえた。


三日後、歩けるぐらいに回復した私は小屋から移動することにした。ザャアが手配した馬車に乗ってガロウと約束した隣町に向かってる。でも——通過するだけ。行くのは嘘じゃない。


嘘は一つ。

『ずっと』じゃない。それだけ。


ここで死ねたらいいと、過ぎ去る町を見ながら、鼓動すら感じなくなった心で唯一の望みを抱いた。


今死ねたら、あいつとの約束を破らなくても済むのになぁ。





そこから二年経った。


私は今、知らない村で畑を耕してる。狩りしかしたことなかったから初めは本当に困ったけれど、やれば何とかなるもんだ。


朝起きて、畑に行き世話をする。ご飯を食べて、また畑の世話をして、ご飯を食べて寝る。肉はもう食べれなかった。流し込むだけの食事を毎日続ける。


白髪になった髪は自慢の黒髪に戻ることはなく、体重も動ける程度に戻っただけだ。そんな生活の心配をして、たまにザャアが生活を覗きに来る。


「村は今日、成人の儀式だぞ」

「この間な、俺、ギルドに行ったら殺されるかと思う目に合ったぞ」

「お前……目……見えてないのか?」

「……とりあえず、もう少しだけ頑張ってみろ」


混濁してきた脳みそと、劣化が始まった耳では何を言われているのか理解が難しくなってきたが、一人で生活するには問題はなかった。


畑仕事も食事もお風呂もまだ一人でできる。あいつがいる世界で同じ時間を過ごしてる。それだけで幸せを感じた。ツガイと離れ離れになると衰弱して、すぐに死ぬと言われてきたが、自分で受けるとわかる。死が近い。でも、そこまで寂しくない。匂いも声も覚えてる。たまに姿も見える。近づくとフッって消えてしまうけど、それでも見れた。愛してるよ、私のオス。





ある日、畑を見ながらベンチに座っていると、後ろから忘れることすら出来ないあいつの匂いがした。他のメスの匂いが無いガロウだけの匂い。


「またか……」


今日は匂いが強い。


あとで感じなくなったとき、頭痛と吐き気で動けなくなるのに、たまに香るあいつの匂いを追うのは止められない。脳みそから気まぐれに垂れ流される匂いは、頭から子宮まで細かい電気が波のように走り抜けて行くようだ。


「ぁぁ……」


気持ちがいい。


「ガロウ……」


今日の匂いはいい。包まれているぐらいに強い。このまま死にたいな。温かな日差しとあいつの匂い。久しぶりに感じる天国の気配だった。


「なんだ」


声も聞こえた気がして、目を開けて上半身ごと振り返る。姿も見たい。


裏切られる希望なのに、わかっていても振り返る。そして、消えていくあいつを見守る。それがいつものやり方だった。


でも、その日、薄ぼやけてきた目に映ったのは、太陽を背負った本物のツガイ。


「……」


幻と思うには無理があった。


「俺がいるのがわかるのか」

「……さすがに、ね」


声の温かさも、身体から滲み出るフェロモンも、何よりも私の心が叫ぶ愛も、何もかもが違う。


愛してる愛してる愛してる。


「どうして……」

「ツガイを迎えに」

「知らなかったでしょ」

「知ってたさ」

「刺青あった」

「お前もな」

「……わかってるでしょ」

「わかんないな」


どうして来た。


「なんで逃げた」

「無理だから」

「何がだ」

「……」


一夫多妻が当然のお前に、私の心がわかってたまるか。


「ほっておいて欲しかった」

「無理だろ」

「なんでよ」


お前には他のメスがいるだろ。


「俺のメスだ」

「……そうだね」


それは間違えないよ。永遠にそう。


「帰るぞ」

「……うん」


心が痛いのは辛すぎて無理だ。まだ身体が痛いほうがいい。幻でもいいから、優しい私だけのガロウに抱かれて、ゆっくり逝きたかったけど、ツガイが呼ぶならしょうがない。身体だけになるけど一緒に行くよ。


ゆっくりと立ち上がり、ガロウに背を向けると家に入る。


居間を横切り、寝室へ。そのまま流れるように枕の下からナイフを取り出し心臓に突き立てた。目に映ったのは飛び散った血。でも痛くない。黒目を動かすと――ガロウの手の甲にナイフが刺さっていた。なぜ?


「なぜ死にたがる? 他のオスの匂いはしないのに」

「この状況でも質問するのはお前なの?」

「手など、どうでもいい。なぜ、嫌がるんだ」


やっと、それを聞いてくれたね、ガロウ。


「ツガイの望みは叶えようとしてる」

「ツガイとわかってるのに、なぜ死ぬ」


私はね、お前が大嫌いなんだよ、教会で他のメスの匂いを撒き散らしながら帰ってきたあの日から、ずっとな! 


「呼吸している必要があるの?」

「俺のそばにいろ」

「あはははっ!」


俺のそば――なんて幸せな響きだ。天国の鈴の音のようだ。そして、私はドアホだ。自分のオスがドブのような他のメスの匂いを纏うのに、それでも心臓を握りつぶすようなその匂いのそばに居たがる。何なら嗅ぎ続けることを望む、クソのような自分の自虐的本能に笑いが止まらない。


「お願いしたら、死んでいい?」

「お前の初めてのおねだりが死か? 泣けるな」

「そうか?」

「いいぞ。じゃあ、その代わりお前も俺を殺せ」







聞いたことがよくわからなかった。


この太々しいオスのどこに死ぬ思考が生まれるんだ? 聞き間違えか? それとも――私の願望か?


「……な、に……いって、る?」

「俺のメスが死ぬんだ。俺も一緒に行くのが当然だ」

「意味、わからない。メス、は、他にも、いるだろ」

「それこそ、意味がわからないな。お前以外のメス?」


何言ってるんだ? あんなに匂いを纏っておいて。今日、匂いがないからって誤魔化される訳がない。


「んん? メスなぞ、お前に会ってから触れたことも喋ったこともない」

「でも……匂いが……」


思考が纏まらない。


このオスは……ナニをイッテルんダ?


「あー。お前対策か」


ワタシ……?


「お前の匂いがヤバくてな。精通したら毎日襲いかかりそうで、メスの匂いを染み込ませた服を着てた」


しみこませ、る……。


「なんで……」

「ツガイの認識前に飛びかかって、お前に嫌われたら困るだろ」

「……ライオン種は?」

「あー、俺はハーレムは向かない。メスは臭すぎて鼻がおかしくなる。まぁ誤魔化すためには役立ったがな」

「酷い」

「あぁ、他のメスの匂いが嫌だったのか。狼種も大変だな」


その呆れたような溜息交じりの言い方に、言い返そうとあいつを見上げたら、幻のあいつはいつの間にか消えていて、久しぶりにはっきりと見える目には、銀色の髪をしたやつれたガロウが映った。あんなに厚みのあった身体は見る影も無い。


――どう、し、て。


私のオスが弱ってる。


死……の、匂いがする。


イヤだ、嫌……嫌!


生きているのを感じたくて、ガロウに手を伸ばせば、こいつは両手で私の手を握りしめ、自分の頬に押し付けてきた。


「お前の置いていった物を嗅いで、何とか生き延びてみれば、隣町にお前は居ない。なんなら町に入った跡もない。どういうことかわからずに、丸一日ギルドの前にぼんやり立ってたらな、ザャアが歩いてくるじゃないか。これを偶然というか?」


覗き込んできた目の色は、あんなに輝いていたのが嘘のように、枯れ葉色になっている。時折、目元が痙攣してるのがわかった。頬は……まだ温かい。でも、カサついて、肌の下に肉の柔らかさは全く感じられない。


「ザャアがな、俺に言うんだ。『成人の前に別れてるんだ。ほっといてやれ』とな。別れてる? 誰と誰が? 言ってる意味がわからなくてな。しっかりと、ザャアの身体に聞いてやったさ。まぁ回答が衝撃すぎて、ここに来る前にこのザマだがな」


死ぬ、のか?

ガロウ……私を、置いて逝くの?


そう、心が理解した瞬間、鼓動が跳ね上がり、身体が強張って震え始める。内臓が、吸い込んだ空気を糧に内側から腐っていくようだ。脳みそは、拳骨で殴られ続けた戦士のように、ただ『イヤダ』という言葉しか吐き出さなくなった。


これが……恐怖、か。


涙が滲み始めたころ、震えるもう一つの手が、何とか持ち上がった。私のオスを抱きしめたい。生きてるって感じたい!


思いが伝わったのか、ガロウは握りしめた手を引いて私を抱きしめてくる。ガチン。そんなような音が鳴ったとしても、おかしくないぐらい骨同士がマトモに当たる。


「なんか、お前、抱き心地悪くなったな。ごつごつしてて痛い」

「ん……」


ガロウ、お前もだ。


それでもツガイの匂いが腐臭を消していく。ガロウの温もりが肌から染み渡って少しずつ、恐怖に染まっていた脳みそが落ち着き、身体のコントロールが戻ってきたのを感じる。


ぼんやりしていた聴力も戻り始めた、と理解したのは、愛おしい私のオスの、軋むような囁きが耳に届いたときだった。


「俺のだろ? 別れてなんかないよな? 俺を捨てて……なんてないだろ? なぁ……」


掠れてほとんど聞き取れないような呟き。これは……こいつが、心に付いた傷に怯え泣いている音だ。


ドクン


もしかして、こいつも私が居ないと傷つくのか?


ドクン


あの日から聞こえなくなっていた鼓動が、人生で一番の音を立てて騒ぎ始める。


「私の……オス。私、だけ。……それで合ってる?」

「それ以外の事実なんて、ない」


涙が一つ、こぼれ落ちる。


本当は、辛すぎて死にたかった。毎日、ガロウを想っては今日の死を願っていた。


「会いたかった」

「俺もだ」

「声も聞きたかった」

「俺も、だ」

「匂いも……変わってないね」

「……お前もな」


啜り泣きになったガロウの相槌を聴きながら、ツガイの匂いに包まれていく。


私だけのオス。

私の匂いしか纏わない、私だけのツガイ。


一呼吸ごとに鼻から幸福を吸い込むと、脳みそが溶けるように喜んだ。


「愛してる、ガロウ」

「――ッ! 俺もだ! お前に会ってからずっと我慢してやったのに! 俺を置いて行きやがって!」


「俺のメス」と何度も繰り返し、そこら中にガロウのキスを受ける。


徐々に場所を変えて行くキスに、身体の奥底から湧き上がる泣けるぐらいの幸せに溺れていく。


そのまま、ベッドに二人で――沈み込んだ。




それからの毎日は昔と一緒だった。何処に行くのも二人で行く。違うのは寝る時も一緒ってことだけ。


見つめ合ったらキスを一つ。


手を繋いで居間に行ってソファに座ってキスを一つ。


パン一つを二人で食べる、一口千切ってはガロウの口へ。ガロウも一口分、ちょっと大きめのパンを私に食べさせる。これでキス二回。


数日後、二人で手を繋いで村の店に行く。パン屋でパンとハムを買った。繋いだ手は絶対に離さない。財布を開けるのはガロウ。お金を取り出すのは私。そして、家に帰ってからキスを三つ。


ガロウのキスは、不死鳥の涙のように。少しずつだが、死に近かったはずの私の血と肉を生き返らせていった。同じように、ガロウも血色が良くなっていく。


数カ月後、この頃には少しの間なら、手を離しても笑ってられるようになる。


この日は、数年ぶりに狩りをした。兎が取れた。二人で並んで下処理をして、手を繋いでベッドへ行く。キスは……身体中にたくさん、だった。


翌日の昼、久しぶりに食べた肉は――命の味がした。


それから少しずつ、二人で肉を食べ、お互いの温もりを分け与える。愛を囁き、お互いの匂いに包まれながら笑顔を増やしていく。こうして、ゆっくりと命を太らせていった。


二人の生命が元に戻るころには、再会してから実に季節が一回り経っていた。


真夜中、ベッドヘッドにもたれ掛かったガロウに、裸のまま、私も寄りかかる。


唯一戻らなかったのは髪の色だけ。ガロウは私の白髪にキスをしながら、しょうが無いとばかりに言い出した。


「なぁ、ソロソロ、家に挨拶しに行くか?」


ガロウの匂いに私の匂いが混じって一つになってる。こんな幸せの味しかない空間が好きだ。


「うん」


でも、心配してるパパとママにも顔を見せたい。


「俺の親にもな」

「うん」


愛してる愛してる愛してる愛してる。私だけのガロウ。


キスを一つ、私からする。


「その前に、ザャアに挨拶だよ」

「……チッ」


ヤキモチの音を聞いた気がして、今日一番の愛の味を噛みしめた。




それから数週間後、私たちは挨拶に行くことにした。ガロウの「どの町よりも大嫌いな町」にいるザャアにお礼を言うためだ。


お礼の桃を持ち玄関のドアを叩くと、返事と共に、秒でドアが閉まる。


――は!?

開いてもいないのに、閉まった!?


「ギャァァァ! 帰れ! 帰れぇぇぇ! ルータの居場所は伝えただろ! 俺んとこにもう来んな!」


ドアの前に立っていたガロウと目が合ったから?


「……何したのよ」

「嘘つくからだ」


ダメだ、こいつ。不貞腐れてやがる。


「ザャア、私、きたよ」

「ルータか!?」


ガバっと開いたドアから、ザャアが飛び出てきた。


「間に合わないかと思ったぞ! どこぞのクソライオンが、ちょっと覚悟を試したらヘタレやがって!」


会ってない期間は確か……一年と少し。何? 何で……?


まん丸の目、ぽってりした唇。ふっくら柔らかそうなピンク色の頬。可愛いザャアの顔に……余りにも似合わな過ぎる爪痕が二つもオデコに走ってた。


「ザャア……それ……」

「あー、これな。ヘタレたライオンが泣きながら引っ掻いてきてな」


何で!


「ルータの居場所を言わないからだ!」

「ルータがこの町に居ないとわかってから半日、フリーズしてたのはどこのヘタレライオンだ?」

「……考えてただけだ」

「ほぉ、ヘタレは考えるとき、泣きながら蹲るのか」

「なんだと!」

「ちょっと、やめてよ!」


そう言えばザャアは、何だかんだ、ガロウには厳しかったっけ。


「私のせいで、ごめんなさい」

「謝るのは、そのヘタレライオンだろ。まぁ、なかなかイケてる傷だから、許してやるがな」


ニヤケてるけど、その顔には似合わないと思うよ? まぁいいか、ザャアの顔だし。


「ありがとう。これね、お礼」

「おぉ、サンキュな。それと……おい、ガロウ。お前は家を壊すクセがあるからな、二度と俺んちに来んな。二度とだ! いいな!」


口元が緩んでいく。


こいつ、私を探してザャアに迷惑かけたんだ。家まで壊して。


笑っちゃいけないところだから、頬が痙攣ぐらいに力を入れて耐える。でも目は――ザャアのオデコの傷が、ガロウからの愛のプレゼントに見えて、見つめることを止められないでいた。


「二度とこないさ。……ルータ、傷は問題ない。だから、もう気にすんな」


見つめ過ぎたから、ガロウが怒ってる。ふふふっ。





それから――。


両親にも挨拶に行った。結婚式も挙げ、子供も三人産まれた。全部、ライオン種。


不思議に思ったライオン種の研究者たちが村までやってきた。そして、私がママにプレゼントしようと植えていた花の黄色だけが、刺青の効果を薄めることが判明。上手く調合出来れば、理性を残しつつ、ツガイを見つけることが出来るようになると、ライオン種にとっての明るいニュースになった。


でも――。

私にとっては、そんなことどうでもいい。


諦めから始まった『愛』だった。本能と戦いながら、いつ死ぬかを見定める人生でしかなかった。


それなのに。


今は、いつも私の匂いを纏ってるツガイが隣にいる。


『愛』を叫んでもいい。

『愛』を抱きしめてもいい。

『愛』を感じてもいい。

もう、少しだけの『愛』で満足しなくてもいい。



「ねぇ、ガロウ。最期よりもっと先も、一緒にいてくれる?」

「あぁ。当たり前だ」

「うん」


このオスは私だけのもの。


だから――どちらかの最期が来ても『一緒』に行っていい。だって「当たり前」だもんね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。