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断罪より先に、腹が鳴りました

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/19

 断罪より先に、腹が鳴った。


 王太子ジュリアンが、わたくしの罪状を読み上げるために大きく息を吸った、まさにその瞬間だった。


 ぐううううう。


 よく響いた。


 王宮の大広間は、演奏会にも使われるほど音響がよい。楽師の奏でる繊細な音色も、国王陛下のありがたいお言葉も、令嬢の腹の音も、等しく隅々まで届けてくれる。


 左右に並んだ貴族たちが、一斉にこちらを見た。


 ジュリアン殿下は、吸った息を吐くことも忘れている。


「……今のは、なんだ」


「わたくしのお腹ですわ」


「なぜ認める!」


「わたくしのお腹ですので」


 他人のお腹だと申し上げる方が、よほど問題ではないだろうか。


 聖女ミレーユ様が、気の毒そうに眉を下げた。


「オデット様、朝から何も召し上がっていないのですか?」


「朝食はいただきました」


「では、お昼は」


「王宮から呼び出しがございましたので、食べ損ねました」


「いまは夕刻ですけれど」


「ええ。ですから鳴りました」


 ぐう。


 今度は短かった。


 わたくしのお腹は、自分の仕事をよく理解している。


 何人かの令嬢が扇で口元を隠した。肩が小刻みに揺れている。笑いたいなら、素直に笑えばよろしいのに。


 ジュリアン殿下のこめかみに、青い筋が浮かんだ。


「オデット・ヴァレーヌ。君は、自分がどのような場に立っているのか分かっているのか」


「断罪される場だと伺っております」


「そうだ!」


「まだ断罪は始まっておりませんけれど」


「これから始めるのだ!」


「でしたら、どうぞ」


「君の腹が邪魔をしたのだろう!」


 わたくしに言われても困る。


 腹というものは、王太子殿下のご都合をうかがってから鳴るほど、礼儀正しくできてはいない。


 ミレーユ様が、おそるおそる手を挙げた。


「あのう」


「なんだ、ミレーユ」


「少しだけ、召し上がっていただいた方がよろしいのではないでしょうか」


「今からオデットを断罪するのだぞ」


「お腹が空いたままでは、お話に集中できないかもしれません」


「集中すべきは私の方だ!」


「殿下も何か召し上がりますか?」


「いらん!」


 ミレーユ様は残念そうな顔をしてから、腰に下げていた小さな袋を外した。


 中から出てきたのは、丸いパンだった。


 聖女がなぜ断罪会場へパンを持参しているのか。


 大広間にいる全員が同じ疑問を抱いたらしく、視線がパンへ集まった。


「いつも持ち歩いているのです」


 ミレーユ様は言った。


「お祈りが長引くことがありますので」


「聖女が携帯食を常備するのは、どうなのだ」


「神殿では普通です」


「初耳だが」


「殿下は神殿で働いたことがございませんから」


 ミレーユ様は、わたくしにパンを差し出した。


「少し硬くなっていますけれど」


「ありがとうございます」


「受け取るのか!」


 ジュリアン殿下が叫んだ。


「善意を無下にはできませんもの」


「今は断罪の最中だぞ!」


「まだ始まっていないと、先ほど確認いたしました」


「では、今から始める!」


「食べながら伺っても?」


「駄目に決まっているだろう!」


 それでは困った。


 わたくしはパンを手にしたまま、殿下を見つめた。殿下もわたくしを睨んでいる。


 しばらく見つめ合ったあと、ミレーユ様が遠慮がちに口を挟んだ。


「冷めるものではありませんし、先に断罪を済ませては」


「パンはもう冷めている」


「では、先にパンを」


「なぜ君までオデットの味方をする!」


「お腹が空いている方へ食べ物を差し上げただけです」


 ミレーユ様は、少し考えた。


「それは味方になるのでしょうか」


「知らん!」


 ついに、後ろの方から笑い声が漏れた。


 ジュリアン殿下が振り返ると、貴族たちは一斉に顔を伏せる。


 その隙に、わたくしはパンを一口かじった。


 表面は硬かったが、中はまだ柔らかい。小麦の素朴な甘みを噛みしめ、飲み込む。


 美味しい。


 ぐううううう。


 音が返ってきた。


 今度は、わたくしのお腹ではなかった。


 足元からだった。


 わたくしはパンを持ったまま、床を見た。


 大広間には、磨き上げられた白い石が敷き詰められている。継ぎ目にも汚れ一つなく、その下に空間があるようには見えない。


 ジュリアン殿下が眉をひそめた。


「また君か」


「いいえ」


「では誰だ」


「床ではないでしょうか」


「床の腹が鳴るものか!」


「わたくしも初めて聞きました」


 ミレーユ様も、わたくしの隣で床を見つめている。


「下に誰かいらっしゃるのでしょうか」


「大広間の下には何もない」


 答えたのは、ジュリアン殿下ではなかった。


 上座に座っていた王妃陛下だった。


 先ほどまで、わたくしたちのやり取りを苦々しい顔で見ていた王妃陛下が、背筋を伸ばしてこちらを見ている。


「古い基礎があるだけです」


「では、基礎のお腹が鳴ったのですね」


「ふざけるのはおやめなさい、オデット」


「わたくしは真面目です」


 もう一口、パンをかじる。


 硬い表面が歯の下で割れ、飲み込んだところで、床下から短く返ってきた。


 ぐう。


 わたくしは止まった。


 周囲も静まり返る。


 試すように、もう一度だけパンを噛んだ。


 床の下で、何かが動いた。


 ずる。


 石の裏側を、柔らかいものが擦ったような音だった。


 それは一か所からではなかった。


 わたくしの足元から始まり、石の継ぎ目を伝うように、ゆっくりと広間の端へ移っていく。目には何も見えないのに、床下を這う何かの位置だけが、音によってはっきりと分かった。


 ミレーユ様が、そっとわたくしの腕を掴んだ。


「オデット様」


「はい」


「食べるのを、おやめになった方が」


「そうですわね」


 そう答えたものの、腹はまだ空いている。


 手にしたパンをどうしようか迷っていると、年老いた侍従が銀盆を落とした。


 がしゃん、と大きな音が響く。


 全員が振り返った。


 侍従は顔を真っ白にして、床へ散らばった杯を見ている。落としたことよりも、床に触れさせてしまったことを恐れているようだった。


「申し訳、ございません」


 声が震えていた。


 王妃陛下が低く言った。


「下がりなさい」


「はい」


 侍従は杯を拾おうと腰を屈めた。


 その瞬間、床下から腹の音がした。


 ぐうううう。


 一つではなかった。


 ぐう。


 ぐううううう。


 ぐ、うう。


 長さも高さも違う音が、広間のあちこちから聞こえ始める。


 右から。


 左から。


 わたくしの足元から。


 王妃陛下の椅子の下から。


 数人が悲鳴を上げた。


 誰かが扉へ走ったが、衛兵に止められた。断罪の途中で退出を許すわけにはいかないらしい。


 まだ始まってもいないというのに、律儀なことである。


「静まれ!」


 ジュリアン殿下が叫んだ。


 床下の腹の音が、一斉に止まった。


 静寂が落ちる。


 殿下は少し安心したようだった。


「何かの仕掛けだ。オデット、君が用意したのだろう」


「わたくしはパンを用意しておりません」


「音の方だ!」


「床の下へ入ったこともございません」


「大広間の下には何もない!」


 王妃陛下が再び言った。


 今度は、叫ぶような声だった。


「何もありません。昔から、何も」


 誰も返事をしなかった。


 昔から。


 その言葉だけが、大広間の中に残った。


 若い貴族たちは王妃陛下を見た。しかし、年嵩の者たちは誰一人として顔を上げなかった。


 床を見る者もいない。


 驚いていないのではない。


 驚いたことを知られてはならない者の姿だった。


 ミレーユ様が、王妃陛下を見上げる。


「昔から、何もないことを、ご存じなのですか?」


 王妃陛下の唇が動いた。


 声は出なかった。


 床へ膝をついていた老侍従が、震える手で杯を拾う。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 拾うたび、銀と石が触れ合う音がした。


 四つ目の杯へ手を伸ばしたとき、床の下から女の声がした。


「まだ」


 かすかな声だった。


 誰かの聞き間違いだと言われれば、そう思えたかもしれない。


 けれど、老侍従の手が止まった。


 王妃陛下が、椅子の肘掛けを強く握った。


 ジュリアン殿下だけが、周囲を見回している。


「誰だ」


 返事はない。


「誰が隠れている!」


 衛兵たちが床を槍の柄で叩いた。


 ごん。


 ごん。


 ごん。


 床下から同じ回数だけ、叩き返された。


 こん。


 こん。


 こん。


 今度は、笑う者はいなかった。


「床を開けろ」


 ジュリアン殿下が命じた。


「なりません!」


 王妃陛下が立ち上がった。


 椅子が倒れ、重い音が響く。


 それを合図にしたように、床下の腹が一斉に鳴った。


 ぐううううう。


 ぐううう。


 ぐう。


 ぐううううううう。


 何十人いるのか分からない。


 何百人かもしれない。


 腹の音に混じって、爪で石を引っ掻くような音がする。


 かり。


 かり、かり。


 やがて、それは広間全体を覆った。


 音だけを聞けば、石一枚を隔てたすぐ下に、大勢の者が腹を空かせて横たわっているようだった。


 貴族たちは互いに身を寄せ合い、広間の中央から離れた。


 けれど、音は床のどこからでも聞こえた。


 逃げる先はない。


 わたくしは、手の中のパンを見た。


 まだ半分ほど残っている。


「オデット様」


 ミレーユ様が首を振った。


「落としてはなりません」


「ええ」


「絶対に」


「分かっております」


 わたくしはパンを握り直した。


 そのとき、ジュリアン殿下がこちらへ歩いてきた。


「それを寄越せ」


「パンをですか?」


「音が鳴り始めたのは、君がそれを食べてからだ」


「わたくしの夕食です」


「国家の安全とパンを比べるな!」


「空腹時には難しい判断ですわ」


「寄越せ!」


 殿下が、わたくしの手からパンを奪った。


 ミレーユ様が「あっ」と声を上げる。


 ジュリアン殿下はパンを高く掲げた。


「これが原因なら、処分すればよい!」


「殿下、お待ちください」


 王妃陛下の声だった。


 けれど、遅かった。


 ジュリアン殿下は、パンを床へ叩きつけた。


 硬いパンは二つに割れ、細かな欠片が白い石の上へ散った。


 かつん。


 一つの欠片が、石の継ぎ目へ落ちた。


 継ぎ目は髪の毛ほどの細さしかない。


 それなのに欠片は引っかからず、吸い込まれるように消えた。


 床下が静かになった。


 誰も動かず、誰も声を出さなかった。


 やがて、すぐ足元から小さな音がした。


 ぱり。


 パンをかじり、噛み、飲み込む音だった。


 別の場所からも聞こえる。


 また別の場所からも。


 広間の下いっぱいに、咀嚼音が広がっていく。


 見えない口が、落ちた一欠片を分け合っている。


 貴族の一人が吐いた。


 王妃陛下は立ったまま、目を閉じている。


 ジュリアン殿下は床へ落ちた残りのパンを見つめていた。


「これは、なんだ」


 誰も答えない。


「母上」


 王妃陛下は答えなかった。


「この下には、何があるのです」


「何もありません」


「では、今の音は」


「聞こえません」


 王妃陛下は、はっきりと言った。


「わたくしには、何も聞こえません」


 それが合図だった。


 年嵩の貴族たちが、一人、また一人と口を開いた。


「私にも、何も」


「古い建物ですからな」


「石が軋んだのでしょう」


「きっと、そうです」


 若い者たちは、青ざめた顔で彼らを見る。


 そのうちの一人が、隣に立つ父親の袖を掴んだ。父親は息子の手を振り払い、黙っていろというように睨みつける。


 否定の言葉だけが、教えられた祈りのように繰り返された。


 床下では、まだ咀嚼が続いている。


 何も聞こえないと言い張るには、あまりに大きな音だった。


 わたくしは王妃陛下を見た。


「昔、この宮では、いなくなった方を、探さないことにしていたのですね」


 王妃陛下の瞼が震えた。


「誰から聞いたのです」


「誰からも」


「では、なぜ」


「皆様が、あまりに上手に聞こえないふりをなさるから」


 床下の咀嚼音が止まった。


 今度は、喉を鳴らす音がした。


 ごくり。


 ごくり。


 ごくり。


 長い時間、何も口にしていなかったものが、ようやく飲み込んだような音だった。


 老侍従が、その場へ額をつけた。


「申し訳、ございません」


 誰に向けた謝罪なのかは、分からなかった。


 床の下から、女の声がした。


「たりない」


 今度は、全員にはっきり聞こえた。


 貴族たちが扉へ殺到した。


 衛兵も止めなかった。


 誰もが押し合い、叫び、転び、礼儀も身分も忘れて逃げていく。


 王妃陛下も侍女に支えられ、大広間を出た。


 老侍従は床へ伏したまま動かない。


 ミレーユ様は、わたくしの腕を掴んで離さなかった。


 そしてジュリアン殿下だけが、床の中央に立ち尽くしていた。


「オデット」


「はい」


「君は知っていたのか」


「何をでしょう」


「これが起こることを」


「いいえ」


 本当に知らなかった。


 ただ、昼食を食べ損ねただけだ。


「では、なぜ平然としている」


「お腹が空いておりますので」


「まだ言うのか!」


 ぐううううう。


 また腹が鳴った。


 今度こそ、わたくしではない。


 ジュリアン殿下の腹からだった。


 殿下は、自分の腹へ手を当てた。


「違う」


 顔から血の気が引いていく。


「今のは、私ではない」


 ぐう。


 腹の奥から、もう一度鳴った。


 その直後。


 かり。


 殿下の礼服の内側で、何かが布を引っ掻いた。


 かり、かり。


 殿下が両手で腹を押さえる。


「何だ」


 指の下で、服が内側から小さく盛り上がった。


「何がいる」


 わたくしにも分からない。


 分からないまま、殿下の腹の中から女の声がした。


「いただきます」


 ジュリアン殿下の口が開いた。


 けれど、悲鳴が出るより先に。


 腹が鳴った。

いつぞやの夜勤で、明け方に盛大にお腹が鳴った日があります。


その日は夜食を忘れ、ポテトチップスひと袋で一晩を過ごした日でした。


明け方にはすっかり腹が減り、朝食介助の時間になる頃には、ミキサー食ですらいい匂いに思えてくる始末。


利用者様の食事を前にして、


「美味しそうだな」


と思ったところで、さすがに自分でも少し危ないなと思いました。


静かな時間帯ほど、腹の音というものはよく響きます。


そのときはただ「腹減ったなあ」で終わったのですが、夏のホラー2026のテーマが「音」と知り、


「断罪より先に腹が鳴ったら、だいぶ締まらないな」


と思ったところから、この話ができました。



なお、ポテトチップスひと袋は、夕食にも夜食にも朝食にもなりません。


夜勤へ行く際は、食べ物を忘れないようにしましょう。

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