断罪より先に、腹が鳴りました
断罪より先に、腹が鳴った。
王太子ジュリアンが、わたくしの罪状を読み上げるために大きく息を吸った、まさにその瞬間だった。
ぐううううう。
よく響いた。
王宮の大広間は、演奏会にも使われるほど音響がよい。楽師の奏でる繊細な音色も、国王陛下のありがたいお言葉も、令嬢の腹の音も、等しく隅々まで届けてくれる。
左右に並んだ貴族たちが、一斉にこちらを見た。
ジュリアン殿下は、吸った息を吐くことも忘れている。
「……今のは、なんだ」
「わたくしのお腹ですわ」
「なぜ認める!」
「わたくしのお腹ですので」
他人のお腹だと申し上げる方が、よほど問題ではないだろうか。
聖女ミレーユ様が、気の毒そうに眉を下げた。
「オデット様、朝から何も召し上がっていないのですか?」
「朝食はいただきました」
「では、お昼は」
「王宮から呼び出しがございましたので、食べ損ねました」
「いまは夕刻ですけれど」
「ええ。ですから鳴りました」
ぐう。
今度は短かった。
わたくしのお腹は、自分の仕事をよく理解している。
何人かの令嬢が扇で口元を隠した。肩が小刻みに揺れている。笑いたいなら、素直に笑えばよろしいのに。
ジュリアン殿下のこめかみに、青い筋が浮かんだ。
「オデット・ヴァレーヌ。君は、自分がどのような場に立っているのか分かっているのか」
「断罪される場だと伺っております」
「そうだ!」
「まだ断罪は始まっておりませんけれど」
「これから始めるのだ!」
「でしたら、どうぞ」
「君の腹が邪魔をしたのだろう!」
わたくしに言われても困る。
腹というものは、王太子殿下のご都合をうかがってから鳴るほど、礼儀正しくできてはいない。
ミレーユ様が、おそるおそる手を挙げた。
「あのう」
「なんだ、ミレーユ」
「少しだけ、召し上がっていただいた方がよろしいのではないでしょうか」
「今からオデットを断罪するのだぞ」
「お腹が空いたままでは、お話に集中できないかもしれません」
「集中すべきは私の方だ!」
「殿下も何か召し上がりますか?」
「いらん!」
ミレーユ様は残念そうな顔をしてから、腰に下げていた小さな袋を外した。
中から出てきたのは、丸いパンだった。
聖女がなぜ断罪会場へパンを持参しているのか。
大広間にいる全員が同じ疑問を抱いたらしく、視線がパンへ集まった。
「いつも持ち歩いているのです」
ミレーユ様は言った。
「お祈りが長引くことがありますので」
「聖女が携帯食を常備するのは、どうなのだ」
「神殿では普通です」
「初耳だが」
「殿下は神殿で働いたことがございませんから」
ミレーユ様は、わたくしにパンを差し出した。
「少し硬くなっていますけれど」
「ありがとうございます」
「受け取るのか!」
ジュリアン殿下が叫んだ。
「善意を無下にはできませんもの」
「今は断罪の最中だぞ!」
「まだ始まっていないと、先ほど確認いたしました」
「では、今から始める!」
「食べながら伺っても?」
「駄目に決まっているだろう!」
それでは困った。
わたくしはパンを手にしたまま、殿下を見つめた。殿下もわたくしを睨んでいる。
しばらく見つめ合ったあと、ミレーユ様が遠慮がちに口を挟んだ。
「冷めるものではありませんし、先に断罪を済ませては」
「パンはもう冷めている」
「では、先にパンを」
「なぜ君までオデットの味方をする!」
「お腹が空いている方へ食べ物を差し上げただけです」
ミレーユ様は、少し考えた。
「それは味方になるのでしょうか」
「知らん!」
ついに、後ろの方から笑い声が漏れた。
ジュリアン殿下が振り返ると、貴族たちは一斉に顔を伏せる。
その隙に、わたくしはパンを一口かじった。
表面は硬かったが、中はまだ柔らかい。小麦の素朴な甘みを噛みしめ、飲み込む。
美味しい。
ぐううううう。
音が返ってきた。
今度は、わたくしのお腹ではなかった。
足元からだった。
わたくしはパンを持ったまま、床を見た。
大広間には、磨き上げられた白い石が敷き詰められている。継ぎ目にも汚れ一つなく、その下に空間があるようには見えない。
ジュリアン殿下が眉をひそめた。
「また君か」
「いいえ」
「では誰だ」
「床ではないでしょうか」
「床の腹が鳴るものか!」
「わたくしも初めて聞きました」
ミレーユ様も、わたくしの隣で床を見つめている。
「下に誰かいらっしゃるのでしょうか」
「大広間の下には何もない」
答えたのは、ジュリアン殿下ではなかった。
上座に座っていた王妃陛下だった。
先ほどまで、わたくしたちのやり取りを苦々しい顔で見ていた王妃陛下が、背筋を伸ばしてこちらを見ている。
「古い基礎があるだけです」
「では、基礎のお腹が鳴ったのですね」
「ふざけるのはおやめなさい、オデット」
「わたくしは真面目です」
もう一口、パンをかじる。
硬い表面が歯の下で割れ、飲み込んだところで、床下から短く返ってきた。
ぐう。
わたくしは止まった。
周囲も静まり返る。
試すように、もう一度だけパンを噛んだ。
床の下で、何かが動いた。
ずる。
石の裏側を、柔らかいものが擦ったような音だった。
それは一か所からではなかった。
わたくしの足元から始まり、石の継ぎ目を伝うように、ゆっくりと広間の端へ移っていく。目には何も見えないのに、床下を這う何かの位置だけが、音によってはっきりと分かった。
ミレーユ様が、そっとわたくしの腕を掴んだ。
「オデット様」
「はい」
「食べるのを、おやめになった方が」
「そうですわね」
そう答えたものの、腹はまだ空いている。
手にしたパンをどうしようか迷っていると、年老いた侍従が銀盆を落とした。
がしゃん、と大きな音が響く。
全員が振り返った。
侍従は顔を真っ白にして、床へ散らばった杯を見ている。落としたことよりも、床に触れさせてしまったことを恐れているようだった。
「申し訳、ございません」
声が震えていた。
王妃陛下が低く言った。
「下がりなさい」
「はい」
侍従は杯を拾おうと腰を屈めた。
その瞬間、床下から腹の音がした。
ぐうううう。
一つではなかった。
ぐう。
ぐううううう。
ぐ、うう。
長さも高さも違う音が、広間のあちこちから聞こえ始める。
右から。
左から。
わたくしの足元から。
王妃陛下の椅子の下から。
数人が悲鳴を上げた。
誰かが扉へ走ったが、衛兵に止められた。断罪の途中で退出を許すわけにはいかないらしい。
まだ始まってもいないというのに、律儀なことである。
「静まれ!」
ジュリアン殿下が叫んだ。
床下の腹の音が、一斉に止まった。
静寂が落ちる。
殿下は少し安心したようだった。
「何かの仕掛けだ。オデット、君が用意したのだろう」
「わたくしはパンを用意しておりません」
「音の方だ!」
「床の下へ入ったこともございません」
「大広間の下には何もない!」
王妃陛下が再び言った。
今度は、叫ぶような声だった。
「何もありません。昔から、何も」
誰も返事をしなかった。
昔から。
その言葉だけが、大広間の中に残った。
若い貴族たちは王妃陛下を見た。しかし、年嵩の者たちは誰一人として顔を上げなかった。
床を見る者もいない。
驚いていないのではない。
驚いたことを知られてはならない者の姿だった。
ミレーユ様が、王妃陛下を見上げる。
「昔から、何もないことを、ご存じなのですか?」
王妃陛下の唇が動いた。
声は出なかった。
床へ膝をついていた老侍従が、震える手で杯を拾う。
一つ。
二つ。
三つ。
拾うたび、銀と石が触れ合う音がした。
四つ目の杯へ手を伸ばしたとき、床の下から女の声がした。
「まだ」
かすかな声だった。
誰かの聞き間違いだと言われれば、そう思えたかもしれない。
けれど、老侍従の手が止まった。
王妃陛下が、椅子の肘掛けを強く握った。
ジュリアン殿下だけが、周囲を見回している。
「誰だ」
返事はない。
「誰が隠れている!」
衛兵たちが床を槍の柄で叩いた。
ごん。
ごん。
ごん。
床下から同じ回数だけ、叩き返された。
こん。
こん。
こん。
今度は、笑う者はいなかった。
「床を開けろ」
ジュリアン殿下が命じた。
「なりません!」
王妃陛下が立ち上がった。
椅子が倒れ、重い音が響く。
それを合図にしたように、床下の腹が一斉に鳴った。
ぐううううう。
ぐううう。
ぐう。
ぐううううううう。
何十人いるのか分からない。
何百人かもしれない。
腹の音に混じって、爪で石を引っ掻くような音がする。
かり。
かり、かり。
やがて、それは広間全体を覆った。
音だけを聞けば、石一枚を隔てたすぐ下に、大勢の者が腹を空かせて横たわっているようだった。
貴族たちは互いに身を寄せ合い、広間の中央から離れた。
けれど、音は床のどこからでも聞こえた。
逃げる先はない。
わたくしは、手の中のパンを見た。
まだ半分ほど残っている。
「オデット様」
ミレーユ様が首を振った。
「落としてはなりません」
「ええ」
「絶対に」
「分かっております」
わたくしはパンを握り直した。
そのとき、ジュリアン殿下がこちらへ歩いてきた。
「それを寄越せ」
「パンをですか?」
「音が鳴り始めたのは、君がそれを食べてからだ」
「わたくしの夕食です」
「国家の安全とパンを比べるな!」
「空腹時には難しい判断ですわ」
「寄越せ!」
殿下が、わたくしの手からパンを奪った。
ミレーユ様が「あっ」と声を上げる。
ジュリアン殿下はパンを高く掲げた。
「これが原因なら、処分すればよい!」
「殿下、お待ちください」
王妃陛下の声だった。
けれど、遅かった。
ジュリアン殿下は、パンを床へ叩きつけた。
硬いパンは二つに割れ、細かな欠片が白い石の上へ散った。
かつん。
一つの欠片が、石の継ぎ目へ落ちた。
継ぎ目は髪の毛ほどの細さしかない。
それなのに欠片は引っかからず、吸い込まれるように消えた。
床下が静かになった。
誰も動かず、誰も声を出さなかった。
やがて、すぐ足元から小さな音がした。
ぱり。
パンをかじり、噛み、飲み込む音だった。
別の場所からも聞こえる。
また別の場所からも。
広間の下いっぱいに、咀嚼音が広がっていく。
見えない口が、落ちた一欠片を分け合っている。
貴族の一人が吐いた。
王妃陛下は立ったまま、目を閉じている。
ジュリアン殿下は床へ落ちた残りのパンを見つめていた。
「これは、なんだ」
誰も答えない。
「母上」
王妃陛下は答えなかった。
「この下には、何があるのです」
「何もありません」
「では、今の音は」
「聞こえません」
王妃陛下は、はっきりと言った。
「わたくしには、何も聞こえません」
それが合図だった。
年嵩の貴族たちが、一人、また一人と口を開いた。
「私にも、何も」
「古い建物ですからな」
「石が軋んだのでしょう」
「きっと、そうです」
若い者たちは、青ざめた顔で彼らを見る。
そのうちの一人が、隣に立つ父親の袖を掴んだ。父親は息子の手を振り払い、黙っていろというように睨みつける。
否定の言葉だけが、教えられた祈りのように繰り返された。
床下では、まだ咀嚼が続いている。
何も聞こえないと言い張るには、あまりに大きな音だった。
わたくしは王妃陛下を見た。
「昔、この宮では、いなくなった方を、探さないことにしていたのですね」
王妃陛下の瞼が震えた。
「誰から聞いたのです」
「誰からも」
「では、なぜ」
「皆様が、あまりに上手に聞こえないふりをなさるから」
床下の咀嚼音が止まった。
今度は、喉を鳴らす音がした。
ごくり。
ごくり。
ごくり。
長い時間、何も口にしていなかったものが、ようやく飲み込んだような音だった。
老侍従が、その場へ額をつけた。
「申し訳、ございません」
誰に向けた謝罪なのかは、分からなかった。
床の下から、女の声がした。
「たりない」
今度は、全員にはっきり聞こえた。
貴族たちが扉へ殺到した。
衛兵も止めなかった。
誰もが押し合い、叫び、転び、礼儀も身分も忘れて逃げていく。
王妃陛下も侍女に支えられ、大広間を出た。
老侍従は床へ伏したまま動かない。
ミレーユ様は、わたくしの腕を掴んで離さなかった。
そしてジュリアン殿下だけが、床の中央に立ち尽くしていた。
「オデット」
「はい」
「君は知っていたのか」
「何をでしょう」
「これが起こることを」
「いいえ」
本当に知らなかった。
ただ、昼食を食べ損ねただけだ。
「では、なぜ平然としている」
「お腹が空いておりますので」
「まだ言うのか!」
ぐううううう。
また腹が鳴った。
今度こそ、わたくしではない。
ジュリアン殿下の腹からだった。
殿下は、自分の腹へ手を当てた。
「違う」
顔から血の気が引いていく。
「今のは、私ではない」
ぐう。
腹の奥から、もう一度鳴った。
その直後。
かり。
殿下の礼服の内側で、何かが布を引っ掻いた。
かり、かり。
殿下が両手で腹を押さえる。
「何だ」
指の下で、服が内側から小さく盛り上がった。
「何がいる」
わたくしにも分からない。
分からないまま、殿下の腹の中から女の声がした。
「いただきます」
ジュリアン殿下の口が開いた。
けれど、悲鳴が出るより先に。
腹が鳴った。
いつぞやの夜勤で、明け方に盛大にお腹が鳴った日があります。
その日は夜食を忘れ、ポテトチップスひと袋で一晩を過ごした日でした。
明け方にはすっかり腹が減り、朝食介助の時間になる頃には、ミキサー食ですらいい匂いに思えてくる始末。
利用者様の食事を前にして、
「美味しそうだな」
と思ったところで、さすがに自分でも少し危ないなと思いました。
静かな時間帯ほど、腹の音というものはよく響きます。
そのときはただ「腹減ったなあ」で終わったのですが、夏のホラー2026のテーマが「音」と知り、
「断罪より先に腹が鳴ったら、だいぶ締まらないな」
と思ったところから、この話ができました。
なお、ポテトチップスひと袋は、夕食にも夜食にも朝食にもなりません。
夜勤へ行く際は、食べ物を忘れないようにしましょう。




