重なる影
「フェイ、俺にできることは何でもしてやるよ。愛するお前のためならな」
嗚咽する私の背中を優しく摩るのは、フェイであったときに仕えていた主人――ルシアン王子だ。雪原が陽に照らされ煌めいているような銀の髪。王族を象徴する深紅の瞳は私を憐れみ、潤んでいる。眉間に皺を寄せて、まるで自分事のようにつらそうな顔をする王子は私に気があるらしい。
愛する家族の死を聞かされた私は、絶望の淵に立っていた。仕事も手に着かず、胸が茨に締め付けられたようにチクチクと痛む。
孤独の回避と家庭の崩壊を防ごうと必死に藻掻いていたのに、それが空回りして結局大切な妹と家族と故郷を失った。妹のためにこの城に出稼ぎにきたのに、私はそれを知らないで一年この城という鳥籠の中でのうのうと過ごしていたのだと思うと吐き気がこみ上げてくる。
「一年前、王子にできたことが一つだけあります。私を解雇すること、ただ一つです」
目の周りを真っ赤に腫らし、掠れた声は生きることを諦めたかのようだった。いや、実際妹が死んだ時点でこの世界で生きている意味はないのだ。
このエルディナス王国では、城に従事すると決まった時から死ぬまでここから出ることができない決まりなのだ。出るためには解雇されるか、死ぬかの二択。
「貴方の私情でやめることを許されず、私の家族は死んだのですよ?」
「わかっている。仕方のないことなんだ」
「仕方がないで私の家族が死んだのですか?仕方のない理由はなんですか?濁してばかりいないではっきりと仰ってください」
深紅の瞳が曇る。目を伏す癖は、どうしても言えない何かを飲み込んだ時に現れる。
平民から庭師としてこの城に従事し、王子直々の推薦でルシアンの側仕えになった。この国の王太子になったルシアンに仕えることは名誉ある事で誇らしいと友人は言っていたけど、私からすれば好きだった仕事を奪われたようなものだった。
「もう寝るぞ。明日もいつも通り働かなければならないんだ」
ルシアンに脇を抱えられ、猫のように寝台まで運ばれる。力の抜けきった私の四肢は動かされるたびに振り子のように揺れる。茶色の髪もぼさぼさのまま、寝台に寝かされた。夜の静けさを背後に置いて、まるで子どもに接するように布団をそっとかける。
「いい夢――!!」
ルシアンの首を引き寄せながら自身の体を翻し、ルシアンを寝台に押し倒す。
爽やかな風が肌を撫でて少しくすぐったい初夏。開け放たれた大窓から月光が差し込み、質素な部屋の寝台に二人の影を映し出す。
「フェイ。……死んだ人は帰ってこないよ」
ルシアンは私の唇を親指で触れながら、頬に手を当てる。
「殿下、私は大切な物を芯に生きているんです。それがなくなれば生きる意味がありません」
麗しい王子に馬乗りになると、殿下の腰に携えていた剣の鞘は無防備に曝されている。
そっと剣の持ち手に触れ素早く鞘から剣を引き抜き首元へ、一思い死ねるように近づける。
首筋まであと少しというところに剣が置かれているが、行かせまいと殿下が剣身をぎゅっと握っている。殿下の手に剣身が食い込み血が流れている。
彼の美しい顔は動揺に満ち溢れ、深紅の瞳月夜に照らされ震えているのがわかる。
「潔く妹と同じ場所へ行かせてください。私はもう乱されることのない平穏な世界へ行きたいだけなのです」
どうしても耐えられない。独りぼっちで生きて行くことが、誰とも繋がれていないように感じてしまって……。今度は一人で死なないようにと思って頑張ってきたのに。頼れる人も、同じ世界に生きている愛する人もいなくなってしまった。
私より大きな体格に大きな手。筋骨隆々な彼なら私から剣を奪うのは容易いはず。そうしないのは、私に対する罪悪感からだろう。
王子が口を小さく動かした。申し訳なさそうな声で呟く。
「すまなかった……フェイ」
「王になるお方が、平民の側仕えに謝罪とは……。罪滅ぼしのおつもりですか?」
「それでも……、お前が生きようとしてくれたらそれだけでいい」
「あなたは、私の生きる理由には取るに足りません。ですから殿下、その手を離してください」
ギュッと剣の持ち手に力を込めて首の方へと引っ張る。殿下の顔が苦痛に歪むが、妹――サラの痛みに比べれば軽いもの。
その痛みが、殿下に対する私なりの復讐に近いのかもしれない。
でも、このままでは私の腕の体力だけが奪われて死ねない。
「……わかりました殿下。その手を離してくだされば、愛する私の願い事、叶えてくれるとお約束ください」
殿下の顔がパッと明るくなった。そこまでさせる理由が私にはあったのかは謎だが、殿下の手から剣身が離れた。
「フェイ!!!!」
音もなく研ぎ澄まされた剣身は、私の首を滑らかに滑った。
目を見開いた殿下の顔、白いシーツに飛び散る鮮血、冷たく深い海の底へ落ちて行く感覚。殿下の声が遠のいていく。
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薄暗い廊下を歩きながら自然と零れる涙を拭い、悟られないように口を紡いだ。
「アルメリア、泣かないで」
ラーレンスの青い瞳が苦しそうに細まる。
その表情がルシアンに重なって見えてしまう。ルシアンの生き写しと言っても過言ではないほどに似ていて、いつも心をざわつかせて私の平穏を邪魔する。
ラーレンスの後ろで真っすぐに伸びる暗い廊下が、まるで私の生きてきた人生を表しているみたいだった。
「大丈夫、なんでもない。目にゴミが入っただけ」
「両目にゴミが入るなんておかしいよ。なにか悩んでいるんでしょ?俺に話してよ」
過去の自分たちを鳥籠の中に閉じ込めて、新たな人間アルメリアとして生きようと決めたの。だからその鎖を切って、棄子とフェイだったころの私を今回解放することはできない。
「両目にゴミが入ることだってあります。殿下の周りは随分と清潔なんですね」
ラーレンスに背を向けて、嘲笑するように可愛げなく呟いた。
「……アルメリアは俺のこと頼りないと思ってるの?」
そんな話をしていたつもりはない。
飛躍した話に首を傾げつつ、頼りないと言えば私から離れてくれるのではと思った。
「頼りないに決まってるでしょ」
振り向けはしなかった。
ラーレンスがどんな顔をしていたかなんてわからない。けど、悲しんでいなければいいなって願ってしまった。
「わかった。頼りにしてもらえるように頑張る」
ラーレンスの声は震えていた。怒りか、それとも悲しみか。
廊下を走る音が段々と小さくなる。多分ラーレンスが走っていった音だ。
振り向いてみようと少し動くと身体が一気に冷気に包まれ、足元に白い綺麗な外套が落ちる。
「あ、外套」
返すのを忘れてしまった。まぁ、どうせ明日も来るだろうしその時に返せばいいか。それに別れの挨拶もしないなんて今日の主役に失礼よ。
外套を拾い上げて自身を覆うように肩に掛けなおす。金木製の甘い香りに包まれながら、月光が影を落とす廊下を一人で歩く。
部屋に入ってもリリーの姿はなく、着替えようにも自分だけでは脱げないので椅子に無造作に座って来訪を待った。
月は明るいけど冷たく私を見下ろすだけで、手を差し伸べてくれはしない。太陽に照らされて満足するだけの月。まるで私みたい。
助けて、一人は怖いよ、なんて口が裂けても言えない。誰かの愛にすがって生きていくしかない私は、一生フェイという鎖を解けやしない。
「ラーレンスはまだ私以外を知らないだけ……」
そう、ラーレンスが大きくなったら、私以外の女性を好きになるかもしれない。大人になっても花のように柔らかく笑う女性が好みになるかもしれない。愛想のない私から離れるに決まっている。
なら自分が変われば?なんて言われるかもしれないけど、変わるためにどうすればいいかわからない。
椅子に足を乗せて膝を抱える。行儀悪く膝に顎を乗せて憂う。
ドタドタと誰が走る音が廊下から聞こえる。
その瞬間、扉が勢いよく開いたと思ったらリリーが勢いよく抱き着いてきた。私を包み込むリリーは安心したようで、キツく私を抱きしめた。私は背中に手を回した。
私の肩に顔を埋めるリリーは息が上がっているのか、背中が大きく膨らむ。
「アルメリア様、心配しました……」
「どうしたの。そんなに慌てて」
リリーの頭を撫でながら聞く。
「あ、そうだ!旦那様が……!」
リリーがバッと顔を肩から離し困惑した表情で告げた。
「え!?」