雪の日の記憶
はらはらと降ってきた雪に紛れ、アディオールは人影を見た気がした。
…雪の日の聖人。
それは、おとぎ話のようなうわさだった。
雪が降る特別に寒い日に、子どもが寒さと空腹に震えていると、大きな篭を持った白い服の男がどこからともなくやって来るそうだ。
大きな篭の中にはたくさんのお菓子が入っていて、男は子どもたちに無償で配ってまわる。
そのお菓子は、どれもほっぺたが落ちそうになるくらい美味しくて、食べた子供たちはたちまち魅了され、それまでの空腹や寒さをすっかり忘れてしまうとか。
…怪しすぎる。
つまりは、人身売買のために貧しい子供たちを手懐けているのだろう。
美味しいお菓子で腹を空かせた子供たちを集めて警戒心を解き、その後で売ろうとしているのではないか。
うわさの報告を受けた教会はそう考え、雪の日に怪しい人物を見かけたら注意するようにと、アディオールを含む教会の関係者たちに通達を出していた。
そしてまさしく今、アディオールはこんな、よっぽどの用事が無いと出ないような雪の降る日に、ふらふらと路地裏を歩いている人物を見つけてしまった。
この道の先は、貧民街。
貧しい子供や家の無い子供が、寒さを凌ぐためにうろうろしていることもある。
「…こんにちは」
大きな篭を片手に下げた大柄な人物に、アディオールは後ろから声をかけた。
きれいな真白い布がかけられた篭だ。
近づいただけで、ふわりと砂糖とバターのいい香りがした。
中身は上質な菓子で間違いないだろう。
「はい?」
アディオールに声をかけられ、白髪交じりのがっしりした体型の男はいぶかしげに振り返った。
それなりに仕立の良いコートの下は、料理人が着るような作業服とエプロン。
だいぶ使いこんでいるようでシミはできてはいるが、洗濯された清潔な白い服だ。
「…おや。教会の方ですか? どうしましたか?」
貧民街に続く路地裏。
そんなところで声をかけられ、物取りとでも思われたのだろう。
警戒したように振り返ったが、男はアディオールのローブを見て警戒心を解いたようだ。
「いえ、道に迷われたのかと思いまして」
男の作業服とエプロンを見る。
そこには、大通りに店を構える人気の菓子店の名前が刺繍してあった。
…後で確認しなくてはならないが、だが、変装ではないな。本当に、菓子職人だろう。
エプロンの使い込み具合から見ても、誘拐犯が変装したとは考えにくい。
「いえ、道に迷ったわけでは…」
男は、困った様な顔をして頭をかいた。
それは、この状況をどうごまかすか、考えている顔だ。
菓子の配達をするふりをして、愛人の家に行く、とかだったのか?
しかし、店の名前が入ったエプロンのままなのが気になる。
「…ははっ。そうですね。こんなところにいたら、怪しすぎますか…」
誤魔化しが効かないと覚悟を決めたのか、男はくしゃりと顔を歪めた。
「あぁ、神父様。これも、きっとお導きでしょう。私の罪を聞いてくださいますか」
そう言うと、男は祈るように手を合わせた。
近くに公園がありますから、と男の誘導で小さな公園に向かう。
古びたベンチに積もった雪を払って、二人並んで座った。
篭を大事そうに抱え、男はゆっくりと話し始めた。
「…もう十年以上前になりますね。…私は、店を出しました。長いこと他の店で働いて学んで、やっとの思いで独立して持てた自分の店です」
男は愛おしげに自分のエプロンに刻まれた店の刺繍を見た。
「銀行で金を借りて、場所を借り、内装もこだわって。もちろん、商品である菓子は試作を重ねた上で出来た自慢の一品です」
誇りに満ちた顔だった。
「宣伝をして、売り方を工夫して。緊張と期待。私の作ったものは、この街で通用するのか? みんなに喜んで貰えるのか? そんな気持ちで向かえた初日は完売で、大成功に終わりました。従業員や妻と抱き締め合って喜びを分かち合いました。次の日もその次の日も。これはいけると、手応えを感じたとき…」
雪は止み、凍るような冷たい風が、アディオールの亜麻色の髪を揺らした。
「私の目の前で、一人の子どもが私の菓子を盗んだのです」
当時のことを思い出しているのだろう。
男の目は遠くを見つめていた。
「たった一つごときで。そう思うかもしれませんが、その一つは、銀行に借りた金を返すための売り上げになるはずで、翌日、売るための商品を作る材料費で、頑張ってくれた従業員の給料で。生まれたばかりの娘を育てる妻の朝食代になるはずのものだ。なぜ私たちから、幸せを奪うような酷いことをするんだ。この泥棒め!」
早口で捲し立てると、男は一つ息を吐いた。
「私は頭がかっとなって、逃げようとするその子どもを追いかけました」
男は、続けた。
「すぐに子どもを捕まえて、逃げられないようにしっかりと腕を掴みました。私は何も悪いことはしていない。ただの哀れな被害者で、この子どもに悪いことをしたと分からせなくては。そう考えた瞬間、叫んでいました。この泥棒め。腕を折ってやる! …と。…あぁ、なんてことを」
男は震えたようなため息を吐いた。
顔を覆った手は、小さく震えていた。
「…それで、どうしたのですか?」
続きを促すと、少しして男は続けた。
「…折っていたと思います。運良く、従業員が私を呼びに来なかったら」
なんでも、そのとき大口の依頼が舞い込んだのだとか。
「私は、従業員と大慌てで店に戻りました。子どもも、子どもが盗った菓子も、その後どうなったかは知りません」
あんなに怒っていたくせに、その菓子の行方すらも見ていなかったのです。
男は自嘲したように言った。
「その大口の依頼のお陰で店はさらに繁盛しました。有名店となり、店は安泰。…もちろん、手抜きは一切せず、真面目に働きました」
男のエプロンの刺繍が本物なら、それは真実だろう。
アディオールも何度かその菓子を口にしたことがある。
貴族御用達の有名店だ。
「そんなことがあったことも忘れていた、数年後のことです。娘が、病にかかりました。…すぐに高名な医者を手配して、薬を飲んで安静にしていれば大丈夫だと言われましたが、心配で心配で」
熱でうなされている娘のベッドの横に座っていると、不意に手を握られたと言う。
「…お父様。そう言う娘の手がね。とても熱かったんです」
「それは、熱があるからでしょう」
「えぇ。そのとき、不意にあの、私の菓子を盗んだ子どものことを思い出しました」
「…?」
娘と同い年くらいだったとか?
不思議に思っていると、男は自分の手を見た。
「あのとき掴んだ子どもの腕も、熱かったんです。服越しでも分かるくらいに。きっと、あの時の娘以上に高い熱があった」
「…」
「良く考えれば分かることです。すばしっこい子どもを、私が簡単に捕まえられた理由。…あの子どもは、病にかかっていた」
雪がまた、降り始めた。
「薄汚れてとても細かったから、きっと貧民街の子どもでしょう。頼れる大人もおらず、具合が悪いなか、食料を求めた。…それなのに、私は…」
一人の男の泣く声がした。
でも、こんな寒い日に外に出るものはいない。
アディオール以外、この男の涙を知るものはいないだろう。
「…雪の日になると、どうしても思い出すのです。そうして、いてもたってもいられなくなって、こうして菓子を持って街に出ては、子どもに菓子をあげていました」
「そうでしたか。…その子には」
「いえ、あれ以来会ったことはありません。…赤茶色の髪をしていたぐらいしか覚えてないんです」
だから、会ってもわからないというのが正解でしょう。
男は赤く腫れた目で悲しげに笑った。
「…話を聞いてくださり、ありがとうございました」
「いえ、あなたの罪を…」
「私は、これからも雪の日には菓子を配るつもりです。雪の日にしか配らないのだから、ただの自己満足ですね」
男は篭から菓子をアディオールに渡すと、立ち上がった。
アディオールが男の行く先を見ていると、一人の少年がいた。
男に菓子を貰って、跳びはねて去っていく。
男もまた、路地裏に消えていった。
「…帰るか」
アディオールは貰ったばかりの菓子を一口食べた。
「うまいな」
明日から、長い任務が始まる。
馬車に長時間乗ることになるから、相棒にこの菓子を買っていこうと、アディオールは決めた。
いつもしかめっ面の相棒も、喜んでくれるかもしれない。




