【第六話 本音】6-4 くそったれ……!
紫色の目をした男がいた。上位種の女を必死で追いかけて、やっと追いついたと思った時だった。
男には両腕がない――そう状況を把握しかけたところで、身体の自由が利かなくなった。
それまで背中を向けていた女がこちらに振り返る。珍しく慌てたような顔はあまりに似合わなくて、なんて顔してるんだと嗤ってやりたくなった。
それなのに俺の顔は動かなかった。表情すらも自分の意思で制御できなかった。
右腕が勝手に懐の銃を取り出そうとする。自分で動かしているわけではないのに、慣れた手付きで胸元のホルスターの留め具を外す。普段の自分と全く同じその動きが、まるでそれが自分の意思で行われているかのような錯覚を覚えさせる。
『ッキョウ!』
滅多に呼ばない普通の呼び方が、女の焦りを表している気がした。もっとその顔を拝んでやろう――身体は動かないのにそれが何故か他人事のように思えて、暢気な考えが頭に浮かぶ。
違う、そうじゃないだろう。今はそんな平和な状況じゃないはずだ。
頭の中で必死に自分に言い聞かせていると、不意に女の瞳もまた紫に染まるのが見えた。
「――ッ!?」
その瞬間、全身がぞわりと悲鳴を上げた。銃を握る腕の感覚が遠くなり、激しい耳鳴りが両耳を包み込む。突然のことで理解が追いつかない。明確な痛みがないのに、神経の一本一本が嫌だと叫びながらもがき苦しむ気持ち悪さが身体中に走る。
それでも初めて経験するその感覚にやっと何かが起こったのだと悟った時、腹の底から熱が溢れ出した。
「うぐッ……ぉえッ……!」
口から勢い良く飛び出した熱が地面を汚す。未舗装の土に胃液が染み込んでいく。同時に脚から一気に力が抜けて、濡れた地面に倒れ込まないよう咄嗟に腕を下に突き出した。
身体の自由が戻ったと喜んでる場合じゃない。ありえないほどの疲労感、騒ぎ立てる心臓、破裂しそうな肺。そのどれもがこの身体を弄んで、俺に考える余裕を与えてくれない。
「はッ……はァッ……なんだこれ……ッ!?」
急に頭に殴られたかのような痛みが走る。だがそれは走りすぎずに俺の頭の中に留まって、脳を握り潰そうとでもしているかのように頭蓋骨の内側で暴れ続ける。
「ごめんねキョンキョン、緊急措置! しんどいでしょ? ちょっと休んでていいよ」
聞こえてきた声になんとか顔を上げれば、女がいつもどおりの様子で俺に駆け寄ってくるところだった。目の色だっていつもと同じ。日本人によくあるその色が、俺の呼吸を落ち着かせていく。
丸まった背中に優しく手が添えられる。預かっていたボディバッグが外されて身体が軽くなる。空いた背中をその手が撫でるたびに、苦しさが和らいでいく。
だが女越しに見えた景色に、俺の中に不快感が湧き上がった。
両腕を失った男が逃げようとしているのだ。ふらふらと足元がおぼつかないのは血を失いすぎたからだろう。いくら人間じゃないからって、傷口から血を吐き出し続けていれば足りなくなるのは当然だ。
だがそんなことどうでもいい。あの男が今逃げようとしているという事実が、収まっていたはずの吐き気を呼び戻してくる。
俺はこの女の仕事を邪魔したのだ。俺が来たから、あの男に逃げる隙を与えてしまったのだ――状況を完全に理解できたわけではないのに、それだけは嫌でも分かってしまった。こいつに邪魔するなと言っておいて、他でもない俺が足を引っ張っているという、その事実が。
なんだよそれ、ふざけんな。自分が誰かの足手まといになるだなんて許せない。それが吸血鬼なら尚更だ。人間を食い散らかすような化け物に助けられるだなんてあっていいはずがない。
「くそったれ……!」
腰からナイフを取り出して、上着の袖を乱暴に捲くり上げた。俺の様子に気付いた女が不思議そうな顔をしている。だが俺はそれを無視して、自分の腕に刃を突き立てた。
「えっ、なになになに!?」
女が慌てた声を出したのは、俺の腕から真っ赤な血が勢い良く流れ出したからだ。女が自分の手で傷を覆おうとしてきたが、そんなものは必要ない。白い手を振り払って無理矢理立ち上がりながら腕を振れば、大きな赤い雫が宙を舞う。
「来いよ! 餌ならあるぞ!」
餓えたモロイを誘き出す時に人間の血を撒き餌として使う時がある。それと同じだ。女はモロイと上位種は別種だと言うが、同じ血を飲む化け物なら惹かれるはず。
案の定、逃げようとしていた男が動きを止めた。ゆらゆらとよろめきながら振り向いて、俺の腕に釘付けになっている。
だが、それだけだ。一目散に襲いかかってくるモロイとは違って、男はその場で葛藤するように涎を垂らしているだけ。
流石にモロイと同じようにはいかないか――そう諦めかけた時、不自然な風で髪が吹かれる感覚がした。
「後でお説教だからね!」
重い金属音と共に聞こえたのは女の不機嫌な声。だがその声は近くからじゃない。少し離れたところにいたはずの男を踏みつけて、女がこちらを向いて怒鳴っていた。
「……アンタに説教なんてできるのかよ」
そうなんとか口にして、俺は地面に身体を委ねるように座り込んだ。意地で意識は保っているものの、正直身体が尋常じゃないほど重い。頭の痛みは和らいできたが、代わりに血を失ったせいで気持ちが悪い。
「できますけど? キョンは人間なんだからそんな気軽に自分をぶった切っちゃ駄目!」
近付いてきた女が語気を強める。腰に手を当てた姿はまさしく説教中と言えるものだったが、内容と言い方のせいであまり身に沁みなかった。
「アンタ、あいつはどうしたんだよ」
「おねむしてもらってるよ。キョウが手枷持って来てくれてたお陰で逃げられないしね」
「……あっちの女は人間なのか?」
遠くで倒れている女がいるのには気付いていた。だがこの状況でぴくりとも動かないせいで最悪の事態を想像してしまう。
「ああ、あの人なら大丈夫。ちらっと見てきたけど気絶してるだけみたいだから、後で病院連れてってあげよう。勿論人間のね」
「そうか……」
いつの間にそこまで見てきたのかと思ったが、今の俺じゃあ女の様子を見切れていなくても当然だろう。自分の意識を保つのが精一杯で、それ以外のことにまで気が回らない。
「それよりキョウは自分の心配しなよ。ほら腕出して、止血くらいはしておかないと」
「これくらい自分でできる」
「ふらふらな人が何言ってんの。キョンキョンが今体調最悪なのは知ってるんだからね」
「……なんで」
「あいつに操られてるの無理矢理止めたから。しばらくはあれ食らっちゃ駄目だよ? そんな短期間にまた無理に止めれば脳が壊れちゃう」
やはり俺はこの女に助けられたのだと、改めて認識させられ眉間に力が入った。
この女は俺を助けることを優先したからあの男を逃しそうになったのだ。男の怪我ならそう遠くに逃げられないと踏んだのかもしれないが、こいつだって万が一のこともあるとは分かっているだろう。
「……貸し借りなしだからな」
腕の傷を視線で指しながら言えば、女は呆れたような顔でこちらを見つめてきた。
「キョウって面倒な性格してるよね」
「……うるせェ」
俺の答えに女が満足そうに笑う。気まずいはずなのに、眉間から力が抜けていく感覚がした。
「その……さっきは悪かった」
女が不思議そうに首を傾げる。何のことか伝わっていないのか、伝わった上で何故謝られているのか理解できないのか。できれば前者であって欲しいと思いながら、補足するように言葉を続けた。
「ここに来る前だよ、少し言い過ぎた。他人を心配できるアンタは……確かに、元人間だと思う」
「……無理して言ってない? ていうかそれ人間とか関係なく普通のことじゃん」
「ッうるせェな、そういうとこだよ!」
「何が!?」
咄嗟に大声を出したせいで視界が揺れる。それを止めるように右手で額を押さえながら、なんで自覚していないんだと頭痛が酷くなった気がした。
さっきまで人間の気持ちが理解できないと悲痛に叫んでいたが、おそらくこいつは理解できている。だけどそのことに気付いていない。振る舞いほど馬鹿でもなさそうなのに、理解できないのはやはり人間ではないからだろうか。
「……なァ、アンタは俺の血が欲しいか?」
否定してくれと思ったのは、知らないふりをした。同時になんでこんなことを聞いてしまったのかと顔を顰める。
こんなのただ、言わせたいだけだ――幼稚な感情に嫌気が差す。そこから目を逸らすように女を見れば、どういうわけか女は少し恥じらうような表情で「……いらない」と横を向いた。
「なんで目ェ逸らすんだよ」
「だって一度飲んだら、その……」
「なんだよ」
「今後キョウを見るたびにお腹空いちゃうかもしれない……」
「食い物認定じゃねェか」
珍しく恥ずかしそうにしていたから何かあるのかと思ったのに、あまりにくだらなすぎて顔を歪める力が強まる。
「……絶対飲むなよ」
「だから飲まないって言ってるじゃん!」
慌てて声を荒げるあたりが信憑性を増して嫌な感じだった。この女は普段から大声を出すが、その時とは明らかに声色が違う。
「そもそも人間の血を飲むなってルールはないのか」
「あるよ。でも相手の合意なくっていうのが駄目なだけ。だから今の場合だとキョウが許可出してるから有り」
「人間側が許可出すことなんてないだろ」
「それがあるんですよー。お金が欲しい人とかね」
「ああ……」
実際に見たことはないものの、そういう話は聞いたことがある。単なる噂話だと思っていたが、この女が断言するということは実際にあることなのだろう。
「ま、キョウもお金に困ったら相談して。高値で買ってくれる人紹介してあげるから」
「……執行官って立場でそれはいいのか?」
「正式なお取引があるところだったら大丈夫! ……だと思うんだけど……やっぱ駄目かな?」
「俺が知るか」
自信満々で答えたくせに、すぐ不安そうに眉を下げる。それが妙におかしくて、女に答えながら顔から力が抜けるのを感じた。
「うわ、嘘じゃん……」
「何だよ」
「顔色悪いのに顔面の色気増す人初めて見た……」
「……アンタそればっかだな」
「あ、怪我して良かったとかっていう意味ではなくて!」
「知ってる」
雑談のような会話をもう少し続けてもいいと思ったのは、疲れ切った身体の意識を保つのに必要だったからだろう。




