第3話 ミソサザイ
応接室から自室へと戻り、ようやくアデルは顔の力を抜く。
無理に作った淑やかな微笑はなかなかに疲れる。
そして大きなため息を吐いた。
少し大袈裟すぎただろうか。
あの刑事は、どう思っただろう。
けれど、モーガンに語ったことに、なに一つ嘘はない。
ただ、それに伴う自身の感情を表現しなかっただけで。
アデルは生まれた時からマリーと一緒だった。
朧げな記憶だが、2人でマリーの母親に絵本を読んでもらったような気がする。
その記憶は、霞んだ霧の中のような光景でしかないけれど。
何故ならアデルが2歳の頃、マリーの母親は事故で亡くなってしまったからだ。
後に聞いた話では、乗っていた馬車が事故に遭って亡くなったそうだ。
それを追う様にアデルの母親も病気で亡くなり、2人は同じ境遇になった。
幼い頃からマリーは大人びた子どもで、アデルの面倒をよく見ていた。
まるで自身が乳母の代わりを務めるように、常にアデルと共にあった。
そんなマリーに、アデルも付いて回ったものだ。
かつてはアデルも純粋に、マリーを慕っていた。
姉のように頼り甲斐があって、優しいマリーのことが大好きだった。
しかし長じるにつれ、周囲の反応から、否が応にも理解してしまった。
マリーは、アデルの引き立て役になっている。
アデルは自分でもなかなかに可愛らしいと自負している。
自慢の金髪は日々手入れを怠らず輝かしさを保っているし、滑らかで白い肌を保つように人一倍努力している。
そのため、人々の賛辞は当然のことと認識している。
けれど、そんなアデルの評判をより高めるのは、マリーの存在なのだ。
貴族社会が廃れ、舞踏会などそうそう行われなくなった時代、マリーは常にアデルと共にあった。
マリーは、正直に言って地味だ。
顔が、と云うだけではなく、全体の印象が酷く地味で特徴的なところがない。
どちらかと言えば美人の部類に入るだろうに、それがまた逆に印象を薄くしている。
マリーのおかげで、自分はより美しく見える。
その自覚があるから、アデルは余計にマリーを側に置いた。
アデルは、マリーを軽侮していた。
そう意識したことはない。
けれど、思い返せばそうだったのだろうと思う。
だからこそ。
だからこそ、マリーがクリフと婚約をした時、アデルは腹が立ったのだ。
何故マリーなんかが? と。
クリフは従僕で地位はないけれど、ジェニーレン家の使用人の中では群を抜いて眉目秀麗だ。
優しげで穏やかな笑顔を見ていると、胸の奥が熱くなる。
アデルは、密かにクリフに恋心を抱いていた。
そんなクリフが、マリーと。
以前からマリーとクリフが親しいことは知っていた。
そもそもアデルがクリフを知ったのは、マリーと親しくしていたからだ。
だから、自分の感情は横恋慕以外の何ものでもないことは、重々理解していた。
けれど、どうしても思ってしまう。
マリーとクリフでは、釣り合わないのでは?
自分の方が、クリフに相応しいのでは?
頭では分かっていた。
かつてほど問題ではなくなったとはいえ、アデルとクリフでは身分差がありすぎる。
ジェニーレン家の一人娘であるアデルの相手としては、似つかわしく無い。
けれどアデルはこうも思っていた。
アデルの父ダヴは、よく『家のことよりも、自分のことを考えて相手を選びなさい』と言っている。
アデルがきちんと話をすれば、きっとクリフのことも受け入れられる。
今クリフが何も出来なかったとしても、ダヴはまだ壮健だし、当主としての仕事をゆっくり学べば良いはずだ。
仮にクリフには無理だったとしても、今では女性当主だって例がある。
クリフではなく、自分が当主になったって構わない。
今は何の勉強もしていないけれど、やれば出来るはずだ。
アデルの胸中には、マリーの婚約を祝福する裏で、そんな仄暗い感情が渦巻いていた。
あれは、1年前のこと。
マリーとクリフが婚約して、もうすぐ1年と云う頃だ。
アデルとマリー、そしてクリフの3人で買い物に行く予定だった。
その頃から、クリフはアデルの護衛として共にすることが度々あったのだ。
しかし、当日になりマリーが熱を出して寝込んでしまった。
アデルは迷った。
しかし父親の誕生日プレゼントを買うためにはその日出掛けなければならなかったし、何よりクリフと2人で出掛けられる機会はそうないため、マリーを屋敷に残して出かけることにしたのだ。
その日、アデルはとても楽しかった。
クリフは話していても面白いし、とても紳士的で、より想いを募らせた。
アデルは父のプレゼントを買う際に、クリフのプレゼントも一緒に購入した。
控えめな宝石の嵌まったネクタイピンだ。
帰り際にクリフに渡すと、クリフはとても喜び、その場で着けてみせた。
その笑顔があまりに眩しくて、つい、衝動的にクリフに想いを告げてしまった。
アデルは自分のしでかしたことに衝撃を受けた。
けれどそれ以上に驚いたのは、クリフがそんなアデルの言葉を受け入れたことだった。
『私も本当は……、本当は、アデルお嬢様のことを慕っておりました。けれど、当然私の様な者には手の届かないお方……。
マリーは執事長の娘ですから断りにくかったと云うのもありますが、マリーと一緒になればアデルお嬢様の隣に居られるかと……。
申し訳ありません、私は酷い男です』
そう苦しげに吐露したかと思うと、クリフは後ろめたい思いからか視線を逸らした。
アデルは愕然とした。
こんな幸運があっても良いのかと。
まさか、クリフも自分を想っていくれているとは、夢にも思わなかった。
アデルは完全に舞い上がり、これからの未来に自分の隣にあるクリフの姿を思い描いた。
それから、クリフとアデルは密かに愛を育んだ。
アデルとて、これが良くない関係であることは分かっている。
けれど、もう止めることは出来なかった。
クリフからは『マリーには僕からきちんと伝える。それまで待っていて欲しい』と言われていた。
いつか、堂々とクリフと一緒になれる日を願っていた。
けれど、それから1年。
クリフは、マリーにアデルとのことを伝えることはなかった。
レイムス湖に行った日、アデルは朝から不機嫌だった。
前日、クリフの『待て』に痺れを切らし、いつまで待てば良いのかと詰ったのだ。
本当に自分と一緒になるつもりがあるのか、本当に自分のことが好きなのかと詰め寄った。
けれど、いつにも増してクリフの歯切れが悪いことに業を煮やして、ダヴにこのことを伝えると言った。
すると、クリフは止めてくれと慌てだし、そのことがアデルに猜疑心を抱かせた。
それに、マリーのドレスも気に入らなかった。
季節外れのモスグリーンのドレスは、確かにマリーらしくアデルなら絶対に着ない代物だったけれど、それでもわざわざそんな着飾るドレスを着なくていいのに、と思った。
その日アデルは、動きやすくシンプルなドレスを着ていたのだ。
もちろん湖畔遊びのためにそうしたドレスにしたのもあるけれど、アデルの可憐さをより引き立てるために計算されたドレスでもあった。
だから自分のドレスに不満がある訳ではない。
それでも自分よりも無駄に着飾ったマリーが、とにかく気に入らなかったのだ。
湖に着いて、しばらく船遊びをした後、昼食を摂ろうと云うことになった。
湖から少し離れた木陰に、マリーが敷き布を広げ、ランチの準備をし始めた。
すると、クリフがごく自然にそれを手伝っていて、その様子が、とても仲睦まじく見えた。
元々、クリフとマリーは仲が良かった。
話も合う様だし、仮にマリーの片想いだったとしても、少なからず親しい友人の様に見えた。
そんなことは分かっていたはずなのに、その時のアデルには、その様子を見るのが耐えられなかった。
『アデルお嬢様。出来ましたよ。足元にお気をつけくださいね、転んでしまわれます』
そう言って促すマリーの言葉が、自分を子供扱いしているようで、酷く不快に感じた。
『マリー。私もう大人よ。あなたに言われなくても分かるわ』
『アデルお嬢様……? どうなさいましたか?』
『……私、帰る』
そう言ってアデルは、1人その場から立ち去った。
本当に帰るつもりではなかった。
少し周辺を歩いて、頭を冷やすためもあっただろう。
しかしそれよりも、ただただ2人から離れたかった。
少しだけ、クリフが追ってこないかと云う期待もあった。
けれど、誰もアデルを追ってこなかった。
頭が冷え、周りが見える様になると、道に迷ってしまったことに気が付いた。
そう深くは森に入っていないはずだと、アデルはその場で待つことにした。
マリーはアデルを探す名人だった。
幼い頃から、勉強が嫌になったり、父に怒られたりするとアデルは姿を隠した。
屋敷のどこに隠れても、マリーは必ずアデルを探し出したのだ。
だから大丈夫。
待っていれば、必ずマリーが迎えに来ると思っていた。
しばらくして、クリフがアデルを探しに来た。
アデルは喜ぶのと同時に、不思議な気持ちになった。
当然、自分を見つけるのはマリーだと思っていたのだ。
聞けば、マリーはアデルを探しに行ったまま戻って来ないという。
アデルは、何だか嫌な予感がした。
元居た場所に戻ろうと歩いていると、湖の方が騒がしかった。
何かあったのかとクリフと2人で湖に行った。
人々が湖の方を見て何某か騒いでいる。
望遠鏡を覗いている者もいる。
景色を楽しむために、望遠鏡を持って来ている人も少なくないのだ。
人々の視線の先を見ると、何かが湖に浮いているのが見えた。
そして見たのだ。
水面に浮かぶマリーを。
距離があったために、はっきりと見えた訳ではない。
けれどカルデラ湖であるために、水際線から緩やかに傾斜が付いていて、アデルたちの居る沿道からは湖を見下ろすようになっている。
アデルには分かった。
あの髪の色と、ドレスの色。
あれはマリーだと。
マリーはただぷかぷかと浮いているだけで、ぴくりとも動いていない様に見えた。
誰かが呼んだのだろう。
警察がやってきて、彼女を引き上げた。
作業をする警察官たちの合間からちらりと見えた女性の顔は、確かにマリーだった。
明らかに色を失った顔。
ぐっしょりと濡れて重たく体に張り付いたドレス。
髪は乱れて、顔に張り付いていた。
アデルは、ただ呆然とした。
頭の中が真っ白になって、目の前の出来事をぼんやりと見つめた。
(マリーが……マリーが、死んだ……?)
さっきまで一緒に居たのに。
さっきまで、確かに言葉を交わして、手を握れば温もりを感じたのに。
徐々に状況を理解するにつれ、アデルは衝撃に震えた。
これで、クリフとの未来に障害がなくなったと、自分が安堵していることに気付いたのだ。
確かに、アデルはクリフが好きで、マリーは邪魔者だった。
それでも本当に居なくなって欲しいと、彼女の死を望んでいた訳ではない。
そう思っていた。
その時までは。
アデルは自分の中にある惨忍なまでの冷酷さに衝撃を受けた。
マリーの遺体を見てもなお、そんなことの方に衝撃を受けている自分に、更に驚いた。
そんな冷酷な自分が見透かされてしまいそうで、クリフの方を見ることさえ出来なかった。
マリーは警察官に運ばれていった。
残った刑事が『彼女を知っている人は』と声を掛け、クリフが手を挙げた。
そしてその場でアデルとクリフは警察署へ連れて行かれ、事情を聞かれたのだ。
アデルは震えながらも、今日ここに来た理由、マリーと離れた経緯を話した。
けれど、それ以上のことは、何も言えなかった。
刑事からボートに乗っていたと聞いたけれど、何故乗っていたのかさっぱり分からない。
何故マリーはボートに乗っていたのだろう。
どこへ行くつもりだったのだろう。
まさかアデルがボートに1人で乗ったとは思うまい。
アデルには何も分からなかった。
マリーが居なくなって、3日。
アデルの胸中は、凪いだままだ。
「あんなに一緒に居たのに、あっけない別れだったわ」
アデルは自室で1人、独り言ちたのだった。