7 キャラ変は計画的にしてくれないと困ります!
最近、レイガが何か変である。
どこが、と言われると言葉にし難いのだが、まず、朝食の時に怒鳴ることをしなくなった。
まあ、黙々とお互いで食事を進める場面も多いのだが、時々、
「あ、これ美味しい」
と私が呟くと、
「それは南の方で摂れた野菜を使っている」
と、教えてくれたりする。
「そうなんですね」
私がその言葉に頷くと、
「また、作ってもらおう」
そう言ってくれる。
そうして。
「今日も図書室で本の整理を行いのか」
と、一日のスケジュールを確認をしてくる時もあるけれど。
「はい。本の分類は終わりましたが、整理しやすいようにしていきたいので」
「そうか」
その件について何か言われるのか、とも最初の頃は思っていたけれど。
レイガは頷くだけで、それ以上何かを言うことはなかった。
はっきり言って。
これは、今までなかったことだった。
レイガは、アーマリアが何かしようとすると、「それはする必要があるのか?」と言っていた。
嫁いできたばかりの頃は、アーマリアもフォレスト公爵家のために何ができるのか、色々と考えていたのだ。
けれど、レイガがアーマリアの一日のスケジュールを聞くと、
「それを何故する必要がある?」
と言って来て。
アーマリアは「迷惑をかけるのかもしれない」と思って、だんだん何もしなくなって、自室で刺繍をしたりしていたけれど、そのうち体調も悪くなって、寝込むことも多くなっていた。
まあ、何かするたびに、チャチャを入れられて、行動を制限するようなことを言われたら、そうもなる。
今日子は、「イチイチ律儀に言わなくても良いのよ」とは言っていたけれど。アーマリアの性格上、そうもいかなかったのだろう。
でも、私は「有紀」だから、チャチャを入れられようと、自分のやりたいことはやるつもりでいた。
図書室の本の分類は済んだから、後は棚に戻すだけだけど、整理しやすいようにすることも大切だ、と考えたのだ。
だから。
ラベルを貼ることにした。
図書館の本の背にラベルが貼られているのは、たくさんの資料の中から、目的の資料を探しやすくするためである。
この背ラベルには請求記号が表示されており、図書館資料はこの請求記号にしたがって並べられている。
シールは三段に分かれていて、一番上が分類番号、二段目は図書記号、三段目が巻冊番号となる。
分類番号は、日本十進分類法に基づいての分類である。
図書記号は、同じ分類記号の資料がたくさんある場合、資料がみつけにくくなってしまうため、資料をさらに区別するためにつける記号で、図書館独自の分類方法が使われる。(例えば、作者の名前や本の題名など)
巻冊番号は、一冊だけでなくシリーズで何冊も出版されている場合は、何巻目かがわかるように巻冊数を書いたり、同じ図書が複数冊ある場合は、複本の番号を書いたりする図書館もある。
「それは、一人でないとやれないことなのか?」
私の言葉に。そんなことを、レイガは言って来た。
「え?」
「アーマリアが一人でやりたいのであれば、それも良いとは思うが、話を聞いていると、皆でやった方が良いようにも思えてな」
レイガの言葉を聞いて。
私は、目を見張った。
その言葉は。思ってもいないことだった。
……まだ、私が結婚していた頃。
夫は、そんなことは、言わなかった。
ただ、座っているだけで。何もしようとはしなかった。
結婚当初は、私がする家事を手伝おうとしてくれたのだけど、あまりにも拙すぎて、逆に足手まといだった。
ならば、せめて自分のことは自分でしてもらうことにしたら、それは、本当に心の底から不満だったらしい。
夫にとって。
結婚生活とは、妻の私が「与える」ものであって。
自分で築くものではなかったのだ。
その一方で。
今日子と働いていた職場では、何でも二人で話し合って決めていた。
何をするにも二人で役割を分けて。
お互いに進捗を確認しながら、仕事を進めていた。
今日子と仕事していると、「二人で築きあげている」実感があった。
ただ。
夫には、夫の思いはあった。
夫は、もともと気の弱い人ではあった。
見合いをした当時は、その「気弱さ」が「誠実」で「穏やか」に見えていた私は、そこに魅力を感じていた。
でも。
結婚したら、その「見えていた」「誠実」と「穏やかさ」は、「気弱さ」から生まれたモノで。
決して、心の強さから生まれたものではなかったのだ。
それでも、そのことを認めて、一緒に「成長」して行こう、と言う思いでいてくれたら、私は離婚していなかったのかもしれない。
だけど。
夫はただ私に「与えて」もらえることで、「男」としての実感とプライドを保とうとしていた。
多分。
夫は、私と結婚するまで、「男」としてのプライドを散々傷つけられたのだ。
それこそ、その辛さは女の私には考えられないぐらいなのだろう。
だから。
「結婚」して、「夫」として尊重されて大切にされることで、「男」としてのプライドを取り戻そうとしていた。
その「尊重」は、「結婚したら、朝起きたらできたてのご飯ができている。妻は手作りのお弁当を渡してくれて、笑顔で送り出してくれる。帰って来たら、妻が笑顔で『お帰り』と言って、できたての夕飯を出してくれる。ご飯の後は二人で後片付けして、TVを見ながら話して、寝る。休日は、一緒に起きて、二人で朝ご飯を作って、家事をした後は、二人で出かける。帰って来たら、ゆっくり珈琲でも飲みながらテレビを見て、まったりとした時間を過ごす」を、自分ではなくて、妻が叶えてくれるといけなかった。
それは、「妻」ができることではない、と私は思った。
それができるのは、「母親」だ。
『話し合いをすると、嫌われそうで怖かった』
夫は、離婚する時に自分の弁護士にそう言ったらしいけれど。
私の「私は母親ではない。妻なのだ」という主張は、夫には届かなかった。
離婚の話し合いも、私達は直接せずに、弁護士を立てて行った。
私は、夫と直接話し合って、二人の未来を決めたかった。
「離婚」を言い出したのは、もちろん覚悟あってのことだったけれど、背水の陣で、夫を奮起させたい思いもあったのだ。
でも。
結局、夫は「話し合う」ことから逃げて、私達は会うこともなく、離婚となった。
最後まで、夫が自分から動くことはなかった。
けれど、今。
アーマリアの夫であるレイガは、「提案」をして来ている。
彼は彼なりに、アーマリアと理解しよう、としているのかもしれなかった。
ならば、「有希」の知識と経験がある私は、そのことを受け入れる方が得策なのだ。
「そうなのかもしれませんが、私の考えている方法で整理しようと思っているので、今はまだ、その段階ではありません」
とりあえず、人に手伝ってもらうためにも、準備はいる。
そう思って、レイガにそのことを伝えると。
「ならば、その準備には、イルンに手伝ってもらうと良い」
と、レイガは言った。
「よろしいのですか?」
イルンは、レイガの直属の家臣である。
本来であれば、レイガの仕事をサポートするのが、彼の役目だ。
「ああ、構わない。イルンならば、そつなくこなすだろう」
そう言って、レイガは食事を再開した。
レイガの申し出はありがたかったけれど、正直、この館での過ごし方の一つであった、「図書館の整理」が片付くのは、少し困ることではあった。
本の整理をするのは楽しかったし、一人で、図書室でストレッチや瞑想をする時間も、今の私には必要なものだ。
けれど。
私は「有希」だった頃、夫と最後まで歩み寄ることができなかった。
「アーマリア」で同じことを繰り返すことは、避けたかった。
だから。
「ありがとうございます」
と、私は礼を告げると。
レイガに続いて、食事を再開した。
★
「奥様、このような形でよろしいですか?」
そうして。イルンは、想像通り優秀だった。
私の端的な説明だけを聞いて、すぐに図書分類法を理解してくれた。
さすが、あのレイガの補佐をしているだけはある。
イルンが見せてくれた紙には、私が伝えた通りの分類番号が書かれていた。
「うん、それで大丈夫よ」
見せられた紙には、私が言う通りに三段に分かれて、上から一番上が分類番号、二段目は図書記号、三段目は巻冊番号が書いてある。
この世界の「数字」は、「有希」の世界と同じ観念でアラビア数字と十進法が使われているから、私が知っている知識が、そのまま使えるのは便利だった。
「これを、本の背と同じ幅に切るんですね」
「そう。縦の長さも、ぎりぎり切った方が本の題名が隠れずに済むわ」
「なるほど……」
私の説明に。
イルンは、感心したように頷いた。
「分け方の基本は、本の内容、本の題名、巻数なんですね。ならば、並べ方もそのように?」
「そうね。そのつもりでいるわ」
「ならば、他の者もわかりやすいように、棚に何の本が入っているか、棚の横にでも番号を書いた紙も貼ったらどうでしょう?」
そうして。
イルンは、そんな提案もして来た。
図書分類法の本質を理解して、より良い方法を提案してくるのは、やはりイルンは優秀なのだ。
「私も旦那様に頼まれて、本を探すこともありますし、この方法でしたら、他の者達に頼むこともできます」
「え? イルンでしか本を探すことができなかったの?」
イルンの言葉に。私は、引っかかりを感じて、私は問いかけてみた。
「ええ……まあ……」
その瞬間。
イルンの視線がどこか遠くなった。
まあ、確かに。
私が図書室の整理をし始めた時は、ここの書架はカオスだった。
「どこにあるのか、覚えているのは私だけだったので」
なので。
イルンのこの言葉には、納得でもあり。彼の記憶力の良さも、はっきりと証明された。
「でも……そうなると、今後も他の人達が使う可能性はあるのね」
「そうですね……何か、問題がありますか?」
「あ、大丈夫よ。それなら、イルン以外の人にも本を探しやすいようにしないとね」
「ええ。この『としょぶんるいほう』を皆が理解できれば、資料の整理も皆で行うことができます」
「ああ、そうね……」
イルンとそんなことを話しながら、私は書棚の奥に隠した、「あっはんうっふん」な本達のことを思った。
先代のフォレスト公爵夫人は、きっと自分が読んでいた本達が、こんなふうに日の目を見ることになろうとは、考えていなかっただろう。
まあ、最初の書棚の状況を見れば、彼女は「絶対に見つからない」と踏んでいたに違いない。
あの本達は、こっそり私の部屋に隠すしかないな、と私は思った。
そうして。
貼るラベルをイルンと協力しながら作り上げた私は。
その次にやったのは、本にそのラベルを貼る作業だった。
ただ、この世界に「シール」と言うのはなかった。
あの「糊」が裏に付いて、裏の紙をはがせば貼れるという物は、なかなかに便利なものだったのだな、と実感させられるが、とりあえず、この世界の「糊」は、でんぷん糊であり、でんっと大き目な壺に入れられていた。
まあ、「大き目」と言っても、コーヒー瓶(大)ぐらいだったから、机の上には置けるのだけど、それでも私の知るでんぷん糊の入れ物は、みかんぐらいの大きさだったから、違和感はありまくりだった。
なので、最初私はその壺から糊を手ですくって紙に糊を付けていたけれど、糊を指に付けたまま本の背に紙を貼る作業は、かなり手間がかかった。
だから、細いペンで糊をすくって→紙の上で伸ばして→貼る。を繰り返した。
これは、イルンも手伝ってくれたけれど、まあイルンはイルンで彼の仕事がある。
「他の者達にも手伝わせましょうか?」とも言われたけれど、この「ラベルを貼る」作業は、手先が器用な人達が適していて、そんな人達は、館の仕事でも重要な役目に付いていることが多い。
とりあえず、本日はロゼが午後から手伝ってくれることになっていたから、私は午前中は、せっせっとラベル貼りに勤しんだ。
単純な作業は、集中すると時間を過ぎるのが早い。気が付くと、
「奥様、昼食の時間です」
図書室の扉がノックされ、ロゼが昼食のことを知らせてくれた。
「あ、もうそんな時間なんだ」
図書室の壁に掛けられた柱時計は、お昼の時刻を示していた。
ボーンボーンと、リズムカルに音が鳴る。
この柱時計は、お昼時とあちらの世界では夕方の六時に当たる時刻にベルが鳴るようになっている。
「ごめんなさい、夢中になっていたわ」
私はそう言って、慌てて机の上を片付け始めた。
「午後からも作業をするのですから、このままで構いませんよ」
そんな私に、ロゼは微笑みながら言ってくれる。
彼女は、私の「離婚もオッケー」発言に衝撃を受けていたみたいだけど、あの日以降、そのことには触れずに、穏やかに対応をしてくれている。
アマンダが何か話してくれたのかな、とも思ったけれど、ロゼが何も言わないならば、私から聞く必要もない。
彼女が傍にいてくれるのはやっぱり助かるから、私としてもアーマリアとしても、喜ばしいことなのだ。
私はロゼと一緒に図書室を出て、食堂へと歩き出した。
と、その時だった。
私は、トイレに行きたくなってしまった。
考えてみれば、午前中はずっと図書室に閉じこもって作業をしていたのだ。
朝起きた後も行っていないから、今日はトイレに一度も行っていないことになる。
「ロゼ、ごめんなさい。トイレに行って来る」
「あら、それでは食堂に行く前に行きましょう」
私の言葉に、ロゼは頷いてくれた。
私達は、図書室から少し離れた所にあるトイレに行ってから、食堂に行くことにした。
この世界のトイレは、所謂簡易水洗トイレだ。
トイレにあちらの世界の洋式トイレと同じで、座るようになっている。
形もよく似ていて、レバーを引くと、水が流れて、下の汚物入れに出したものが流れるようになっている。
水はあちらの世界のように直接引いてはなくて、タンクに当たる部分に水を溜めて、それを流している。
その水は、おそらく使用人の人が入れているようだ。
この世界に来てから、確かに「電気」という物はなくて、「不便だな」と思うことはあれど、前の世界とあまり変わらない感覚でいられるのは、アーマリアの身分のおかげなのだ。
「有希」のように庶民であったのならば、全部自分でしなければいけないけれど、それは「使用人」と言われる人達がやってくれている。
このトイレに入れる水も、アーマリアやレイガが利用した時に困ることがないようにと、メンテナンスをやってくれているから、途切れなく水は流れているのだ。
実際、ここのトイレは何時でも綺麗に掃除されていて、手洗い場には、綺麗な花が一輪飾られている。
容器に張られた水も綺麗で、ここの仕事を担当している人は、とても掃除が上手なんだろうな、と手を洗いながら私は思った。
「マーリン……」
そうして。
不意に、私はトイレを掃除してくれている使用人の名前を思い出した。
これは、私の記憶ではなくて、「アーマリア」の記憶だった。
つまり。アーマリアは、このトイレを掃除してくれる使用人の名前を覚えて、ということなのだ。
これは、けっこう凄いことだと、私は思った。
私も、確かに図書館で一緒に働いている司書の人達や、今日子と一緒に働いていた図書館では先生達の名前も覚えていたけれど、図書館の掃除をしてくれる清掃員の人達の名前は、なかなか覚えることができなかった。
利用者さんだって、常連さんは覚えているけれど、しばらく利用されていなければ、やっぱり思い出すのに時間がかかる。
しかし、マーリンの思い出すことは、そんなに時間はかからなかった。
すっと自然に思い出すことができた。
つまり、常にアーマリアの頭の中には、自分に接触があまりない使用人の名前もある、ということなのだ。
アーマリアはこのフォレスト公爵の館をきちんと把握していて、それを生かすこともできる力がある。
やはり、彼女は凄い人なのだ。
と、私はそう思いながら、陶器の外に散った水滴を、いつも持っていたハンカチで拭いていたら。
「す、すいません」
いきなり、そう声をかけられてしまった。
見ると、少し背中をかがめた年配の女性が立っていた。白髪で目が細い。
「マーリン、いつも綺麗に掃除をしてくれてありがとう」
この人が「マーリン」だと、アーマリアの記憶が言っていた。
だから。
私は、アーマリアがいつも彼女に言いたかったことを言葉にする。
土下座せんばかりに頭を下げていたマーリンは、素っ頓狂な表情になって頭を上げる。
「マーリンがいつも綺麗にしてくれるから、とても快適に使えるわ。ありがとうね」
私はマーリンにそう声をかけて、頭を下げた。
「あ、いえ」
そんな私に、マーリンは首を振った。
そうして。
それ以上の言葉が出ないようだったので、
「これからもよろしくね」
そう言って微笑みながら、私はトイレの外へと出た。
トイレ近くの廊下ではロゼが待っているはずだったけど、姿が見えない。
どうしたんだろう、と思っていたら、
「すいません、少し用事で呼ばれまして」
とパタパタしながら、ロゼが戻って来た。
そうして。
私の肩越しに何かを見て、怪訝そうな表情になった。
「どうしたの?」
「いえ。トイレから使用人が出て来たので……」
ああ、マーリン?」
「何かありましたか?」
「何もないわよ。私が手を洗っている時に入って来たから、『いつもありがとう』って伝えただけだわ」
「そうですか……」
私の返事に、ロゼは微妙な表情になった。
「どうしたの?」
私は、そんなロゼに声をかけた。
「いえ……基本的に、使用人は主人が使う場所を掃除する時は、いない時にやることが基本なのです」
それは、ロゼの言う通りだった。
特に「掃除」と言うものは、主人が不在の時にやるべきもの、という観念がこの世界にはある。
アーマリアのスケジュールが決められているのは、使用人達が日々の仕事を段取りよく進めるためでもあるのだ。
マーリンは、私やレイガがトイレに行く時刻を把握しているに違いない。
その証拠に、私はいつもであれば、この時間帯にトイレには行っていない。
「私がいつもはこの時間帯に行かないでしょう? だから、マーリンは私がいないと思って、掃除をしようと思ったのよ」
私の言葉に。ロゼはあまり良い表情をしなかった。
「……行きましょう」
けれど、私にそう声をかけて、食堂へと歩き出す。
「ロゼ?」
その態度に。私は怪訝に思って、声をかけた。
「わかっていらっしゃると思いますが……あまり、下の者達に気軽に声をかけるのは避けるべきだと思います」
「それは……」
「感謝を伝えたことは、良いことです。ですが、それ以上の『親しさ』を持たれると、その者のためにもなりません。特にマーリンのような者達は、善良ですが立場の弱いことが多いです。他の悪意ある者達に利用されかねないこともあるのです」
ロゼの言うことは、もっともなことではあった。
世の常とは言え、甘い汁を吸おうとする者達は、必ず存在する。
その者達は、「自分より下」と見下している者が「自分よりも有利」になると、途端に対象者を責めだしたり、陥れようとしたりする。
残念だけど、それは社会の下に行けば行くほど、顕著になって行く。
「それに、マーリンのような者を利用して、奥様に危害を加えようとする者達も必ず出てきます。親しい者が増えれば増えるほど、守りの手は必要になって来ますが……守れる数には、限界があります」
「そうね……」
ロゼの言葉に。私は、頷くしかなかった。
でも。
「ロゼの言うことはわかるけれど、それ、何か違うような気もするのよね」
「はい⁉」
私の言葉に。
前を向いて歩いていたロゼは、思いっきり振り返った。
「奥様⁉」
「だって、別に使用人だろうが何だろうが、親しく交流するのは、悪いことじゃあないでしょう?」
「それは、そうですが!」
「それに、王宮のような場所は、さすがにたくさんの人達が働いているけれど、このフォレスト家の館は、二十名ぐらいじゃない。みんなと交流したら良いわよね?」
まあ、正直に言えば。
私としては、「全員公平に扱う」と言うのは、とても大切なことだとは思った。
ロゼの言うことは、最もなことではあったのだけども、もっと、「普通」のこととして考えてみても良いはずだ。
例えば。
私は図書司書として働いていたけれど、一緒に働いていた他の司書の人達とは、「友達」ではなかった。
「親しく」も、「職場仲間」としての意識を持って接すれば、そこは「公共」の場のものだ。
「私的」な「親しく」とは、また別のものになるはずなのだ。
まあ、そうは言っても。すぐに親しい態度を取れば、ロゼの言う通りになってしまう。
「公共」の「親しく」は、礼儀と常識と思いやりが必要なのだ。
私が今すぐできるのは。
「ありがとう」
と、昼食を食べるテーブルを付く時に、椅子を引いてくれたイルンにお礼を言ったり。
お皿をセッティングしてくれたエマ達に、
「美味しかったわ」
と、笑顔で伝えたりするような、常に「感謝」を持って接することじゃないのかな、と昼食を食べながら私は思った。
「昼食後は、何をするんだ」
で。最近は、一緒に昼食もしているレイガが、私にそう問いかけて来た。
「ラベル貼りをしようと思います」
最近の態度は若干軟化しているとは言え、相変わらず何かと私―アーマリアの行動を詮索してくる。
「ずっとその作業をしているが、終わるのか」
「もうすぐ終わると思います。今日はロゼも手伝ってくれますし」
私がそう答えると、
「本当にその作業は必要なのか?」
そう、口を出してきた。
前のアーマリアであれば、ここで心が挫けていたかもしれない。
が、私は有希なのである。
バツイチの経験だけはある、三十五歳女子を舐めてもらっては困る。
「はい。必要です」
なので。
私は、即答した。
「しかし、使うのは私達だけだぞ。整理することはわかるが、らべるとやらを貼る必要はあるのか」
「ありますよ。人は、忘れる生き物です。どこに何かあるのなんて、すぐに忘れます。それが、滅多に使わないものであれば、なおさらです」
「イルンならば、覚えている。そういった者達に、探させれば良い」
レイガは、とことん私の言葉を否定するつもりのようだった。
「でも、そういった者達は、他の仕事を持っていることも多いです。でしたら、誰でも作業ができるように、環境を整えた方が長い目で見た時、良いと思います」
「長い目?」
「はい。フォレスト公爵家にはどんな書物があるのかを把握することができたら、無用な物を増やすことも減りますし、節約にもなります。それに、一人の人間しかできない『仕事』が多いと、その者がいなくなった時、困ることになります」
「お前は、イルンが私を裏切ると言うのか⁉」
途端に、レイガが声を上げた。
「何をおっしゃっているのですか。私は、そんな話はしておりません」
そんなレイガに、私は冷静に声をかけた。
「しかし先ほど……」
「今は旦那様もイルンもお若いですし、お体もお元気です。でも、怪我などがあったら? 戦が起こり、不在が長くなることだってあるかもしれません」
「それは……」
「不足の事態が起こってからでは、遅いのです」
私がダメ押しとばかりに言葉を重ねると、レイガは何も言わなくなった。
そうして、それ以上は何も言わずに、食事を続けた。
まあ、私としては。レイガが「ダメ」と言わない以上、ラベル貼りは続行する気満々だった。
少し言い過ぎたかな、とは思ったけれど。
この雰囲気は、私も気まずい。食事はさっさと済ませよう、とも思った。
でも。せっかく、カイルが作ってくれた食事なのである。
楽しまなければ、勿体ない。
私は、意識的にレイガの存在を消して、食事に集中することにした。
本日の昼食は、パンにジャガイモのポタージュ、キノコのマリネ、そしてメインに鶏肉のムニエルだった。
この世界の料理は、有希の世界と似ていて、味付けは「醤油味」と言うのはさすがにないけれど、「コンソメ味」や「塩味」「胡椒味」それから、スパイス等は存在しているようだった。
そして、どんな世界にいようと、作ってくれる人が凄腕のプロであるならば、その食事は、最高の物になるのは間違いないのだ。
私は、パンを手に取り、ちぎった。
食事のマナ―等は、アーマリアの中にある知識が役に立っていたし、無意識にでも体が勝手に動くから、これは幼い頃から、徹底的に食事のマナーを叩き込まれているのだろう。
それでも、焼きたてのパンの匂いには、心逸るものがある。
外はパリっと香ばしく、内側はふんわりとした温かさが広がる。バターのような甘さが口の中で広がる瞬間は、まるで幸せが溢れ出すようだった。
一口かじれば、外側のパリっとした音を立て、次第にモチっとした内側が口の中でとろける。
きのこのマリネのサラダは、風味豊かで食感のバランスが絶妙で、マリネされたきのこは、酸味と旨味が融合し、口の中でじわっと広がった。
そのしっとりとした食感に、シャキシャキの野菜が加わることで、食べ応えも最高だった。
じゃがいものポタージュは、クリーミーで滑らかな舌触りだった。じゃがいもの自然な甘みが引き立ち、ほっこりとした温かさが心を和ませる。
香ばしいバターやクリームが加わることで、リッチな風味が広がって、本当に美味しかった。
メインディシュの鶏のムニエルだって、外はカリッと焼き上げられ、中はジューシーで香ばしいバターの香りが立ち上り、食欲をそそった。しっかりとした塩味が肉の旨味を引き立て、レモンやハーブの爽やかな風味がアクセントとなって、口の中で絶妙に調和している。
「美味しい……」
もう本当に美味しくて、そう呟くと。
「そうなのか?」
レイガが、何とも言えない表情をして言って来た。
「はい」
以前のアーマリアは、レイガと対立するような会話をすると、すぐに食欲を失くしていたけれど、私はあまりの食事の美味しさに、そんな憂鬱は吹き飛んでしまう。
まあ、アーマリアの場合は、「レイガの機嫌を損なわないように」とやって来ていたから、その疲労が酷かったのだ。
脳が疲れていたのだろう。
だが、「有希」にとっては、そんなアーマリアが「推し」なのである。
アーマリアのために、そして美味しい料理を作ってくれたカイル達のために、「食べない」という選択はないし、そもそも、フォレスト公爵家の調理人の人達は、料理が上手だ。
本当に、美味しい。
「有希」の世界だったら、軽く万の値段が付くレベルだと思う。
私は自炊もしていたから、その美味しさは、本当に「すごい」の一言だ。
「なら、カイルに礼を言うか」
けれど。
次の瞬間に言われたのは、思ってもいないことだった。
「イルン、カイルを呼んで来い」
レイガは自分の席の後ろに控えていたイルンに、そう声をかけた。
「待ってください。カイルさん達は、お仕事中では?」
私は慌てて止めようとしたけれど、
「かまわない」
と、レイガは言った。
「かしこまりました」
イルンはそう言って、頭を下げて、部屋の外に出た。
それからしばらくして、
「失礼します」
と、白いコックの服を着た、茶色の髪に茶色の瞳をした、三十代ぐらいの男の人が、イルンと一緒に入って来た。
「お呼びでしょうか、奥様」
彼は私の前に立つと、そう言って頭を下げた。
「有希」としての意識になった後にカイルに会うのは初めてだったけれど、短髪で髭もなく、仕事柄のせいなのか体つきも良く、浅黒い肌をしていた。
そのカイルの姿は、「アーマリア」の記憶にもあったけれど、改めて見ると、顔はイケメンで、人好きがする愛嬌もあった。
微笑んで私を見る眼差しも優しい。
「いつも、美味しい料理を作ってくれてありがとう。わざわざ来てもらって嬉しいです」
私は、そんな彼を見て、心の中でテンションが上がっていた。
カイルは、「有希」である私のめちゃくちゃ理想のタイプだったのだ。
あちらの世界では、絶対スポーツをやっていそうな顔立ちと体つき、精神面も、おそらくかなり包容力があるのだろう。
この館の女主人の呼び出しにも、このように鷹揚に応じているところを見ると、肝も太いはずだ。
レイガやアーマリアぐらいの年齢だと、まだまだ「若さ」があるから、持って生まれた容姿の良さが生きるけれど、三十代ぐらいになってくると、やはり「生き方」が顔に出て来る。
いじわるな人はいじわるな部分が顔に出て来るし、誠実な人は、誠実さがやっぱり表情に出ている。
「いいえ。最近は奥様のお食事も進んでいるようで、厨房の者達も、全員安心しております」
そうして。
誠実さが表情に出る笑顔を浮かべて、カイルは言った。
おそらく、どんな立場の者であっても、カイルは誠実な態度で接し、仕事をしているのであろう。
きっと、部下にも慕われているに違いない。
そして、カイルの一番注目するべき点は、やはりその体つきだ。
肩幅は広く、背筋はまっすぐに伸びている。その姿勢には自信と安定感が漂い、彼がどんな困難にも立ち向かう準備ができていることを感じさせた。腕は程よく引き締まり、無駄のない筋肉が、力強さとしなやかさのバランスを見事に保っている。
本当に理想的な体で、私は脳内で「ほおおおお!」と叫んでしまった。
しかし、それを表に出すわけにはいかないので、
「ありがとう。これからもよろしくお願いします」
と、あくまでも「フォレスト公爵夫人」の態度で、カイルに返事をした。
でも、本当は。
カイルに近寄って、
「その体になるためには、どんな体の鍛え方をしたの⁉」
と聞いてみたかった。
きっと、仕事に追われながらも、己の体をきちんと管理し、食事にも気を使っているに違いない。
その方法を教えてもらって、是非参考にしたい。
何せ、私にはアーマリアの体を鍛える、と言う最終目標がある。
今はストレッチがせいぜいだけど、最終的には、筋肉が適度に付いた、姿勢の良い体を目指したいのだ。
私がいつまでアーマリアの体にいられるかはわからない。
私がー「有希」がこの体に宿っている間に、その理想の体に一歩でも近づきたい。
そのためには、やはり効率的なやり方は知りたいな、と思っていた。
機会があれば、是非ご教授していただきたい。
私が思っているのは、それだけだった。
「言っておくが、カイルは既婚者だぞ」
しかし。
昼食後、何故か図書室で共にラベル貼りをしていたレイガが、そう私に言って来た。
その瞬間。
私の頭の中に、「ミモザ」と言う名前が思い浮かんだ。
確かに、アーマリアの記憶によると、カイルにはミモザという名前の、可愛らしい妻がいる。
「ミモザですね。元侍女の」
「そうだ。彼女は、とても可愛らしい」
「ええ、わかります。私が妻にしたいぐらいです」
私は、はしばみ色の瞳と赤い髪をした、ちんまりした女性を、記憶の中から見つけ出して、そう言葉を返した。
「は⁉」
「はい⁉」
だけど。
私の返事を聞いて、同じ机でラベル貼りの作業をしていたロゼとレイガが、素っ頓狂な返事をした。
「アーマリア……お前は、今、何と言った?」
「ミモザが私の妻にしたいぐらい、可愛いって話ですよね?」
「お前は……ミモザを妻にしたいのか⁉」
「ええ。だって、あんなに小さくて可愛らしいのに、仕事ぶりは、大変優秀なんですよ‼本当ならば、侍女の仕事に戻ってもらいたいぐらいなんですが、子どもがある程度大きくなったら、カイルと同じ厨房に入るのですよね?」
ちなみに、今私が言ったことも、アーマリアの「記憶」にあったことだ。
「お前は私の妻だぞ⁉」
「そんなの関係ありません。『カワイイ』は、正義です!」
私としては。アーマリアの「記憶」の中でのミモザの可憐さで、もうテンションマックスで。
正直、レイガの言葉など聞いちゃあいなかった。
でも、「記憶」の中でのミモザの姿は、本当にとてもかわいくて。
ミモザはアーマリアよりも八歳年上なのだけど、小さくて、可愛らしい女性だった。
アーマリアがフォレスト公爵家に嫁いで来た時は、彼女の侍女の一人として仕えてくれていた。
可愛らしい女性ではあるけれど、やはりそこは年上の女性として、アーマリアのことを気遣ってくれていた。
そう言えば。
ミモザは、
『奥様、旦那様は過去にお辛い経験をされていらっしゃいます。だから、まだ人を信じることができないでいらっしゃるのかもしれません。奥様が変わりないお優しさを伝えていけば、きっとわかってくださります』
みたいなことは、言わなかった。
まだこの館に来たばかりの頃は、アーマリアの侍女であったにも関わらず、ロゼが言っていたようなことは、口にしていなかった。
「お前はカイルが気になっているのではないのか⁉」
「はい。カイルの肉体も素晴らしいです! 肩幅は広くて、背筋はまっすぐに伸びていますし、腕は程よく引き締まり、無駄のない筋肉が、力強さとしなやかさのバランスを見事に保っているんですよ。どうしたらあんな風になるのか、是非教えてもらいたいです‼」
「アー……マリア?」
私の態度に。
レイガは、茫然とした表情になっていた。
カイルの肉体美とミモザの可憐さにテンションMAXになっていた私は、はっと我に返った。
我に返って、レイガとロゼを見ると、ロゼは完全に作業の手を止めていて、顔面蒼白になっていた。
レイガにいたっては、蒼白どころか、真っ白になっている。
しまったあああ!と思ったけれど、後の祭りだった。
私としたことが、理想的な体を持ったカイルにテンションが上がり、さらにアーマリアの記憶からよみがえったミモザの可憐さにやられ、すっかり我を忘れてしまっていた。
「有希」としての本音全開のトークをぶちまけてしまい、ロゼはもとより、レイガですらもドン引きさせている。
どうしたら良いかと、私が焦りながらも考えていると。
「お前は……カイルのような体になりたいのか……?」
「姫様……それは、体格的に無理かと……後、カイルさんの肉体に、姫様のお顔立ちは、ビジュアル的にアンバランスかと……」
二人とも、何故か死んだ魚のような目をして、そう私に進言してきた。
「カイルと同じような体になりたいわけではないですよ!」
私は慌ててそう答えたけれど。
「だが、ミモザのような嫁が欲しいのではないのか⁉」
「はい、それはそうなんですが」
それは、本当にその通りなのではある。
「だけど、私はカイルにはなれませんし。カイルのようにはなりたいですけど、それは無理だとわかっています」
だが、現実的には無理だと言うことは、言われなくてもわかっていた。
そもそも私は女で、カイルは男である。
体の作りからして違い過ぎる。
だから。
私が「アーマリア」として目指す姿は、彼女の目が明るく輝き、バランスの取れた食事と適度な運動のおかげで、彼女の体は引き締まり、健康的なラインを描いているような感じだ。
アーマリアは、体が細すぎるし、体力がない。
目指すのは、まず体力増強だ。
そのためには、御飯をしっかり食べて、体を動かす必要がある。
「ならば……『おしかつ』など、やらなくても良いのではないのか⁉」
しかし。
私の言葉を聞いて、レイガは思ってもいないことを言った。
「何言っているんですか。カイルのようにはなれなくても、それに近づくように努力することはできますよ」
けれど、それを私は秒で瞬殺した。
実際、カイルのような体になるのは無理だけれど、健康的になる努力は、今のアーマリアには必須項目だ。
「そんなに『おしかつ』がしたいのか!」
「はい。私は私のために、ストレッチもやりますし、何れはカイルのような体を目指して、筋トレもやりたいと思います!」
「……そうか……」
私が満面の笑みを浮かべてそう宣言すると、レイガは死んだ魚のような目のまま頷いて、そのままラベル貼りの作業に戻った。
それから、半刻ほど居心地の悪い作業時間を過ごして。
「旦那様、お時間です」
トントンと図書室のドアを叩いて、イルンがレイガを迎えに来た後、ロゼと二人きりになった時、ようやく人心地ついた気になれた。
「やれやれ、やっと一息つけるわね」
私は椅子から立ち上がり、背伸びをして、そう呟いた。
「私は生きた心地がしませんでした……」
そんな私に対して、ロゼはバッタリとテーブルに体を預けていた。
「あら、どうして」
「姫様は直接的にものを言い過ぎです!」
私の声掛けに、ロゼは体を起こして、くわつと言う表情で叫ぶ。
「そう? だって、言わないと伝わらないでしょう?」
本当は。カイルを食堂に呼んだ時も、止めて欲しかったのだ。
カイル達は仕事の途中で、わざわざ食堂に来てもらうというのは、申し訳ないという気持ちもあった。
もちろん、厨房は食堂の隣だから、移動に時間はかからない。
レイガは、きっと私に対して「良かれ」と思って行ったことだし、そこに私が不満を抱くなど、考えも付かないだろう。
これは、もともと庶民である「有希」の気持ちが強いせいなのかもしれないけれど。
私の記憶の中のアーマリアは、やっぱりレイガに自分の思いをわかって欲しい、と思っていた。
「でも、そんなにショックを与えるようなことを言ったのかしら」
「ご自覚ないのですか⁉ 自分の妻が『他の男のようになりたい』と言われ、『その男の妻を自分の妻にしたい』と言われたら、放心状態にもなりますよ!」
「私は、自分のためにカイルのような体になりたいし、ミモザのような可愛らしい子を自分の妻にしたいな、とは思うけれど。それが現実にできるとは思っていないわ」
そこで一度、私は言葉を切った。
「それに、あのままだったら、旦那様は、私がカイルのことを、異性として見ている、と思ってしまわれるじゃない」
そんなことはないのだが、カイルは私―「有希」の好みドンピシャ!なのである。
愛妻家のカイルのことだから、私とどうなるかなんて有り得ないが、私の思ってもいない態度が、要らぬ誤解を招くのは、やはり避けたい。
「情報量が多すぎるんですっ。責めて、小出しでお願いします!」
私の言葉に。「心の底から本心です」と言う表情で、ロゼが言った。
「私は、姫様が伸び伸びとされているのは、構わないんです。むしろ安心しています。ですが、お倒になってからの姫様は、あまりにも、伸び伸びされ過ぎなんです。このままでは、旦那様に離婚を言い出されるかもしれませんよ⁉」
「あ、それはラッキーよ、ロゼ」
私としては、本音全開で言ったのだけれど。
「いい加減にしてください!」と、怒られてしまった。
まあ、ロゼの言うこともわかりはするのだ。
この世界の結婚は、「惚れた晴れた」でやる類のものではない。まして「王族」と「臣下」の結婚となると、そこには家同士の思惑が重なってくる。
アーマリアの個人的感情で、すぐに「離婚!」となると、それこそ公家とフォレスト公爵の絆にヒビが入るだろう。それは、エーベルト公国の公女としては、避けるべきことなのかもしれない。
けれど。
それが、アーマリアが理不尽な扱いに耐える理由にはならない、と「有希」である私は思うのだ。
「まあ、とりあえずラベル貼りをしてくれたのは、旦那様の歩み寄りなのかな、とは思ったわよ?」
「そうですよ、旦那様は奥様のことを思われて……」
私の言葉に、ロゼは喜色満面になって言葉を続けようとしたが、
「でも、カイルのことに引っかかって、私に注意するために、言い出したことかもしれないしね」
私はそう言葉をへし折ってしまい、
「悪い方に考えないでくださいよっ」
とロゼを叫ばせてしまった。
ただ。ロゼに言った通り、レイガが私がやっているラベル貼りに興味を持ってくれたのは、私の考えを知ろうとしてくれたのかな、とは思えた。
けれど。せっかくの機会を、ああも説教と言うか牽制と言うか、「アーマリアを支配したい」と言う感情を漂わせながらの会話に使って欲しくはなかった。
「難しいな……」
私は、そう呟きながら椅子に座り、ラベル貼りの作業を再開するのだった。
★
それから一週間後。
「奥様、確認をお願いします」
私は、使用人の男性に呼ばれて、書架の前に立った。
書架の棚には、私が指定していた通りに、ラベルの番号順に本が並んでいる。
書架の横には、私が作成した配架表が貼ってあった。
「うん、大丈夫だわ。ダニエル、ありがとう」
私がそう言って、笑顔で頷くと、私の横に立っていた使用人の男性―ダニエルは、嬉しそうな表情になった。
「いいえ。お役に立てて良かったです」
それから私に頭を下げて、他の書架の棚の作業をしている同僚の手伝いに行った。
その姿を見送った後も、
「奥様、こちらの書架の確認を確認してもらってもよろしいでしょうか?」
そう、私は別の男性使用人に声をかけられた。
私は棚の前に立って、ラベルの数字を確認する。
ふと、確認しているラベルがシワシワになっていることに気付く。
それは、レイガが貼った物だった。
「奥様……どこか間違っているところがありますか?」
私がそのラベル達を凝視していると、男性の使用人―ロベルトが気遣うように言って来た。
「いいえ、何でもないわ。きちんと並べてあるわよ。ありがとう、ロベルト」
私は慌てて首を振った。
「あ、ここの本のラベル達、しわくちゃですね。誰がしたんだろう?」
ロベルトは不思議そうに言ったけれど、実はレイガがラベル貼りの作業を手伝った後、男性使用人、女性使用人関係なく、手の空いた者達が入れ替わり立ち替わり手伝ってくれて、時間がかかるだろうと思われていたラベル貼りも、一週間で終わってしまった。
そうして、その翌日に当たる今日、本を一斉に並べる作業を、男性の使用人達の助けを借りながら、行っているのだ。
「ああ、これは旦那様が貼られたものよ。だから、張替の必要はないわ」
私は、微笑みながらロベルトに告げた。
「そうなんですね」
「このような作業は、あまりお得意じゃないみたいね」
微笑みながら、そう言葉を続けると。
「でも、旦那様の剣技は見事なものですよ」
ロベルトは、慌てたように、私に言った。
「俺の兄貴……私の兄が騎士団に入っているのですが、旦那様の剣技は、それはそれは見事だと、絶賛していました」
「あら、そうなの?」
私はその言葉に。目をぱちくりとさせた。
私が「有希」の意識を持って目覚めてから、アーマリアとして会ったレイガは、「夫」としての姿だけだった。
考えてみれば、このフォレスト公爵家は、エーベルト公国の国境を守ることを役目としている。
「もし機会があれば、是非見に行かれてください。私も見たことがありますが、まるで演舞のような剣さばきでした」
ロベルトはその時のことを思い出しているのか、とても高揚した表情をして、私に言った。
「そうなのね……」
私はそのロベルトの言葉を聞いて。
レイガが、剣の演習場に行ってみたいな、と思った。
どうやらレイガは、私に寄り添おうとしてくれているのは、一緒にラベル貼りの作業をした時から気付いてはいた。
発言諸々は突っ込みどころもあるけれど。
今までアーマリアを、DVまがいに縛り付けようとしていたのに、アーマリアである私がすることには、口を出しつつも「するな」とは言ってこないし、「何をやっているのか」と、見に来ている。
ロベルトのさっきの言葉には、私の知らないレイガがいた。
「まるで演舞のような剣技」とは、どんな動きなのか。
見てみたいな、と私は素直にそう思った。
「奥様、本を全て棚に並べ終えました」
そうして。
そんなことを考えながら使用人達の作業を見守り、時々本の並びを確認していると、ダニエルがそう私に報告しに来てくれた。
「ありがとう、助かったわ」
私は椅子から立ち上がり、ダニエルにお礼を言った。
本当は立ってダニエル達の作業を見守りたかったのだけど、それはダニエル達を恐縮させるみたいだったから、避けるべきだなと判断して、素直に椅子に座って作業を見守っていた。
「みんな、ありがとう。とても綺麗に並べられています」
私の言葉に。ダニエルとロベルトと他一緒に作業をしてくれた二人の男性使用人達は、
嬉しそうな表情になって、頭を下げてくれた。
「無事に図書室の整理はすんだようだな」
その日の夕食時。
レイガは、相変わらずのむっすりした表情で、私に話しかけて来た。
本日はレイガが用事で出かけており、昼食は共にしなかったのだ。
正直とても気楽で、カイルの料理も堪能できたのだけれども。
まあ、夫婦である以上、無視を決め込むことはできない。
「はい、おかげ様で」
私は、できるだけ食事の前に余計なことは済ませたかった。
不毛な会話で、せっかくの料理の美味しさを台無しにはしたくない。
だから、料理が運ばれてくる前に、レイガとの会話を進めることにする。
「図書室の整理が終わったら、どうするつもりだ」
「本を読みます」
レイガの問いかけに。私は、そう言葉を返した。
「本を読む……?」
「はい。私は、まだこの世界のことを知りません。知りたいことがたくさんありますので」
「知ってどうするんだ?」
レイガのこの問いかけには、「知っていても意味があるのか」という意味が含まれているような気がした。
だから。
私は、キョトンとした表情になってしまった。
「『知りたい』と思うことに、理由が必要なんですか?」
私の問いかけに。レイガが、あんぐりとした表情になった。
「理由が必要かって……」
「はい。必要ですか? 理由が」
呆気にとられているレイガに、私は言葉を重ねた。
「私が『知りたい』と思うから、本を読むのです」
私の言葉に。
レイガは黙り込んでしまった。
そのタイミングで、侍女達が料理を運んでくれる。
夕飯は、昼食や朝食に比べると豪華だ。
前菜は、トリュフとフォアグラのパテ ブリオッシュ添えで、香り高い黒トリュフと滑らかなフォアグラを合わせた濃厚なパテを、ふんわりと焼き上げたブリオッシュにのせていただく。
一口食べれば、バターの甘みとフォアグラのコクが広がり、トリュフの芳醇な香りが鼻をくすぐる。
海老のスープは、じっくりと炒めた海老の殻から抽出した濃厚なスープに、生クリームを加えて仕上げてあった。
ひとさじ口に含めば、海老の旨味が溶け込んだクリーミーな味わいが広がって、芳醇なブランデーの香りが余韻を引き立て、まるで海の宝石を味わっているかのようだった。
メインは舌平目のムニエル キャビア添えで、新鮮な舌平目をバターで香ばしく焼き上げ、レモン風味のバターソースをかけてあった。
仕上げにキャビアを添えることで、バターのコクと魚の旨味に塩気と深みを出して、ふんわりとした舌平目の食感とキャビアのプチプチとしたアクセントが絶妙なバランスを生み出している。
デザートは、金箔を散らしたクレームブリュレで、バニラビーンズたっぷりのカスタードクリームを低温でじっくり焼き上げ、表面にキャラメリゼを施したクレームブリュレ。スプーンを入れると、パリッと割れたカラメルの甘さが口いっぱいに広がり、濃厚なクリームが優しく舌を包み込み、最後に金箔がきらめき、まるで食べる宝石のような贅沢な一皿だった。
食事の続けている間、レイガは終始無言だったので、私としても料理が堪能できるのは、ありがたかった。
そうして。
食事の後、珈琲が運ばれてきた時、私はレイガに言うべき言葉があったことを思い出した。
「すいません、旦那様。私、旦那様にお願いしたいことがあるんです」
なので、レイガがカップをソーサーの上に置いたタイミングで、私は話を切り出した。
「何だ?」
私の声掛けに、不機嫌そうにレイガは顔を上げる。
「私、剣技場の見学に行きたいんです」
一瞬。レイガは、私の言葉に固まってしまった。
「見学……?」
「はい!」
「どこの……?」
「剣技場です」
「なぜ……?」
「旦那様の剣技が見たいんです」
私は、まるで一問一答だなと思いながらも、レイガの問いかけに答えていると。
何故かそのまま、レイガは固まって何も言わなくなってしまった。
結局。私は、「来ても良い」という許可を貰えなかったけど、「来るな」と言うことも言われなかった。
このまま、返事を待つことも一つの方法ではあるけれど。
バツイチである「有希」のカンが、「それは止めておけ」と言っているのである。
やはりここは、人生の先輩である人物に相談するしかないと私は思い、ロゼにその人物を呼んでくるように頼んだ。
「よろしいと思います」
そうして。
夕食の後だと言うのに、私の部屋まで来てくれたアマンダは、私の問いかけに頷いた。
「旦那様は、戸惑われているだけです」
「そうなのですか?」
「慣れていらっしゃらないのですよ、このような状況に」
「このような状況?」
アマンダの呆れたような口調に、私は問い返した。
「奥様に自分の仕事を見られる、という状況です」
私は、一瞬。アマンダが何を言っているのか、わからなかった。
「それは、私も初めて見ますから」
「ええ。そう言われるとは、考えもしていなかったのだと思われます」
「そうなのですか?」
私は、アマンダの言うことは良くわからなかった。
けれど。
「はい。是非見に行かれてください」
アマンダが、私がレイガの剣技を身に行くのを、「良し」としていることは、理解できた。
「ただ、ですね。『奥様』として行くことはオススメしません」
「あ、そうね。他の騎士の人達が気を使って、訓練に集中できなくなるものね」
私がアマンダの言葉に頷くと。アマンダは、首を振った。
「いいえ。旦那様が緊張されるからです」
「え⁉」
アマンダの意外過ぎる言葉に、私は目を見張ってしまう。
「緊張?」
驚きのあまり、アマンダをまじまじと見てしまうけれど、彼女は深く頷いた。
「はい。なので、旦那様にはバレないように、準備をしましょう」
「旦那様に言わなくて、旦那様はお気を悪くされませんでしょうか?」
私はレイガにバレたら、また怒鳴り付けられるのではないか、と思ったのだが。
「その心配は大丈夫です。何かあったら、私が責任を持ちますので」
アマンダは、そう言って微笑みを浮かべながら、頷いた。
★
そうして。
「『鉄は熱い内に打て』と言いますからね」
と言い放ったアマンダの決断で。
私は、次の日には剣技場に向かっていた。
恰好は、いつものドレス姿ではなくて、動きやすい、料理人のものである。
私の長い銀の髪も、「動きにくいでしょう」とアマンダが言ってくれて、腰まであったものを背中ぐらいまで、プロの人を呼んで切り揃えてくれた。
「かまわないのですか?」
と、ロゼはアマンダに尋ねていたし、私もそう思ったけれど。
「誰の許可がいるのですか? 奥様ご自身の髪のことですよ。奥様がお決めになればよろしいのです」
と、アマンダは何でもないことのように言ってのけてくれた。
小説の「ひとひらの雪」では、アマンダはあまり出てこなくて、何なら「アマンダ」と言う名前すら書いてなかったけれど。
実際はとても頼りになる人で、小説のアーマリアも、アマンダに相談していれば、違う結果になっていたかもしれなかった。
考えてみれば、「ひとひらの雪」のアーマリアの周りにいたのは、ロゼとかイルンとか、年齢の近い人達が主で、一番年齢が上なのがレイガだった。
「レイガ」が彼らの一番上にいたから、レイガの発言や考えが重要視されていて、「その通りにしないといけない」と、無意識に考えていたのかもしれない。
キャロラインの暴走だって、主であるアーマリアが止めなかったから、他の使用人達も止められなかっただけで、本来ならば、アマンダが出て、キャロラインの暴走を諫めてくれた可能性もあったのだ。
私も三十五歳でアーマリアやレイガよりも年上だけど、私よりもさらに年上のアマンダの経験と知恵を頼れば、アーマリアの最後は、きっとなかっただろう。
ただ。
小説のアーマリアには、そんな気力も体力も残されていなかった。
私が「アーマリア」の体に宿って、体力回復のためのストレッチをやることで、周りの様子がやっと見えて来るようになったのだ。
ちなみに、アマンダも調理人の姿だ。
そのすぐ傍には、大きな台に四つの車輪が付いた、リヤカーみたいなものに、大きなバケツの形をしたスープ入れと、焼き立てのパン、薄く切られたハムと野菜が載せてある運搬車を引く、カイルとその後ろを押しているミモザがいた。
私の姿を見たミモザは、
『いやああああ! アーマリア様、お久しぶりです!』
と、萌えまくっていた。
アーマリアの記憶にあるミモザは、小さかったけれど、「大人の女性」としての姿だったので、若干引いてしまったのは、秘密である。
『おい、ミモザ』
と、カイルに声をかけられて、はっと我に返ったミモザは、
『すいません、アーマリア様。あまりのお美しさに、我を忘れてしまいまして……』
と、慌てて頭を下げてきた。
『ありがとう。でも、料理人姿のミモザも、とても似合っていると思うわ』
久々に会ったミモザは、私の知っているメイド服ではなくて、料理人の服だったけれど。
思った以上に、彼女に似合っていた。
『ありがとうございます、これはお義母様……アマンダ様が、私に合うように縫い直してくださったんですよ』
ミモザの言葉に。
「アーマリアの記憶」の中から、「カイルとアマンダは親子」という事実が、浮かび上がって来た。
確かに、今日は「訓練をしている兵士達の昼食を運ぶ」という名目で、私はこの昼食を運ぶ役目を担った料理人達の中の一人になっている。
『その中に紛れ込めば、旦那様もお気づきになり難いと思います』
と、アマンダは言ってくれていたけれど。
私のために、この仕事を身内で固めるように段取りをしてくれたのだろう。
そんなアマンダの心遣いに感謝しつつ、私は持っていたパンが入った籠を落とさないように気をつけながら、館を出てから十分ぐらい立った頃。
石積みの、大きな壁が見えて来た。
「あれが、剣技場ですよ」
その石積みの壁を指さしながら、アマンダが教えてくれる。
しばらくすると、大きいアーチの門が見えて来て、私達は、その門をくぐった。
剣技場は広々とした石造りの闘技場で、周囲を高い壁が囲んでいた。中央には円形の闘技スペースが広がっていて、場内には、打ち合う刃の高い金属音が響き渡っていた。
広さは、私が通った高校のグランドぐらいの広さで、各々にスペースを取りながら、兵士達が打ち合いを行っている。
兵士達は、鍛え抜かれた肉体を駆使し、互いの隙を探り合いながら鋭い突きを繰り出していた。周囲では師範や熟練の兵士たちが静かに見守り、ときおり低く助言を囁く声が聞こえてくる。
壁際には大小さまざまな剣が並べられていて、細身のレイピアから、分厚い両手剣まで、その刃には過去の戦いの痕跡が刻まれている。 空気は汗と鉄の匂いに満ち、陽光が差し込むたびに鋼の刃が鈍く光った。
「すごい……」
本で読んでいた世界が目の前に広がっているのを見て、私は思わず呟いてしまった。
「昼食の運搬、お疲れ様です……と、アマンダ様⁉」
私が剣技場の様子を見とれていると、入口近くに立っていた兵士がそう言いながら近寄って来て、荷車のすぐ隣に立つアマンダの姿を見て、驚きの声をあげる。
「大きな声を上げぬように。本日は、コーランド殿と旦那様の模擬戦を見に来たのです」
その若い兵士に、アマンダは人差し指を唇の上に持っていき、そう言った。
「アマンダ、模擬戦って……」
「本日は、模擬戦を行うんですが、叔父上……コーランド殿と旦那様の模擬戦は、本番さながらの迫力なんですよ」
私の問いかけに、アマンダの代わりにカイルが答えてくれた。
「カイルの叔父様は、兵士なのですね」
「はい。カイル殿の母上であるアマンダ殿と共に、若い頃から名うての剣士でした」
私の言葉に。私達の近くにいた兵士が、目を輝かせながら教えてくれる。
「……え?」
その言葉に。
私は目を見張った。
「あ、アマンダ……」
思わず、声を上げてしまう。
「アマンダは兵士だったのですか⁉」
「昔の話ですよ」
私は小さめな声で言ったつもりだったけれど、アマンダは苦笑を浮かべながら、再度人差し指を、唇の上に置いた。
「シー」の仕草はこの世界にもあるんだな、と私は思いながら慌てて両手で口をふさいだ。
「あ、始まりますよ」
そうしているうちに、鍛錬をしていた兵士達は、石の壁の方にぞろぞろと近づいて来て、それを背に座り始めている。
剣技場の中央には、五十代ぐらいの屈強な体をした男性と、レイガが立っていた。
二人とも、手には剣を持ち、構えの姿勢になった。
屈強な体をした男性―コーランドには、刻まれたような深いしわがあり、その経験豊富な目は数々の戦いを乗り越えてきた証だった。
一方、レイガは若さゆえの自信に満ち、身体は鍛え上げられていた。
先に動いたのは、レイガだった。
レイガは剣を握りしめ、突進した。
コーランドは、一瞬の隙を逃さず、足を巧みに使い相手の動きを見極める。
レイガの攻撃は速く、力強いが、コーランドは、まるで川の流れを読むかのようにそれを避ける。
コーランドのカウンター攻撃がレイガの防御を突き崩す。
レイガの息遣いが荒くなるが、その瞳には決意が宿っていた。
二人の剣が交錯し、火花を散らす。
最終的にコーランドがレイガの剣を打ち落とし、模擬戦は終わった。その瞬間、周りの兵士達から歓声が上がった。
「すごいっ」
「コーランド殿は本当に五十歳なのか⁉」
「旦那様の動きも速かった! 俺だったら、あれだけ抵抗などできない」
私の近くにいた兵士達も興奮したように、口々にそんな言葉を言っている。
コーランドとレイガは互いに向き合って礼をすると、剣を持っていない手で握手をしていた。
コーランドは微笑み、レイガの肩を叩いた。
何か言葉をかけられたのか、その言葉に励まされたようで、レイガの瞳には新たな光が宿ったようにも見えた。
「では、お昼の準備をしましょう」
レイガの様子に見入っている私に、アマンダがそう声をかけてきた。
「わかりました」
私はその声にはっと我に返り、昼の用意の準備を始めた。
どうやらいつも剣技場に置いてあるらしい大き目のテーブルを兵士の人達が運んで来てくれて、アマンダは荷車に積んでいた布でそのテーブルを拭いた。
続いてカイルがその筋肉逞しい体躯で、スープが入っていた食缶を四つどん!と置き、ミモザが流れるようにお皿を並べた。
「おお、今日も旨そうだな!」
周りにいた兵士達は、今にも取りに行きたそうにしているが、
「お待ちなさい! 待てないならば、食べる資格はございませんよ‼」
アマンダがそう言い放った瞬間。
「ア、アマンダ殿⁉」
「アマンダ殿自ら……!」
アマンダと同世代らしい兵士達から、驚愕の声が上がる。
「アマンダ……?」
「まさか、伝説の……?」
さらにその下の世代であろう兵士達からも、そんな声が上がる。
伝説⁉と、そんな思いでアマンダを見るが、アマンダはすごいスピードで、ミモザが並べたお皿にパンを乗せ、
「ハムを乗せて貰えますか?」
と、私にも声をかけて来た。
「あ、はい」
アマンダの正体に呆気に取られながらも、私は慌てて、昼食の準備に加わる。
ミモザはパンに挟む野菜を置いていっているのだけど、私よりも遥かに置くスピードが速い。
私も必死でハムをトングで掴んで置いてを繰り返して、どうにか作業を進める。
「では、どうぞ。順番にお願いしますよ」
アマンダがそう声をかけると、兵士達は待ち構えたように、次々と用意されたお皿とスープ皿を取って行った。
しかし、レイガの姿は何時までも見えない。
「旦那様、どうしたのでしょうか……」
私がアマンダにそう声をかけると、
「では、行きましょうか」
と言って、食事を乗せるトレイに、二人分の食事を用意して、
「奥様は、飲み物をお願いします」
と、私に飲み物が置かれたトレイを差し出して来た。
「わかりました」
私は頷くと、アマンダが差し出してくれたトレイを持って、彼女の後を追った。
アマンダは食事を持って、外へと出て行く兵士達とは逆に、剣技場の奥へと入って行く。
「旦那様、コーランド、ご苦労様です」
そうして。
まだ、剣技場の真ん中で座り込んでいたコーランドとレイガに、声をかけた。
「姉上……」
アマンダを見たコーランドは一瞬顔をしかめたけれど。私の顔を見た瞬間。
「奥方様⁉」
と、声は抑えつつも、驚きの声を上げる。
「アーマリア、何故ここに……!」
「お静かに」
私を見て驚く二人に、アマンダはそう人差し指を唇の上に置いて、囁いた。
「何故、ここにいる」
けれど、レイガは私をにらむようにして、私に問いかけて来る。
トレイを持った手が、震えていることがわかった。
けれど、私が口を開こうとしたとたん、
「何ですか、若。俺に負けたのを見られたくなかったんですか?」
途端に、コーランドが突っ込んできた。
「なっ、ち、違う……」
「奥様が、旦那様の剣技を見たいとおっしゃったのですよ」
「何だ、そうだったんですね。教えて頂ければ、多少は手を抜いたのに」
「何をバカな事を。そのような余裕は、なかったでしょう?」
軽口を叩くコーランドを、呆れたようにアマンダが言った。
「わかりますか、姉上?」
「わかりますよ。ギリギリの勝利でしたね」
そう言いながら、アマンダは座り込んでいる、コーランドとレイガの前に、トレイを置いた。
「俺にも一応、まだまだ若には負けられない、と言う気概はありますんでね。俺に勝つまで奥方様に剣技の試合を見せないってのは、現実的ではありませんよ」
コーランドの言葉に、レイガは気まずそうに顔を伏せる。
どうやら、図星だったらしい。
「あなたも旦那様も、全力で戦っていたではないですか。だから、動けないのでしょう?」
アマンダは、私から飲み物のトレイを受け取ると、食器が載ったトレイの横に置く。
そうして。
「それに、旦那様。コーランドがアイラに初めて剣技試合を見られた時は、コーランド瞬殺でしたからね」
そう、言葉を続けた。
「あれに関しては、俺は今でも姉上に言いたいですよ! 姉上はご存じだったんですよね⁉それなのに、コテンパにしてくれて‼」
そう叫び出したコーランドに、私とレイガは呆気に取られた。
「アマンダは、本当に兵士だったのですね……」
「昔のことですよ。旦那様が生まれる前の話です」
私の言葉に、アマンダはコーランドに飲み物の入ったカップを渡しながら、そう答えた。
「それに、コーランド。アイラの前でかっこつけたかったあなたの気持ちもわからないのではないですが、偽りの自分を見せて、アイラがあなたの妻になってくれたと思いますか?」
「そ、それは……」
「それにアイラは、私にどれだけ叩き付けられようと、立ち上がって私に向かっているあなたに惚れたと言っていましたよ?」
「えっ⁉」
アマンダの言葉に。
コーランドは、コップを落としそうになった。
それを、アマンダが手を添えて防いでいる。
「す、すいません、姉上!」
「気を付けてください、こぼれてしまいますよ」
アマンダはそう言って、私の方にくるっと顔を向けて来た。
「奥様は、旦那様の剣技を見てどう思いましたか?」
「え?」
私的には、急に矛先を向けられたような気がしたけれど。
「ええと、とても綺麗だと思いました」
そこにはアマンダの配慮があったような気がして、私は素直に自分の気持ちを伝えた。
「剣技に、き、きれい……」
「無駄のない動きで、流れるように動いていらっしゃったので、まるで舞っているように見えたんです」
レイガは怒鳴りそうになっていたけれど。
さらに私が言葉を重ねると、真っ赤になってしまった。
どうやら、本当にレイガは「負けたところをアーマリアに見られたくなかった」らしかった。
私の視線を避けるように、顔を横にしている。
それを見て。
ああ、この人は本当に「恋愛」というものをしてこなかったんだな、と思った。
「奥様、そろそろ戻りましょうか」
そんな私に、アマンダが声をかけてくる。
「あ、はい」
アマンダの言葉に、レイガの隣に座っていた私は、立ち上がった。
「旦那様、コーランド、食器は戻してくださいね」
まだ座っている二人には、振り返りながら言うと、アマンダは歩き出した。私もその後を追って、歩き出す。
私達が荷車の所まで戻る間に、食事を終えた兵士達が食器を持って、荷車の方に向かって行った。
「ごちそうさまでした」
「美味でしたよ」
荷車のある場所に戻ると、兵士達はそんなことを言いながら、カイルとミモザに食器を渡していた。
「ただいま戻りました」
私とアマンダもその中に入って、兵士達から食器を受け取ると、荷車に積んで行った。
結局、コーランドとレイガは食器を戻しに来なかったけれど、何人かの兵士達は、自分以外が使った食器を渡して来たから、疲れている者の食器は、動ける者が持って行く習慣ができているのだろう。
「では、私達も戻りましょう」
そうして。
アマンダがそう声をかけてきたので、私はアマンダ達と一緒に、もと来た道を戻って行く。
昼食を終えた兵士達は、剣を片手に剣技場へと戻って行っているのが見えた。
「午後からもやるのですね」
「それが彼らの仕事ですから」
午前中の訓練だけでもきつそうだったのに、午後もやるのだ。
「もちろん、一日続けるのは、毎日ではありませんが。しかし、いつ何が起こるかわかりません。フォレスト公爵領は、他国と国境を接しております。兵士達は、いざと言う時、自身の最高の力を発揮できるよう、日々研鑽しているのですよ」
アマンダの言葉に。
私は、思わず剣技場を振り返った。
ああやって、陽気に振舞っていたけれど。
いつ、自分の命を失うのかわからないのだ。
「奥様のお父上―大公様のおかげで、そこまで大きな戦闘はありませんが、やはりそれなりに、国境近くではもめ事はありますからね。ですが、この国のためにフォレストの兵士達は、誇りを持って、自らの命をかけているのです」
「それは、旦那様も……」
「そうですね。その誇りは、お持ちだと思います」
私の問いかけに、アマンダはそう答えてくれた。
「アマンダも……そうでしたか?」
「今でも、私は同じ気持ちです。この国を守るのは兵士だけではありません。私は私なりのやり方で、この国を守る手助けをしている、と考えています」
その言葉に。
私はアマンダらしいな、と思った。
「それにしても、久しぶりに模擬試合を見ていたら、私もやってみたくなりましたよ」
そうして。
アマンダは、そんなことも言った。
「それは良いですね、母上。かつてのようはいかないでしょうが、体を動かすのは、健康にも良いですしね」
それを聞いて、荷車を引っ張っていたカイルが、言った。
それを聞いた瞬間。
「アマンダ、それは私も一緒にやることはできませんか?」
私は、そんな言葉を口にしていた。
「奥様?」
私の発言に、ミモザが驚いたように、私に声をかけてきた。
アマンダは、足を止めると、私をマジマジと見つめる。
「……奥様は、どうして私と一緒に剣の練習をしたいのですか?」
「私は、自分を鍛えたいのです。自分のことぐらい、自分で幸せにできるようになりたいのです」
「そのために、『すとれっち』や『きんとれ』をされているのですか?」
私の答えに、アマンダは静かにそう問いかけて来た。
その言葉に、私は目を見張った。
私は、アマンダには確かに足のストレッチについては教えたけれど、「ストレッチ」や「筋トレ」と言った言葉は使っていない。
「奥様は、離縁を考えていらっしゃるのですか?」
多分。
イルンやロゼから話が行っているのだろうな、と私は気付いた。
「それも含めて、私は私の『幸せ』を考えたいのです」
けれど、私は誤魔化すことはしなかった。
今の素直の気持ちを、アマンダに伝えてみた。
何時の間にか私達は歩みを止めていた。
カイルとミモザは口を挟まず、静かに待っていてくれている。
草の匂いを含んだ風が、私達の間を吹き抜けていく。
「……わかりました」
やがて、アマンダは静かに頷いてくれた。
「私も剣を振るのは、久しぶりです。最初は体を作ることをするつもりなので、それを共にやりましょう」
「ありがとう、アマンダ」
私は、アマンダの言葉に笑顔を浮かべてお礼を言った。
「ですが、奥様。奥様自身でも、やれることはやっておいてください」
それに対して、アマンダは真剣な目で私に言った。
再び私達は歩き出したが、
「奥様……大丈夫ですか?」
荷車を引っ張っていたカイルが、こっそりと話しかけて来た。
「カイル?」
「叔父上が、母の言う『練習』は、『特訓』である、と言っておりました」
「―えっ?」
私は、一瞬。
その言葉に固まってしまった。
五十歳でありながら、あんなに俊敏な動きができるコーランドが、「『練習』ではなく、『特訓』だ」と言うのだ。
つまり。
私が考える以上に、アマンダが行う「体力作り」は、ハードな可能性がある、ということなのだ。
けれど。
「まずは、やってみます」
私は、カイルにそう答えた。もしかしたら、着いて行けるかもしれないし、やってみて「きつい」のであれば、「申し訳なかったけれど」と、辞退すれば良いのだ。
自分一人の考えだけだと、限りが絶対に出て来る。
アマンダと一緒に「体力作り」をして、何か良いアイディアが出ればラッキーなのだ。
「母にも、声掛けはしておきます……」
「それは、頼んでおきます」
私は、半ば本気でそれはカイルに頼んでしまった。
★
でも、その日の夜。
私は、無様にもダウンしてしまった。
今日私がやったことは、料理人達の恰好をして、剣技場まで行って、レイガ達に食事を持って行って、館まで戻って来た。――ただ、それだけなのに。
部屋に戻って来た瞬間。
ベッドへとダイブしてしまった。
「ちょっ、お、奥様⁉」
そんな私の姿を見て、ロゼは慌てているようだった。
「ごめんなさい、ロゼ……。お風呂の時間まで、寝かせてもらえる?」
「構いませんが、お召し変えは……」
ロゼが話かけて来たことはわかっていたけれど、私はそれに答えることはできなかった。
そうして。
私は、夢を見た。
私は、勤めていた小学校の中にあった図書館にいた。
「最近の調子はどう?」
カウンター席に座っていた私に、話しかけて来た人物は。
「今日子……」
もう、この世にはいない相方だった。
「そうだね。自分の体力のなさに、落ち込んでいるよ」
「あら、そうなの?」
「そうなの。ちょっと動いただけなんだけど、倒れそうなぐらい疲れるのよ」
私は、ため息を吐きながら言った。
どうして、この図書館にいるのか、とか。
今日子が何で今の私の夢に出て来るのか、とか。
そんなことは思わなくて、本当にあの頃とー一緒に働いていた頃と同じ気持ちで、私は今日子と話していた。
「ストレッチはしている?」
そうして。
今日子も、あの頃と同じように私と話している。
「うん。今日子に教えてもらった本に書いてあったものを、思い出しながらやっているよ」
「なるほど。じゃあ、体力を付けることが目的の運動もした方が良いよね」
私の言葉に。
今日子は、そう返した。
「うん。私もそう思って、庭を散歩しようとしたんだけど、歩きにくいドレスを着せられて、高―いヒールの靴履かされてさ、ウォーキングなんてできたもんじゃなかった」
私は、ため息を吐きながら言った。
「その前にも、『お庭を散歩する準備』が、けっこう大がかりでさ。気軽に、『お散歩行けます』の状況じゃあないのよ」
「ああ。まあ、この世界じゃそうなるよね。だったらさ、スロージョギングはどうかな?」
「スロージョギング?」
私達は、あの頃と同じように、会話を続けた。
どうして今日子がここにいるんだろう、とは思ったけれど。
「そう。ゆっくりとしたスピードでのジョギングで、歩くスピードと変わらないか遅いくらいのペースで走るんだよ」
今日子は、そう説明してくれた。
「スロージョギングはね、肘は軽く曲げ、腕を自然に振って、走るときには体を左右に揺らすことなくそれぞれの足がまっすぐに前に出るようにし、平行線を描くようにして走るの。歩幅はだいたい四十センチ前後を目安にして、足の指の付け根で着地する「フォアフット走法」を意識してね。一分走ったら、三十秒歩いて、息を整えるんだよ」
「でも、今の私は、そんな気軽に外に出ることはできないのよ。さっきも言ったでしょ? 庭を散歩するだけで、動きにくい恰好をさせられたんだから」
「まあ……、今のあんたは『お姫様』だからね」
私の言葉に。今日子は、苦笑を浮かべた。
「だったら、皆が起き出す前に、走ったらいいじゃない。このスロージョギングは、部屋でもできるから」
「どうやるのよ」
「だいたいお布団の距離を、八の字の形で繰り返し走るの。長くなくて良いのよ、五分ぐらい。今も、ストレッチ朝活でやっているんでしょ?」
「瞑想とセットでやっている」
「じゃあ、そこにスロージョギングも付け加えなよ。多分、ストレッチだけより絶対良いよ」
そう言って、笑顔を浮かべる今日子に。
「ねぇ、これって、夢だよね?」
私は、不意にそう問いかけた。
「そうね。これは、『夢』よ」
「どうして、『アーマリア』である私が、あなたの夢を見るんだろう?」
私がそう問いかけると。ふふふ、と今日子は笑った。
「だって、夢だから。ここは、夢の世界なんだよ」
そこで、私は目を覚ました。
★
目が覚めた時、まだ周りはまだ薄暗かった。
私は一瞬、ここがどこなのかわからなかった。
だけど、スプリングが効いて、レースのカーテンが付いたベッドに寝ていることに気付いて、自分が「アーマリア」として目覚めたんだな、と認識することができた。
さっきまで見ていた夢は、私は「麻生有希」だった。
でも、目が覚めた今は、「アーマリア」として存在している。
それは、何だか奇妙な気持ちがした。
今の私は確かに「アーマリア」で。
アーマリアの外見の特徴である、長い銀髪と青い瞳を持っている。
でも、何故か今の私は、「アーマリア」ではなくて、「麻生有希」として、この世界の「夢」を見ているような気がしたのだ。
これは、どういうことなのか。
私が今いるこの世界は、あちらの世界の「麻生有希」が見ている「夢」であって。
いつか、この世界から目が覚めて、元の世界に戻れるのか。
ならば、「有希」である私は、死んでいないのか。
そうして。
不思議なことは、もう一つあった。
それは、今日子が夢の中で教えてくれた、「スロージョギング」のことだった。
私達は、ストレッチや筋トレ、ダイエットのことは話していたけれど、スロージョギングのことは話したことはなかった。
それなのに、「アーマリア」である今私には、この「スロージョギング」の知識があって、それは夢の中の今日子が教えてくれたからである。
夢の中の今日子は、本人なのか。
私がいた世界に、今日子はもういない。
夫である人の心ない仕打ちに病んで、自ら死を選んでしまった。
でも、夢の中の今日子は、まるで生きているようだった。
あの夢は、死後の世界だったのか。
「……考えても、仕方ないか」
そこまで考えて。
私は、首を振った。
今の私は、「アーマリア・フォレスト・エーベルト」であって。
おそらく、アーマリアの意識の中に憑依しているような状態だとは思うのだけれど。
私は、私の中にいる「アーマリア」を、推すと決めたのだ。
ならば、新に得た「知識」は、早速彼女のために使うべきだった。
私は今、ネグリジェのような寝間着を着ているから、裾を踏まないように、下の部分を腰辺りで縛って、ベッドから降りた。
それから、夢の中の今日子が教えてくれたように、ベッドの横の床を、八の字の形で走り出す。
最初は丸を書くように走って、真ん中の部分でクロスするように、反対側に移動して、また丸を書くように走る。
床に八の字を書くように走って、肘は軽く曲げ、腕を自然に振って、走るときには体を左右に揺らすことなくそれぞれの足がまっすぐに前に出るようにし、平行線を描くようにして走る。
歩幅はだいたい四十センチ前後を目安にして、足の指の付け根で着地する。
枕元に置いてある、小さい置時計を見て、だいたい一分ぐらい続けてみると。
汗をかいているのに気付いて、ゆっくりと走るのを止めた。
息も荒くなっていて、本当にアーマリアであるこの体は、運動をしていなかったんだな、と私は実感した。
汗を拭いて、またパタンとベッドに倒れ込んだ。
「アーマリア……あなた、本当に体力ないね」
思わず、そう呟いてしまった。
そのまま目を閉じて、瞑想をすることにした。
まず口から息を吐く。五秒ぐらいで、身体中に溜まった空気を、ゆっくり吐ききる。
次に、五秒息を止める。
舌の位置が大事で、上アゴの裏側に当てる。
最後に、鼻から息を五秒かけて吸う。
鼻息が聞こえないように静かにゆっくり吸い込む。
頭の中で手順を確認しながら、私は瞑想を続けた。
深呼吸を続けると、心が落ち着いて行くのがわかった。
瞑想を始めた頃は、頭の中に色々と考えが浮かんで来ていたけれど、最近は頭の中が凪いでいるように、静かな瞬間がある。
このまま眠ってしまいたいけれど、私は十五分間瞑想をしたら、目を開けて、そのまま横になったまま、下半身のストレッチと上半身のストレッチ、「ねこのび」の動きを行った。
随分と、体も動くようになって来たな、と自分でも思った。
「ごろ寝で前ならえ」を最後にやって、私は目を閉じた。
そこから、十五分ぐらい経った頃。
「奥様、おはようございます」
コンコン、とドアがノックされる音がした。
部屋の外から聞こえるロゼの声に、私は目を開けて、ベッドから起き上がった。
「おはよう、ロゼ」
ワゴンを押しながら部屋に入って来たロゼに、私は声をかけた。
「おはようございます、お体の調子はどうですか?」
「大丈夫よ、ありがとう」
私がそう言うと、ロゼは安心したような表情になった。
「お腹は空いていらっしゃいませんか?」
「それも大丈夫。まだそんなに空いてないわ」
私がそう言うと。
「それでは、先にお風呂に入りましょう。準備が整ったら知らせてくれるようになっているので、しばらくお待ちください」
ロゼはお茶を用意して、ベッドの上に簡易テーブルを置いてくれて、その上にお茶が入ったカップを用意してくれた。
「ありがとう」
私はベッドに座ったまま、ロゼにお礼を言って、カップを手に取った。
「奥様……お体の調子はどうですか?」
お茶を飲む私に、ロゼは恐る恐ると言った感じで、話しかけて来た。
「大丈夫、疲れただけだから」
そんなロゼに、私はお茶のカップをソーサーの上に置きながら答えた。
「でも……お疲れ過ぎじゃないんですか?」
ロゼは、部屋に戻るなり夕食も取らずに眠ってしまった私を、とても心配してくれているようだった。
「本当に、大丈夫よ。ただ、ごめんなさい。余計な手間をかけさせちゃったわよね」
私が夕飯も食べずに眠ってしまったことで、ロゼ達に余計な手間をかけさせたのは、反省しなければならないな、と私は思った。
「そのようなことは!」
そうロゼは言ってくれるけれど、アーマリアの体力のなさが、一番の原因ではあるのだ。
ロゼは何か言いたそうな表情をしていたけれど、
「奥様、お風呂の準備ができました」
と、部屋の外からドアがノックをされて、お風呂の用意をしてくれたらしい、侍女の声が聞こえた。
「わかりました」
その声にロゼは答えると、
「奥様。お風呂の準備ができました」
と、私に教えてくれた。
「わかりました、ありがとう」
私はその言葉に頷くと、カップとソーサーをロゼに渡した。
それからロゼが簡易テーブルをベッドから降ろしてくれるのを待ってから、私はベッドから降りた。
私はドアの入口と反対側にある壁に設置されたドアの前に行き、扉を開けた。
扉を開けると、そこは浴室になっていた。
当然のことながら、有紀がいた時代の設備はない。
でも、この世界はどうやら「水道」と言うものはあって、水道の蛇口をひねれば、お湯が出るようにはなっていた。
ただ、電気はないので、バスタブに張ったお湯は、やっぱり別の場所で沸かしてから、桶で運んでいる。
お風呂場には大き目な窓があって、そこから出入りして、お湯を運んでいるらしい。
窓は飾りがたくさん彫ってあって、外からは見えないようになっている。
明るい陽射しが溢れる風呂場で私は着ていた寝間着と下着を脱ぐと、まずは体に洗面器の似た容器を使って、お湯をかけた。
それから、ゆっくりとバスタブに体を預けた。
丁度よい温度のお湯が、肌に心地よかった。
スロージョギングのおかけで、汗もかいていたから、本当にさっぱりとした気持ちになることができた。
でも、私が早くに休んだことで、このお風呂の用意を朝にしなくてはいけなくなったから、余計な手間をかけることにはなっただろう。
「体力……やっぱり欲しいな」
こればっかりは、最速で身に付けるのは難しいのかもしれない。
でも、こればっかりは一朝一夕で身に付くものではない。
とりあえずは、今日子がせっかく教えてくれた「スロージョギング」も取り入れて、アマンダの言う「体力作り」にできるだけ付いて行けるようにしよう、と私は思った。
そうして。
基礎的な筋力をつけるストレッチやエクササイズもやって、できるだけ迅速に、筋力を付けることもやって行くべきだな、とも思った。
十分体も温めて、体も髪も洗い上げてさっぱりした私は、濡れた髪をロゼと他に二人の侍女に乾かしてもらって、ドレスを着せてもらった。
今日は私の身支度の関係で、朝食の時刻をいつもより半刻遅くさせてもらっているらしいので、ロゼ達も余計なことは話さず、準備をテキパキとしていた。
私はレイガに何か言われるかもしれないけれど、まずは、朝食の時刻を遅らせたことを詫びなきゃな、とは思っていた。
水色のシフォンのスカートに、レースが付いたドレスは、裾が長くて私は思わず踏みそうになったけれど、私は何とか踏まずに廊下を歩き、無事に食堂にたどり着くことができた。
「おはようございます、旦那様」
ドアの前で待っていてくれたイルンがドアを開けてくれて、私は、ドレスのスカートを掴み、膝を曲げて先に着いているであろうレイガに挨拶をした。
「……体調は、もう良いのか」
そんな私に、レイガは静かに声をかけてきた。
「はい。ゆっくり休ませて頂きましたので、大丈夫です」
それに、私は心持ちハキハキした口調で言葉を返した。
「そうか……」
だけどレイガはそれ以上何も言わず、私はイルンが椅子を引いてくれたので、お礼を言ってそこに座った。
「そう言えば、アマンダに剣を習うことにしたそうだな?」
そうして。
私が席に座ったとたん、レイガは口を開いた。
「あ、はい。でも剣ではなくて、その前に行う体力作りをご一緒してくださるように、頼みました」
まあ、当たり前なのだけど。私が話した言葉は、全てレイガに行くようになっているのだろう。
アマンダにしてみれば、雇い主は私ではなくてレイガだ。
レイガの意向を無視することはできないなのもしれない。
「どうして、そのようなことをしたがるのだ!」
「『筋トレ』を進めるためです」
私は、何事にもレイガの許可が必要なのかな、と思ったけれど。
『誰の許可がいるのですか? 奥様ご自身の髪のことですよ。奥様がお決めになればよろしいのです』
でも。
私は、アマンダのこの言葉を思い出していた。
私は、私を幸せにしたい。
そのためには、今の私―アーマリアには「体力」が必要で、「体力」を付けることで、自分を「幸せ」にすることに繋がりたいのだ。
「そのために、アマンダと共に体力作りを行うことにしました」
私はそのことを示すために、「したいと思います」ではなくて、「しました」と、言った。
「希望」ではなく、「決定事項」だと。
「……もし、お前がアマンダと共に体力作りを始めたら……」
それに対して。
レイガは、地の底から発したような声で話し始めた。
「旦那様……?」
「お前は、きっと、アマンダの動きに見惚れるだろう。そして、こう言うのだ。『アマンダの嫁になりたいです!』」と。
「え、何でわかるですか⁉」
そんなレイガに、私は素で返してしまい。
その後は。
混沌の食卓。
共に朝食の場に控えていた者達に、語り草になるほどの雰囲気になったと、私は後でロゼに教えてもらった。