6 筋トレは、究極の推し活です‼
私がストレッチを始めて、一か月が経った。
特にねこのびのストレッチは、体の伸びを感じて、気持ちが良くなる。
アーマリアの体はガチガチになっていたので、とにかく体を伸ばしてほぐして、姿勢を伸ばすように心がけた。
姿勢が悪いと呼吸が浅くなり、呼吸が浅いと血液が運ぶ酸素の巡りが悪くなり、体が疲れやすくなって、気分も暗くなる。
ストレッチをすることで、呼吸をする意識も整って、夜も眠れるようになってきていた。
そうなると不思議なもので、体を動かしたくなるから、私は図書室の整理、という適度に体に負荷をかけることができる、絶好の作業を見つけることができた。
そこで私は、次に体のゆがみを正すストレッチをすることにした。
今の私が感じていることは、アーマリアの体は、特に肩こりがひどい、ということだ。
もともと体がガチガチで、姿勢が悪かったのだ。
体がガチガチに硬いから姿勢は悪くなって、そこで「歪み」が生じるのは自明の理だ。
体の不調は筋肉のバランスが崩れている=頑張り過ぎている筋肉とさぼっている筋肉があるってことだ。
ストレッチで頑張り過ぎている筋肉を休ませて、さぼっている筋肉を刺激することで、体のゆがみを整えるのだ。
そうなると不思議なもので、体を動かしたくなるから、私は図書室の整理、という適度に体に負荷をかけることができる、絶好の作業を見つけることができた。
そこで私は、次に体のゆがみを正すストレッチをすることにした。
今の私が感じていることは、アーマリアの体は、特に肩こりがひどい、ということだ。
もともと体がガチガチで、姿勢が悪かったのだ。体がガチガチに硬いから姿勢は悪くなって、そこで「歪み」が生じるのは自明の理だ。
体の不調は筋肉のバランスが崩れている=頑張り過ぎている筋肉とさぼっている筋肉があるってことだ。
ストレッチで頑張り過ぎている筋肉を休ませて、さぼっている筋肉を刺激することで、体のゆがみを整えるのだ。
まず私が始めたのは、首こり・肩こりに効く「肩落とし」だった。
① 頭を横へ傾けて
② 頭を前に倒す
③ 頭を反対側を向ける
④ 向いた方の肩を真っすぐ下げて、基本の呼吸を四回×左右セットを行う。
肩周りの筋肉が硬いと、体が受けた衝撃をそのまま筋肉に行ってしまうのだ。
歩いている時に着地の衝撃が頭に伝わって、頭痛になってしまうこともあるらしい。
だから、次に首のストレッチもすることにした。首を柔らかくすると、衝撃を和らげることもできる。
そのことを目的にした、「ごろ寝で前ならえ」と言うストレッチは、
① あおむけになって丸めたタオルを首の下に敷く
② 両腕を上げる
③ 五秒かけて息を吐きながらバンザイする
④ 五秒かけて息を吸いながら腕を戻す⑤③④を六回繰り返す。
これらのストレッチは、ふわふわのベッドの上でもできるから、朝にやることにした。
ストレッチは色々あるけれど、沢山やるとやる気がなくなるから、朝・昼・晩に分けてニ・三個ぐらいをするのが良いかもしれない、と私も考えた。
実際、私が参考にしているストレッチの本も、「一気にやるのではなくて、少しずつやるのが良い」と書いてあった。
有紀であった頃は、生活に追われていたこともあって、ストレッチで一時間も使うことは考えられなかったけれど、アーマリアの立場だったら、まず「働く」ということがない。
もちろん公爵夫人としての立場を考えたならば、多分、何等かのことはやらなければならないのだろうけれど、それはやらなくて良いようである。
それは、本来はあまり歓迎するべきことではない。
だけど、今の私には持ってこいの状況だった。
ただ、そうは言っても。
自分の部屋で一時間もストレッチをするのは、なかなか難しい。
私の周りには常にロゼを筆頭に侍女達がいるし、彼女達を遠ざけるのにも限界がある。
皆が起き出す前にやることも考えたけれど、最近、ロゼ達は私を一人にしたがらない。
図書室は辛うじて一人にしてくれるけど、それ以外は常に誰かが私の傍にいる。
皆が起き出す前に起き出してやることも考えたが、ストレッチをやっている時にロゼが入って来て、それを見て絶叫されることを想像すると、なかなかやり難い。
それに、侍女達は私が起きる前には起きているから、部屋の中でゴソゴソしていたら気付かれてしまう可能性もある。
なので、私は時間の隙間を塗って、短い時間に集中的にストレッチをすることにしたのだ。
朝はまず瞑想して、基本の呼吸を十五分間行い、「ねこのび」と上半身と下半身のストレッチ、「ごろ寝で前ならえ」をやるようにしている。
夜寝ていた間に固まった体を、伸ばして血液の循環をよくする。
図書室にいる間は、本の整理が一番の目的だけど、ここにいる時には、立ってやれるストレッチを中心に行うことにした。
肩のストレッチの他に、巻き肩に効く「ひじねじり」と「逆四つん這い」を主にやっていたけれど、「ねこのび」も立ったまま、椅子につかまって行うことができたので、昼のストレッチの最後にやった。
「ひじねじり」は、
① 手の平を床と平行にする。
② 肩甲骨をななめ内側に引き寄せて手の平を後ろに持っていく。
③ 腕全体をねじり基本の呼吸を四回×左右一セットを行う。
「逆四つん這い」は、
① 体育座りをする。
② 肩の真下より少し後ろに手をつく。
③ 肩の真下より少し後ろ手に手をつく。
④ お尻を持ち上げて腰を丸める。
⑤ 肩をぐっと下げて、首をながくするイメージをキープして基本の呼吸を四回する。
「逆四つん這い」だけは床の上で行わなければならないけれど、図書室の床はいつも綺麗に磨かれていて、全然気にせずに行うことができた。
多分、私が図書室に行く前に、侍女達が掃除をしてくれているのだろう。
夜は下半身のストレッチを行っている。
「ながら脇のばし」は、反り腰に効くストレッチである。
① 上半身を起こして横座りをする。
② 肩の下より少し外側へ手を置く。
③ 床についた(私はベッドの上)手に向かってもたれ、基本の呼吸を四回×左右一セットで行う。
「すべり台」のストレッチはさらに反り腰に効くストレッチで、
① あおむけになって腰を丸める
② 十秒かけて腰→背中の順でゆっくり上げていく
③ 十秒かけて背中→腰の順でゆっくり下げていく④①~③を三回繰り返す。
反り腰は、背中の下の方にある、腰方形筋と言う骨盤の動きを支える筋肉が、縮んでいると骨盤が前傾してしまうことで起こり、腰が痛くなる。
正しい姿勢を整えるためにも、腰方形筋が緩んでいることが大切なのだ。
そんなこんなで、日々の中にストレッチを取り入れて、私は本の整理と手入れに日々勤しんだ。
やっぱり、本の分類は思ったよりも時間はかかってしまった。
政治の本の隣に恋愛小説があったり、地理学の隣に子ども用の書写のお手本の本があったり、料理の本がいきなり出てきたりと、フォレスト公爵家の図書室は、なかなか収集のジャンルは幅広かった。
多分、この図書室は館に住んでいた人達が、その時々の理由で利用していたのだろう。
「本」と言うのは、知識を得るためだけではなくて、心を慰めるものであったり、相談相手であったり、純粋に物語を楽しませてくれる存在だったりするのだ。
「よし、できた!」
私は、最後の一冊を重ねた本の上に置くと、そうつぶやいた。
思った以上に図書室の本の数が多かったので、本の分類だけで一か月近くかかってしまった。
本の整理のために内容を確認する時間も必要だったから、それぐらいの時間は必要だった。
だけど、本の整理は終わったけれど、次は棚の掃除が必要だった。
床とか本が置かれていない棚のスペースは一見すると綺麗だけど、やはり長年誰も本を読んでいないせいか、本が置かれた場所は埃だらけだった。
本棚に本を配置するのは、イルン達男の使用人達にも手伝ってもらう予定だった。
まあ……書架の掃除も本来は侍女達にしてもらった方が良いのかもしれないが、それは彼女達の仕事について口を出すことになりそうで、「手伝って」とは言いにくい。
まあ、棚を拭いたりするのは、本を書架に入れる時についでにやってもらうとして。
埃だけは払っておこう、と考えて私は自分で作ったはたきを手に持った。
本の埃を落とす作業を始めた時に、自分で作ったのだ。
この世界のはたきは、古い布を無造作に束ねて、少し長めの棒に紐でしっかり縛ってある。
埃は高い所から落とすものだから、私は早速脚立に乗って、高い所から本棚のほこりを落とし始めた。
と、その時である。
「待て! キャロライン」
イルンの慌てたような声が聞こえた。それと同時に、バーンと大きく扉が開く音が聞こえた。
脚立に乗っていた私は、その女性が入って来たのが、高い位置からよく見えた。
イルンがキャロライン、と呼んだ女性は、脚立に乗った私を見て、きっと眉尻を上げた。
「フォレスト公爵夫人であるお方が何と言うお姿です!」
そうして。
私を指で示してそう叫んだ。
「淑女たる方がそのようなことをされるなど、フォレスト公爵の名折れ! 貴方様は、フォレスト公爵家の家名を穢しておられるのですよっっっ」
まるで鬼の首を取ったような表情で、黒髪を翻し、彼女―キャロラインは叫んだ。
その姿を見て、私は、「ひとひらの雪」に出ていた登場人物の一人だ、と気付いた。
キャロライン・フォーストは、レイガの一族から出た臣下の家の者だった。
要は分家筋、と言うヤツである。アーマリアが社交界に出ることを嫌ったレイガが、アーマリアの代わりに、このキャロラインに、その役目を頼んだのだ。
『キャロラインは、言わば私の右腕だ。くれぐれも、彼女の言うことには従うように』と言われていた、アーマリアは。
彼女の、暴言と言える言葉にも反抗せずに、唯々諾々と従っていた。
それが。キャロラインをヘタに冗長させてしまったのだと、私は「ひとひらの雪」を読んでいた時にも思ったし、それは相方の彼女も同じ意見だった。
「―イルン。私は、この方との面会の予定はあったのかしら?」
『こういう時はさ、本人に直接答えちゃあ駄目なのよね。まず、傍にいる仕え人に確認を取るのよ』
「いいえ、そんな予定はありません、奥様」
「旦那様から、お話があったかしら?」
「それも、ありません」
「ならば、この方を旦那様の所へご案内して差し上げて」
『そうして、相手のことは、一切見ないの。だって、面会の約束なんてしていないんだから。アーマリアは、フォレスト公爵夫人。身分は、彼女の方が上よ』
「ひとひらの雪」を、読み終えた後。私達は、「どうすればアーマリアは死ななかったのか」と言う話を、延々と繰り返していた。
その時、相方はアーマリアがキャロラインに対して低姿勢過ぎた、と言っていた。
確かに有紀達の住む現代では、この態度は好ましいものではない。
けれど、この世界では。そして、彼女に対しては。
『アーマリアは、もっと強気で対応して良かったのよ』
相方の言葉を思い出しながら、私は脚立の上に立ったまま、イルンにそう告げると、埃を払う作業に戻った。
「奥様⁉ 私は旦那様よりっ」
「キャロライン、奥様は所用中だ。ここは、いったん旦那様の所に行くぞ」
キャロラインは、金切り声で叫んでいたけれど、イルンが、いつも冷静沈着な彼らしくもなく、焦ったような口調で連れて行く。
パタン、と扉が閉められて、私はやれやれとため息を吐いた。
レイガは、自分の妻となったアーマリアが、外に出ることを良しとしなかった。
つまり、いつも「家」にいることを望んだのだ。
だが、いくら貴族とは言えど、実はやるべき仕事はある。
それは、主に社交界と言われる場所に出て、公爵家のために、他の貴族の奥様方と交流することだ。
後、本来は使用人達を管理し、給料計算とか、待遇の確認とか、まあ諸々の「家」に関する雑務をする役割もある。
まあ、もちろんそれを一人でするわけではなくて、イルンとか家政婦長と言った、上位にいる使用人が代理でやってくれて、「奥様」はその報告を受けて、確認を行うという流れが一般的みたいだった。
だから。
アーマリアは、本来であれば、フォレスト公爵夫人として、ガンガン外に出て、家政のことも、ガンガン口出ししても良い立場なのだ。
しかし、レイガは一切、アーマリアにそれらのことはさせなかった。
だから。
その「代役」として、他の人間がその役目を担っていて。
家のことはイルンとか家政婦長がやってくれたけど、社交的な部分は、キャロラインがやっていた。
「お前の代わりにやってくれている」と、レイガは言っていたけれど。
そこに、アーマリアの意思はなかった。
けれど、私達が「ひとひらの雪」を読んだ時は、そんなキャロラインの立場を尊重し、アーマリアは彼女の傲慢な物言いにも何も言わなかった。
―言えなかったのかも、しれなかった。
いつか。
いつか、お互いの思いを理解し合って、穏やかに暮らせる日が来る。
「ひとひらの雪」のアーマリアは、そんなふうに思って、耐えていた。
『まるで、演歌の世界よね』
本を閉じて。相方の子は、そう言った。
『女は耐えて、幸せになることを信じて、未来を信じて行けって』
そうね。あなたは、知っていたよね。
黙って耐えているだけじゃあ、事態は好転しないって。
だけど。あなたは結局、アーマリアと同じことをしていた。
旦那に理不尽なことをされて、意味もなく責められて。
そして、死んでしまった。
はたきを動かす手を止めて。
私は、しばらく考え込んでしまった。
相方ー佐野今日子は、私の同僚だった。
私より三つ年上で、三つ目の職場で知り合った。
その頃。
私は結婚をしていた。
私のー「有紀」の旦那は、六つ年下だった。
出会ったのは、結婚相談所で、お見合いをしたのがきっかけだった。
六つも年下だったけれど、私は旦那と話している時は、とても楽しかった。
お互いに本好きで、本の話をして盛り上がった。
旦那だった人は、ミステリーが好きで。私は、歴史物やファンタジーが好きだった。
本当は私はBL専門なんだけど、BLでも私は歴史物やファンタジーの設定が好きだったし、ノーマルなものも読んでいた。
旦那には、BL好きなことは最後まで話さなかったけれど。
結婚前には、旦那と本のことを話したり、仕事のことを愚痴ったり、励まし合ったり、歴史的な場所とか美術館とか博物館とかに行ったりして、とても楽しく過ごしていた。
旦那と結婚したのは、そんな日々が、結婚しても続くと思ったのだ。
でも、それは。
とてもとても甘い考えだった。
私は、「結婚」と言うものは、「生活」だと言うことを、自分は十分にわかっていると思っていた。
漫画とか、ドラマみたいに「夢みたいな幸せな生活」とか、絶対にない、とも思っていた。
けれど。
やっぱりどこかで期待をしていたのだ。結婚生活と言うものは、どこまでも甘くて、幸せなものだと。
結婚した私は、自分の考えが甘かったことを実感した。
結婚生活を築くには、お互いの協力が必要なのに、旦那にその気はなかった。
私にとって、「結婚」は夫婦が共に協力して築いて行くものだったけど、旦那にとっては、「妻が築いて、自分はその中で安住する」ものだったのだ。
今日子と出会った頃は、その「歪み」がピークになっていた時だった。
旦那の頭の中には、「確定された未来」として、「結婚したら、朝起きたらできたてのご飯ができている。妻は手作りのお弁当を渡してくれて、笑顔で送り出してくれる。帰って来たら、妻が笑顔で『お帰り』と言って、できたての夕飯を出してくれる。ご飯の後は二人で後片付けして、TVを見ながら話して、寝る。休日は、一緒に起きて、二人で朝ご飯を作って、家事をした後は、二人で出かける。帰って来たら、ゆっくり珈琲でも飲みながらテレビを見て、まったりとした時間を過ごす」
と言うのがあって、それを叶えられない私に、苛立ちと怒りを抱いているのは、感じていた。
でも、旦那の願いを叶えるためには、私達のどちらかが「専業主婦(夫)」になるしかない。けれど、それは現実的ではなかった。
地方の臨時職員として雇われている図書司書の私と。
夜勤なしの介護士の旦那では、稼げる給料は、自分一人しか養えない。
その点をわかって欲しくて話をしようとしたけれど、それは旦那的には稼ぎのない自分を責められているようで、嫌だったらしい。
望みは叶えて欲しい。
けれど、望みを叶えるための努力をするのはできない。
話し合いするのは、責められているようで嫌。
そんな旦那に、何とか現状をわかってもらおうと私は奮闘したけれど、なしのつぶてで。
本当に八方塞がりだった。
そんな時に、私は今日子と出会った。
地方の図書司書は三年経つと採用が停止される。
それは、三年以上雇うと、正式採用をしなければならないからだ。
だから。
私は、三年経つと、勤めていた図書館から別の図書館に臨時採用とされなければならなかった。
幸い、私は気に入られていたようで、今住んでいる市の図書館から、「次はこの地域にある図書館はどう?」と、声をかけられていた。
で、市の中心部からは離れた図書館に勤務になった時に、初めて今日子と出会った。
その図書館は、市の中でも過疎の進んだ地域にあった。
そのせいか、地域の図書館と小学校の図書館が兼任だった。
普通は小学校の先生が図書室の係になるものだけど、それはなくて。
私と今日子の二人で、その図書館の仕事をしていた。
どんなに小さくても図書館のやる仕事は同じだった。
本の貸出や返却の対応をしたり、本の整理や購入などの管理をしたりする他にも、「学校」の図書館として、図書館だよりを出したり、授業のための本を用意したり、季節ごとの飾りつけをしたり、PTA関係の行事に関わったり、時には教室に入れない子ども達の相手をしたりもした。
そこに加えて、地域の人達との交流も仕事の一つではあるから、本当に二人でてんてこ舞いの毎日だった。
それでも、毎日が楽しかった。
私と今日子はあっと言う間に仲良くなって、気になった本を紹介し合ったり、同じ本を読んで、感想を言い合ったりしていた。
一緒に頑張って働いて、帰りにお気に入りのカフェとかファミレスに行って、読んだ本の感想を言い合ったりした。
家に帰れば、私を責めるように見る旦那がいて。
本当に家に帰るのが憂鬱だったから、今日子と過ごす時間は、とても楽しかった。
現実逃避、と言われるかもしれないけれど。
家に帰って、今日子と話すために本を読むことを楽しみにしていたから、家に帰ることも、できた。
もうこの頃には、私と旦那は会話をすることもなく、ただ同じ家にいる、「同居人」と言う感じで、旦那に接触するのは、朝起きた時のトイレとか、食事を用意するために台所でバッティングするとか、一日のほんの少しの時間だけだった。
でも。
その「ほんの少しの時間」が、苦痛で堪らなかった。
旦那が私を見る目は、「どうして俺の願いを叶えてくれないんだ」だった。ほんの一瞬の間でも、自分を責めるような目で見られて。
それに耐えられるほど、私は強くなかった。
努力は、したつもりだった。
旦那を受け入れるために、カウセリングも通ったし、本も読んだし、友達に相談したりもした。
けれど。
旦那は、そもそも根本的になる「話し合い」を拒否していたのだ。
「ちゃんと話し合おう」と言っても、部屋に閉じ込もって、私に背を向けていた。
……私は図書館勤務で、土・日の勤務の働き方をしていたから、旦那との休日が一緒にならなかった。
それが、救いだった。
今日子とは、休みの時は「家のことをしないといけないからね」と言われていたから、
一緒に過ごすことはなかったけれど、仕事の後に彼女と過ごした時間は、休日でも「次はどの本のことを話そうかな」と思いながら、読書に勤しんでいた。
けれど。
そう、けれど――。
「奥様!」
パタパタとした足音と共に、私は現在に意識を戻された。
「どうしたの、ロゼ」
私は、はたきを持ったまま、さも今まで棚の埃を払っていました、という体で振り返った。
「旦那様がお呼びです」
急いで来たのか、息を切らしてロゼは言った。
私は、しばらく考え込んだ。
今日、レイガと共に過ごす予定は、夕食以外ではない。
そうして。
「『先ほどの失礼なお客様に関してであれば、お話することはありません』と、旦那様にお伝えしてくれる?」
と、脚立に立ったままロゼに言った。
「奥様……?」
今までのアーマリアであれば。
何を置いても、まずはレイガの元に駆け付けていたのかもしれない。
けれど。
私は、引くつもりはなかった。
『キャロラインは、アーマリアを自分よりも下だと思っていたのよ。でも、本来はアーマリアの方が身分は上。だから、失礼なことをしたのは、キャロラインの方。失礼なことをした相手に、礼儀を尽くす義理はないわ』
今日子は、そうも言っていた。
あなたは、誰よりもアーマリアが「やるべきだった」ことを理解していた。
その言葉通りに振舞うと、効果はてきめんだった。
ロゼは私の言った言葉をそのままイルンに伝えて、その後、レイガは何も言って来なかった。
「夕食は、キャロラインと共に摂る」
との伝言も来て、私は自分の部屋で夕飯を食べたけれど、エマやカイルが気遣ってくれたおかげか、温かい食事にありつけることができた。
「いったい、どう言うつもりだ」
その後。
レイガがアーマリアの私室に尋ねて来た。まあこれは、夫婦なのだから間違っていることではない。
なので私は、レイガを自分の部屋に迎え入れた。
そうして、ロゼが下がった後に付いてくれていた侍女にお願いをして、お茶の用意をしてもらう。
「どう、とは?」
「昼間の件のことだ」
「面会も申し込まず、いきなり部屋の扉を開け、怒鳴り付ける。それも、主となる者に対して。そのような礼儀を知らない相手に、面会することはできません」
私は、テーブルを挟んで向かい合いに座ったレイガにそう言った。
「キャロラインは、お前の代わりを務めている者だぞ⁉」
「それは、私の望んだことでも、頼んだことでもありません。あの方は、旦那様の仕え人ですよね?」
声を荒げるレイガに対して、私は努めて冷静な口調で話した。
「そうだ。フォースト家は、我がフォレスト公爵家に次ぐ地位にある家なんだぞ!」
「そのフォレスト公爵の妻は、私です」
そう。
アーマリアは、レイガの妻なのである。
キャロラインがアーマリアの代わりの立場をやっていようが、フォレスト公爵家に次ぐ立場の家の者であろうが、アーマリアの方が、立場は上だ。
「主人であるあなたの妻である私に、あの方は無礼を働きました。それを、許すことはできません」
「無礼だと⁉」
「はい。あの方が担う役目のことで、私にアドバイスするのは、理に適っていると思います。しかし、あの方は私がやっていることに、口を出そうとして来られました。正式な面会の場でもなく、私の私的な場に礼儀も守らず入って来られたのですよ?」
普通に考えれば。キャサリンがやったことは、考えられないことなのだ。
何せ彼女は、使える主人であるフォレスト公爵の妻に、ずかずかと面会しようとし、あまつさえ、彼女がやっている行動に、ケチを付けようとした。
「それは……」
「彼女がやったことは、大変に無礼です。それを許すのは、他の者達にも示しがつきませんし、他の家の方々の耳にでも入ったら、彼女のためにもなりません」
淡々と話す私の言葉に。レイガは、返す言葉がないようだった。
「……だが、下の者の過ちを赦すことも、上の立場にいる務めでもあるぞ」
そうして。
絞り出すように、そう言った。
「ならば、まずは旦那様が彼女にそう伝えてくださいませ。そして、彼女が私に対して行った無礼を謝ること。すべては、それからです」
「アーマリア……?」
言葉を続ける私を、レイガは茫然として見つめていた。
多分。今までだったら、レイガが強く言えば、アーマリアは従っていた。
けれど、今のアーマリアには、「有紀」の意識が宿っている。
「経験」と「知識」がある、バツイチ三十五歳の私が。
私にとって、アーマリアは一番の「推し」だ。
その「推し」のために、私は自分の持てる全てを駆使する。今が、その時なのだ。
「お話は、それだけですか?」
そうして。
そろそろ体が硬くなってきたことを感じて、私はそう言った。
「夜も更けてきましたので、今宵はここまでにしましょう」
私は、暗に「お引き取りを」と、レイガに伝えた。
勿論、夜を共にするなど、論外である。でも、その時だった。
ガタッと、椅子が倒れる音がして。
私は、ダンッと、すぐ近くの壁に体ごと押さえつけられた。
咄嗟に、私はレイガとの間にできた空間を利用して、膝を使って、彼の体を突き上げる。
その瞬間。
どうやら、私の膝は、直角に彼の大切な部分をクリティカルヒットしてしまったらしい。
「うっ……!」
途端に、レイガは大事な部分を片手で押さえながら、がくりっと床に膝を付いた。
「大丈夫ですか⁉」
これには、さすがに私も慌ててしまった。
不可抗力とは言え、男性の大事な部分を、痛めつけることは本意ではない。
「何か冷やす物を!」
そう言って、私は部屋から出ようとする。
―が、「待て!」と、そんな私を、床に膝を付いたまま、そう叫んだ。
「大したことはない。騒ぎにはしたくない」
そうして、震える声でそう言った。
まだ痛いのに、比較的大きな声を出したから、痛さに響いたのかもしれなかった。
それから、数分後。レイガは、深いため息を吐いて立ち上がった。
「大丈夫なのですか?」
「まだ痛みがあるが、歩けないほどではない。イルンに頼んで、後の処置はこちらでやる」
歩くと痛みを感じるのか、顔を歪めながら、レイガは言う。
「……お前は、俺から離れる気か?」
私は心配になって、彼にどう声をかけようかと考えていたけれど、いきなりそんなことを言われて、目をぱちくりとさせてしまった。
「そのようなことは許さない。お前は、俺のものだ!」
さらにそう言われて。
「『お前は私のものだ』⁉ 馬鹿なことを言わないでください。私は私のものです‼」
私は、咄嗟にそう返してしまった。
そう。
私のーアーマリアの人生は、アーマリアのものであって。
決して、レイガに「自分のもの」と言われる類のものではないはずなのだ。
私の言葉を聞いて。レイガは、茫然とした表情になった。
それから、よろよろとした歩調で、扉の方へと歩いて行く。
「大丈夫ですか?」
私は慌てて彼に近寄ろうとしたが、
「良い……一人で行ける」
そう言うと、レイガはそのままの足取りで、私の部屋を出て行った。
「お休みなさいませ」
私はその言葉を受けて、とりあえず、作法通りに着ていたドレスを持ち、部屋を出ていく彼に頭を下げた。
パタン、とドアが閉まってから、私は頭をポリポリと掻いた。
「私は私のものです!」と、咄嗟にそう言ってしまったが、レイガは怒鳴りもしないで、出て行ってしまった。
それはとても歓迎することではあったけれど、不気味でもあった。
『レイガにも、強気で言っていいんだよ。レイガはアーマリアが従順になっているから、あんな態度になってたんだよ。アーマリアの、本当の気持ちがわからなくてさ』
やれやれ、と思いながら椅子に座ると、今日子の言葉が脳裏に浮かんだ。
『アーマリアの人生は、アーマリアのものなんだから、レイガの言うことを諾々と聞かなくて良いんだよ。アーマリアが、自分で決めていいんだよ』
あの時、今日子は笑いながらそう言っていた。
私も、「そうだよね」と笑いながら頷いたけれど。
……今日子は、「わかっていても」、それを「実行する」ことはできなかった。
アーマリアのやるべきだったことは、あれだけ適格に指摘していたのに。
私―有紀のことだって、本当に適格なアドバイスをしてくれていたのに。
離婚もカウントダウンだった頃、私は何故かダイエットにハマってしまった。
たぶん、夫婦生活のストレスからだったと思う。
離婚は避けられないとわかっていたけれど、旦那は何も言わなくて、私は「まだ何とかなるんじゃないか」と一人であがいていた。
だけど、旦那は玩として、私の話を聞いてくれなくて。
何度か話し合おうとしたけれど、旦那は自分の部屋に閉じこもって、どうしようもなかった。
でも、私もそんな旦那を受け入れることはできなかった。
「話し合いができない旦那」を受け入れると言うことは、私は旦那にとって「妻」ではなく、「母になる」ということと、同義だった。
共に生活を築きたかった私には、受け入れることはできなかった。
自分の気持ちも、旦那の気持ちも変えることができないのならば。
私が変えることができたのは、自分の体だけだった。
ダイエットをして痩せれば、女性としての魅力が高まって、旦那も考えを変えてくれるかな、と思ったのだ。
私は食事制限をすることにした。ダイエットアプリを使って、カロリー計算をして。
昼食もダイエット食品にした。
効果は、すぐに出た。私は、三キロ痩せることができた。
でも、三キロ痩せても。旦那は、変わらなかった。
自分の部屋に閉じこもり、私を見ると目を反らした。
旦那がそんな様子だったから、私は「まだまだダイエットが足りないんだ」、と思ってしまった。
だから、ダイエットを続けることにしたけれど、体重はなかなか落ちなくなった。
これは、ダイエットあるあるで、体重は最初こそ食事制限で落ちるけれど、食事制限は、体が飢餓状態になる。
飢餓状態になった体は、体の肉を貯蔵するようになって、体重が落ちなくなるのだ。
けれど。
私は、そのことを忘れていて、食事を抜くことにこだわってしまっていた。
『ねえ、そのダイエット止めた方が良いよ』
そんな私に、見かねたように今日子は私に声をかけてきた。
『先生達も、心配しているよ。何でそんなにダイエット頑張っているの?』
今日子の問いかけに。
私は、答えることができなかった。
私達は、読んだ本についてはよく話していたけれど。
お互いのプライベートのことは、ほとんど話さなかった。
私は旦那とのことを話して、せっかくの今日子との楽しい時間を台無しにしたくなかった。
今日子と過ごす時間はとても楽しかったから、家での嫌な気分まで持ち込みたくなかったのだ。
『ダイエットは、食事制限だけじゃ痩せないよ。置き換えダイエットじゃなくて、昼御飯を少し多めにして、夕ご飯を軽めにすると、脂肪が増えるのを防げるよ。それから、やっぱり運動が肝になるから。脂肪を消費するなら、体の代謝を上げるのが一番!』
そう言って差し出されたのが、『筋トレざせつ女子が行き着いたやせストレッチ』という本だった。
『ダイエットで、自分の体をいじめちゃダメよ。その点、筋トレは良いよ。筋トレってね、筋トレをすることで筋肉が強くなって、全体体力が向上するの。体脂肪が減って心肺機能も良くなるんだよ。それに、筋トレをするとエンドルフィンが分泌され、ストレスや不安が軽減されるから、自信がつき、自己肯定感も向上するんだって』
『でも、これ。「ざせつ女子」ってありますよ』
今日子の心遣いは、とてもありがたかった。
でも、「ざせつ女子」とある題名は、引っかかってしまい、そんなことを私は言ってしまった。
今から考えれば。あの頃の私の精神は、本当にネイティブな塊だったと思う。
些細なことで、何でもマイナスの方向に考えていっていた。
職場で旦那のことを話さなかったのは、今日子との楽しい時間を台無しにしたくなかったのもあるけれど、旦那と離れている時ぐらい、旦那との問題問題は忘れていたかった。
けれど。
どんなに旦那とのことを忘れようとしても、帰ったら旦那は必ず家にいるのだ。
『その後の題名を見て。「やせるストレッチ」てあるでしょう?』
『スレトレッチ?』
『そう。その本によるとね、筋トレって基本的な姿勢が大切なのよ』
『姿勢?』
『立っている姿勢のことね』
そうして。
今日子は、ストレッチは主に筋肉と関節の柔軟性を高め、怪我を防ぎ、リラックスするためのもので、筋トレは筋肉を強くし、全体的な体力を向上させるためのものであることを教えてくれた。
『筋トレの効果は、正しい姿勢があったからこそなの。体が歪んでいると、筋トレをしても効率良く痩せることはできないし、体に負荷がかかってしまうわ。体のゆがみ・姿勢の悪さは、ストレッチで解消できるの。それに姿勢が正しくなると、気持ちの落ち込みもなくなるし、体の不調もなくなるわ』
そこまで一気に言うと、今日子は言葉を切った。
『自分を、愛そうよ』
そうして。
言われた言葉は。
有紀には、思ってもいない言葉だった。
『食事制限とか、自分の体をいじめないでさ。筋トレって、良いよ。手間をかけた分だけ、体は答えてくれるから。ダイエットしたいなら、まずこのストレッチの本を参考にして、やってみてよ』
今日子は、決して「理由」は聞いてこなかった。
何故ダイエットをするのか、と。
私が話したくないのを察してくれたのかもしれなかった。
そうして。
今は、アーマリアとして、今日子に教えてもらったストレッチを、私は行っている。
今日子が私に教えてくれた筋トレやストレッチは、アーマリアが生きる力を取り戻すために、役立っているのだ。
私はその夜、「ながら脇のばし」と「すべり台」のストレッチをして、眠りに付いた。
「おはようございます、奥様」
次の日。私は、外からドア越しに声をかけられて、目を覚ました。
その声を聞いて、しまった!と思った。
本日、どうやら私は寝坊をしてしまったらしい。
いつもだったら、ロゼ達が起きる半刻(だいたい一時間前)に私は起き出して、瞑想をしたり、ストレッチをしたり、本を読んだりしていた。
しかし、本日はそれができていない。
咄嗟に、後で来るように侍女に伝えようかとも考えたが、それは止めた。
侍女達にも、一日のスケジュールが決まっている。それは主人であるアーマリアが一つでも急遽な予定変更を入れると、段取りが狂ってしまうのだ。
アーマリアは、公国の公女として、仕える者達のことを考えて行動するように、幼い頃から叩き込まれている。
「有紀」の時は、一人で自分のことをしていたから、好きにできたけれど。
アーマリアの場合は、たくさんの人達が支えてくれている生活だから、私だけの思い付きで、生活のリズムを変えることはできない。
「おはようございます、奥様」
カラカラカラと、ティーセットが載ったワゴンを押して、ロゼが私の部屋に入ってくる。
「あら、ロゼ。今日はお休みではなかったの?」
本日のロゼは、お休みのはずだった。侍女と言うお仕事は、毎日主人の傍に仕えているイメージがあるけれど、実際はちゃんと休日も取っている。
フォレスト公爵家の場合は、五日勤務の一日休日、年末年始は帰省休暇あり、休暇シーズンの出勤には特別手当も出る。
あと、早番と遅番もあるけれど、私付きの侍女であるロゼは、実は上位階級の侍女だ。
ゆえに、彼女の場合は、日勤が基本である。
ロゼは主人であるアーマリアのサポートがメインの仕事になるので、日中は常に傍にいることになる。
ロゼが休みの時は、フォレスト公爵家の古参の侍女が対応してくれるし、基本館に閉じこもっているアーマリアは、休みの予定を変更してまで、対応を必要とすることは起こらない。
「何かあった?」
だから、休みなのにロゼが仕事をしている、というのは、アーマリアがフォレスト公爵家に嫁いでからは、一日だってなかった。
私が驚きつつベッドから起き上がりながら尋ねると、
「はい……」
ワゴンをテーブルの横に止めて、ロゼは遠慮がちに頷いた。
「ロゼ?」
アーマリアとロゼは主人と侍女という関係ではあったけれど、赤ちゃんの頃からの付き合いだから、限りなく親友兼幼馴染の関係に近い。
だから、ロゼもアーマリアには、自分の意見を率直に言っていた。
それが、アーマリアにいらぬ責任感を与えていたんだけど、まあ、それはそれとして。
「まずは、お顔をお洗いください」
そう言って、ベットの上に簡易テーブルを置いて、お湯が入った陶器をその上に置いた。
私は、素直にそれに従った。
ロゼは、「どう言ったらよいか」と言う感じで、迷っているようにも見えたから、とりあえず、彼女が話出すまで待つことにしたのだ。
「奥様……」
そうして。
彼女が話し出したのは、顔を洗って、私がテーブル席に座り、入れてくれたお茶に手を伸ばした時だった。
「奥様は……もし、もしですよ。旦那様から……離婚を言い渡されたら、どうなさりますか?」
「え、ラッキーかも」
悲壮感いっぱいな表情で、ロゼは言葉を口にしたけれど。
私は、考える前にそんな本音が出てしまう。
「お、お、奥様⁉」
しまった!とは思ったけれど、一番身近にいるロゼには、本音を隠してもしょうがない。
「ほ、本気で……」
「まあ、だって。正直今の旦那様と暮らしていて、幸せだと思う?」
「それは……でも、離縁ですよ⁉ 女性の場合は、離縁したら皆に何と言われるか……!」
「その人達が、何かしてくれる?」
私は、お茶を一口飲んでからそう答えた。
「まあ、女性が離婚したら不利って言うのは確かよね。特に、経済的な面で。でも、その点だけ解決すれば、案外やっていけるのよね」
そう。
この世界では、おそらく離婚となると、女性は不利である。
主に、経済的な面で。
だが、それさえ解決すれば、別に理不尽な夫に従って、生活する必要はない。
アーマリアは、ユーベルト公国の第三公女だ。
実は個人の資産は、けっこうある。
離婚しても、生活していくだけの財力はきちんとあるのだ。
そのアーマリアが離婚を恐れるのならば、一番の理由は、「他人の目」である。
「そんな……ユーベルト公国の公女である方が、離婚など……!」
「でも、相手が言ってきたら、もうどうしようもないじゃない」
「ですが、旦那様は不幸なお育ちをしておられます。だから、奥様が……」
私の言葉に、ロゼは必至に言いつのろうとしている。
「それ、いつまで付き合わないといけないのかな?」
でも。
私は、「ひとひらの雪」を読んでいた頃から思っていたことを、言葉にした。
「ロゼやイルンはそう言われるけどね。私って、いつまで旦那様に理不尽な扱いをされることを我慢しないといけないのかな?」
「姫……様?」
「確かに、旦那様がご家庭に恵まれなかったんだな、とは思う部分はあるわ。でも、だからと言って、私にひどいことをしても良い、という理由にはならないと思うのよね」
ロゼは、茫然とした表情で私を見ていた。
「旦那様が私のことを信じられないのは、旦那様自身の問題であって、私が付き合う必要はないはずよ」
「で、でも……‼」
「それにね、確かに周りの人達は『エーベルト公国の公女たる方が!』って言うかもしれないけれど、どうせ何をしても言われるのよね。夫婦中が悪ければ、『エーベルト公国の公女たる方が!』って言われて、子どもが生まれなければ、『エーベルト公国の公女たる方が!』って」
言葉を続ける私に、ロゼは何とか言葉を出そうとする。
「それだったらさ、別に周りに何を言われようと、自分が信じる道を行った方が良いじゃない」
「でも、私は姫様が傷物のように言われたり、社会的評判が落ちたりするのは嫌ですっっ」
ロゼは必至に叫んだけれど。
「うん。でも、それで死ぬことはないでしょう?」
それに、私は感謝をしながらも言葉を続けた。
「麻生有希」として生きていた私が、何故この「アーマリア」としてこの世界に存在しているのか、それはわからない。
ただ、「有希」として生きていたのに、今は「アーマリア」として生きているのだから、あの世界の「有希」として生きていた自分は、もう死んでいるのだと、私は思う。
だから。
「死ぬ」ってことは、「全てがなくなってしまう」ということは、わかるのだ。
あの世には、他人の評判も、現世の地位持っては逝けない。
現に今、私は「麻生有希」としての記憶と知識しか、この異世界に持って来られなかった。
それだって、異例中の異例な出来事だ。
本来ならば、まっさらな状態で生まれて来るのだ。
つまり。
今の私―「アーマリア」は、死んでしまったら、消えてしまうのだ。
アーマリアとして生まれた以上、私は、アーマリアに「幸せ」になってもらいたかった。
「ひとひらの雪」では、アーマリアは儚く亡くなってしまった。
レイガのことを愛していたのに、共に生きることもできなくて。
「死ぬことはないって……」
「私はね、ロゼ。幸せになりたいの」
「なら、離婚など!」
「世間一般の『幸せ』が、私の幸せとは限らないじゃない? 私は、私の幸せを見つけたいのよ」
「奥様……」
「ただ、すぐに離婚はする気はないのよ。旦那様の方から言ってきたら、ラッキー!なんだけどね」
ロゼは。
もう何も言えない、と言う表情になった。
そうして。
「奥様……気分が悪くなったので、違う者と代ってもよろしいでしょうか?」
と、青い顔をして言った。
「わかったわ。ゆっくり休んでね」
私は、頷きながらそう答えた。
頭を下げたロゼが、パタンとドアを閉めて部屋を出て行くのを見送って、私はため息を吐いた。
まあ……ね。
たぶん。
私が言ったことは、ロゼの「常識」では有り得ないことなのだ。
彼女は今、私の言葉にゲシュタルト崩壊を起こしている。
それはおそらく、恐怖すら感じるのかもしれない。
これで。
ロゼが王宮に戻ってしまったとしても、仕方がないのかもしれないな、とは思った。
ロゼはアーマリアと同い年の十七歳で、この世界では結婚適齢期でもある。
その点から考えても、ロゼのためにも、彼女がアーマリアから離れるのは、許容しなければならないのかもしれなかった。
「これは、あなたが望むことかな?」
私は、私の中にいるはずのアーマリアに問いかけた。
でも。
ロゼは、「旦那様のために耐えてください」と、アーマリアに望んでいた。
もちろん、今の「有紀」である私の意識には、アーマリアの気持ちはわからない。
ただ、アーマリアの体は、とてもリラックスしていた。
きっと。かつてのアーマリアは、ロゼに「旦那様のために、耐えてください」みたい言葉を言われるたびに、自分では自覚していなかったかもしれないけれど、かなりのストレスを感じていたのかもしれなかった。
「失礼します」
と、その時だった。
コンコンと扉を叩く音がして、白髪の黒いロングワンピースを着た女性が入って来た。
「ミセス・パレス」
私が、家事長役を務める彼女の呼び名を呼ぶと、「アマンダで大丈夫ですよ」と、そう訂正してきた。
「貴方様は、私の仕える主人である方。ファーストネームで呼ぶのがマナーでもあります」
彼女は、フォレスト公爵家の家政婦長を務める侍女だった。
身分的には公女である私が上だけど、経験的にも年齢的にも、彼女は私よりもはるかに力があった。
この世界では、たとえ身分が上であろうとも、年上の仕える身分の者に対しては、「名前」ではなくて、「姓」を呼ぶのが礼儀となっていた。
もちろん、親しい関係であれば、ファーストネームで呼ぶけれど、(例えばロゼなんかはそう)私は他家から嫁いできた身であるから、礼儀にならって、アマンダのことは「姓」の方で呼んでいたのだ。
だが、彼女はそれを「良し」とする人ではなかった。
「ロゼ殿がご気分が悪いということなので、私が代りにまいりました」
「わざわざありがとう」
彼女はフォレスト公爵家の家政婦長で、私の侍女ではない。
その彼女が代わりに私の身支度をするのは、よほどのことではあった。
「ロゼは何か言っていましたか?」
私はベットから降りると、ドレッサーの前にある椅子に座りながら、尋ねてみた。
「少し顔色が悪かったですが、疲れによるものでしょう。ゆっくり休むようにお伝えしました」
アマンダは、私の問いかけにそう答えると、髪を櫛でとき始めた。
「そう……ありがとう」
私はお礼を言い、体の力を抜いて、アマンダのやっていることに身を任せることにした。
そうして。
髪型を整えてもらい、ドレスを身に付けるのを手伝ってもらって。
朝食の前のお茶を入れてくれた。
アマンダが入れてくれたお茶は、すっきりとした味わいがして、とても美味しかった。
「……奥様」
「このお茶美味しい!」と思いながら味わっていると、アマンダが不意に、そう話しかけて来た。
「はい、何でしょう」
と、私は顔を上げて、ふとアマンダの表情が辛そうなことに気付いた。
「アマンダ、大丈夫?」
私は慌てて立ち上がった。
「あ、いえ。大丈夫です」
アマンダはいつも引き締められた表情のままだったけれど、それでもどこか辛そうだった。
「とりあえず、座って」
私はアマンダを私が座っていた椅子に座らせた。
「申し訳ありません……」
いつも落ち着いた表情しかしていないアマンダが、申し訳なさそうにしている。
「足が痛いの?」
私は、アマンダが気に病まないように、反対側のベッドに座りながら聞いた。
「はい。ここ数日。最初のうちは大丈夫なのですが、しばらくすると足が痛くなるのです……」
いつもてきぱき指示を出し、キビキビと働いている姿からは考えられないぐらい、アマンダは落ち込んでいた。
「お医者様には相談したの?」
この世界の医学の程度はわからないが、このフォレスト公爵家にはお抱えの医者はいるはずだ。
「いえ、この程度では相談はできませんよ」
「でも、何か病気かもしれないわよ?」
「耐えられないほどではないのですよ」
「そう……」
だが、彼女達にとっては、医者とは「よほど悪い時に行く場所」のようだった。
「でも、こうやって座っていると、痛みは落ち着きます。もう大丈夫です」
そう言って、アマンダは立ち上がろうとする。
「待って、アマンダ!」
私は、それを遮った。
「足のどこが痛いの?」
「足裏です。特に親指からかかとにかけて痛みを感じるんです」
私の問いかけに、アマンダはそう答えてくれた。
もしかしたら、アマンダは「足底腱膜炎」なのかもしれなかった。
足底腱膜炎とは、足底腱膜が炎症を起こし、痛みが生じる疾患のことだ。足の裏には、かかとからそれぞれの指の付け根へと及ぶ靭帯性の「腱」が膜のように広がっており、この膜のことを「足底腱膜」と呼んでいる。
ふくらはぎやアキレス腱が硬い人、足を引き上げる力が弱い人、スポーツや激しい運動で過度な負担をかける人、足の裏のアーチが崩れている人に加えて、加齢や肥満でも、足を踏み返すときに足底腱膜にかかる負担が大きくなり、足底腱膜炎になってしまう。
通常、かかとからふくらはぎの筋肉やアキレス腱が柔軟である場合、痛みは出ないらしい。
若い人に多いのが、激しいスポーツや運動を繰り返し行うことで足の裏に強い衝撃を受けて足底腱膜がダメージを受けることだけど、
長時間の立ち仕事も疲労の蓄積によって足底腱膜への負荷が大きくなる。
アマンダの場合は、どう考えても後者の方が原因だろう。
足底腱膜炎は、歩行時や運動時に足底腱膜にかかる負担を軽減すること、足首や足、ふくらはぎの筋肉を柔軟に保つことが大切になる。足底腱膜炎は、歩行時や運動時に足底腱膜にかかる負担を軽減すること、足首や足、ふくらはぎの筋肉を柔軟に保つことが大切になる。
足首や足、ふくらはぎの筋肉を柔軟に保つために、アキレス腱を気持ちよく伸ばすストレッチや足底腱膜の疲労解消のためのマッサージが効果的ではあるのだ。
「アマンダ、足が痛いのは、どっち?」
「あ、左の方です」
「だったらさ、痛みがあるほうの足を後ろに大きく引いて、そのときに、かかとはしっかり床に付けるの。前に出している足の膝に両手をのせて、ゆっくりと重心を前に出している足に移動させてね。足を入れ替えて反対側も同様に行うの」
私は、実際にベッドの上でそのストレッチをやって見せながら、アマンダに説明した。
「奥様……」
「それとね、歩き方にも原因はあるから」
人間の足は、立っている時、足の裏はアーチ型になるようになっていて、ぺったりと足裏が付くようなことはない。
足のアーチの構造が崩れている場合は足底腱膜炎にかかりやすい傾向がある。
だから。
私は、アマンダに足首のリセットができるストレッチを教えることにした。
やり方は、
① くるぶしを親指でおさえる。
② 親指を前にすべらせて、でっばりのところでおさえる。
③ 親指で足をおさえたまますねを垂直にする。
④ おさえている部分を支店にして、上体の前後運動を二十回×左右一セットで行う。
これも、私は実際にやって見せながら説明をした。
「ありがとうございます……」
私の説明に。
アマンダは、何とも言えない表情になって、頷いていた。
まあ、彼女のような、この世界の貴婦人にとっては。
ストレッチは、とても奇妙で、はしたない行為に見えるのかもしれなかった。
「良かったら、やってみて」
私としては。
絶対に楽になるからやって欲しいのだけど、それを強要するのは、違うような気がした。
そうしていると、コンコンと扉がノックされて、
「奥様、朝食の用意ができました」
と、イルンが扉を開けながらそう言って来た。
「わかりました」
私はイルンの言葉に頷くと、ベッドから降りた。アマンダが慌てて立ち上がろうとするが、
「良いわよ、アマンダ。案内はイルンにしてもらうから」
私はそう言って、アマンダが立ち上がることを止めた。
とりあえず、アマンダには足が痛くなくなっていたから、仕事に戻って欲しかった。
「すいません、奥様……」
「謝る必要はないわ。無理をして酷くなったら、困るのは私の方だもの。無理はしないでね」
「ありがとうございます」
と言って、頭を下げた。
私はそれに「お大事にね」と言葉を返すと、イルンの後を追って、廊下へと出る。
「ミセス・パレスと何を話されていたのですか?」
そんな私に、イルンが振り返りながら聞いて来た。
「足が痛いっておっしゃっていたから、それを解消するストレッチを教えていたのよ」
「すとれっち……」
「そう。体の筋肉を緩めて、疲労を回復する方法なの。怪我防止にも効果あるのよ」
「それは……前におっしゃっていた、『きんとれと』と違うものなのですか?」
「ストレッチは主に筋肉と関節の柔軟性を高め、怪我を防ぎ、リラックスするためのもので、筋トレは筋肉を強くし、全体的な体力を向上させるためのものなの。アマンダの場合は、ストレッチの方が効果的なのよね」
私がイルンに説明すると。
「奥様……楽しそうですね」
イルンが、そう言って来た。
「あら、そう?」
「それが、『おしかつ』ですか?」
「……そうね」
イルンは、私が言った「推し活」の言葉を覚えていてくれたのだ。
「もし……もしもですよ、旦那様がそれを禁じられたら、どうなさいますか?」
だけど。次に続けられた言葉は。私にとっては、思ってもいない内容だった。
「え? どうして旦那様が私の『推し活』を禁じられるのですか?」
「どうしてって……」
「旦那様が、私のやることに口を出す必要はないでしょう? 旦那様にお金を出してもらうとか、旦那様のお名前の元でやることならともかく、私が私のためにやっていることですから。それも、お金とか掛からずに、この館の中でだけやっていることだし」
何なら、図書室と自分の部屋でしかストレッチはしていない。
まあ、アマンダに教えたことは咎められる可能性はあるけれど、主人と使用人が交流を深めることには、何ら問題はないはずだ。
「旦那様が私の全てを把握して、私の全てを支配したいとお考えならば、それはもう夫婦ではないわよ、イルン」
私がそう言うと。
イルンは、本当に……何故だか本当に真っ青になって。
「……失礼しました」
前を向いて、歩き出した。
どうやら、私の言った内容が衝撃的だったらしい。
私としては、当たり前のことを言っただけのつもりだった。
もちろん、レイガに迷惑がかかりそうならば相談するつもりでいるし、それは当たり前のことではあるけれど。
それですらも、何らのいちゃもんを付けるのであれば、強行突破をするつもりだった。
私はイルンの後を歩きながら。そんなことを、考えていた。