5 読みが甘かったです。筋肉を付けるには、体力が必要でした。
すべての悩みは、筋トレで解決される。
それは、本で読んでいてわかっていたことだった。
一時期。私は、ダイエットに狂っていたことがあった。
まあ……それには、理由があるのだけど。
それは、置いといて。
『食事だけじゃあ、駄目よ』
そう言ったのは、仕事仲間でもある相方だった。
『知っている? 食事を抜いたって、それは体が飢餓状態になるんだよ。だから、リバウンドが凄いの。だから、体の代謝を上げないと駄目なのよ』
だから。きちんと考えてダイエットはしないと。
そう言って笑った、「彼女」は。
もう、この世にはいない。
「奥様、お目覚めですか?」
はっと、目が覚めた。
扉の外で、ロゼがそう声をかけて来た。
「――はっ?」
レイガにとっては。どうやら思ってもいない反応だったらしい。
カクーンと、アゴが落ちそうな表情をしていた。
「私の考えていることについてですよね?」
そんなレイガに。私は、目をばちくりさせて問い返す。
「そうだ。お前は……」
「だから、今日のお昼ご飯のメニューを考えています」
「私が朝食に同席しないで何も感じないのか⁉」
「は?」
居たたまれない、と言った感じでレイガに叫ばれ、私は、思わず返事をしてしまった。
レイガが朝食の席にいないのは、レイガの意思だ。私の態度が気に入らなくてわざとそうしているのかもしれないが、それはレイガの意思である。
「皆に手間をかけさせるなあ、とは思いますけど」
「手間だと⁉」
「旦那様は執務室で朝食を取られているようですが、調理場から執務室は離れていますよね? あの距離を、様々な料理を乗せたワゴンで運んでいるようですが、セッティングされた料理を運ぶのは、なかなかに気を使いますよ。それに、一度では運べないから、何往復もしています。でも旦那様が食堂で食べるならば、その手間は省けます。食堂は調理場に近いですし、今までやって来た手順もありますからね」
私の言葉に。レイガは、茫然とした表情になった。おそらく、彼の期待していた反応ではなかったのだろう。
「お前は私が朝食の席にいなくても平気なのか⁉」
「はい。特に困ることはありませんし」
「ええ。準備をしてくれて、ありがとう、エマ」
私としては。それは、自然に出て来た言葉だった。
何せ、今日の朝食も美味であった。
カリカリのベーコンとスクランブルエッグ。バターの効いたふわふわのパン。
じゃがいものポタージュも、フレッシュな果物も、食後の紅茶も。
食べた直後でも、あの美味しさはまたすぐに味わいたいと思ってしまう。
「ありがとうございます」
私の言葉に。
エマが、照れくさそうに笑ってくれる。
その笑い顔がとても可愛くて、私は心の中で「可愛いぃぃぃぃぃぃ!」と絶叫してしまった。
しかし、この思いをそのまま顔を出すわけにはいかない。
今の私は現代での「麻生有希」ではなくて。
エーベルト公国の第三公女・アーマリアなのだ。
夢を、見た。
私が……「有希」が、図書館の司書と働いていた時。
親しくなった、「相方」がいた。
彼女が、「正しいダイエット」の仕方を私に教えてくれたのだ。
私は、「相方」のことを考えて、ぎゅっとベットのシーツを握りしめた。
「奥様?」
けれど、返事をしない私を不審に思ったロゼが再度声をかけてきて、
「うん、起きているよ、ロゼ」
「おはようございます」
ロゼがそう言って、部屋に入って来る。
とりあえず、自分が「アーマリア」となってから、二日目の朝である。
「おはよう、ロゼ」
私は、「アーマリア」の自分の意識しながら、ロゼに微笑みかけた。
相変わらずの、長い銀髪である。
昨日は、寝る前にお風呂に入り、髪を洗って、タオルで拭き取ってもらった。
私はドレスに着換え、鏡の前に座る。
それを待って、ロゼがブラシで髪の毛を梳かし始める。
自分でも綺麗な髪だな、とも思う。
だけどとても長くて、手入れが大変なのだ。
正直、洗うのも乾かすのも侍女がやってくれるけど、時間がかかる。
ドライヤーなんてものもないから、侍女達も大変そうだ。
「ねえ、ロゼ。髪の毛、少し切れない?」
私は、鏡に写る自分を見ながら言った。
「奥様!?」
それに対して。
ロゼは、顎が落ちるかと思うぐらい、大きく口を開けて驚いている。
「いや、ちょっと長いでしょ? 肩ぐらいに切り揃えたら、すっきりするかなあって。髪の毛の手入れも、みんなに時間取らせちゃっているしね」
「何をおっしゃるんですか!? 髪は女の命ですよ!」
まあ、この世界ではそうなのかもしれないけれど。
「有希」である私には、邪魔でしょうがないのだ。
寝る時も寝がえりを打つたびにどこかの髪の毛を引っ張って、目が覚めてしまう。
「平民であれば、まだわかりますけど。仮にも王族の姫君の髪が短いなんて、聞いたこともありません!」
しかし、ロゼの言葉は前代未聞のことを口にしている、という感じで。
まあね、とは思うのだ。
だが、「有希」としては。
これから筋トレをして動き回りたいのに、長い髪をずるずると引きずっていては、邪魔になってしまう。
できることなら、ショートカットにしたい。
そもそも、私の「髪」は私が自由にして良いはずなのに、それは許されないのだ。
でも、考え方を変えると。
司書であった時は、髪の毛の長さは自由にできたけれど、髪の色は「常識の範囲で」という制約はあった。
パブリック的に考えれば、図書館にいる司書が真っ赤な髪をしていたり、モヒカンであったりしては、やっぱり「公共的な施設でそれはどうなのか」と思う人も出て来る。
たくさんの人が利用する場であるならば、皆が不快に思うことは避けることも一つのマナーだ。
「……少しなら、お切りになられますか?」
おずおずと、ロゼがそう話しかけて来る。
「うん。できれば、背中辺りで切り揃えたいの。お願いね」
「わかりました。理容師をよぶように手配します」
私としては。ロゼが切ってくれるものと思っていたけれど、やはりそこはプロに頼るのだろう。
プロが来るなら、「ぜひ、ショートカットで!!」と言いたいが、まだこの世界に来て2日目。
この異世界の知識はあるけれど、人が作り出している「社会」の部分は、まだまだ理解していないことも多い。
この世界で、アーマリアは「完璧なお姫様」だった。
急なキャラクター変更は、良くないだろう。
「ありがとう、ロゼ」
笑顔で私が礼を言うと、ロゼは安心したような表情になった。
そのまま、髪を梳いてくれる。
私は、自分の支度をロゼや他の侍女達にまかせながら、この状況で、どのようにして「筋トレ」をするべきか、と思った。
「お姫様」であるアーマリアが、いきなり腹筋とか腕立て伏せとかやっているのを見られたら。
まあ……ロゼは、卒倒するわな。
はっきり言って。
「髪を切りたい」と言った途端、「有り得ない」という顔をされたのだ。
本当は、思いっきりショートカットにしたいけれど。
と、なると。
やはり、寝室にこもった後にやるべきなのだろう。
でも、その場合、どうしてもストレッチ中心になってしまう。
どうしたもんかな、とも思ったけれど。
アーマリアは、今まで運動らしい運動はしていなかった。
ならば、まずは体の柔軟性から追及する方が良いのかもしれない。
「奥様、準備が整いました」
考え事をしているうちに、私の支度は終わっていて、朝食のために食堂へと向かう。
いつものように食堂に行ったら、イルンが扉の前で待っていた。
「奥様、おはようございます」
黒髪を揺らし、イルンは頭を下げた。
「おはよう、イルン」
黒髪の美青年と言うのは、なかなかの眼福だ。
そんな美青年に礼儀正しく挨拶されると、私も人の子、やはりテンションが上がる。
「旦那様は、本日お忙しく、共に朝食はできない、とのことです」
イルンは、本当に申し訳なさそうな表情をして言葉を口にした。
「わかりました」
申し訳なさそうなイルンに対して、私は明るく返事をした。
レイガとしては、昨日の私の態度への意趣返しのつもりかもしれないが、私としては何の問題もなかった。
むしろ、大歓迎!と言うのが正直な気持ちだった。
レイガがいると、侍女の子達も緊張しているし、何だか雰囲気も暗い。
実際、彼がいない朝食は、雰囲気がとても穏やかだった。
侍女の子達も表情が穏やかだし、何だかとても嬉しそうな表情をしている。
「ごちそうさまでした」
私が手を合わせ、私はそう言った。
「奥様、お口に合いましたでしょうか?」
昨日、レイガの前でカップを落とした侍女が、私に声をかけてきた。
アーマリアの記憶を探ると、「エマ」と言う名前が出て来る。
「ええ。準備をしてくれて、ありがとう、エマ」
私としては。それは、自然に出て来た言葉だった。
何せ、今日の朝食も美味であった。
カリカリのベーコンとスクランブルエッグ。バターの効いたふわふわのパン。
じゃがいものポタージュも、フレッシュな果物も、食後の紅茶も。
食べた直後でも、あの美味しさはまたすぐに味わいたいと思ってしまう。
「ありがとうございます」
私の言葉に。
エマが、照れくさそうに笑ってくれる。
その笑い顔がとても可愛くて、私は心の中で「可愛いぃぃぃぃぃぃ!」と絶叫してしまった。
しかし、この思いをそのまま顔を出すわけにはいかない。
今の私は現代での「麻生有希」ではなくて。
エーベルト公国の第三公女・アーマリアなのだ。
いくら私がややぶっ飛んだ思考をしていても、その点はTPOを読むし、アーマリアの立場を悪くする わけにはいかない。
そもそも、私がこの世界に「アーマリア」として存在しているのもイレギュラーなのだ。
本来のアーマリアの「意識」が表に出た時、彼女の「心」が追い込まれてしまうような状況になるのは、絶対に避けるべきだ。
そうして。
私は、この状況で、どのようにして「筋トレ」をするべきか、と思った。
「お姫様」であるアーマリアが、いきなり腹筋とか腕立て伏せとかやっているのを見られたら。
まあ……ロゼは、卒倒するわな。
「髪を切りたい」と言った途端、「有り得ない」という顔をされたのだ。
本当は、思いっきりショートカットにしたいけれど。
と、なると。
やはり、寝室にこもった後にやるべきなのだろう。
でも、その場合、どうしてもストレッチ中心になってしまう。
どうしたもんかな、とも思ったけれど。
アーマリアは、今まで運動らしい運動はしていなかった。
ならば、まずは体の柔軟性から追及する方が良いのかもしれない。
「奥様、準備が整いました」
考え事をしているうちに、私の支度は終わっていて、朝食のために食堂へと向かう。
いつものように食堂に行ったら、イルンが扉の前で待っていた。
「奥様、おはようございます」
黒髪を揺らし、イルンは頭を下げた。
「おはよう、イルン」
黒髪の美青年と言うのは、なかなかの眼福だ。
そんな美青年に礼儀正しく挨拶されると、私も人の子、やはりテンションが上がる。
「旦那様は、本日お忙しく、共に朝食はできない、とのことです」
イルンは、本当に申し訳なさそうな表情をして言葉を口にした。
「わかりました」
申し訳なさそうなイルンに対して、私は明るく返事をした。
レイガとしては、昨日の私の態度への意趣返しのつもりかもしれないが、私としては何の問題もなかった。
むしろ、大歓迎!と言うのが正直な気持ちだった。
レイガがいると、侍女の子達も緊張しているし、何だか雰囲気も暗い。
実際、彼がいない朝食は、雰囲気がとても穏やかだった。
侍女の子達も表情が穏やかだし、何だかとても嬉しそうな表情をしている。
「ごちそうさまでした」
私が手を合わせ、私はそう言った。
「奥様、お口に合いましたでしょうか?」
昨日、レイガの前でカップを落とした侍女が、私に声をかけてきた。
アーマリアの記憶を探ると、「エマ」と言う名前が出て来る。
「ええ。準備をしてくれて、ありがとう、エマ」
私としては。
それは、自然に出て来た言葉だった。
何せ、今日の朝食も美味であった。
カリカリのベーコンとスクランブルエッグ。バターの効いたふわふわのパン。
じゃがいものポタージュも、フレッシュな果物も、食後の紅茶も。
食べた直後でも、あの美味しさはまたすぐに味わいたいと思ってしまう。
「ありがとうございます」
私の言葉に。
エマが、照れくさそうに笑ってくれる。
その笑い顔がとても可愛くて、私は心の中で「可愛いぃぃぃぃぃぃ!」と絶叫してしまった。
しかし、この思いをそのまま顔を出すわけにはいかない。
今の私は現代での「麻生有希」ではなくて。
エーベルト公国の第三公女・アーマリアなのだ。
いくら私がややぶっ飛んだ思考をしていても、その点はTPOを読むし、アーマリアの立場を悪くするわけにはいかない。
そもそも、私がこの世界に「アーマリア」として存在しているのもイレギュラーなのだ。
本来のアーマリアの「意識」が表に出た時、彼女の「心」が追い込まれてしまうような状況になるのは、絶対に避けるべきだ。
そうして。
私は、この状況で、どのようにして「筋トレ」をするべきか、と思った。
「お姫様」であるアーマリアが、いきなり腹筋とか腕立て伏せとかやっているのを見られたら。
まあ……ロゼは、卒倒するわな。
「髪を切りたい」と言った途端、「有り得ない」という顔をされたのだ。
本当は、思いっきりショートカットにしたいけれど。
「奥様。この後は、どうなさいますか? お散歩にでもお出かけになりませんか?」
そう思いながら、椅子から立ち上がっていると、そう横からロゼに声をかけられた。
「あ、良いわね」
ロゼの言葉に。私は頷いて、立ち上がった。
正直、これは渡りに船だった。
確かに腕立て伏せをすれば、アーマリアの周囲は騒然とするだろう。
けれど。
さすがに、「散歩」は無理なくできるはずだ。私が知っている歴史上のお姫様達も、友達や恋人と散歩に行っていた。
だから。散歩なら、大丈夫だろう、と。
私はそう安易に考えていた。
が、しかし。それは、安易な考えだった。
私は、どうしても「有希」の意識が強いから、「散歩」はすぐに出かけられて、気軽にできる行動だと思っていたのだ。
だけど。
アーマリアは、所謂「王族」のお姫様で。
そもそも散歩というのは、お外に「お出かけする」ということなのだ。
なので。
当然、そのための支度が必要となる。
「奥様、お仕度が整いました」
その結果。
私は「外出着」と言う物に着替えさせられて、髪も帽子が似合うようにセットされて、うやうやしく声をかけられた私は、鏡に写る自分を見つめた。
さっき朝食の時に来ていたドレスよりはシンプルだけど、それでもマーメイドラインのドレスは歩き難そうである。
白いドレスに、白い大きなつばのある帽子。帽子には、大きな花のコサージュも付いている。そうして、足元にはヒールのあるパンプス。
うん。正直に言おう。
とても、歩き難い。
って言うか、これ、散歩する時の恰好じゃあ、ない。
『ウォーキング前は、関節や筋肉を伸ばすための軽いストレッチを行いましょう。これにより体を動かしやすくし、怪我の予防にもつながります。
姿勢は背筋を伸ばし、胸を張ります。顎を軽く引き、目線は遠くを見るようにしてください。これにより、呼吸がしやすくなり、効率的なウォーキングが可能になります。
腕はリラックスした状態で九十度に曲げ、体の横から後ろへ自然に振ります。これにより、上半身と下半身のバランスを保ち、スムーズな歩行を助けます。
歩き方は、まずかかとから着地し、次に足の外側、最後につま先という順に体重を移動させます。これにより、着地の衝撃を吸収し、効率的に前進する力を得ることができます』
私の頭の中に、前の世界で読んだ本の内容が、爽やかな女性のAI声で再生される。
「さあ、奥様」
ロゼに手を引かれながら、歩き出した私は、うん、これじゃあ駄目だ、と思った。
そうして。
実際、駄目だった。
まず、思っていた以上に、アーマリアの体力はなかった。彼女の皮膚は太陽に当たると真っ赤になってしまい、体に籠った熱を上手く放出できていない。
あげく、着ているドレスとハイヒールのせいで、歩き難いせいもあって、十五分以上、立っていることができなかった。
結局、庭のテラス席でお茶を飲み、過ごすこと、三十分。
アーマリアの体力が限界に来たため、お部屋に戻って、現在、ぐったりとなってソファに寝そべっている。
おそらく、今現在のアーマリアの体力は、0である。ライフメーターなるものが存在しているのであれば、絶対にそう表示されているに違いない。
図書司書として、重い本を毎日運んでいた有希だったならば、何てないことも、アーマリアの体では負担が大き過ぎた。
つまり。
アーマリアは、体力を付けることから始めなければならないのだ。
と、言うことで。
私は目を閉じると、深呼吸を始めた。
やり方は、まず口から息を吐く。
だいたい五秒ぐらいで、身体中に溜まった空気を、ゆっくり吐ききるイメージだ。
吐き切った時、お腹に力を感じていることが大切である。
次に、五秒息を止める。
舌の位置が大事で、上アゴの裏側に当てる。
ここで、腹筋もキープする。
最後に、鼻から息を五秒かけて吸う。
鼻息が聞こえないように静かにゆっくり吸い込む。
この時、舌の位置は上アゴの裏側に当てたままで、腹筋もキープである。
これを何回か繰り返していると、体が緩んでいるのがわかった。
呼吸は、とても大切だった。
深呼吸をしていると、アーマリアの体は、とても固くなっていることがわかる。
彼女は、夫の態度に一喜一憂しながら、
毎日緊張して過ごしていたのだろう。
私は、深呼吸をしながら私はアーマリアの処遇の大変さを実感した。
ここまで体と心にダメージを受けているのに、夫のレイガを支えようとしていたのだ。
それなのに、そんなアーマリアを受け入れて、支える人はいなかった。
(大丈夫だよ、アーマリア)
私は、深呼吸しながら自分の中にいるかもしれない、アーマリアに囁いた。
今のあなたには、私がいる。
あなたよりは全然スペックないけれど、あなたにはない「経験」を、私は積んでいる。
そこから得た「知識」は、実践を伴っているから、その点だけは、今のあなたよりも格段に対処できる能力がある。
もちろん、境遇も世界のシステムも違うから、私の経験値が、そのまま通用するとは限らない。
ただ、それでも。
私は、あなたを支えるために、力を尽くそう。
私が持っている知識・知恵・経験を全部使って。
そんなことを思いながら、私は深呼吸を繰り返した。
体の力が抜けて、ゆったりとした気持ちになっていく。
けれど。
「きゃあああ、奥様⁉」
この叫び声で。
それは、打ち切られてしまった。
「ロゼ、どうしたの?」
「お、奥様大丈夫なのですか⁉」
……うん。
心配はかけたんだな、とは思う。
だけど。
何かをやる度に、こんな反応をされるならば、少し困るな、と私は思った。
「大丈夫よ、ロゼ。瞑想をしていただけだから」
だから、少し話をしておくことにした。
彼女の知っている「アーマリア」とは違う部分が、たぶんかなりあって。
これは気を付けていても、絶対に出てしまう。
「め、めい……」
一方ロゼの方は、「瞑想」という言葉が聞きなれなかったのか、私が言った言葉を口にしている。
「気持ちを落ち着かせるためにね、目を閉じて呼吸に意識を集中させるのよ」
「奥様は修道院に行かれるおつもりなのですか⁉」
しかし。私の説明を聞いて、何だか斜め上のことを言ってきた。
「シスターになられるのであれば、私も連れて行ってくださいませ!」
「いや、まだその予定はないから、落ち着いて」
私は、号泣しそうなロゼに慌てて声をかけた。
「では、何故そのようなことをされるのです!」
「体を鍛えるためにしているの!」
テンション高く叫んでいるロゼに、私は落ち着かせるために、そう叫び返した。
「え……奥様?」
私の言葉に。
ロゼは、我に返ったようだった。
「私は、修道院に行く気もなければ、シスターになる気もないわ。瞑想をしていたのは、呼吸を整えて、ストレスに強い体を作るためよ」
「すと…れす?」
ストレス、と私の言った言葉に戸惑っているロゼに、私は畳みかけるように言葉を続ける。
「アーマリアには、体力がないの。すぐに疲れてやすくてね。体力がない理由の一つに、呼吸が浅いことがあると思ってね。だから、まずはそこから始めてみたのよ」
「呼吸が浅い……?」
ロゼは、さっきから私が言った言葉を、繰り返して呟いていた。
たぶん。
彼女が今まで生きて来た人生の中では、聞いたことがない言葉ばかりなんだろう。
「私は、私の体を強くしたいの。少なくとも、少し歩いただけでは、疲れないようにしたい」
けれど。私が屈みこんで私を見ているロゼを、まっすぐ見ながらそう言うと。
「奥様は、自分の体を鍛えるために、そんなことをされているのですね」
こくん、と頷いてくれた。
基本的に、ロゼは善良で優しい性格だ。
まして、アーマリアを神格化していて、彼女のために、どんなことでもする覚悟を持っていた。
多少私が理解できない言葉を言っても、「奥様が言っていることだから」と、納得してくれるのかもしれない。
まあ、有希としての意識でいるならば。
アーマリアに忠誠を誓うならば、「旦那様を支えてください」なぞと、彼女をストレスの沼に陥れようとするな、とも思うのだけど。
ただ、それはそれとして。
一番身近にいるロゼが私のやっていることに衝撃を受けて、大騒ぎをしなくなることは、とても助かることでもあった。
「わかりました、奥様。奥様は旦那様のために、ご自身を鍛えようとされているのですね!」
「いや、それは違うわよ。私は、私のために自分を鍛えるの」
けれど、どうしても「レイガのため」と思いたがるから、それだけは訂正させてもらうことにした。
「お、お、奥様……!」
案の定、ロゼは動揺していたけれど、私はそれを訂正する気はさらさらなかった。
私にとって、配慮するべきは「アーマリア」であって、彼女をDVまがいに追い詰めたレイガなど、塵のかけらほどの価値もない。
この「有希」の意識が宿っている間に、私はアーマリアを、労わって労わって労わり続けるつもりなのだ。
一番良いのには離婚することだけど、それはアーマリアが決めることで。
私がやれることは、「離婚の後に儚く亡くなりました」と言うアホな展開にならないように、アーマリアの気力体力を回復させることなのだ。
それに離婚を選ばずに相手と寄り添うことを決めたとしても。そのためには、やっぱり気力と体力は絶対必須なのだ。
どんなに健康良好な心身を持っていても。
ストレスの溜まる相手を寄り添うのは、かなりの気力体力を使う。そしてその消耗は、本人が考えている以上に大きいのだ。
まして、アーマリアは、そのストレスが体と心にテキメンに来ている状態だった。
だから、まず緊張してしまっている体と心を緩めて、体に酸素をたくさん循環させられるようにするのが良いと思った私は、基本の呼吸の他にも、ストレッチをすることにした。
最初は、呼吸がしやすくなる「ねこのび」と言うストレッチを行った。
これは、①よつんばいになって。
②片方の手を逆の手の前につく。
③その姿勢のまま、お尻をかかとに近づけて、基本の呼吸を四回行う。
それを、左右交代で一回ずつ行う。
ねこのびのストレッチでは、広背筋という背中にある大きな筋肉を緩めることができて、広背筋が緩むと、背中・脇腹・肺が広がって、呼吸がしやすくなるのだ。
実際、ねこのびのストレッチを行うと、私は体の力が抜けたような気分になった。
そしてこのストレッチをした後は、ぐっすりと眠ることができた。
私の記憶の中にあるアーマリアは、眠りが浅くて、よく夜中に起きていた。
これは、ストレスが溜まった状態の時に見られる。
人間は、眠らないと疲れが取れない。
でも、ストレスのせいで眠れないから疲れが取れなくて、さらにストレスを重ねてしまう。
そして蓄積されたストレスが解消されずに、さらに新しいストレスが重なって行くから、体も固くなるのだ。
それからさらに追加で、上半身のストレッチと下半身のストレッチをすることにした。
上半身のストレッチは、
①頭を枕に乗せ横になる。
②両手をまっすぐ前にして両足を直角に曲げる。
③上の手だけを大きく円を描くように反対側に倒し、基本の呼吸を四回行う。
下半身のストレッチは、
①頭を枕に乗せて横になる。
②上のひざを曲げて下のひざを押さえる。
③上の手で下の足をつかみかかとをお尻に近づける。
④上半身と頭を天井に向けて、基本の呼吸を四回行う。
これらは、左右一回ずつを行った。
で、これらの基本の呼吸とストレッチを行った結果。
一週間以上すると、首と方が緩んでいて、体が硬くなりにくくなっていた。
夜の睡眠も、途中で覚醒することがなくなって、疲れがたまることもなくなったのだ。
やっぱりその日の疲れはその日のうちに、だな。
と私は頭の中で頷きながら、ストレッチを始めて一週間目の朝、朝食を取っていた。
本日の朝ごはんも最高だった。
ふわふわのスクランブルエッグも、カリカリに焼かれたソーセージも、焼きたてのパンも、コンソメの効いたスープも、瑞々しいデザートの果物たちも。
とてもとても美味だった。
以前のアーマリアだったら、それらを堪能することもできなかっただろう。
夫の目を気にして。夫の気持ちを考えて。
実際、今でもレイガの朝食の席は、本日も空席だった。
これで、一週間連続、である。
それだけで、アーマリアはもう食欲が無くなってしまっただろう。
だが、今のアーマリアの意識は、現在三十五歳バツイチの麻生有希のものが宿っている。
なので、レイガは今の私にはただのクソガキに過ぎない。
だから。
クソガキが、現在お拗ね真っ最中の様子だ、としか思わない。
多分。
彼は、アーマリアが「旦那様、すいません」と謝って、一緒に朝食を食べるように言うことを待っているのだろう。
小説)のアーマリアであれば、レイガが望むようにやって、彼は満たされた気持ちを感じられるのかもしれない。
だが、今の私は、その必要性は感じない。
実際、レイガがいない方が、心安らかなに美味な朝食を堪能できるのだ。
で、今日も今日とて私は朝食を存分に堪能すると。
給仕してくれたメイド達にお礼を言って、食堂を出た。
美味な食事でお腹を満たした後は、図書室に移動する。
そこで、この世界の情報を仕入れることにしたのだ。
正直、日中に何をして良いのか、わからなかった。
歴史のお姫様達は、部屋に閉じこもって刺繍をしたり、政治に邁進したり、果ては不倫に勤しんだりと色々やっていたけれど、私は本好きなこともあって、とりあえず、読書に勤しむことにしたのだ。
本来ならば。筋肉を付けることに勤しみたいけれど、私の今の体力では、腕立て伏せを少ししただけでダメージを受けてしまう。
だから。
本を読んで情報収集をしつつ、今の私でもできそうな軽運動をしようと、とも思っていた。
仕事に勤しんでいた有希の時に比べたら、スケジュールには余裕があったし、何よりも、コックの人が用意していくれる昼食と、三時のティータイムのおやつが楽しみ過ぎた。
昼食はサンドイッチとかサラダとかフルーツが出て、ティータイムにはスコーンやケーキ、クッキーと紅茶が出る。
今日も今日とて、私は頭の中で、「今日のお昼はどんなメニューが出るのかな♪」と昼食のメニューを想像していた。
だから。目の前にいたレイガに気が付くとが、一テンポ遅れてしまった。
「おいっ」
と、軽く威嚇されるように声をかけられて、私は我に返った。
「おはようございます、旦那様」
だけどすぐに着ていたドレスのスカート部分を摘まむと、優雅にお辞儀をして、朝の挨拶をする。
「お前……何を考えているんだ⁉」
けれど。
レイガは私の挨拶に答えず、そんなことを尋ねて来た。
今、私が考えていること。
「お昼のメニューのことですけど?」
それに対して。
私は、咄嗟にそう答えた。
いや、レイガに「お前は何を考えている⁉」と言われて。
私は「私の考えていることが読まれている⁉」と思ってしまったのだ。
だから。
「別に変なことは考えていません!」という意味で、答えたのだけど。
「――はっ?」
レイガにとっては。どうやら思ってもいない反応だったらしい。
カクーンと、アゴが落ちそうな表情をしていた。
「私の考えていることについてですよね?」
そんなレイガに。私は、目をばちくりさせて問い返す。
「そうだ。お前は……」
「だから、今日のお昼ご飯のメニューを考えています」
「私が朝食に同席しないで何も感じないのか⁉」
「は?」
居たたまれない、と言った感じでレイガに叫ばれ、私は、思わず返事をしてしまった。
レイガが朝食の席にいないのは、レイガの意思だ。
私の態度が気に入らなくてわざとそうしているのかもしれないが、それはレイガの意思である。
「皆に手間をかけさせるなあ、とは思いますけど」
「手間だと⁉」
「旦那様は執務室で朝食を取られているようですが、調理場から執務室は離れていますよね? あの距離を、様々な料理を乗せたワゴンで運んでいるようですが、セッティングされた料理を運ぶのは、なかなかに気を使いますよ。それに、一度では運べないから、何往復もしています。でも旦那様が食堂で食べるならば、その手間は省けます。食堂は調理場に近いですし、今までやって来た手順もありますからね」
私の言葉に。レイガは、茫然とした表情になった。おそらく、彼の期待していた反応ではなかったのだろう。
「お前は私が朝食の席にいなくても平気なのか⁉」
「はい。特に困ることはありませんし」
私は、強い口調で言われた言葉に。
ぱかっーんと、咄嗟に本音を返してしまった。
だが、レイガが朝食の席にいなくても、困ることはないのだ。
むしろ、突然怒鳴られることもないし、しかめっ面の顔を真正面から見ることもないし、メイドのお嬢さん達もリラックスしているから、快適である。
「なっ……」
「それに、あんなに美味しい朝食なのに、いきなり怒鳴り声あげられたり、しかめっ面されていたりしたら、十分に堪能できません」
私は、さっき食べた朝食のメニューを頭の中で反復させながら、食べた時の幸福感を思い出した。
そんな私を、レイガは信じられない、と言った表情で見ていた。
その表情を見て。私は、しまった!と思った。遠慮なく、本音全開にしてしまったのだ。
「すいません、旦那様。私はこの後用事がありますので、失礼します」
慌ててもう一度お辞儀をして、私はレイガの前から立ち去った。
「お、奥様……」
私の後を付いて来ているロゼは、真っ青になっていた。いや、まあ。
私も実は、心の中では真っ青になっていたのだけど。
まあいいかな、とも思っていた。
今までのアーマリアは、本当に我慢していた。レイガに気を使って、自分の気持ちを大切にしていなかった。
「ねえ、ロゼ。図書館に行ったら、あなたは下がって良いわよ。お昼近くになったら、知らせてね」
「奥様……」
「心配なら、アルゼウスの時刻になったら、お茶を運んで来て」
私は真っ青なロゼに向かって、そう言った。
アルゼウスの時刻は、私の元居た世界では、午前十一時ぐらいの時間帯だ。
お昼前のティータイムってところである。
私の頼みに、ロゼはハッと我に返ったような表情になって、「わかりました」と頷き、私の部屋の方へと歩いて行った。
その後ろ姿を見送りながら、私は軽くため息を吐いた。
キャラ変はゆっくりしようと思っていたけれど、やはり以前のアーマリアがあまりにも儚過ぎたため、根っからの庶民である私では、そのギャップは、かなり大きいらしい。
ロゼは「自分改革のため」と私が言った言葉があるから、何とか理性崩壊を留めているみたいだけど、他の人達は……特にレイガは、そのギャップに戸惑っているようだった。
どうしたものか、と一瞬考えたけれど。
図書館になっている部屋に入ったとたん、私は、ま、いっか。と思った。
以前のアーマリアは、自分を本当に後回しにしていた。
レイガを気遣い、周りの人達を気遣い、自分のことは全然大事にしていなかった。
それなのに、「有希」の意識がある「私」が、アーマリアのことを疎かにしてはいけない。
私が一番押しているのは、アーマリアなのだ。
私は図書館に入ると、まず深い深呼吸をした。
私がいる間は、ここには誰にも近づかないように言ってあるから、安心してストレッチができる。
眠る前にもやっていたのだけど、ベッドの上でストレッチをやると、上等のベッドはポワンポワンしてやりにくいのだ。
だから、この図書館でまずストレッチをすることにした。
まずは基本の呼吸をする。
息を五秒間口から吐いて、息を止める。
そして、鼻から息を五秒間吸う。
そうすると、体の力が抜けているのがわかる。
私の体はーアーマリアの体は、やはりレイガに会うと、緊張してしまう。
「大丈夫よ、アーマリア」
私は、呟きながら深呼吸を続けた。そうすると、体も心も緩んで、だんだん眠くなって来た。
けれど、もちろんこのまま眠るわけにはいかない。
規則正しい生活は、身体の安定には鉄則なのだ。
私はアーマリアを「推し」はするが、甘やかすつもりはなかった。
私の意識が無くなった後も、彼女の人生は続いて行くのだ。
レイガのDVまがいの攻撃を、跳ね返して行く気力・体力ためには、今までのように「お姫様」として、生活して行くわけにはいかない。
重たくなる瞼を跳ね返すように、私は、パシッと頬を両手で叩いて、ソファから立ち上がる。
そうしてそのまま、本が並んでいる本棚へと移動した。
近くの棚にある本を一冊、手に取ってみる。
「有紀」がいた世界とは全く違って、装丁は布張り、題名が背表紙と表紙に題名が書いてあるだけの、シンプルなものだった。
本文の方は、印刷仕様になっているので、この世界では活版印刷はもうされているのだろう。
題名からも、領地経営についての本だということはわかる。
だが、その横にあるのは。まあ……なんと申しますか。あっはん、うっふんの内容の小説で。
私は、眩暈を感じてしまった。
その手の小説を、こんなかしこまった図書館の中で見ることになるとは思わなかったけれど、いったい誰が読んでいたんだろう、とも思った。
もしかしたらレイガの義母が、鬱屈を感じる日々の中で、この手の小説を読むことで、己の中の鬱憤を晴らしていたのかもしれない。
そのことを考えると。
私からしたら救いのない結婚生活に見えても、彼女は彼女なりに、自分の好きなことを楽しむことで、己の責務を全うしようとしたのだろう。
そんなふうに考えると。
本の持つ力と言うのは、私が思うように大きいんだな、と実感する。
そうして。
それと同時に、自分のことで精いっぱいな人達だったから、図書館の整理などかまっている暇もなかったんだろうな、とも思った。
とりあえず、二冊の本をででーんと無駄にでかいテーブルの上に置いた。
それから私は、次々と棚にある本を取り出し始めた。
埃まみれになっていたので、窓を開いて、そこに本とはたきを持って行って、本の埃をはたき落とす。
パタパタとはたきを動かしながら、どのように本を整理するか、考えた。
私が働いていた図書館は、0は「総記」⒑は「哲学」⒛は「歴史」30は「社会科学」40は「自然科学」50は「技術・工学」は60は「産業」70は「芸術・美術」80は「言語」90は「文学」に分けていた。
これは、「日本十進分類表(NDC)区分」に基づいている。
まずは、本の冊数を調べて、どこに置くのかを考えよう、と私は考えたのだ。
それに、この図書館にある本は適度に重さがある。
サイズを考えると、図鑑ぐらいの大きさで、重さも同じくらいある。
適度な負荷もあるので、筋トレにはぴったりなのだ。
埃を落とした後は、両腕に本を抱えて、テーブルへと移動する。
本の内容は、題名だけで想像できるものもあるけれど、題名だけでは良くわかりなくて、
題名だけなら歴史関係の本かな、と思っていたけれど、初めの部分を読んだら、あっはんうっふんな小説だった、と言うのが三回ほどあった。
本の劣化状態から、ここ十年ぐらいのものだったから、多分レイガの義母さんがこっそり読んでいたんだろう。
それはまとめて、書籍棚の後ろの方に置くことにした。
で、ふと気が付くと。図書室にかけてある小さめではあるものの、どーんと縦長な存在感のある時計は、アルゼウスの刻がもうすぐであることを告げていた。
「あ、やばい!」
私は慌てて、一番出入口にあるテーブルの本を違うテーブルに移動させようとした。
と、その時だった。
「奥様!何をされているのですか⁉」
バアッンと扉を両手で開けて、ロゼが図書室に入って来た。
で、本を何冊も抱えて立っている私を見て。
「お、奥様……!」
青ざめた顔で、絶叫しようとしていた。
「ロゼ、どうしたの?」
でも私は、目をばちくりとさせてロゼを見た。
「な、何を……!」
「図書室の整理よ」
「そのようなことは、私達に言ってください!奥様がやるようなことではありません‼」
ロゼは、そう言ってきたけれど。
「ロゼ」
私は、本を持ったまま首を振った。
「私がしたいの」
「奥様⁉」
「私がしたいと思ったから、やっているの。だから良いのよ」
以前のアーマリアだったら。
ロゼの言葉で、図書室の整理は止めていたのかもしれない。
でも、私はそれを止めるべきだと思った。
周りに気遣い、自分の意思で行動しなくなった結果、アーマリアは心身病んでしまった。
レイガだけが悪いんじゃない。
「ひとひらの雪」の結末は、アーマリア自身が引き寄せた結果でもあるのだ。
それと、あと一つ。
私がロゼの言葉に頷かなかったのは、あの「うっふんあっはん」の小説の存在があった。
アーマリアも「誇り高き貴婦人」と伝え聞いていた、「前フォレスト公爵夫人」が、あの手の小説を読んでいたとバレたら。
……うん。
ちょっと、それは避けたいな、と思った。
私が聞いても、「何、そのクソゲーみたいな家庭環境は」って思う中で。
それでも、フォレスト公爵夫人としての誇りを失わずに振舞っていた彼女が、己の鬱憤を晴らすために、心の支えとしてあの手の本を読んでいたことを、辱められる言われはない。
「奥様!」
「私の心配をしてくれるのであれば、お茶を持って来てくれる?」
戸惑ってーーと言うか、混乱している様子のロゼに、私は声をかけた。
私は、私自身のために、私のやりたいことをやる。
それを、一番身近にいるロゼには理解してもらわないといけない。
でも。そこまで考えて。「理解してもらう必要はないな」、と思い直した。
ロゼにはロゼの考えがあって、「奥様がすることではない」と言っているのだ。それなのに、その考えを根本から変えてもらおうと思うのは、何か違う、と思った。
そうして。
まあ、理解してもらえなくても、黙認してもらえば良いか、と考え直した。
ロゼは、私の頼みにはっと我に返った表情になった。
「ロゼ、私は自分を鍛えたいの。この間も言ったでしょう? これは、私の体を鍛えるための『運動』よ」
「奥様……」
「お茶を用意してもらえると、嬉しいな」
私は、そう微笑みながらロゼに言った。
ロゼは基本的に善良で忠誠心の篤い、主人思いの侍女である。
尊敬する主人から言われたら、彼女は納得するしかない。
私はそれを理解した上で、彼女にそう声をかけた。
「……わかりました」
不承不承の体ではあるものの、ロゼはお辞儀をして、図書室を出て行った。
まあ……ね。
私はため息を吐きながら、お茶を置くスペースを確保するべく、テーブルの上に置かれた本達を積み重ねて行く。
とりあえず、今は自分の方に、アーマリアの方に意識を向けるしかない。
少し憂鬱な気分でいたものの、そんなものは、運ばれてきた紅茶とデザートで、見事に吹き飛んでしまった。
とにかく、美味しいのだ。
紅茶は渋みが無くて、砂糖を入れていないのにほのかな甘みがある。
デザートに用意されたスコーンは、ほんのり甘い素朴な味わいがあって、表面のさっくり感と中のホロっと感が、濃厚なクロテッドクリームに好相性。
幸せ、である。
本当に、この世に生まれて来て良かったと、本当に心の底から思った。
「美味しいですか? 奥様」
そんな私を見て、ロゼが声をかけてくる。
「うん! すごく美味しい‼」
私が笑顔で頷くと、
「コックのカイルさんが喜びます」
ロゼも嬉しそうに微笑んでくれた。
「一度、お礼にも行きたいわ」
「そうですね。イルンさんに伝えておきます」
私としては。
直接調理場に行ってお礼を言いたいのだけど、多分それは、避けて欲しいことなのだろう。
館の外に出かけるのには、それなりに体裁は整えなくてはいけないことはわかるけれど、館の中であれば、もうちょっと気軽に出かけたいなあとは、思う。
まあ、そのうちするつもりではあるけれど、今は、図書室の整理が先だ。
私は、美味しい紅茶とスコーンを堪能すると、ロゼにそれらを片付けてもらって、本の整理を再開した。
ただ。
ロゼは、一つだけ条件を付けて来た。
「奥様。本の整理をされるのは構いませんが、高い所に本を置く時は、男性の使用人達に頼んでください」
「え? 別に私でもできるわよ。脚立もあるし」
何せ、私は司書だ。
重い本を持って作業するのは、日常茶飯事のことだった。
「止めてください! それだけは、本当に止めてください‼」
けれど。
鬼の形相で、ロゼに言われてしまっては、頷くしかなかった。
「怪我をするようなことだけは、やらないでくださいませ‼」
とりあえず、ロゼにはあまり心配かけないようにしないとな、と改めて私は思った。
ただ、彼女が一番心配しないですむのは、アーマリアが部屋にいて、刺繍とかおしゃべりとかして、動き回らないことだ。
でも、それは無理なことだった。
私が私であるかぎり、私はおとなしく部屋の中にいることはできない。
本当は、今すぐにでも館の外へと走り出したいのだ。
でも、「希望」はあっても。
今のアーマリアには、そんな体力はない。
とりあえず、今は自分が「やりたい」と思うこと――アーマリアの体を鍛えることをやっていく。
それは、絶対に変えない「決意」だ。
誰であっても、それを変えることを許してはいけない。
そして、そこまで考えて。
私は、「ま、いっか」と思った。
受け入れられることは受け入れる、受け入れられないことは受け入れない、ってことを貫き通すのみ、である。
で。今の私が受け入れられないのは。
「遅かったな」
図書室の整理に一区切り入れて、ルンルンな気分で向かった食堂に、何故かレイガがいた。
その顔を見た途端、私のテンションは一気に下がる。
せっかく今朝までは快適に美味な料理を堪能していたのに、レイガがいればねそれだけで気分が下がるのだ。
「……私がいるのは、迷惑か?」
そんな私の気持ちが表情に出ていたのか、レイガがそんなことを聞いてくる。
「迷惑ではないですが、美味しい料理を楽しむことは、とても大切なことだと思います」
私は、「うん、そうなの。だから出て行ってくれる?」と即答したかったけれど。
それは我慢することにして、そう答えた。
ここで本音全開に答えたら、またしても、エマ達は余計な仕事が増えることになる。
それは、この館の女主人としては、避けなければならないことだ。
ただ、せっかくのカイル達が作ってくれた美味しい料理を、台無しにされるのもごめんだった。
私の言葉に。 レイガは黙り込んだ。
私の言いたいことは、わかってくれたのかもしれない。
まあ、要は。 食事中に、大きな声で怒鳴ったら、詰問することは避けてもらいたいのだ。
「ならば、今話をしよう」
私の言葉を聞いたレイガは、そう言って頷いた。
いやまあ食事中に話を避けてくれるのはありがたいのだけど、できるなら、レイガとは話したくない。
「図書室の整理をしているそうだな」
「はい、しています」
ちっ、バレたか。
と心の中で頷きながら、私は素直に頷いた。
「何故そんなことをしている?」
「やりたいからです」
「何のためにやるんだ?」
いや、だから。
こんな会話をしたくないんだって、私は。
「やりたいから、やっているんです」
なので。
私は、もう一度同じことをレイガに伝えた。
「……私の妻が図書室の整理をしていることが他に漏れれば、外聞が悪くなる」
そんな私に、レイガは抑えた声でそう言った。
「どうして漏れるんですか?」
私は、それに対して、質問で返す。
「使用人達が余計なことを言うことは、旦那様がきちんと使用人達を管理していない、ということです。つまり、そのことが前提にあるということですよね? そのことの方が問題があると思うのですが」
「お前は我が館に使える者達が信頼できないと言うのか⁉」
で、案の定と言うのか。レイガはそう叫んだ。
「我が家に仕えている者達は、ずっと我が家に仕えてくれた家の者達ばかりだ!」
「ならば、大丈夫ですよ。旦那様やイルンがしっかり監督してくれますし、図書室の整理等は、姉達もやっていましたから」
私の言葉に。レイガは、「は?」という表情になった。
「父は、私達にできるだけ自分のことは自分でやるようにと言っていたので、図書室を使うのは私達姉妹が主ですから、本の整理は自分をするようにやっていました」
これは、本当のことだった。
アーマリアの父である、エーベルト公国の王は、本当に「真っ当」人で。
アーマリア達姉妹を、ただ可愛がるだけのことはせず、「自分のことは自分でするように」と言うスタンスで、彼女達を育てていた。
アーマリアの記憶の中に、侍女や侍従達と一緒になって、本を移動した思い出が残っている。
「何故、そんなことをする必要がある⁉ 何故やりたいと思うのだっ」
でもやっぱり納得できない様子のレイガは、重ねてそう言って来た。
ここで。
「私がやりたいからですよ」とまた答えたら、さらに油に火を注ぐんだろうな、と私は思った。
いい加減にこの会話を止めたいな、と思った私は、少し正直に言うことにした。
「体を鍛えたいんです」
「何故だ⁉」
正直に。
『離婚しても大丈夫になりたいんです!』と言うのはさすがにやばいよな、と思った私は。
「筋肉は全てを解決するからです!」
と、ある意味これまた正直な感想を言って。
その瞬間、レイガは絶句をしてしまった。